はてなキーワード: 周辺情報とは
自分も記録していかないとどれを見たか自分で忘れちゃって、その後「面白そうだな」と思ってレンタルしたら見たことあったやつでしかも劇場で観た当時つまらなかったと思ったことまで思い出して(だから観たことすら忘れてて、今回もつまらない)がっかりということがあったので記録をとり始めてもう10年以上書き続けてるけど、とりあえずこんなこと書いてる。
・どうして見に行こうと思ったか(ここを記録しておくと、見た、という記憶が残りやすい)
・冒頭の簡単なあらすじ(これは後で、これ見たけどどんな映画だったっけと思い返すのに役に立つ)。
・いい点でも悪い点でも自分が印象に残ったポイント。見てる時感じたことを思い出せるだけ。ただの感想もあるし、同じ監督やキャストの別の作品と比べてどう思ったかみたいな話。(今後映画を選ぶ時の参考になる)
自分のためだけならこれだけでいいんだけど、感想を参考に見に行くかどうか決めてるって人が出てきたので、自分はそれプラス、どんな人に向いているか(歴史ファン向けとかデートムービーに向いてるとかキャスト好き向けとか、逆にキャストが好きってだけではつらいとか)を一言付け加えてる。で、面白かった時は面白かったと書くけどつまらなくてもよっぽどでないとつまらなかったとは書かない。見に行こうかと考える人の興を削ぎたくないから。ネタバレ部分は反転させたら読めるようにして書いてる。
あくまでこれは自分のためが主な記録だけど、人に読ませるレビューを書きたいなら、事前に製作背景とか周辺情報をなるべくいろいろ調べていって見ながらそれを確認していくっていう手順が必要だろうなと思う。事前に情報入れたくないなら見た後その辺を調べて照合するでもいいけど、最初から頭に入れた上で観るのと後から思い出すのじゃやっぱり見方が違うから。
ブログなら監督名とかキャスト名とかジャンル・シリーズのキーワードを記事のタグに入れとけば後で関連作を探しやすくていいよ。
社内でのネットワークセキュリティとかコンプライアンスの話では無いよ。
スイカの件もそうだけど仕事でセキュリティに携わっている奴は過剰反応すぎる傾向がある。
なにかと個人情報保護法を持ちだして、自分の中の完璧なセキュリティじゃないと急に叩き始める。個人情報保護法を拡大解釈してる。
それに追随してちょっとかじっただけの門外漢(以下、お前ら)が一斉に叩き始める。
大事な個人情報もあるだろうが、個人特定して詐欺したいわけじゃないから。
もうお前らみたいのはPCオフラインにして月一くらいで顔面整形して外出るなよといいたけど、現実それは無理な話。
お前らの周辺情報なんかとっくの昔から人海戦術で集められてんだよ。
不動産関係やら出店前調査やら金借りるときの信用情報やら、大げさにいったら交通量調査だってそうだろ。
情報がないとその地域にインフラを含めた適切な設備、物資が揃わない。揃えづらい。わかるだろそのくらい。
ちょっと前に渋谷駅改修で不便になって、ヒトの流れ調査やってたなそういえば。
セキュリティ界隈は腐敗してる。
自分たちの利益確保のためなのは多少理解できる。仕事だからな。生活もあるし。
新サービスにありえないポスト送ったり(まぁこれはサービス側もあれだが)
どこの誰が書いたか分からない文献を一部だけ引っ張り出してきて叩いてどや顔したり
ビッグデータの件のようにいままで人海戦術でやってた部分をITに置き換えただけで何騒いでんだよ。
ITリテラシーって過剰になることじゃないでしょ。
「企業が利益のために個人を特定してる!」と勘違いしてる奴も多いだろう。
しねーよ。お前個人を特定しても利益になんねーから。コスト考えろよ。
「同意してない!」とか言い始めるだろうけど「だったら使うなよ」と同じレベルの反論だぞ。
スタンプ式の紙のポイントカードも捨てろ。あれもお前らのいう個人情報になりうるぞ。
人による、って言ってるとこ悪いけどさ、「頭に残る」からこそ邪魔だなぁと思うな、紙の辞書。
受動的に情報を取得したいときは、紙の冊子ってテレビのザッピングみたいにパラパラめくってるだけで知識が入ってくるから確かに便利。
でも、他に目的とする文章があって、そっちの情報を得るための補助として使う場合は違うよ。辞書を使う時に周辺情報まで飛び込んでくると、そこで思考が散るから読解したい方の文章の内容を理解する妨げになる。
英語の書類とか読んでる時だったら最速で代表的な訳だけ拾える電子辞書やWeb辞書の方がいいな。代表の訳さえわかればあとは文脈でなんとかなるしな。
私は休日になるとオイシイ店を回っていた。どんどん店を開拓していった。
でも、そのうちオイシイモノを堪能するのが目的ではなく、オイシイ店の情報を集めるのが目的になっていった。何かを食べても本当に感動することはなく、他店との比較ばかり頭に浮かぶようになってしまった。私は批評家のようになっていた。そして、そのコレクターのような行為に意味を見出せなくなり、私はオイシイモノを探すのをやめた。
