総じてyoutubeのコメント欄が現役学生やら懐かしむ声であふれてるのが常
合唱コンで歌うと1位確定の曲
もう曲自体がよすぎて多少歌が下手でも感情点でかなり底上げされちゃうずるい歌
でも好きなの幹事長
最後のヤーもみんなでやれば恥ずかしくない!
生徒の中にキリスト教?の人がいるからってことで課題曲で歌えず自由曲だったけどじゃんけんでまけて歌えなかった悔しい思い出
これも曲自体のよさで審査員(先生)が勝手に評価上げるずるい歌
これは歌なのか?というのがいまだに疑問
サビは確かに歌だけどサビ以外は歌というより歌自体もBGMの一部みたいに聞こえる
ピアノもそうだし歌もすごく難しそう
でもサビだけでかっけーからこれ歌ってたクラスがうらやましかった
あと合唱としてはハーモニーはそんなないしいまいちだなと今だと思ってしまう
当時は歌自体のよさが好きだったけど
うーん名曲
やさしいあめにうたれーとラストのぼくらはーたびびとーのとこが好き
高校1年で出し物しなさいってのでとりあえず合唱すっかでみんなしってるこの曲をろくに練習せずにうたったら1位だったのは思い出
久しぶりにきいたけどやっぱりいい曲
タイトルは知ってたけど実際に聞いたのはアニメそらのおとしもののカバー
25字以内でメッセージを考えなきゃいけないんだけど迷う。
キノの旅の「止めるのは、いつだってできる 。だから、続けよう(と思う)」が好きな言葉だから候補に挙がってるけど、くっさ、死ねとか思われそう。
自分も去年高校卒業して、学校事務にそのまま就職した18歳の若造がそんなに伝えられるようなこともないし。
なにか、いいメッセージありませんか?
新人でも、博士とか修士とか学位がぜんぜん評価されないとかって話もあるし。
IT系でも一部に「学生のときにかじっていたやつは変な癖がついてつかえない。なにも知らないやつのほうが素直で伸びる」とか言う人がいるけど、あれも自分が勉強してないのがバレるからだと思ってる。
この一連のツイートを眺めて
はあちゅうという人は根っからのハラスメント体質なのが良く分かった。
なぜこんなにもヤバい人が重宝されているのか?広告業界はこういう思考が普通なのか?
童貞をいじるのはダメっていう人に聞きたいんですが地震のたびに「おっぱい!」と男性がツイッターに書くのはいいんでしょうか…?私は実はあれ、結構嫌なんです…。でもそれは私の感じ方が相手の感じ方と違うだけだし、楽しんでる人も多いみたいだから、私の反応が過剰なんだろうし、別に→— はあちゅう (@ha_chu) 2017年12月21日
→私個人に面と向かって言われているわけではないからセクハラだとは思ってなかったけど、私がツイッターで童貞というのがセクハラならタイムラインに地震のたびに並ぶ「おっぱい」はどうなんだろう?とふと考えました→— はあちゅう (@ha_chu) 2017年12月21日
→自分に向いている矢を別方向に向けたいだけの屁理屈だと思われるかもしれませんが、せっかくこういうことが議論されているのだから、今、ちょっと言ってみようかと思いました。→— はあちゅう (@ha_chu) 2017年12月21日
→謝罪文は、皆さんからの「相手が嫌だと感じることは人それぞれ」と言う言葉を自分なりに真摯に受け止めて、書きました。知人もツイッターに書いていましたが「どこまでがセクハラになるのか」ということにとまどっている人もいると思います。私自身も、明確にはわかりません。→— はあちゅう (@ha_chu) 2017年12月21日
→私に対しての「それは違うよ」っていう意見もちゃんと見ているので…。この際、いろいろな人の「それは嫌」っていうラインを私も学びたいと思っています。— はあちゅう (@ha_chu) 2017年12月21日
まあ「それとは別にあの人自身もちょっとおかしいんよ」ぐらいは言っておくかな
しっかりした説明するのは疲れるし逆に伝わらん感じするわ
上司とか有力者の機嫌をとって覚えをめでたくするのって、男女関係なく、やるやつはやると思うけど、多少なり見た目のいい女がそれをやると「女性性を利用してる」ことになってセクハラに文句言うのもおかしい感じになるってことなんですかね
すごくよく分かる。自分も他人から褒められたくて、褒められるために頑張った。褒められそうなことは、他人の仕事を奪ってでも自分でやり、褒められることを独占しようとすることもあった。地道にコツコツやって偉いねと褒められたこともあるが、褒められるためにやっているのだから当然なのだ。
逆に、褒められなさそうなことは、全く興味がなかった。誰かに褒められること、誰かに凄いと言ってもらえること、誰かに羨ましがられること、そういったものを追求してきた。別にその道を極めたいわけじゃない、いったん褒められれば目的達成で、褒められなくなったり、誰かが上を行くようなことがあれば、あっさりとやめてしまう。
だから、色々な趣味みたいなものや、ボランティア活動みたいなものにも手を出した。褒められるためだけに頑張るので、けっこうすぐに褒められるようになった。でも付け焼き刃みたいなもので、自分が本当にやりたいと思ってやっていることではないから、じきに飽きてしまったりして疎遠になってしまう。
そんなことを繰り返していると、本当に自分がやりたいことは何なのか?自分が好きなものは何なのか?がわからなくなってしまった。物事の判断基準が褒められるかどうかなので、ふと「こんなことして何になるのか?」という疑問が湧いてきても、押し殺して「褒め」の獲得に邁進してしまう。心の奥の遠くのほうで「本当はこっちなんじゃないの」という声が聞えたような気がするが、そんなものは当然無視、目先の「褒め」が最優先だった。自分の意志なんかより、周囲の期待、周囲の羨望がとにかく大切なものだった。周囲から期待されなくなったら自分は終わりだと思っていた。
「褒められる」「凄いと言われる」「羨ましがられる」ことが目的ということは、自分でも他人を羨ましがっているということだ。
最近羨ましいと思うのは、人から褒められもせず、馬鹿にされながらも、自分の信念を貫き、地道にコツコツと積み重ねてきた結果、才能と努力が大きく花開き、金メダルなどの成果を残したり、テレビ等で自分の才能を発揮していたり、芸術などで世界に認められるような人だ。こういう人たちはきっと、目先の快感に惑わされず、自分の意志を大切にして、時を重ねてきたのだろう、これまでの自分とは正反対の人生を歩んできたのだろうと思う。
これまで自分は、「自分を大切にする」という言葉の意味が全くわかっていなかった。卑怯な手段を使ってでも「褒め」を独占し快感に浸ることが自分のためだとさえ思っていた。しかしそれは自分を大切にしていないのではないか、そんな気がするようになってきた。今では自分の心の奥の方から声が聞こえなくなってしまったが、心の声を聞いたほうが良いのではないか、そんな気がしている。
違う人ですねー。既婚者もちらほらいるんだね。
だから何なの?金取るようにしても全員来るの?
無料開催で起きる弊害より、有料開催の利点の方が多く思えるけどな
カタログ込で3500~4000円くらいの入場料でふるい分けした方が色々楽だと思うけど