はてなキーワード: オートマとは
友達に新聞配達始めるよと言ったら「職業に貴賎はないけど・・・」って言われた時は聞き流してたけど、その時の僕はまだどれだけブラックか理解してなかったのです。
新聞配達所いくつかに適当に電話。Y社とA社は間に合ってるよと拒否されたんで、3番目のM社に電話すると即刻面接へ進むことに。
面接して即刻合格。とにかく受かりやすいイメージがあったので、この時点ではなにも思わず。
カッパとヘルメットは配布、新しく買い替える時は各自の負担だそうで。
2:30に新聞配達所に着くようにバイトを始める予定だったけど、伝家の宝刀初日寝過ごし。
3:22ごろ到着。
配達のバイトはまず到着したらタイムカードを切り、チラシを新聞に挟み込み、バイク(or自転車)に積み、配達し、帰ってきてタイムカードをまた切ってお疲れ様でした。
まずはバイク、スーパーカブに乗る。オートマの原付に乗るのは初めてだったんで楽しかった。
先輩について行くだけで、初日はとくにぼくが直接配ることも順路表(配達する家が記されてる紙が束ねられてて伝統的なクソIF)を見ることもせずとくに疲れもせず終わり。
6:00ごろ解散。明日もがんばろう。
2:20到着。貴重な新聞搬入シーンを見る。続いて新聞にチラシを挟む。暇ができたんで新聞ヨミヨミ。
3:30 指導担当の先輩到着。なんと1時間遅刻。大丈夫かコイツ(ブーメラン)。
3:50 出発。「今日は順路表を見ながらやっていこうぜ」(先輩精一杯のドヤ顔)(震え声)
片手で順路表を持ちながら運転したんで体力と神経の消耗が激しかった。しかもガス欠で途中で押して帰る。
5:50 配達所に到着。昼から空回り(明るいうちに回って家や入れる新聞の種類を確認すること)を行う約束をする。
17:10 配達所到着。バイト条件の詳細をもらう。そこで衝撃の事実を目にしたのです。
研修中時給換算664円。職業に貴賎はないけどって言われたのはこのためか。
通常の時給も896円で、2:30~5:00は深夜料金換算のはずなのに、足元見られてる。我が県の最低労働賃金に深夜料金を加えたものをわずかに下回ってたのよ。
20:00 頭痛のため明日(7月X+2日)休みますごめんねテヘペロと電話。辞めたいけどまだ言えず。
12:00 先輩から、今から空回りしよう!な!とラブコール。まだ外出できるレベルじゃないと言うと、お前の家に行くからな!と言う。恐怖を感じる(not ケツに)。どうやら温厚な先輩の逆鱗に触れたらしく、態度が豹変する。ヤクザかお前は。
お前これからどうするねん、なにかすることあるんか。続けられるのか。
この程度で弱音を吐くレベルのため、今後も続くかどうかはわからないと返答。
話の流れで、バイトをやめることに。
13:00 先輩から電話。最初に配布したヘルメット、カッパを返却してくださいと。どれくらい働いたらもらえるのかのしきい値が気になりますね。
ニート最高(^O^)v
世の少女マンガとか読んでると、お金持ちor玉の輿andイケメンとか、すばらしく素敵な条件の男の人と最終的にハッピーエンドになるお決まりのパターンが多い。
世の中に大富豪とか王族の結婚適齢期なお相手など、そんなにいっぱいいるわけもないのにと、醒めた目で見てしまうのは私だけなのかしら?
しかも、ストーリーが「ヒロインが勝手に思い込んだイメージや思い込み」でドタバタとすれ違ったり、衝突したり…。
現実的にそんなに思い込んでしまいたがりの短絡思考で、恋愛時and結婚後のコミニュケーションをうまくとっていけてるとは思えないんだけどな。
それ以前に、思い込みたがり病な女の子を、いくら綺麗だったり可愛かったりスタイルが良かったりだけで、そんなに愛せたりするのかしら??いたって疑問。
一般の人たちが思い描く恋愛や結婚へのイメージの層の薄さに愕然とする思いだ。
そういう私自身も独身から結婚へと移行する際に、これといった本物感など全くなかった。
結婚さえすればすべてがきっとうまく回っていくだろうという幻想を持っていた、すごく浅はかでおばかな女のひとりだったことも本当。
だからもちろん結婚がうまくいくはずもなく、生身の男と女のぶつかり合いで互いにすり減り傷つけあっていた。
そもそもみんな「男の人は働いて女の人は家庭で子供を産んで育て家を整える」という幻想的な価値観を、世界の普遍的な幸せの究極の姿だと世界中が誤解しているのではないか?