食べ物の味、そのものを楽しむのではなく、食べ物の情報を集めることになるのって多い。手段の目的化っていうのだろうか。
音楽、ゲーム、ファッション、恋愛、etc それ自身を楽しむことを忘れ、その周辺情報のコレクター、つまり情報を所有することが第一目的になってはいないか。そのモノ自身への感動を忘れてはいないか。
でも、それも一つの楽しみ方なのかもしれないけど。
パソコンの性能が限定されすぎていたがゆえに、無限の可能性を持っているように喧伝されていた時代だから――まあ大昔と言ってかまわないだろう。
俺はまるでチョコレート・バーを待ちわびるガキんちょのようにワクワクしていた。つまり、チョコレート・バーを齧る以外の道楽を知らなかったんだな。
「本名だけは伏せておけ。頭にwwwのつくキチガイ世界では住所と名前と性別と所属とクレカ番号は命と同等の価値を持つ。というか、それらはほとんどイコールで結ばれているといってもいい。だから、ガキども、何があっても自分を殺せ。生き延びたくば、な。ガチョウども」
教官が教練所で俺らを横一列に並べて、まず浴びせたセリフがこれだった。
正直なところ、そん時はまだ匿名でいることの重要性を俺たちはこれっぽっちも了解していなかったのだと思う。むしろ、教練所が『フルメタル・ジャケット』よりよっぽどお上品な事実のほうが驚くに値したし、記憶に残った。
匿名であることの重要性を心から理解しようがしまいが、俺たちはとにかく教官の命令に従った。第一に死にたくなかったし、第二に多少の危険をおかしてでもも俺たちはウェブの世界に居座りたがったからだ。初めてネットにつないで三日後には、もうチョコ・バーは俺にとって必須栄養素ではなくなっていた
ミッチェルが死んだのは、訓練も半ばに差し掛かったころだった。死因は炎上死。イナゴ共に本名を暴かれ住所を暴かれ姉を犯され両親を殺され家を焼かれ、ミッチェルはその中で灰になった。彼は自分から本名をイナゴどもに教えたりなどはしなかった。ただ、うっかり漏らした周辺情報からあらゆるプライバシーを同定されてしまったのだ。
教官はミッチェルの通夜で追悼の辞を述べた。ただ一言、「彼は運が悪かったんだ」と。そのとおりだ、とその場にいた俺たち全員は思った。ミッチェルは彼の「運」を己の力量で上げ下げする術を知らなかっただけだ。
訓練の終盤になると、もう一人残らず真理に到達していた。
「匿名であることが大事なのじゃない。俺たちが本名で活動するにはあまりに未熟だから、バカやってしまうからその自衛策が必要なだけだ」と。日本は未成年のありがちな若気の至りを笑って許してくれるほど、器の大きい社会じゃない。
それはそれでいい。社会ごと変革しようとしなくてもいい。まあ、たしかにいつか頭のイカれた改革者が出てくるかもしれない。だからソレは俺たちの役目じゃない。俺たちにとって重要なのは、そんな美しくも狭量な世界でどのように生き延びていくか、ということだ。
本当は、実名で活動してもいいのだ。住所や銀行口座を晒してもいいのだ。自分が守れるならば。失敗しないなら。仮に何かをやらかして攻撃をうけても、誰の助けも借りずになんとかできるなら。あるいは頼れる誰かがいるならば。逃げ切れるならば。
だが実際問題、俺たちの誰しもがそんな逃げ足がはやいわけでもないし、そもそもミスをおかさないわけでもない。一片のミスをおかさなかったとして、それでも食ってかかってくるキチガイはやはり一定数存在する。
ガキの未熟さの本質はミスの犯しやすさにあるのではない。打たれ弱いところにある。精神的に、あるいは社会における地位的に。そして、イナゴ共が大好物なのはまさにそういう、「やわらかい部分」なのだ。
教官についてある噂を耳にしたことがある。彼の息子はある有名私立大学に通う前途有望な文学青年だったらしいのだが、ふとした気の緩みでテストでカンニングまがいの行為をしたことをウェブで漏らしてしまい、運の悪いことにそれが当人の教授に捕捉されてしまった。
教官の息子はそれでその学期の単位を全部取り消され、自身は恥ずかしさとショックのあまり、大学を中退してしまったらしい。ひきこもりとなった彼が自室で首をくくったのは、それから半年後のことだ。息子の死がきっかけで、教官は若者たちにネットサバイバル術を教え込もうと決意したという。
今でもtwitterのTLを眺めるたびに、教練所を卒業した日のことを思い出す。
「貴様らはこの肥溜めを今日で卒業する! これからも匿名でいくか、それとも本名で生きるか、それは貴様らの自由だ! だが忘れるな! どちらの道を歩むにせよ……不運にあったときのためのリスクヘッジだけはやっておけ。死ぬな。生き延びろ。どんなことがあっても、だ」
そのレベルだと、学ぶ事そのものが不可能じゃないのかね?
