はてなキーワード: 岩倉とは
去る明治6年10月24日、私江藤新平は明治政府を辞職し下野することになりました。
皆さんご存知の通り、私は征韓派でありまして、志を同じくする西郷氏、板垣氏、副島氏、後藤氏とともに陛下にその重要性を述べてまいりました。
しかし、こうした動きに対して、あえて隠す必要もないかと思いますが、大久保利通氏が強硬に反対しておりました。
無論大久保氏の言い分は充分に解っているつもりです。朝鮮を征伐することが国際的に不安をもたらす、と。
その通りかもしれません。しかし我々は西郷氏を挑戦へ派遣することを閣議で決定していたのです。
どうして岩倉氏は両論を陛下に奏上したのでしょうか。三条さんはぶっ倒れてるし。
ええ。負け惜しみです。大久保さんの方が一枚も二枚も上手でした。
今年明治7年、私たちは民撰議院設立建白書という文書を政府左院に提出しました。
ええ、負け惜しみの反動です。これからは政府の官僚だけでなく、人民が広く政治に参加して、同じ意見の人々が政党を作り、その意見が政権に反映されるべきなのです。
負け惜しみです。だからこそ、この立場で政治を考えたいのです。この動きは絶対に広まっていくでしょう。何百年もかけてね。その礎にしたい。板垣君が頑張っています。
最近故郷の佐賀がなんだか騒がしい。士族に鬱憤が溜まっていると伝え聞いています。
なんだかそういうの聞いていると、故郷に帰りたくなってきます。
みんな何故かめちゃくちゃ私が故郷に帰ることを止めようとしてきました。
故郷が同じ大木君なんかめっちゃやめろ! って言ってきます、笑。 退職したんだから別に良いじゃんw
板垣君も副島君も慰留します。みんなそんなに東京が好きなの? まだ東京で消耗しているの?
私は佐賀で育ちました。幕末には桂君と会ったり(今は木戸君ですね)、姉小路さんに会ったり。大隈君や大木君、副島君、島君あたりとサークル作って活動したり。
維新後は学校を整備したり、四民平等なんて訴えたり、あと民法について仕事したり。警察制度作ったり。いろんなこと中央でをやらせていただきました。
自信あるのは警察の制度の中に、新しい技術である「写真」を使った捜査を盛り込んだこと。写真ってすごいですよね。これを人相の手がかりにすると効果てきめんだと思います。我ながら先進的な施策だと思います。多分100年以上これ使える手段になるんじゃないかな? とにかく、いろんなことをやらせていただきました。
負け惜しみの反動で書いてます。今佐賀でこれを書いています。板垣君、副島君。留めてくれてありがとう。大久保氏が私の帰郷するよう権謀術数をめぐらせているということ、聞きました。
でもいいんです! 東京で消耗するより、今は佐賀です。生まれ育った佐賀ではいろんなことが今起こっています。あの島君も佐賀に帰ってきているようです。昔は島君といろいろケンカもしましたが、今また会ったら。この佐賀で会えたら。また違ったケミストリーを生むことができるんじゃないかと思ってます。
板垣君や大木君、副島君等とは遠く離れてしまいましたが、また皆で議論したり、政治をしたりしたいなーと思ってます! まだまだ日本はこれからなんだから!! 今は・・・故郷でゆっくり考えることにしようと思います。そんじゃーね。また連絡するからね。
http://www.asahi.com/articles/ASH9Z3D16H9ZOBJB006.html
まず、現在の小牧図書館が老朽化と手狭になっている問題は事実です。
そういうこともあり新図書館建設自体は早急に行なわなければならない事項ではあります。
しかし東西に長い市の形状と後述する交通アクセスの不便さ(+駐車場の少なさ)もあり
小牧中心部から離れた人たちなどは周辺自治体の図書館を利用している場合も多かった印象です。
ツタヤ図書館計画が出てきた当初は武雄市の問題もそこまで明るみに出ていなかったこともあり、
「図書館が立派になってちょっとおしゃれになるならそれもアリじゃない」程度の感想でした。
しかし、ここ数ヶ月で武雄市の問題がメディアで取り上げられるようになると「こりゃまずいな」と思うようになりました。
初期のころから反対運動を行ない住民投票までこぎ着けた方たちには感謝しています。
小牧駅前再開発の問題はもう何十年も定まらず、何とかしたい市の思惑は分からなくも無いです。