少なくとも私は、「男の人は女性よりも力があって、だから夫が妻を守る」というイメージをずっと持ち続けてきた。
結婚して、そのイメージが一つ一つ裏切られていくその過程で、私は心で不安感や違和感を感じないように閉ざす努力をし続け、そして結婚生活に色がなくなっていった。
相手のせいにする気はない。
全ては私が自分自身の力を「権威者」であるとオートマティックに認めた「主人」に譲り渡してしまったのが原因だ。
私が私自身の力を持ったままでいれば、二人の間の現実をもっと冷静に『幻想メガネ』なく見つめられただろうし、ダメージは最小限に抑えられていたと思う。
数年来、増田やvip辺りで定期的に立つ話題に「オレ的リア充になるためのハウツー」というのがある。
大体書いてあるポイントというかコアの部分は同じで、要は「女性と対等な関係であるように見せかけつつ、必ず上位に立つ」ということだ。
具体的には、常に相手とのやり取りから趣味嗜好を推測し、相手にとって心地いい選択肢を提供し選ばせる。
単純に彼女を作るだけなら、もっと身も蓋も無い言い方をすれば、相手をベッドに誘い込みたいだけなら、
出会った時の会話から勝負デート(笑)までひたすらこれを続けるだけでいい。
でもこれ、一つ重大なことを書き落としている。
上に挙げた手練手管を使いこなすには、大前提として「相手の気持ちがわかる」という能力が必須だ。
これが備わっていないと、どんなに頑張ろうが「なんか必死でキモい奴」にしかならない。
ぶっちゃけ「こちらのアクションを相手がどう思ったか、相手の僅かな言動から推察する」能力が必要。
最低でも「相手が微妙に嫌がっていること」がわからないとダメ。
その上で「相手が微妙に喜んでいること」がわかればなお良い。
これは基本であり絶対抜きにできないことなのに、何を読んでもそんな記述は皆無なのが不思議でしょうがなかった。
まあ、「相手にとって心地いい選択肢を提供」というのが、それも込みなのかも知れないけど。
問題なのは、「相手の気持ちがわからない」男性が少なからずいるということだ。
しかもタチが悪いことに、こういう感情面の能力って、これまた数年来の話題である発達障害やアスペルガーと密接に関係する話でもある。
つまり、この能力を大人になってから獲得するのはほぼ不可能なんじゃないかと思うのだ。
少子化・晩婚化が問題になって久しい。
その解決法の一つとして、男女の出会いを奨励する流れができつつあるが、もし本気で取り組むなら、
こういうある意味「筋が悪い」男性が女性と共に歩んでいけるようなノウハウを、もっと開拓していかなければならないと思う。
別に「オートマティック察し合い」ばかりがコミュニケーションじゃない。いろんな形があっていい。
そもそも一番最初に書いたリア充的コミュニケーションと、末永く付き合うためのコミュニケーションは全く別物だし。
もちろん人間は感情の生き物なので、感情的な意思疎通が不自由なことは大きなハンデだけど、工夫の余地はいっぱいあると思いたい。
とにかく、今出会いがなくて悩んでいる人も、どうにかして幸せになって欲しい。
ボコられるのは仕方がないとして。
誰にも読まれないのはなんか手応えがないなあ、と思い、自称ネトウヨである俺のブログの記事を転載してみる。
メンヘルの寝言だと思って聞き流して下さい(と言っても、皆さん、容赦はされないと思いますが)。
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戦後はともかく、戦前~戦争中の日本の戦車はとにかくしょぼかった(好きな人はごめんね)。
エンジンはディーゼルエンジン(ただし、技術的にはすさまじい)。装甲は紙のよう。
で、運転が無茶苦茶難しかった。戦車の運転手として、名人芸を問われた。
アメリカはどうか?
