私もいま博士3年で高専教員を目指して就活中なのでそのへん気になるなあ
元増田さんは高専出身なのかな?学生としてあの場を経験してから教員になるのと、いきなりああいう場にブチ込まれるのとでは、すごい感覚が違いそう。
30代男。Twitterでバズってる結婚できないと悩んだりネタにしてる女性らしきアカウントが、年収が自分より高かったりするのを見て、なんだか情けなくて辛くなる。
自分は一応正社員だけど奨学金と貯金の差で資産はまだ100万マイナスと生活力がない。
ほら。こういうことする人増えてくるんだよ。本当に迷惑なんだよ💢💢💢💢💢💢
頭悪すぎでしょ!!!!!両替機じゃないんだよ!!! pic.twitter.com/FuosRvI1yd— レジ店員@スーパー (@s0K8mpCZ0PdbAff) October 28, 2019
校閲というお仕事で赤線を引きながら文を読むので大量に赤ペンを消費する。
この用途で最も使いやすいのはやはりパイロットのVコーンである。
軽い軽いといわれるジェットストリームといえど、やはり水性には敵わない。直液式のため最初から最後までかすれずはっきりとした線が出る。
他所にっていうのが他ジャンル・オタク外ってことならまぁそうだね。基本的にずっとゲームに時間占有されてるしね。ネトゲ・アーケード界隈は身内(?)のゲーマー女へのセクハラ&ヘイト発言はかなり日常茶飯事だー。日本に限らず海外でも同じ。
ガノタとか昔のアニメ一本で萌え方向行ってない人は普通に一般人してるイメージ!
萌えが人を狂わせるのかもしれんね…。
@misssfc2019_no7さん(ραοさん)と@54nano_fairyさん(なのさん)のTwitter上での会話を見て、漠然とジェンダー論に興味があったものの何も勉強してこなかったので少し勉強し、考えたことをまとめようと試みています。ややραοさんの発言を多く引用します。これは僕の感覚がなのさんに近く、ραοさんの発言の主張に納得しづらい部分があったため、それを解釈したいと考えたからです。
納得行くところまで整理出来ていないので、「その主張は◯◯の部分が誤りである」「せめて◯◯は読んでから出直せ」などの指摘をいただけると僕が嬉しいです。
あとアホほど長いので暇な人だけ読むと良いと思います。
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男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
というツイートに対して、なのさんが
これこそセクシズムなんじゃないですか?
と問うたところです。
このツイートから、任意の男性は、フェミニズムを理解しているならば(フェミニズム性を有しているならば)、あるフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」ジャッジ出来ると考えない、とραοさんが考えていると僕は読み取りました。
これに対し、この主張には「男性が」ジャッジすることに非フェミニズム性がある、というような非対称性があるように見える、となのさんが疑義を唱えたように僕は読み取りました。
その後の議論でραοさんは
と述べられています。これはフェミニズムの話に限った際、女性がジャッジすることにも非フェミニズム性があるという主張と同値かは僕の目には明らかではないです(おかしなこと、というのがどのようなおかしくなさに違反しているのか自明でなくないですか?)。僕は議論の流れから、ραοさんは男性がジャッジする際の非フェミニズム性とはやや異なる「おかしなこと」と考えているのではないかとお見受けしました。
これは、なのさんの
「マイノリティの中でも一方的なジャッジをはおかしなことである」というのならば、なぜ最初の発言でわざわざ「男性が」「性的マジョリティが」と強調したのでしょうか?