水からの伝言とか、嘘しか書いてない本も有るし、その辺はどうやって調べるの?
人から聞くのでも、嘘の情報を信じ込んでる人も居る
最新の情報に触れたりした日には、1年後には、書いてる事が嘘だったって判明する事もあるし
結局出来る事ってのは、暗記するんじゃなくて、理解するようにする
理解して、結果、今までの自分の理解と矛盾が無く理解できる情報なら覚えておけばいい
矛盾が有るんであれば、どっちかが嘘だ、周辺情報を探って頭の中に二つの説を同時に組み立てておけば
片方にリンクする理解が極端に減るか、自分で確かめた情報と矛盾する結果になって片方が嘘と分かる
私は情報に対して、こんな風に接してるな、逆に聞きたいんだが
ホントにホントか分からない情報でかつあまり論理的に調べる気にもなれなくて、さらに、それがどうしても必要なんて状況有るか?
いつものことっちゃいつものことなんだけど。
こっちが帰る準備をしてるのを見ては、遠くの席から飛んできて「最近残業続きでまともなもの食べてない…。おいしいものが食べたいなぁ」って言われても、絶対にメシなんか誘わないからな。なんで普通に「これからご飯食べない?」と聞けないのかね。乙女の恥じらいってキャラでもあるまい。酒を多く飲むのはどっちだ。
誰かが誘導的な言動で自己利益を得ようとするとき、意地でもそれにのっかりたくない。一度気づいたら、とにかく「あなたの思い通りにはいかないよ」と言いたくなる。仕事でもプライベートでも、他人を巻き込もうとするなら一人称で欲望を語りやがれ。「わたしはこうしたい」という意思をはっきりと提示せずに、他者に可否を問うなんて卑怯だ。俺が「この人は仕事できるな」と思うのは、つまるところ一人称で物が言える人に対してだ。周辺情報は自論を補強する材料に過ぎず、最終的には人間の意思がある。意思だよ、意思。とにかくお前の意思を提示しろ。それができないやつに、おれの意思を預けてたまるか。
さて、そんな俺は中二病の大二病のどちらかと増田に判断してもらおうと思ったけれど、書きなぐってみて単純に大人になりきれてない性格の悪いやつだと思った(このエクスキューズも含めて)。
「読書感想文に決して書いてはいけないこと。」で,読書感想文について触れられていたので少し.
「本を読むことで人間は変わる」
……という物語なのです。
「この本を読んだことで私はこのように変わりました」
……という、美しい物語を描いてください。
何を考え,感じたのかを「ありのままに表現してください」とか言われても,困る.
心の内側を,赤の他人になんか見せたくない
僕は,大切なことは心にしまっておきたいんです.
不特定多数の他人なんかに,教えたくは無いんです.
そこで僕は考えた.
ストーリーは単純明快で,「ひ弱な主人公(ナード)がある日突然強力な力を手に入れ,世界を守る」というものである.
このような構図は,例えばマトリックスやトランスフォーマーなど多くのアメリカ映画に見れるが,何故だろうか.
アメリカの中学生,高校生を理解するのに不可欠な概念として,その階層構造が挙げられる.
この階層構造は,主に体育会系の支配者層(Jock;ジョック)と,非体育会系,日本で言うオタクなどに相当する被支配者層(Nerd;ナード)で説明される.
またこの背景には,スポーツを趣味とするのが是であり,それ以外の文化系の趣味に勤しむことは変人である,というアメリカ的価値観などが関係していると言われている.