当然、ガソリンエンジン(しかもオートマ)。楽々前進。運転簡単。
司馬遼太郎は戦車乗りの一人として、米国の戦車と自国のそれを比べたとき、大変無念な思いをした訳ですよ。技術って普遍的なもので、優れた技術はそれを扱っている人間にはすぐに分かる。
で、この差はなんなんだろう?という話になる訳だけれども。
司馬遼太郎曰く、"文化"と"文明"の違い。今でこそ、日本のサービスは優れているけれども、戦前の日本は、"名人の文化"だった。「できないのは、お前がグズだからだ」という文化。タクシーの運ちゃんが「私は助手時代から一度も道を間違えたことがないのですよ」と威張れる文化(戦前の道路は、道は整備されていないし、道路標識もほとんど無かったので凄いことらしい)。
戦争中、すでにアメリカは、ベルトコンベアを採用したT型フォードの生産とかから始まる、機械の大量生産・大量消費の社会に入っていた。で、品質のバラツキをなくすため、品質管理をアホでもグズでも出来るように普遍的なマニュアル化、"文明化"した。日本の場合、品質は個々の情熱と自負心と技量に依存した"文化"だった。
日本は戦後、(サービスにおいて)、名人主義、"人はみな有能"という考えを捨てた。で、品質管理(QC)が、日本産業の基本的性格の一つになった。つまり、アメリカの"文明"を吸収して、日本"文化"にしてしまった。その結果、日本の航空会社のスチュワーデス(あえてこの語を使う)は(優しい)母親となって客を扱う、とは司馬遼太郎の弁。
まあ、大体、アメリカは移民の国であるから、モザイクのようにバラバラにまとまって住んでいる"文化"の違う住人達をまとめるには、普遍的な価値観の"文明"が必要だった面もあるかも知れない。
だから、アメリカは、"文明"的には優れているが、"文化"的には未熟、と言える。
だから、四つ足で一生懸命スタコラ歩く哀れなデザインのマシンを蹴り上げることが出来るのだ。Yes, We can !
参考映像→http://www.youtube.com/watch?v=W1czBcnX1Ww
まあ、俺辺りが簡単に説明できれば、誰も苦労はしないよなあwとは思いつつ、適当に私見を書こう。
結論から先に書くと、「禅的構造への落とし込み」だと思う。
じゃあ、"禅"とは何かというと、Wikipediaによれば、「ただひたすらに(坐禅を)実践せよ」とか「以心伝心」とか「言葉でなく体験」みたいな説明が出てくる。要するに、「空気読め」ということだと思う。多分、それが、日本人を日本人たらしめている。
「禅的構造への落とし込み」の例。
例えば、日本庭園の枯山水庭。とか言うと俺にもよく分からなくなるので、例えば、漫画とか。
昔の劇画でもアメコミでもバンドデシネでもいいのだが、基本的に良く描き込んである。でも、劇画は廃れ、現在の日本では、あまり描き込まれていない、もっとシンプルな記号化された漫画が主流だ。
これが何を意味するか?
まず、描き込むだけの時間がない、という面はある。つまり、「資源が少ない」のだ、我々は。島国は。で、例え結果的でも、描き込まれていないということは、紙に染みついたインクの量は少ないということである。ということは、それだけ、"何を紙に染みついた少ないインクにするか"考えなければならない。その結果、"何を書くか、どの線を選ぶかなどを作家が(生き残るために)魂を込めて選択しなければならない"(もちろん、適当に描いている人もいるかも知れないが、読者を脱力させるための線や展開などの構造を(無意識のうちに?)選んでいると思う)
で、アニメも描き込みの量が少ないわけだが、ストパンの監督は、エヴァンゲリオンの庵野秀明に「お前の描くパンツには魂がこもっている」と褒められたわけだ。
ゲームもそう。わびでもさびでも萌えでも良いのだが、日本の強みは現実の換骨奪胎と記号化であり、「逆に要素を少なくすることで、対象者に想像力を使わせる」のだ。禅的構造への落とし込みとは、「対象者に想像力を使わせるための魂のこもった取捨選択」だ。小さくまとめ上げる。美を追究する。そのために職人は技を磨き、我々は空気を読む。
で。
ハッカーの話になる。
「ソフトウェアは工業製品ではない」、Rubyのまつもと氏が講演 " @IT
http://www.atmarkit.co.jp/news/200904/10/matz.html
つまり、まつもと氏は、名人主義だ。
だが、そこが彼らの、我々の、日本人の限界性でもある。日本の技術者のかなりが未だに、紙のような装甲と、ディーゼルエンジンを装備し、精神を病むほどの"根性"で、自分を、現実を、だましだまし、日々を戦っている。
とは言え、泣き言や呪詛を並べても仕方がないのだろうが。
どうだろうか。歴史で繰り返される技術者の奢りであるかも知れないという疑念は?
