希死念慮を抱くことそのものが悪いみたいな風潮だけど、みんな死ぬこととか死にたいとか考えないの???
私の場合は考えて更に人に知られたのでとても面倒なことになったけど。
かくあるべし!はダメと言いつつ「死ぬのはダメ。生きなければならない」っておかしくない?
一応凍死された税金とか諸々の回収が終わってないからっていうのは何となくわかるんだけどさ、もっとこう、根幹の部分で「なぜ死んではならないのか」って問いに対する納得できる答えを出したいなぁとは思うんだよ。
でもそれを言うと「コイツ自殺未遂する気だ!!!」って思われて勝手に家に連絡されたりするの。
余計死にたくなる。
疲れている
憑かれて疲れているのだろうか
躁状態って楽しくなるんじゃなくてブレーキが壊れるだけってことなんだろうか
だとしたらなったことがある。
感情は沈むのに浮くことはなくてずっと濁った池から水面上に顔も出せないような、そんなイメージ。
病院に行って少し楽になれたらと思うが、医者のお前のようなものは苦しんでるうちに入らないという視線と態度が辛くて、再び行こうとする行動に移せない。
きっと大したことじゃないのに苦しむとか間抜け極まりない自分にうんざりする。
愚鈍で無駄ばかりで周りのお目こぼしで存在を見て見ぬ振りしてもらってるんだろうにいっぱしに悩むだとかなんて付け上がってる。
いないほうがいいにしても後片付けのコストは誰が負うというのか。
自分でなるべく片付くべきなのにその気力もない。
辞退しようと思ってたのに、それではできないではないか。
まあ黒人をニガーって呼んで怒らせて、怒るほうが悪いって話だろ、それ。
その観点から行くとオタクよりもフェミニストのほうがよほど強姦魔に近い精神性を持ってるよね。
で、被差別側の中にもシンプルな省略形の方が自分たちにとってもわかりやすいし、
シンプルな省略形じゃなくて意味不明な代替語を使わされること自体が差別の文脈だから嫌いですって人がいることについてはどうするの?
「ナスビ」を差別用語とし続けることで、「ナスビ」ひいてはそれが指し示す「茄子ヶ原一族」自体を永遠に侮蔑の文脈と結び続けているから、そういう日は来ないだろうね。
さらに言うと、茄子ヶ原一族自体に、「ナスビ」を自称する人が少なくなくて、「いや俺ナスビだけどミカンじゃねえよ」「ミカンって言われる方がイヤ、普通にナスビって言え」なんて層がいるんだよ。
そりゃあそうだ。単なる名字の省略の方が本人たちもわかりやすいし、そのシンプルな省略形じゃなくて全く関係ない「ミカン」という用語を使わされること自体が、
ミネラルショーで石を買うとか。
鉱物標本でもルースでも、3万あれば気に入るものが見つかるんじゃないだろうか。
眺めてると楽しいよ。
なぜそう極端な話になる?
(実際、数十年前の差別用語でも完全に風化してるよ)
はるか未来に、かつての差別用語を持ち出す奴がいたら、それこそ差別として咎めりゃいいじゃん。
逆に、はるか未来の人々に茄子ヶ原さんを差別する気持ちがなくなってるなら、かつての差別用語を持ち出すこともないだろうよ。
「本日は多数の外国人のお客さまが乗車されており、大変混雑しておりますので、日本人のお客さまにはご不便をおかけしております」
「日本人のお客様にご不便をおかけいたします。多数の外国人のお客様が乗車しており、しばらくの間、ご辛抱願います」
「多数の外国人が乗車しており、日本人のお客様にご不便をおかけしております」
「本日は外国人のお客さまが多く乗車し、ご不便をお掛けしております」
実際言ったのはどれなんだろう?
だから、この部分に一切意味がないどころかむしろ有害であると言っているんだよ。
「ナスビは茄子ヶ原一族に対する侮蔑語だから使ってはいけない」という決まりにしたら、この決まりは未来永劫に亘って周知し続けなきゃいけないね?
だって、周知し続けなきゃ「茄子ヶ原」なんてのは長いから、誰かが不意に「ナスビさん」って言っちゃうもんね。
そうして、「茄子ヶ原一族は『ナスビ』という呼称で差別されうる存在である」と子孫代々伝承し続けることになるの。
そういうふうに伝承され続けている以上、個人的な怨恨や喧嘩などをきっかけにわざと侮辱的に「ナスビ」を使う人間も出続けるだろうね。