はてなキーワード: ポストモダンとは
ニ十数年前にポストモダンはやり始めたとき、「自分の思考=普通」という考えは絶滅すると思ったら、いまだに生き残っているようで、年齢層の高い人で「茶髪は何とかなりませんか」と言わない人間の方が少ない。
「金髪は何とかなりませんか」もひどい。
「金髪は何とかなりませんか」的思考は現代社会における考え方には絶対にそぐわない。若者だけでなく、日本全体で見ても絶対にそぐわない。
以前日本で「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的思考をしている人は多かったが、最近は高齢者だけになった。しかし、その数はまだまだ多いようだ。
大体「金髪・茶髪は何とかなりませんか」的思考は今の日本社会にそぐわないだけでなく、世界からひどく馬鹿にされているのを知らないんだろうか。
現代人全般は古い考え方の人は現代人全般の考えが理解できず、自分の感受性こそ正解としたいんだと嘲っています。
「金髪・茶髪は何とかなりませんか」的思考は思想的に相対主義には敵わない。
対抗するとしたら、頭の内容・知性を以てするしかない。
ところが、「茶髪・金髪は何とかなりませんか」と口走るその顔からは、一切の知性が感じられない。
もし、それが、何か文章を書くブロガーという職業だったとしたら、そんな固定観念にとらわれたブロガーは本物の文章を書くことが出来るわけがないと、私だったら考える。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的ブロガーが書く物は、泡みたいな物で、二年も寿命がない。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」と書いた段階でブロガーとしては最早負けだな。
古い考え方の人間よ、「茶髪・金髪は何とかなりませんか」と自分の嗜好を披露する暇があったら、その頭の中味を鍛えろよ。
勉強しろよ。世界中の若者は当然のように他社の嗜好に対する許容性を身につけているぞ。
高年齢層の人は昔からの価値観にしがみついて昔の文化にのみ身をまかせていて、自分の物の見方だけが当たり前のだという考え方を改めようとすることがない。
古い考え方は老害になっているだけだ。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的思考をする人たちを見ると、昔の世代は「くずだんご」の世代だなと悪口を言いたくなる。
とにかく視野が狭い。汚らしい。
「茶髪・金髪は何とかなりませんか」的発言は「私の頭は空っぽです」と宣伝する看板だ。
何度でも強調するが、視野が狭いのだ。
その、視野が狭いことが分からない神経が鈍すぎる。
自分の娘のことで恐縮だが、現代人の女性は私の娘の発言を聞いて「固定観念にとらわれず、多様な価値観を許容できてうらやましい」という。
自分の好き嫌いしか見えていないようでは何もならないと思うけれどね。
自称するだけで「フェミニスト」ならば、誰だって「フェミニスト」。釣り?それともまさか本気でリンク先が「典型的なフェミニズムの主張」だと思ってるわけじゃないでしょうね。
本当に「人権感覚」のある人間なら、男一般をステレオタイプ化したりましてそれをあからさまに偏見的なやり方で嫌悪したり、ある人が持つ一面だけをあげつらって去勢を提案したりなんてするわけないでしょう。ポストモダン的な意味での「人権感覚」を持ち合わせていないような「男女平等」主義者は、いまのところフェミニストとは言えないと思います。
もう少し分かりやすく言うと、ありきたりの「男/女 観」に立つような思想をフェミニズムと呼ぶ人は、フェミニズムを欠片も勉強したことの無い人だけですよ、ということ。ある思想を批判しようというなら、本当に勉強しましょう。少しくらいは。誰のためではなく自分のために。
偶然に意味(価値)を与えて必然にしないといられないのはニヒリズムの問題らしい。意味を求める衝動がニヒリズムらしい。
全ては無価値と言いうのも、だからこそ!と言うのも、そんなこと当然じゃん楽しく行こうよとか言うのもニヒリズムに回収されるらしい。
たぶん、ここらへん全部モダン(近代)の問題体系らしい。
「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
前から思っていたが、分裂勘違い君の書く文章には、意識的に多くの仕掛けが施されている。
今回、あまりに手放しの賞賛が多いので、ちょっと違った視点(意地悪な視点)から斬ってみたいと思う。
それにしても、名文である。
これだけ罠や仕掛けが多い文章を、誰にでも読みやすく書ける才能には脱帽。
このエントリの罠はいくつかあって、全てがはてなブックマークにハマってしまうタイプの人に、向けられてる。
つまり、ウェブについての知識や興味があるが、いわゆる一個人として「コトを成していない人」。
つまり、自分の境遇にあまり満足していないが、努力の方向が良くわからず、情報収集ばかりを病的に繰り返してしまう人。
第一の罠が、そう言うはてなマニアが素直にこのエントリを批判する文を書こうとすると、自分が無能なことを
少なくとも、一度は筆者を持ち上げないといけない罠。
第二に、このエントリは、馬鹿馬鹿しいくらいの「正論」を、巧みに味付けしてみせただけの文章だということ。
中身は、これだけ。