正直、アメリカなら、やりかねないのではないか?
そのうち、ソフトウェア設計を合理化/普遍化/文明化/マニュアル化し、アホでも作れるようにしてしまうのではないか?
大抵のソフトウェアが適当に注文するだけで、9割方、自動生成されてしまうとか。しかも何回もやり直し可能。
俺はそれを恐れる(そして、楽しむ)。
現に、アメリカ発のインターネットというテクノロジーで、編集者は青息吐息ではないか。
多分、思いも寄らない方向から、必殺の一撃が来る、と考えた方が自然ではないか?
そいつは、非人道的に、無慈悲に、機械的に我々を殺しに来るのだ。我々は合理的結論で殺される。OK. 原爆はアメリカにとって合理性があったのであろう。殺される方はたまった物ではないが。それが村上春樹が恐れているものではないか。しかし、"技術革新は誰にも止められない"。
果たして、アホに生きる権利があることを許さない、名人主義のその狭量さが、限界性を作っているとしたら。そして、よりハッキリ言えば、技術バカ(ギーク)がやり手の営業マン(スーツ)に負けるように、好きでやっているアマチュアがプロフェッショナルの作った構造的罠に負けるように、負けるのが宿命づけられているとしたら(日本vs欧米のスポーツもか)。
もっとも、人間はどこかしらの部分で優越感を感じていないと生きていけない生き物であるから、腕のある人間はアホに優越感を感じて、差別して、見下して、生きているのだろう。底辺の人間が、例えば、外国人に優越感を感じて、差別して、見下して、生きているように(繰り返すが、それを自覚し、どう振る舞うかが重要なのであって、その感覚を無くせなどとは言っている訳ではない(というか、存在論の部分に関わってくるので無くせない)。どうプラスに活かすか。"かわいげがある"というのは、見下しているが、プラスの評価だ。だから、日本が"カワイイ"文化で世界に浸透してしまうというのは、結果的に正しい。日本人は連中に"文化"を教えねばならない(←ネトウヨの勝手な思い込み))。
それに、穀物を育てながら、畑を保守しながら、計画に戦略にロジスティクスにストラテジーに取り込まれて生きるのではなく、その時々において、メシの種(獲物)を見つけて狩りをする戦術や技術やタクティクスやアートや道(タオ)を追求するというのも一つの生き方であろう。男だね。侍だね。無形の型。戦略などないので強い者だけが生き残る。生き残ったから強い。まさに逆転の発想。なんということでしょう。匠の遊び心が光ります。お前ならどこへ行ってもやっていけるさ。じかい、ほくとのけんつ~!奥義、万物流転!誰だ、日本人は農耕民族だから、みたいなことを言ったやつは。責任者出てこい(とは単純には言えないのだろうけど。経済は生き物で、強弱の違いこそあれ、両面の才能は必要だろうから)。
・・・・・・少し落ち着きました。
さて、では、はてなは、どんな立場を取るのか。
名人主義のSNSへ向かうか。2ちゃんねらの底辺にいるようなアホの流入を前提にして、文明化するのか(一時期、そちらに傾きかけた・・・というか、あの時のはてな社長は血迷っていたのだろうか?)。今は、どちらでもない、なんだかよく分からない、迷走している状態だ。