多くのアメリカの映画,ドラマではひ弱な主人公(ナード)と,その主人公の邪魔をする嫌な奴(ジョック)が登場し,また最終的にはひ弱な主人公(ナード)が何らかの活躍をするものが多い.
これは作品の消費者,つまり国民全体に占めるナードの割合が多いこと(一般的に非支配者層は,支配者層より人数が多い),作品の監督など文化人にナード出身が多いことが理由であると言われる.
さて,このような階層構造を理解した上でこの映画を眺めてみると,………
(ここまで:514文字)
主人公であるチャーリーの日記という形で物語は進んでいき,チャーリーが白痴から天才へ,そしてまた白痴へと戻っていく過程を鮮やかに描いている.
本書はダニエル・キイス著「Flowers for Algernon」の訳書であり,翻訳はアイザック・アシモフ著「I, Robot」(邦題:われはロボット)などの翻訳で有名な小尾芙佐氏が行っている.
本書でも,時間経過(知能の変化)によって変化する日記の文体など,氏の文章構成力が光っており,恐らく氏以外の翻訳ではここまでこの小説が有名になることは無かったのでは無いかとすら思わせる.
しかし残念ながら,物語の発端となるチャーリーへの人体実験については,その非科学的なリアリティーの欠如から,物語を素直に楽しむことができなかったのもまた事実である.
物語中では,ネズミのアルジャーノンの結果が出る前に,チャーリーへの実験を開始しているが,動物実験が終わっていない治療方法を,人体に試すことがあるだろうか?
こうした常識的な「科学的考察力」の欠如は,現代社会における様々な問題の一因ともなっているとも言える.
マイナスイオン,水からの伝言(水に「ありがとう」というと綺麗な結晶ができる,という都市伝説),血液型占いなど,これらは基礎的な科学の心得があれば,疑ってしかるべきものである.
SF小説では,いかにしてアイディアに科学的リアリティーを持たせるかが重要な鍵の一つであり,例えばアーサー・C・クラークは軌道エレベータ,………
(ここまで:620文字)
つまり物語そのものだけじゃなくて,その周辺情報について解説・評価すれば,自分自身の内面世界を全く描写することなく,楽々と(しかもそれっぽく)文字数を稼ぐことができる.
先生受けも,それなりに良い.
例:作品が書かれた社会背景と作品の関連についての解説,著者の他の著書や業績,社会に与えた影響,作品の一部分を抜き出してその社会現象について解説する,…
問題は,普段からのそれなりの読書量,周辺知識が無いと書けないこと…かな.
SIerがなんか全てブラック企業のようなイメージになってきた。プログラミングのできない人達が懸命にプログラミング紛いなことをやって、人材を潰しながらものを作っていく、という感じに見える。SIerに入ること=悲劇の始まりってしか書かれてないエントリーばかりな時点でどうかとも思えるんだけどね。
そして、プログラミングができる人って、今日の流れではwebベンチャーとか外資に収まってるように見える。プログラミングできるのにSIerに行くって時点で、周辺情報収集不足な頭でっかち人間、って感じになるんだろうか。
SIerはIT業界の中に存在する感じが現状っぽいけど、実際にはIT業界とは無縁の、独立したSIer業界とすべきはずなんだよな。悲劇的エントリー見る限り、どこにもTechnologyなんてないじゃないか。
僕はテレビはほとんど見ない。面白くないし、ネットのほうが同じ情報を効率的に得られると思うからだ。でも久々に帰省したのでテレビを見てみると、以前より面白いと感じるようになっていた。それはきっと僕のテレビの見方が変化してきたからだと思う。僕がどんな見方をするようになったかは以下の通り。
例えばバラエティー番組で、自分がその番組の総合ディレクターになっていた場合、どのように指示をすれば良いか考える。何をどうすればより面白く、視聴率が稼げ、低予算で、社会に貢献できる番組になるのか。取り上げるテーマはどうするか、使う役者はこれでいいのか、喋らせる台本に改良の余地はないのか、演出や舞台装置はどうか。観客はどのように集めるのか、そしてその反応に対してどのような指示を与えるのか。
