のらりくらりと冷静に時代を生き抜いたと言って。
中共の便衣兵にじいさんが撃たれて帰ってこなかったら、B29の焼夷弾からばあさんが逃げ遅れていたら、おいらは今、増田に書いてないよ。
2014-09-24 - ぜんぜん知らないおじさんオフィシャルブログ Powered by 聞いたことない会社
まあ多分こいつに文句いってもゴチャゴチャ言い訳すんだろが・・・それはさておき。
はてな運営としては、こういうくだらない言及でも人気のブログ記事に言及すれば、その記事をたどってユーザーが来てくれますよってしたいんだろな。
うーん。
今回もメンヘルがたくさん釣れたみたいでよかったですね。
これキッカケに講演が増えれば仕事とお金をたくさんGETできそうで微笑ましいです。
もともと勝磨さんの講演記事が伸びず、その後のいじめ記事もブクマが全然だったようなので、
そこで切り替えての劇薬「やめるやめる詐欺&死ぬ死ぬ詐欺」を使った思い切りの良さが秀逸だと思いました。
今回のホットエントリの手法もうまくいったので、新たなレパートリーに入りましたね。
でもブコメの本当に苦しんでるメンヘルたちの気持ちを弄ぶのはほどほどにね。あと160錠(笑)の話は盛りすぎちゃってるかなw
いまだに関西では
「うまく行ったらそのまま印刷に回せるので、最後まで作り込んで」(ダメやったら全部作り直してもらうけどw)
「最後まで作り込んだやつだけど、3案作っといてや」(3案くらい最低用意しとけやボケ)
「原稿が出ないので適当に入れといて」(まるっきりダミーやったらケツから血が出るほどブチ切れるけどなw)
「デザインの意図?かっこいいやつ」(おまえデザイナーやろ、言わんでも勝手にええの作れやw)
ってレベルの営業が多くて笑える
よっぽどの理由がない限り。
外で勉強する人って良く見かけるし、自分の友人にも何人かいるけど、しない方がいい。
同じ勉強するなら家でしろ、みたいな消極的な話じゃなく、多少勉強時間が減っても、外では勉強しない方がいい、って話ね。
ちゃんと勉強したことがある人なら、皆分かると思うけど、勉強ってのはかなりエネルギーを使う。
自分の場合、かなり良好な環境下でも、集中して勉強できるのは1日8時間程度だった。
外のやかましい環境下では、多分倍以上のエネルギーを使うことになる。
そうすると、外で勉強して、無駄にエネルギー使っちゃうと、家帰ってから勉強できなくなるんだよね。
ガス欠みたいな感じで。
さらに、外で勉強した場合、集中力がやや落ちるせいなのか、勉強した内容があまりしっかり頭に入ってない。
だから、勉強したつもりで重要なことをきちんと理解しないまま先に進む、なんてことが起きやすい。
仮に理解が不十分であることを自覚してもう一度勉強するにしても、二度手間で単純に効率悪いってのもあるし、二度手間っていう意識が自分の中にあるからモチベーションも上がらない。
そういうわけで、勉強は外でしない方がいいよ。
どうやって生きていけばいいのか分からない。
などと言いながら、生命活動は消費されていく。
元家族や親戚近所などから、どうして早く自殺しないんだろうと思われていることが、案外辛くて意外だ。
幼い頃から自殺してもおかしくないチャンスはいくらでもあって、自殺を待望されてきたのに、何故かできない。
自殺するしかない状況で、いざ自殺をやろうとして、計画実行をし出しても、途中で他のことをし出してしまう。
そして自殺手前のギリギリの状態でずっといる。自殺もできず、かと言って健康的精神と肉体で生活活動にも至れず。
で、どういう訳か涙が出てくる。こいつの目から湧くのは自己憐憫の涙だけだ、本当に汚い涙だ。
この精神的なダメージで体を起こしていることすら辛く、横たわると、胴体の上をダンプにタイヤで蹂躙されているように感じて苦しい。
最強の戦国武将は誰?(教えて!ウォッチャー) - goo ニュース
上杉謙信や武田信玄はその実力を証明する大舞台にとうとう立てなかった。歴史に「たられば」はない。「もし謙信が関ヶ原の戦いに参加していたら」「信玄が大坂の陣で戦っていれば」そういった仮定は無意味だ。最強の力を持っていたのだとしても、発揮する機会がなければ、それは無いのと同じなのだ。
それでは誰がその機会に恵まれたのか。やはり真田幸村をおいて他にないだろう。長きに渡る戦国時代の、最後にして最大の晴れ舞台において、最も活躍したのが幸村なのである。その一事はそれだけで彼を「最強」せしめるものであると考える。
大坂の陣においては毛利勝永を推す声もある。端的に言って幸村を疎むオタクの逆張りでしかないと思う。勝永の奮闘を否定するわけではないが活躍の度合いではやはり幸村が上だ。有名な「真田を云いて毛利を云わず」も幸村が一、勝永が二である前提での言であるし。
大坂の陣と並ぶ大舞台である関ヶ原の合戦において名声を高めたのは島津義弘であるが、こちらは敵中突破と言っても本陣を突くとみせかけて脇へ逃げたようなものであるし、大勢が決したあとで東軍も本気では追わなかったということもあるので、いくらか劣るように思われる。
「真田信繁」という呼称に妙にこだわる連中がいるが、通りの良い「幸村」で何ら問題ないだろう。
以下、二位と三位を挙げる。
先に島津義弘の名前を出したが、島津ではやはり家久が群を抜いている。耳川・沖田畷・戸次川の三戦での活躍(耳川では総大将ではなかったが)は、河越・厳島・桶狭間の三大合戦を一人でこなしたに等しい、と言っても過言ではない。結果的に九州内に留まる活躍に終わったため次点とするが、一部隊を率いての戦いでは最強であったのだろう。
大内・尼子といった大大名との戦いに明け暮れながらも自らが兵を率いれば不敗という戦勝率、小領主から身を興して中国地方を丸ごと次代に遺した領土拡張率は凄まじい。総合力での評価で言えば秀吉と並んで間違いなく最強の一角である。ただ、元就の強さはやはり戦術面にとどまらぬ謀略や政治的な部分が大きいわけであり、「戦術的な最強」という趣旨にはそぐわないために三位とする。