それとも、近松門左衛門が虚構と現実のはざまに真に我々の心をうつものがある、と言ったように、迷走状態のはてなであるからこそ、我々の心をうつものがあるのだろうか?"不満を言う楽しみ"。"馬鹿な子ほどかわいい"。"灰色の魔女(違う)"。なんかね~、"相手の優越感をコントロールする"のがサービス業だとしたら、『あたしは、はてながどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。はてなはよくやったと思うもの』ですよ(と、また話が明後日の方向へ)。
本当に、カッコイイ車に乗ることがカッコイイ、という価値観は、21世紀に入ってからどんどん崩れていったと思うよ。
「いつかはクラウン」の時代(1960年代?)→スーパーカーブーム(1975年ごろ)→バブル景気で無茶な車を作れた(1990年ごろ)、の次の手を打てなかったんだと思う。文化の継承に失敗した感じ。
いま乗りたい車がないという感覚は、70年代前半生まれの自分にはよくわかる。ファミリーカーばかり作ってるホンダに用はない、みたいなね。
自分は中古車に抵抗はないから、好きな車、乗りたい車を中古で探して乗ってます。
結婚したら妻の免許がオートマ限定だったからマニュアル車を手放した、オートマ車は味気ないけど仕方ない、なんて話は周囲でも聞くしね。
不景気下での生活防衛を考えたとき、出費を見直す項目の上位に車が挙がるようになった(挙げてもいいと思われるようになった)いま、自動車メーカーには個性のある車を出す余力がないんだろう。
金に糸目をつけない話と思って聞いてくれ。
自動変速機自体を単体で売ってくれるわけではないらしいが(4段のは売ってくれるみたいだけど8段がいいよなやっぱり)、
まあ仮に売ってくれるようになったらと思って話を進めよう。
すごく楽らしい。常に一定で軽くこいでるだけなのにスピードだけはどんどん上がっていくとかいかないとか。
ところで電動アシスト自転車というのがある。これはサンスターでどんな自転車でも電動アシスト化するキットを売ってるらしい。個人には売ってくれないらしいが。
電動アシスト自転車でもギアつきのものもある。電動アシストというのは、本来こがなくても勝手に電気で進んでいくものにわざとリミッターをかけて
こがないとスイッチが入らないようにして、自転車というカテゴリーで売ることで原付扱いしないように法律をクリアしてるらしい。
で、スピードが上がってくると電動がどんどん弱まって、自分の足でこがなきゃいけないらしいが、ギアつきだとそのときも軽い。しかもスピードも出る。その時のスピードに合わせたギアにしてれば。
普通の自動車でもギアが必要なように、人力のほとんど必要ない電動時でもギアがあると電動部に対する負荷が少ない。自動車ならエンジンの負荷が少ない。もし自動車が1速で100km/h出さなきゃいけないとしたらエンジンに相当な負担がかかるだろう。つまり自動走行時にもギアは有効だ。
これ、自転車のオートマと電動アシストが合わされば最強じゃね?
スピードが上がって電動アシストが弱まっても軽い軽い、しかもスピードが上がるまでの時間があっというま(ギアによって電動の負担が最小限だから)、っていうことになるんじゃね?
もしこの夢の自転車があれば隣りの隣りの県まですーいすいじゃね?
あああそんな自転車がほしくなってきた、、。しかも誰も持ってない前提で。自分だけ持ってると優越感じゃん?