「その時々にやりたいことを、好きなようにやれるのが一番幸せ。俺、出来てるし」
後半の「出来てるし」の部分でさえ、履歴書チックにそれなりの成果があれば、主観的なことを判断基準にしているから、
外部の人間が「やれてねえだろ」と証拠をあげて突っ込むのが難しい。
「それ、好きじゃないから」「その時点で飽きたから」っていわれたら終わりだし。
あと、手抜きしてもこんだけ出来るぜ自慢は、がむしゃらになれる人への嫉妬の裏返しだよね。
第三に、繰り返される「好きなステーキでも毎日食ってたら飽きる」という極端な比喩。
これは、この程度の比喩で素直に納得してしまうレベルの人をメインターゲットにした上で、
おかしいと見抜いてもそこをツッコむと、ツッコんだ人がレベルが低そうに見えてしまう、
という二重の罠。
とりあえず、馬鹿っぽく見えることを承知で、真っ正面からツッコんでみる。
そもそも、食事の比喩は、感覚的に強烈でわかりやすい錯覚を覚えるが、大抵において的確ではない。
何故なら、食事は毎日繰り返される本能的な欲求で、習慣や仕事や趣味と同次元で語れるものではないから。
つまり、一生ステーキしか食えない、って聞いた時のウェッと来るような感覚的な気持ち悪さは、
一生プログラマーの仕事を続ける、と言う感覚と、全く関係ないってこと。
それを前提にした上で、レベル感の違い、構成要素の複雑さの違い、そもそもステーキを毎日食べたい、
と言う言葉自体が誇大表現のレトリックであるということ、などなどツッコミどころが多すぎる。
レベル感ってことで言えば、「ステーキ」って「プログラマー」に対して、範囲狭すぎるでしょ。
そもそも、「プログラマー」などの「業種」を、「ステーキ」という「素材そのものの一品料理」と
一緒にするのがおかしい。そりゃ、想像するだけで気持ち悪くなるよ。
せめて、「肉料理をメインに一生食べ続ける」、くらいのもんでしょ。
それくらいなら、実践している人も山ほどいる。
それに仕事なら、役割も内容もどんどん変わって行くわけで、成長も変化もある。
テトリスを一生やり続けるのと、FFオンラインを一生やり続けるのと、くらいの違いがある。
ああ、やっぱり馬鹿らしい反論になってる気がする……。
正論や極端な比喩に、とって付けたような(しかし、批判の対象になるプログラマー層が小耳に挟んだことはあるが
詳しく知らなそうな分野のネタを広範囲から)引用や巧みなレトリックをまぶして、見事な文章に見せかけている。
第五に、褒め殺し。
ポストモダンで解決案を提示出来なかった課題にも、梅田さんなら何らかの解決策を出してくれるかと
期待した、なんて誉め殺しもいいとこ。もともと趣旨違うし。
そうすることで、自分が解決策を提示出来るわけでもないのに、相手を褒めつつ批判することが出来る。
勘違い君も、「自分は好きな時に好きなことをやる人生が実現出来てるよ」ってことは言えていても、
多くの人が実現出来るような解決策を何も提示出来てない。そしてそれを巧妙に隠しているってことだ。
今までのエントリがそうだったように、「はてなブックマークで話題になること」である。
つまりこのエントリは、自分を持ち上げつつも、自分よりも自己実現が出来ていない層から共感や賞賛を
得るために書かれたもの、ということになる。
繰り返し言うが、「その時々にやりたいことを、好きなようにやれるのが一番幸せ。俺、出来てるし」ってこと。
まず、梅田望夫が自ら名言しているように、「ウェブ時代をゆく」は、あなたのようにウェブの世界に精通し、
それをわかっていながら、こきおろしている。
まるで、ベテランが新人の基礎研修を見に来て、古典的で四角四面な内容に茶々を入れてるみたいだ。
けものみちの生き方を目指しつつ、ひろゆきや梅田望夫になれず、はてブのヒーローに留まってしまうのは、
論破出来そうな権威に噛み付いて、自分より格下の相手の称賛だけで満足しているだけの器の小ささではないかと思う。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20071209/1197232409
※ブクマ数が100ぐらいになったら、↓このへんに 書き手が現れる予感。
「わたしが書きました」 くろいぬ(Shields-Pikes)
■種明かしエントリーはこちら
芸術はどっちかっつうと体育に近いんだよ。作るも演じるも聴くも見るも体を動かすことが大事。美学って評論だし。
基礎ってのは誰もが数年やれば気が付くことをあらかじめ教えてあげることなわけでね。音楽はそのあたりしっかりしてそうだけど美術はポストモダン後に崩壊してるかも。
基礎がおろそかゆえにバイトしながら活動、数年経ってようやく基礎を踏まえる作家も居るんだな。これって残念だと思うよ。
なお現代芸術は陸上と水泳みたいに別物。これはメディアとコンテクストというように“画材”が全く異なるので初等教育との連続性がない。むしろテレビのバラエティのほうが感性が近いかもね。(だから何でも良い訳じゃなくて「面白い」かどうかは相変わらず有効。)
柳田零落した神モデルの。
そもそも芸能者は「あちら側」と「こちら側」の境に立つ異人なわけで。
それをヤクザ=神人が取り仕切ってた、っていうのは当たり前っちゃ当たり前っつーか撞着語法? 「あちら側」からほとばしり出る性を売るのも、ほとばしり出る芸を売るのも、構造的にはイコールですよ。芸者が高級娼婦? は? そこになんの意味が? 現代からの断罪になんの意味が?