名鉄小牧線は元々本数が少なく地下鉄接続計画も進まず、接続後も名駅や栄などの繁華街に直通で行けるわけでもなく
もたもたしているうちにピーチライナーも廃線となり何とか持ちこたえていた駅前周辺が一気に寂れていきました。
鉄道を利用するにも西側は岩倉(名鉄犬山線)、東側は春日井や高蔵寺(JR中央線)の方が便利なので流れるのが実情です。
もっとも東名名神中央道が接続する自動車交通の要衝でありほとんどの住民は自動車を利用しますし
逆に自動車で移動するとなると古い区画が多く残り、狭い道も多い小牧市中心部は近づきにくいので不便な場所です。
そういった現実もあり、「駅前の賑わい創出」はツタヤ図書館ができた程度では難しいだろうなぁと言うのが実感です。
過去にも市役所の新庁舎を建てるとかいろいろ計画は上がりましたがいずれも頓挫。
近くの第三セクター商業施設「ラピオ」もテナントを揃えるのに苦労しているのが実情です。
車で移動する住民としては近づきにくく駐車場も有料でテナントも微妙なラピオよりは
駐車場も無料で広くテナントも魅力的な周辺の大型商業施設に行くのは当然です。
持て余した土地を何とか活用したい小牧市の長年の思いもあるでしょうし
前述の老朽化・蔵書の限界の問題は待ってはくれず、新図書館建設それ自体は賛成です。
死ぬ前に書き残そうと思った次第。
僕が子どものころ京都の北のはずれ岩倉というところに住んでいた。
今でこそ家が立ち並んでいるが当時は戦争とは無縁な田舎だったが、
それでも大阪が空襲を受けると空が燃えるように赤くなって怖かった。
当時の大人たちは次は京都の番だとささやいて恐れていた。
有る時、親戚を頼って滋賀県の虎姫の方へ移住することになった。
もう終戦間際の話である。
田舎の滋賀県でもさらに田舎のところだから爆撃なんて受けない。
なので上空を敵国の戦闘機が飛ぶと、みんな竹槍をもって、空にむかって
それをみなが一斉に真剣な顔をしてやっている。
田舎とは恐ろしいところだと思っていたが口にはだせなかった。
みながエイッエイッと竹槍を上空に突き刺していたら本当に戦闘機が落ちてきた。
もちろん竹槍が功を奏したのではなく、対空射撃がたまたま当たったのである。
竹槍で刺し殺すためである。
毎日毎日鬼畜米英と教育をされていたので、外国人をほとんどみたことがない
結局そのパイロットは竹槍で突かれ惨殺された。
僕は死体はみなかったが、地上に降りるや否や殺されたらしい。
みな敵を撃ったと喜んでいた。
当時の僕はやったかーと興奮して夜は眠れなかった。
今でもあの時のパイロットは記録に残っているのだろうかと思うことがある。
「ホンダはどうした」「ホンダらしくない」という批難の声が、社内外のあちこちから聞こえてきた時があった。現場で車を作っている身としては、針の筵に座らされているような日々を送っていた。そんな時に本田さんが言った。
「君たちは、腹がへって死にそうな人に、『すき焼きの肉を買いに行きます』なんて言うのか!」
それは、どんな人たちの声よりも鋭くわたしの胸に突き刺さった。
[中略]
上級車思考が進んでいた時のことだ。わたしたちも、従来のものよりずっと性能のいい上級の車を投入したり、アメリカ向けに開発した大型車を急遽、日本市場に投入したりしていた。が、いずれもお客様の動向を的確に捉えているとは言えなかった。
お客様のニーズを最優先するという仕事の基本原則を忘れてしまっていたのだ。その結果、頭でっかちになり、地に足の着いていないことを考え、お客様にそっぽを向かれてしまったのである。
以来、わたしは、仕事では「お母さんのおにぎり」をお手本にしようと考えるようになった。
材料は決して特別なものを使うわけではない。しかし、なんと言っても母親は子どもの好みを知り尽くしている。「好み」とは、好き嫌いや味だけではない。どれだけ食べるか、どんな大きさなら食べやすいか、食べやすい形は何か、栄養的にどうか、暑い時期ならいたまない工夫も考える……。
さらに、そのおにぎりが日々のお弁当なのか、遠足なのか、いつどこで食べるのか、体調はどうか……までを考えて、作り方を変える。そして、こう作ろうと決めたら、子どもが喜ぶ顔を思い浮かべながら、やわらかすぎず硬すぎず、心を込めて握るのだ。
それは、どんなに仕事に慣れても、いや、仕事に慣れた時こそ、忘れてはならない仕事の基本だと思う。
おなかをすかしている子どもに、先々のすき焼きの話をしたって喜びはしない。