金に糸目をつけない前提だからフレームとかタイヤとかチェーンとかの駆動部とかもかなりのいいものを使ったりしてさ。軽くしても電動が重いから意味ない? いやいや気持ちの問題ですよ。少しでも軽ければ電動に対する負担も少しは軽くなるわけだし。
欲しい。
この前NHKでやってて妙に納得してしまったのだが
電気自動車になるとエンジンが無くなるから一気に部品点数が少なくなって
下請けは一斉に悲鳴を上げるそうな。
確かにエンジンがモーターになったらエンジンそのものの部品だけじゃなくて
吸気・排気から冷却装置・燃料タンクやそれに付随する部品全てがいらんことになる。
駆動系もインホイールモーターになったらシャフトからギアから最近だとオートマ関連の部品が全部いらない。
外装も鉄にする必要はなくてプラスチックとかで十分だとか。(安全面でも大丈夫なのかなぁ)
ガソリンスタンドは急速充電スタンドとして生き残るかもしれないけど
みんなが家で充電すると寂れるだろうねぇ。
音楽に歴史を求めることが見られなくなっているので全文引用.http://d.hatena.ne.jp/taninen/20070203/p1
- 「音大生なら聴いておきたい100曲」が話題になっていることについて書いたエントリ(id:taninen:20070201:p2)に思いがけず反応があったので、乗りかかった船でもう少し整理しておこうと思う。
- 先に断っておくと、僕自身も音楽学部で学んできた身で、音楽について論じたり大学で教えたりもしているけれど、西洋音楽史の専門ではないし、研究や教育についてもかなり異なるスタンスを持っている。件のリストの前口上に対しても結構異論がある*1。しかしここでは僕個人の意見は脇に置いて、あれが一種の教養として求められていることを汲んだ上で、それがどういうものなのかを考えたい。
- まず、例のリストは「名曲百選」のようなものではない。それならそれでもっと吟味のしようもあるだろう(僕は関わりたいと思わないが)。そうではなくて、挙げられた曲は音楽的リテラシーを培うための、言わば「例文集」として集められていると考えられる。
- テクスト自体をきちんと読解することは大事に違いないが、その作品を「読めている」と言えるためには、それよりずっと多くの知識が必要となる。それが書かれた時代や社会の言葉の使われ方やものの考え方を抜きに、その文章が何を表現するために書かれ、またどうしてそのような文章になったのかを云々することはできない。
- 楽譜として残っている作品が演奏される際の表現のあり方については、考慮すべきことがあまりにたくさんある*2のでここでは踏み込まない。しかし作品(に今触れられること)が歴史の産物である以上、歴史的想像力は多かれ少なかれそこに介在している。そういうことに無頓着であること自体、ある種の特異なスタイルをなしてしまう。
- 音大で音楽史を教えるということは、以上のような歴史的な想像力を育ませるということを使命の一つとして負っている。そのための楽曲リストが作成されたのは、学生にそういう意識が足りないという危機感を物語っている。しかし、それは単に「音楽家たるもの名曲をたくさん知らなくてはいけない」というのとは別の話だ。(その是非はともかくとして)クラシック演奏家のエートスとして歴史主義を維持していくこと、それがあのリストには込められている。
- 端的に「音楽を楽しむ」という時、その楽しみ方の内実についてはあまり意識されない。特にこんにちでは、音楽はそれ自体でオートマティックに楽しませてくれるものとみなされるか、あるいは好みの問題で片付けられることが多いように思う。
- それに対して、もっと教養主義的な価値観のもとには「音楽はより良く理解されるべきものである」という理念がある。クラシック音楽は長らくそのような教養の対象として扱われてきた。歴史的コンテクストの中でこそ音楽が理解できるとする立場は、もちろん教養主義的な性格を持っている。
- しかしながら、音楽に歴史的想像力を求めることは、かならずしも後者のイデオロギーに回収されてしまうわけではないかもしれない。つまり、「端的に楽しむ」と思われている現象にも、ある種の歴史性が関わっていると考える余地絵は充分にある。
*1:クラシック音楽の用語や概念が万国共通語としての地位を確立しているという認識は、パラダイムとしてはすでに過去のものになりつつある。むしろ、その思い込みを押し付けることで見えなくなっていた概念の複数性・ローカル性をどうやって掬い取っていくかというところにこそ、近年の問題関心がある。すでにクラシック音楽の語法を身に付けた音大生の意識を高めるための方便としてなら、そのアナクロさも理解できなくはないけど。
*2:楽譜のエディションの問題、演奏家の系譜の問題、解釈スタンスの問題、演奏スタイル自体が持つ歴史性の問題、レコード化の影響などなど。演奏論は音楽学の中でも後手に回ってきた領域だけど、多分これから盛り上がる。
私の小さい頃は、家に車が無かった。
近所の家は、車を持っていた。
その車に乗せてもらうことが、すごく楽しみだった。
乗せてもらうと、ハンドルを小刻みに動かし、アクセルを微妙に調整し、曲がる時はウインカーを
動かし、止まる時には、ある距離から一定の減速で、停止線に止まらなければいけない。
運転というのは選ばれた者だけの特技、という印象だった。
もちろん、今と比べて、免許保有率は低いから、車を持っていて、運転できる人は、憧れ。
あの大きい機械を、あのスピードで、車幅+αしかない道に沿って動かしていく。
あの、密閉感に溢れたコクピットで、車を操る。自分の意思で、行きたい方向へ動いていく。
ゴーカートと今の車って別物のようだけど、昔の車って、ゴーカートみたいで、運転すること自体
が楽しいし、運転するにも、癖があり、ある程度のテクニックが要った。
今はどうか。当たり前に家に車はあって、お母さんも運転している。
車はあって当たり前、誰でも運転できるもの、行きたいとこには電車のほうがはやい。道は渋滞。
駐車場は高い。車は、オートマなど高度な技術で、誰でも運転できる。
車は人を選ばなくなった。憧れの要素がなくなった。
車は、人に媚びすぎだから、こんなに溢れたし、子供だって運転できる。
車は特別なものじゃなくなったんだよな
仕事場にノートパソコン(VersaPro.VY22X/RX-L)が持ち込まれる。使用OSはWindows XP Pro.