そんなわけで芸能の世界は中流なんぞという常民ごときに立ち入れる世界じゃねー罠。せいぜい気張って米でも作ってろって。
で、その構造を暴き立て、パスティーシュすることに快感を覚える時代があったわけだ。秋本CXとかゴンとかお宝とか。文明開化あるいはニューアカ。
あらかた暴ききっちゃって、残ったのはなんとはなしのこっけい感、見下し感。依然信仰の対象ではあるんだけど、本気の宗教論争が起こるほどではなく、もし起こったとしてもそれはネタ化した百物語的な。そーゆー印象。
ポストモダンの影響じゃないことは確かだよ。読んでないし。何らかの哲学が影響しているとしたら、たぶんスピノザじゃないかな。
それはとにかく、何かのためになるから正しいわけでも、ためにならないから正しくないわけでもないと思うんだ。私個人としては、ニートがその生活のためにニートを脱した方が良いのではないかというのには同意だし、そのためにニートが努力した方が良いのではないかというのにも同意だよ。でも、だからといってニートが悪いことにはならない。埒があくかどうかも問題じゃいはず。
ニートはただ当事者として何とかした方がいいというだけであって、それは、落とし穴に落ちて凍えている人間がそこから脱出した方がいいのではないかというのと同じ。何故落ちたのか(落とされたのか)は問題ではなく、ただそこで犯人を罵倒し続けても埒が明かないし、いつ誰かが助けてくれるともわからないのだから脱出を試みた方がいいのではないか、というだけに過ぎない。
で、自由意志の話。量子力学とかの世界での意味でなら、あり得るんだろうね。
でも、ちょっと考えてみて欲しい。自分が何かを選択したことがどれだけあるか。思い浮かんだら、その各々をよく考えてみて欲しい。それは「1.選んだ方が良い理由があった」「2.自分にもわからない理由によって(適当)」のどちらかじゃないかな。前者は明らかに環境に依存しているし、後者は由来が不明なものでしかない。つまり、意志そのものは自分を自由にある方向に決定づけることは出来ない。
諸君 私は決断主義が好きだ
諸君 私は決断主義が大好きだ
『バトル・ロワイヤル』が好きだ
『リアル鬼ごっこ』が好きだ
『ドラゴン桜』が好きだ
『DEATH NOTE』が好きだ
『コードギアス』が好きだ
『Fate/stay night』が好きだ
『野ブタ。をプロデュース』が好きだ
この地上で行われるありとあらゆる決断主義が大好きだ
戦列をならべたゼロ年代の想像力の一斉発射が轟音と共にセカイ系を吹き飛ばすのが好きだ
空中高く放り上げられた第三世代オタクの自意識がパワーゲーム的世界観でばらばらになった時など心がおどる
サブカル保守の操る教養主義のアイロニーがポストモダン批評家を撃破するのが好きだ
悲鳴を上げて燃えさかる波状言論から飛び出してきた批評家を「現代の想像力」でなぎ倒した時など胸がすくような気持ちだった
銃剣先をそろえた職業ライターの横隊がブログ論壇を蹂躙するのが好きだ
恐慌状態のブックマーカーが既に息絶えたブロガーに何度も何度もネガティブコメントしている様など感動すら覚える
敗北主義の引きこもり達を実社会に吊るし上げていく様などはもうたまらない
泣き叫ぶ甘えた感性の持ち主がゼロ年代の振り下ろしたサバイブ感とともに金切り声を上げる決断主義者にばたばたと薙ぎ倒されるのも最高だ
哀れな反論者達が雑多なイジケパフォーマンスで健気にも立ち上がってきたのを河出スクールカースト文学が文化圏ごと木端微塵に粉砕した時など絶頂すら覚える
諸君 私に付き従う決断主義者諸君
君達は一体何を望んでいる?