という質問に対するραοさんの
マイノリティの中での話とはまた違う構造があるからですよ。これを同じと言ってはいけないと思います。マイノリティ同士のコミュニケーションにおいて生じる問題と、マジョリティがマイノリティに対し行う言動に生じる問題は異なります。
ραοさんの発言は、マジョリティである男性がジャッジすることはマイノリティである女性に対する圧力となるため非フェミニズム性があり、マイノリティである女性がジャッジすることは(圧力があるにせよ)非フェミニズム性とは異なるおかしさ(例えば他人の内面を決めつけることの失礼さ?)があるという意味ではないですか?男性と女性が非対称な権利を有している現在の規範を改めようとするフェミニズムに対し、マジョリティである男性が一定のフェミニストの主張は非フェミニズムであり新たな規範として認めるべきではないと主張するのは、女性に対する圧力として働くものであり、非フェミニズム性があると。
なので、女性に対する圧力の存在の暴露とその解消を目指す文脈で、(その活動における)障害の存在を批判する際に男性によるジャッジが強調されるのは非対称だが筋は通る(一貫した主張である)かなと思いました。(なのさんがのちに運動のための理論であるように感じて好きではないと言われていたのもこの辺りのことが引っかかってかなと思いました。)
この後ραοさんとなのさんの主張は最初の議論とはやや異なる内容の議論(女性がマイノリティであるということの意味、議論の進め方等)と共に一定の解決を見ずに終わったようで燻ったような状態に落ち着いたように見えます。他の内容についてはここでは触れません。
フェミニズムの議論はたびたび大きな話題になりますが、話題になるフェミニズムは(筋の通る通らないの程度によらず)やや論理的に整理されてない主張が目立つように僕は感じていました。今回の件でもいくつか整理が不十分だと感じる点はあり、例えばραοさんの最初のツイートの下で述べられる
これって普通に男女以外でも考えてみてほしい。マジョリティであるシスジェンダー異性愛者がセクシャルマイノリティに「この人は真のセクシャルマイノリティか、エセか」とか言うのめちゃくちゃおこがましくないですか?障害者に対して「真の障害者か、エセか」とか。何様なんだろうって私なら思うよ。
は圧力という考え方があまり見受けられないので良い例示ではないように見えます。これは他者の内面(あるいは属性、アイデンティティ)を決めつけることはおこがましい、自然な感情として(普遍的に)おかしなことであると主張する話になっており、「男性が」ジャッジすることの非フェミニズム性の話にはそぐわないように思います。何様なんだろうと思う、という自然な感情に端を発する主張のように記さず、セクシャルマイノリティや障害者の方に対する強い圧力として働く考え方である、というように記す方が合致するように思われます。
整理が不十分であること自体はよくて議論とともに整理していけば良いと思うのですが、その後ραοさんはやや早計になのさん(及びなのさんに同調する人々)のことをミソジニストと決めつけてしまったように見えます。早計というのは、議論が一定の解決を見ないまま、ραοさんに「つっかかってくる」人をミソジニストと認定しているように見えるからです。実際には一定の論理によりミソジニストと認定しておられるでしょうが、ここまで他者をジャッジすることのおかしさについて議論していたので、ダブルスタンダードに見えてしまいます。ダブルスタンダード自体は主張の正しさを変えるものではありませんが、信頼できる議論の相手かどうかという他者からの評価には影響するので。実際これのせいで感情に寄りすぎている(論理的に整理されていない点を整理しないまま自分の意見の正当性を主張しようとしている)とみなされてしまっているということがあるのではないでしょうか?
僕は最初追っている時はなのさんの議論の方が身に馴染み、かつ筋が通っており、ραοさんの議論はやや筋が通らないように感じていました。しかしそれはフェミニズムを全く知らないためである可能性も十分高く、少し調べてから判断しようと思いました。現状では、今ある規範の問題点を指摘し新たな規範を構築する際、新たな規範の正当性をどのように確立すればよいのか分からなくなり、整理がついていません。
舟場 保之(2007)「ジェンダーは哲学の問題とはなりえないのか」『哲学』58 号 pp. 61-78(https://doi.org/10.11439/philosophy1952.2007.61)に、次のような話が載っていました(p. 65)。
アイデンティティ・ポリティクスの主張は、その真理性なり正当性なりの論拠を最終的には当該のアイデンティティにおく。アーレントは、アイデンティティ・ポリティクスに反対していたにもかかわらず、レッシング賞受賞講演において「ひとは攻撃されている事柄によってのみ、抵抗することができる」と論じている。このとき、「抵抗」のひとつの形として「現行の法」に対する異議申し立てが行われるとすれば、その異議申し立ての論拠は「攻撃されている事柄」におかれることになるだろう。ある「抵抗」の異議申し立てに対して、、「あなたはなぜそのように主張するのですか」と問えば、最終的には「わたしは○○に関して攻撃されているから」と答えられることになる。しかし論拠がこのようなものであるとしたら、この言い分に納得できるのは同じように〇〇に関して攻撃されている者だけであり、異議申し立ては〇〇に関して攻撃されている者にしか説得力をもたないことになる。だからこそ、このような異議申し立てに無理解な者に対しては、「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」という言い方が(きわめてよく)なされるのだろう。アイデンティティ・ポリティクスの主張は、アイデンティティに論拠がおかれるかぎり、アイデンティティが同一の者には説得力をもつがそうでない者には説得力をもたないのである。しかも、論拠とされるアイデンティティが「反論の余地のない事実」であるなら、論拠を問題化することがまったく不可能になってしまうので、アイデンティティ・ポリティクスの主張は反駁される可能性を原理的にもたない絶対的なものとなってしまう。
例えば宇崎ちゃんポスターの話題などでも「普通に訴えてもお気持ち扱いされる」みたいな話を見かけました。これはまさに上記引用で触れられている、アイデンティティ・ポリティクスの主張がアイデンティティを論拠とするために反論を許さず、そのためにアイデンティティが同一でないものに対しては説得力を持たないものとなる(反論が不可能なものについては議論が出来ないので?)、という構造と同じものだと思います。
宇崎ちゃんポスターの例では「性別Aの者を性別Bに属するものがあげつらったり、その性を利用したりすることは正しくない」というような公理のもと、それがA=女性、B=男性として宇崎ちゃんポスターにおいて行われていると判断され、問題のあるポスターとして指摘されたと僕は認識しています。これに対し「この程度は性についてあげつらうほどのものではない」「これをあげつらいと考えるのはお気持ちである」という形で「お気持ち扱い」をされているのかなという印象です。
このとき、仮にアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢を取っていたとして、宇崎ちゃんポスターの問題においてどのように主張の正当性を確立するべきなのでしょうか?究極的にはお気持ちにならざるを得ないのでしょうか……?僕には分かりません。何かうまく論理を構築する方法論が知られているのでしょうか。
またραοさんとなのさんの議論の中で、上記引用で典型的発言として挙げられる「あなたは○○に関して攻撃されていないからわからないのだ」と似た発言がなされていました。
男性がフェミニストに対して「真のフェミニストかエセフェミか」と自分がジャッジできると思い上がってる時点で君はフェミニズムのことを何もわかってないのだねという感想しかないわ
という発言もややアイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠にしているように見えます。これによりραοさんは、なのさんや一部の方から自分の正当性を疑わない人とみなされてしまったように見受けられます。
しかし、特に規範のようなものを考えるにあたり、アイデンティティやポジショナリティから自由になることは可能なんでしょうか?ραοさんはそれが不可能だと考えているか、相当に困難だと考えておられるのではないでしょうか?
