あれー?最初はどうしてキモい(吐き気がする)と思われているかって理由をしつこく聞きたがってたはずなのにねー?
都合が悪くなると「別に気持ち悪く思われてもいいと思ってる」とか開き直るんだ。クソダセェwww
バカだなあ、最初からてめえみてえなキモいやつに親切にアドバイスなんてするつもりねーよ。
ただ適当にキモいとこ指摘してやるとコロコロ主張変えてサイコパス様ぶってくるんで面白くてからかってやってるだけ。
あと教えてやる、大嫌いってのは大好きってのと表裏一体でほとんど一緒なんで。
タイトル通り、YOIは男主夢なのか?という疑問を夢を好む側の人間から考えてみたいと思います。
初めて自分の考えているところや疑問点を書いているため、読みづらい点が多々あるかと思いますが、どうかお付き合いいただけると嬉しいです。
【当記事で申し上げたいこと】
「シンデレラストーリー」や主人公が誰かと出会って成長する話といえば世の中にごまんとある一般的な「主人公補正」というものの範囲内ではないでしょうか。
Twitterなどで、「YOIは勝生勇利の夢小説」や、「YOIは久保氏の男主夢」などのつぶやきが散見されています。
放送終了した今は検索しても流れてしまってなかなか見つけづらいのですが、、、
個人的な感覚であり一切の非難の意図はありませんが、感覚それ自体にとても驚きました。
http://makun0uch1.hatenablog.com/entry/2016/11/26/222114
にて多彩な夢小説の形が紹介されているように、これが夢小説だ!と、このような記事を書いておきながら恐縮ですが、明確に提示することは大変難しい事だと思います。
そのように申し上げておりますが、それでも勝生勇利とヴィクトル・ニキフォロフの関係が夢であるかと問われれば疑問が残るものであると申し上げたいと思います。
では、なぜそう思うのか、認識のずれはどこからきているのだろうと疑問に思い、当記事を書くに至りました。
・夢小説についての考え方がずれている
ずれている、という表記は私に向けられているものであり、「YOIは勝生勇利の夢小説」や、「YOIは久保氏の男主夢」などとツイートされた方へ向けたものではありません。
私と、「YOIは勝生勇利の夢小説」や、「YOIは久保氏の男主夢」とツイートされている方の認識のずれがあると言う意味で使用しています。
どちらの認識も極論を言えば正答などないものです。自分の意見が正しいという主張でもなければ、考えを押し付けるつもりもありません。
「YOIは勝生勇利の夢小説」や、「YOIは久保氏の男主夢」などというツイートを書いていらっしゃる方の九割以上が、腐女子とプロフィールに書いていらっしゃいました。
もしかして、現在検索除けが夢界隈の「マナー」として定着して久しく、Pixivへ投稿するならタグや注意書きを書くことを半ば強制され、ツイッターのプロフにサイトURLを書こうものならマナーがなって居ないと晒される状態で、SNSが同人の主流になった今、10代の方や最近同人を知った方などはあまり夢小説の事をよく御存じでなかったり、昔夢を好んでいらっしゃって現在BLを好んでいらっしゃる等、夢小説というものの認識のアップデートをされていらっしゃらないのではないかと思いました。
https://togetter.com/li/324664
上記記事で記述されているような類のものや、#夢小説あるあるというタグが付いているツイートで茶化される夢のスタイルの認識でいるのではないかと。
夢のひとつのスタイルをいちいち束になって茶化す事や何かを貶めるシーンである特性を指すときに侮蔑的なニュアンスを含む「夢」表記に関して個人的に悲しく感じるのですがそれはまた別の話なので割愛します。
そういった、夢のスタイルとして広く認識されている「誰か素晴らしい特性を持った人から見初められて運命が一転し、その過程で成長する話」のことを指して夢と呼んでいるのではないでしょうか、というところに落ち着きました。
個人的に、それは夢というのは最適解というには首をかしげたく思います。
「シンデレラストーリー」や主人公が誰かと出会って成長する話といえば世の中にごまんとある一般的な「主人公補正」というものの範囲内ではないでしょうか、と思います。
以上です。
ここまで読んで下さってありがとうございます!
いや、匿名であっても社会的タブーを脱ぐことができないのなら、そのタブーは社会に根ざしたものではなく個人に根ざしたものであって、どうして個人の気持ちの中にも性的タブーが埋まっているのか気になるな、教えてくれると嬉しいな、って話。
社会的タブーだから気持ち悪いと思われているとは思ってないよ。むしろ社会的タブーを超えたところでもまだ性を気持ち悪いと思うのならば、それはどうしてなんだろう?って疑問を持ったんだよ。
批判対象である「政治的に正しくない差別的な人間」という存在についてイメージするとき、
「モテない」「服装がダサい」「不潔」「ウザい」「好感が持てない」「孤独」要するに「キモい」人間をイメージしてるんじゃないんですか?ねえそうじゃないんですか?
…違うんだなぁぁぁ…
「モテる」「おしゃれ」「清潔感がある」「さわやか」「好感が持てる」「交友関係広い」要するに「キモくない」人間にも差別的な人間って大勢いるもんですよ。
信じられないかもしれないけど。
(良くても、『「差別主義者」の中に清潔感のあるヤツはいるにはいるが、ごく少数だ』程度にしか思ってないんでしょ?違うんだなぁぁぁ…)
いや念のため言っておくが「清潔感のある人間はみんな差別的」という気もないし
まあ要するに「政治的に正しい」世の中になることを望むというのであれば、
「清潔感」とかと「差別的であること」をパーペキに分離しないといけないと思うし、
「清潔感のある差別主義者」という存在についてもっと深く考えるべきだと思うんですが
違うんですかねえ。
人に気持ち悪いと思われることを正そうとは思わないよ。だって私を気持ち悪く思わないでいてくれる人もいるって知ってるし、私は自分を正したから人には気持ち悪く思われないはずだ、って、そっちの方が傲慢だよね?
それ以前に、自分を気持ち悪く思う人の好みに沿うように自分を変えるなんて、そんなの何の意味があるの?
あなたは私を計っているけど、それで私があなたの思うように自分を変えようとするだろうという確信めいた考えはどこから生まれてくるの?
私はその考え、すっごく嫌い。
「実は大したものではないこと(人)なのに、人々がそれを恐れるが故に怪物として扱われる(た)ような物(人)」を
・張子の虎→この言葉は虎側をあざげっていう言葉であるが、私が言う言葉はあざけりの意味を含まない。
・幽霊の正体見たり枯れ尾花→ニュアンスは大体あっている、もう少し短い言葉だったように思う。
・杞憂→これはこの怖がっている個人の問題であり、私が言う言葉はみんな怖がっているようなこと(人)に対して使う。
・蟷螂の斧→これは力のない者が頑張るという話なので違う。
・眠れる獅子→確かにしっくりするが、意味をググると実力を発揮していないという意味合いなので厳密には違う
・仏の顔も三度まで→これは腹を立てる立てないという話なので違う
・鶏鳴狗盗、羊頭狗肉→例としてブレーメンといってしまったが、その言葉に怪物側に騙そうという意図はない。
・竹箒も五百羅漢→これの神ではなく怪物バージョンであれば、意味はそのとおりなのだが。
・羹に懲りてあえ物を吹く→これは結果必要以上の用心をするという意味なので違う
・怪物→思えば単にこれでいいのかもしれないが…。ただ、(フランケンシュタインの)怪物とかにするとそれっぽい感じにはなる。