起動するとWindows XPのロゴ表示の後「SHELL32が見つかりません。」と表示され、次に「ライブラリ SHLWAPI.DLL から見つかりませんでした。」と出て、最後にはメッセージ「ログオンユーザーインターフェイスDLL MSGINA.DLLを読み込めませんでした。システム管理者に問い合わせてDLLを置き換えるかまたは元のDLLを復元してください。」となる。[再起動]ボタン表示で唯一の選択肢が示される状況。リブートしてセーフモード起動を試すもログオン画面の手前で上記メッセージが表示され同じ状況に。
毎度の事ながら今回も「Windows回復コンソール」のお世話になって復旧を試みる。とりあえずWindowsXPのCD-ROMからブートし、R[復旧]を選んで回復コンソール起動、C:\WINDOWS\SYSTEM32に入ってみると「dir shell32.dll」を実行しても「ファイルが見つかりません」という表示。そこで健康な別PCからのSHELL32.DLLの移植を試みる。ついでにSHLWAPI.DLLとMSGINA.DLLも壊れている可能性が高いので一緒にコピーする事に決定。
方法としてはKNOPPIX5.0.1-CDから起動、/dev/hda1 が /media/hda1にオートマウントされているので、右クリック-プロパティのメニュー内で「Read Only」にチェックが入っているのを外し、別WindowsマシンでFATフォーマットして上記3つのDLLを放り込んでおいた手持ちのUSBメモリ(128M)を差し込んで、/dev/sda1から/media/hda1にコピー(作業を簡便にしたいのと面倒くさいのでルートフォルダに)
KNOPPIXはログオフ-シャットダウンし、Windows XP CD-ROMに入れ替えて再び「Windows回復コンソール」にて以下を実行。
cd \windows\system32 ren msgina.dll msgina.bak ren shlwapi.dll shlwapi.bak cd \ copy SHELL32.DLL c:\windows\system32 copy MSGINA.DLL c:\windows\system32 copy SHLWAPI.DLL c:\windows\system32 EXIT
これで無事起動できれば御の字だったのだが。改善されたのは「SHELL32.DLL…」のエラーメッセージのみで後2つは相変わらず。ログオン画面へ移行せず再起動の選択肢しか無い状態は変化なし。
いろいろ考えあぐねた末、「元々の正常起動時のバージョンと同一のDLLをコピー」してやる事で解決した。具体的には、起動しなくなったPCは「Windows XP Pro. Service Pack 1」だった(!)ので、移植するDLLは最新の「SP2」でもWindows XP CD-ROMの中の「無印」でも駄目だという事だったようだ(無事にログオン画面が表示されてもその後フリーズ)。たまたま過去に作成していたWindowsXP-SP1統合インストールCD-Rを発掘し、そこからSHELL32.DLL、MSGINA.DLL、SHLWAPI.DLLを抽出、移植作業をやり直し再起動すると「何事も無かったかのように」ようこそ画面が表示されて元通りのデスクトップ画面を復活させる事ができた。
※追記:公式情報で既出だったようだ。無駄に 時間を 浪費していた かもしれない。
Windows Update Web サイトから Windows XP の更新をインストールすると、エラー メッセージが表示される