更なる決断主義を望むか?
情け容赦のない糞の様な決断主義を望むか?
鉄風雷火の限りを尽くしサブカル論壇の鴉を殺す嵐の様な闘争を望むか?
よろしい ならば決断主義だ
我々は渾身の力をこめて今まさに振り降ろさんとする握り拳だ
だがこの暗いウェブの底で五年間もの間堪え続けてきた我々にただの決断主義ではもはや足りない!!
大決断主義を!!
一心不乱の大決断主義を!!
ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の戦闘集団となる
我々を忘却の彼方へと追いやり眠りこけている批評家連中を叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり降ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中に不安の味を思い出させてやる
連中に我々の不安と憤りの音を思い出させてやる
ゼロ年代と九〇年代のはざまには奴らのテツガクでは思いもよらない事があることを思い出させてやる
一千人の決断主義者の戦闘団で
サブカル論壇を燃やし尽くしてやる
意図的に省略されたデータを用いて。
いかにもな煽り方で。ミスリードだと悟られない演出・誘導も必須。
「痛いニュース」的だといいですね。
「これだからゆとり(世代)はーー」「最近の若者はーー」みたいな反応が集まればOK。
日本の伝統を知らない、なんてデータを使って、「サヨクの悪影響」なんてコメントを集めるのもいいですね。
実は中高年のデータでした、とバラす。
どうでしょうか?
はてなで人気の批評家東浩紀氏は院生時代、バイト先の塾で、神戸の場所を知らない
女子高生に会ったことがショックだったらしく、以後ポストモダンの動物化した(同じ
国内なのに関心が薄い)代表例としてこの女子高生の逸話をよく使いまわしております。
若い人のデータだと誤誘導させる演出が必要です。
上手く世代論だと「演出」できればOK。
関係ないですが、鶏肉調理法やライフハック、フリーウェアの話題を入れるとブックマーク
コメント数が跳ね上がるでしょう。
文体に気をつければ、そこそこブクマコメントが集まると思います。
東浩紀氏の名前を出したりポストモダン用語を出したりしたら、ライトノベルやエロゲーや
世代論なんかじゃなかったことをばらします。
実は、地理的知識というのは世代と関係なくかなりあいまいで、穴のある人が多いのです。
もしくは、(1a)の段階では世代論だと本気で信じている(かのような)文章を
書くのもいいですね。(3a)の段階になったとき、謝りながら恐縮しながら
「すいません(汗) まだデータには続きがありました。見落としてました」なんて
ドジなキャラ付けもありです。
大丈夫。ブクマで鋭いツッコミを入れられるほどのリテラシーを持ったユーザーは
コメント中5%くらいなものです。
みんな「ゆとり」が大嫌いですから、たいてい先入観を強化するような言説には
飛びつくものです。
以上を参考にして、馬鹿な世代論イメージをいじってみてはいかがでしょうか。
応用として、地域間格差イメージも扱えるはずです。
それでは。
はじめに
秋葉原は現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術の聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェア・コンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェア&ハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。
この記事は、秋葉原の歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。
電気屋街としての秋葉原の歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前の秋葉原にも山際電気(現在のヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後、焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生がラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。
この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野や新橋、渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原の国鉄や都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。
その後、GHQにより道路の拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本の高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車で郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原は電脳街となるのである。
秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメやゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタクの聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。
秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌、アニメグッズ、ガレージキット(フィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原に移転するまで吉祥寺、渋谷、新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂の宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャー・ショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメやマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。
批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメの物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生のミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。
東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語(アニメにおけるキャラクターやロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」
この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁・血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティ=コミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在の秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術の進化が趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。
オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクはオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家の篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独な連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。
しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。
秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCやインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタクと情報家電の親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブやパソ通などで、一部のオタクはBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチな趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。
「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。
秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバblog(http://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットのジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在の秋葉原はオタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメのコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。
高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在の秋葉原は評価されるべきだろう。
参考文献
「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹
http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm
http://www.akiba.or.jp/history/index.html
オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思
http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1
http://sotokanda.net/his_cafe.html
註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。
コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博
カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介
動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