自分は中立だと思いこむのとか、立場や偏見を取り除いて客観的なジャッジの目線で議論ができると思いこんでるのはなるべく高等教育過程に入った方には既に卒業しててほしいな…。こんなの哲学の初歩の初歩でしょ…。
自然科学の研究をしている身としては、実験だったり理論だったりの正当性の検証は容易ではないが常には原理的に不可能ではないので、メタ的立場から正当性の議論が出来る(なのさんの言葉を借りれば「パワーバランスに基づく議論はあくまで論理/倫理的な「正しさ」とは独立であるべき」)と考える方が身になじむものがあります。なのでアイデンティティ・ポリティクスに反対する姿勢もしっくりくるところがあるのですが、実際問題としてそれを回避することは可能でしょうか?自分がある程度アイデンティティ(あるいはポジショナリティ)を論拠としている部分がある、と自覚した上で正当性の議論を行うという所が限界なのでしょうか?今の僕には分かりません。
上に書いた話も、自分の感覚と整合性が取れるように論展開を進めようと思ったのですが、僕の「お気持ち」が何となく納得していない感じがあり、十分整理できてないなと感じています。
自分の研究が落ち着いた時に、時間をとってもう少し勉強して整理したいと思っているので、重ねてですが「◯◯の主張は筋が通っていない」「◯◯ぐらいは読め」みたいな指摘がいただけると幸いです。
単に強いほうに付いて寄らば大樹してるだけで理屈など後付け
サリン事件のときオウムが天下とってたら今頃は、村民も村外民も日本人みんなでオウムソングを歌う日本になっている
まちがいない
いま仕事が忙しくて、なんか悲しい気分だなと思ってたら昔のこと思い出がよみがえってきた。
博士取って数年高専で働いて、地方の零細大学の教員になって今に至る。
就職で縁もゆかりもない高専に行ったのは、受かったのがそこしかなかったから。着任した当初は感動したよ、こんな僕が先生やっていいのかってね。
幸い少数だが良い学生に出会うことができたし、愉快な同僚にも恵まれた。
辞めたのはなんかここは居場所じゃないなって、覚めた気分になったから。
やる気もなく教員がどうにかしてくれると思っている学生の補習があった。
暴力・暴走・飲酒・喫煙・窃盗・喧嘩の取り調べに明け暮れた。問題行動を引き起こす学生はもれなく複雑な家庭環境が原因ということを知った。
困ったタイトルのメールが来たときは、「どうか担任のクラスの学生じゃありませんように」と願いながら本文を読んだ。
隙あらば悪さをしようとする学生のけん制を期待されて見回りしながら寮に泊まり込んだり(6時間しか寝れないし次の日普通に授業なんだよね)。
土日は部活引率で学生がケガしないだろうかとヒヤヒヤしながらずっと緊張感を引きずった。
職場が都市から遠く離れて外界との疎外感を強く感じた。ペーパードライバーだったけれどドライブが趣味になった。
別に熱血でもなかったし、やってみても面白みを見つけることができなかった。
あるとき、毎日過ごす時間が転職のために過ごす時間になっていることに気づいた。
大学に移って、良くなったところはある。一応、学術的な専門家として尊重されるというのは嬉しい。
だけれども、人間の引き起こす厄介さというのはどこに行っても同じ。
ここではあまり根詰めず、気楽にやりたい。
ジャッ◯はいけない
セームシュルトぐらいだと思う