そして今放映されるに至った映像は、携わる人々が何を意図し、何を考え、何を感じて作ったものなのかに思いを巡らす。どうしてこの場所を取り上げることにしたのか、これを取り上げると視聴者がどのように感じるだろうと製作者は予想したのか、このシーンにこのタイミングでこの曲を使うことを選んだのはどのような効果を狙ってのことなのか。これ以上に効果的な曲を自分は提案できるのだろうか。毎回このタイミングでレポーターがこういう一定の反応や行動をすることによって、どのような効果が期待できると考えたのか。ここでこのレポーターは何を考え、何を感じ、何を意図しているのか。こんな芸人は知らないけれど、彼のこの行動はおそらく彼がこれまでに培ってきた芸風やキャラを発揮するもちネタ的なものなのだろう。これをここで繰り出す時、どのような心理状況だろうか。表情、仕草、目線、声を調子、周囲の反応、これまでの発言、等、からどれだけ深く読み取れるだろうか。そしてこのときカメラがこのようなアングルからこのように撮影したのは、どのような意図があったのだろうか。カメラマンはこのときどう感じているだろうか。レポーターが苦労して登っているこのシーンを、カメラマンは両手でカメラを持って足元も見ずに同じ速度で登っているはずで、それはどんな状況だろうか。おや、引いたアングルになったらカメラが映っていない。ということはここで一端切ってカメラマンは見えない場所に移動したのだな。そしてまた1日後のシーンに切り替わる。この間に彼らはどのような行動をし、会話をし、感情を抱いたのか。彼らの服装や表情や発言や状況から読み取るヒントはないだろうか。そしてまたこのロケを横から見ている他の観光客らはどのように考え、感じているのだろうか。一瞬映る様子からどこまで分かるだろうか。
そして最終的にこのような形に編集されたということから、編集者がどのような意図を持っていたことが分かるのだろうか。カットされたものにはどのようなシーンがあるだろうか。時間を前後させたのはどの部分であり、それはどのような効果を狙ってのものなのか。ロケ収録とスタジオ収録の映像の放映時間に占める割合はなぜこのタイミングとバランスになっているのか。これが最も視聴率を稼げるバランスであると判断する根拠になったデータにはどのようなものが考えられるか。
またこれらの映像を見た時にスタジオの司会者、ゲスト、等の人々は何を考え、何を感じ、何を意図したのか。今の発言は台本にあるのかアドリブなのか。どちらであるにせよ、それを考えた人はここでそれを言うことによるどんな効果を狙ったのか。たけしはなぜここでこのようなボケをかましたのか。それを見た周りのゲストや観客がどのように考え、反応し、結果的に番組の空気にどのような影響を与え、長期的には視聴率や自分の芸人生活に対してどのような効果があると考えていたのか。そして実際には周囲や視聴者はどのように感じ、考え、反応したのか。そしてそれらの反応を見たたけしは、何を感じ、何を考えたのか。それらをたけしの表情、しぐさ、目線、その後の発言や行動からどこまで読み取れるか。なるほど、たけし自身はこの番組のくだらなさにうんざりしながらも、それなりには盛り上がるように何かしてやるかと思ってのさっきの行動だったのか。そして周囲には、これこそ反応しどころだと喜んで反応する人や、喜んで反応するふりをする人や、大げさに笑う人や、穏やかに笑う人や、冷たく笑う人や、面倒だから反応しない人等がいる。そしてそれらの中から、視聴者に見せたい反応をした人を写していたカメラの映像が編集されて繋げられる。そして実際の視聴者の中では、ああいう人はこう反応し、こういう人はこう反応し、全体としてはこんな感じの影響になったのではないだろうか。このチャンネルと他のチャンネルの番組を比較すれば、この時間にこの番組を見ているということからある程度は視聴者の傾向も絞れるだろう。
また、このタイミングで入るこの企業のこの商品のこのCMは、どのようなターゲットに、どのような効果を意図したものなのか。このとき視聴者の中には、どのように考え、どのように感じる人が、どのような分布で存在しているのか。製作者側の意図はどこまで成功し、どこまで失敗したのか。自分が改善案を出す立場なら、どのようなものにするか。そしてCMを入れるタイミングや長さ、そして入れる種類はどのようにしていくのが最も良いのか。そのためのデータはどのような切り口で集めたらよいのか。
このように周辺情報についても考えながら見ると、テレビはわりと面白かった。2時間も見たら疲れたけど。
色々な人の思惑がからむテレビの映像はデータ量が多い。そしてテレビとニコニコ動画は結構近いなと思った。ある映像を取り上げて、テレビでは良く知られた芸能人がコメントし、ニコニコではユーザーがコメントする。視聴者はその映像とコメントを合わせて楽しむ。ニコニコでも自分ではコメントしない人が多数な訳だから。そうしてみると、ニコニコがテレビを超えることは無いようにも思える。ユーザー登録不要だし、自分で見る映像を選ばなくても、皆が楽しめそうなものを選ぶプロが毎日勝手に選んでくれるのだから。自分で選ばなくてもいいというのは、とっても楽だ。見る映像でも、夕飯のメニューでも。