はてなキーワード: 情状酌量とは
残念だけど、SQLインジェクションとか、セッションキーのコリジョンとかだったら、まだわかるが・・・
URLをちょっと変えただけで他人のデーターがみえちゃいますとか、どんだけだよ。
残念だが、この業界でプロを名乗るなら、このレベルは、知っている範囲で、あきらかな過失だよ。
サービスするんだから、専門家を雇えよ。当たり前だが、作る業者と検査する業者は別にしろよ。知らないんだったら。
何回も言ってるけど、今回の被害者は情報漏洩された人たちで、加害者はあくまで、サービス主体のPCソフト販売業者。
僕もだまされたんです、知りませんてのは、普通は・・・情状酌量の余地はあるけど・・・、
責任をとるのはあくまでも、PCソフト販売業者。PCソフト販売業者が別途制作会社を訴えるかどうかはそら、PCソフト販売業者の話で、ユーザーには関係ない。
つか、メールベースのシステムなら問題なかったのに、知識もなく、予算もなく、ツテもなく、Web化してコケたんだろ・・・どんだけだよ。
データーはログインして、セッションを持ちましょうとか、本にも初歩として書いてあるだろうと。さすがに、このレベルは酷いよ。
程度の問題だよ、程度の問題。
他にもパスワード平文で保存して流出とか svnのバックアップをサーバーにあげて流出とか パスワードをEXCELで保存して流出とか
色々と同意。
まず俺は、この規制論の根っこには感情論があると思ってる。(他の全ての政治も経済活動も、基本的に人のやる事は感情がベースだと思ってるが)
こういう事を書くとすぐに、「感情論で人を裁くのか!」などと言いだす奴がいるが、個人的には全く否定しないし「その通りだが、違うと思ってんの?」と聞き返したい。
そもそも、法できっちり決められているはずの裁判でも、量刑判断は裁判官の心証(感情)によるところが大きい訳だし、感情論を否定するなら情状酌量なんてのが制度に組み込まれていることを問題視すべきだろと。
日本で死刑制度が無くならないのは、日本人の感情に根差していると思ってるしね。
だから、オタクに対する、「なんかキモい」から始まって、萌え→ロリコン→性犯罪者では? という、主観的なイメージのコンボを変えるような動きが無ければ、この問題はいつまでたっても変わらないと思っている。
非実在青少年問題に対する俺の主張をまとめておく。
自分の考えは下の2エントリに書いてあるし、他の意見を読んだ今でもさほど変わる事はない。
http://anond.hatelabo.jp/20100317121826
■なんでオタクは自分達の安全性をアピールしないの?馬鹿なの?死ぬの?
http://anond.hatelabo.jp/20100319134237
また、これは昨日俺にIDコールでDisってくれた人への返答でもある。コメント100文字じゃ書ききれないので増田に書く。
id:ruletheworld id:Thsc id:bbk0524
そして俺は、この不毛な議論からは離脱(遁走)する事を宣言する。疲れた。
勝利宣言したい奴は、どうぞお好きに。
なんで日本人というのはすぐ自殺したいとか言い出すんだろうね。中緯度帯の資本主義国ではトップクラスの自殺率だろ。これ以上自殺率が高いのは、旧共産圏か高緯度の国だけ。
そもそも自殺するくらいなら、まず自殺を考えるに至った原因を作った人間に一矢報いてから、とか思わないんだろうか。日本では1人しか殺さない場合は死刑はまずあり得ないし、情状酌量が認められれば懲役3年執行猶予5年、すなわち事実上おとがめなしだってあり得る。勇気がでなければ大酒飲んで泥酔して勢いでなんとかすりゃいいんだ。
それ以降大切に扱ってもらえるようになりましたwww
エホバの証人は小児性愛の被害者が虐待者を仲間の間で訴えた場合、他に証人がいなければ不問とする。
告発されても、もし当人がそのような事実はないと言うなら、長老たちは告発した人に審理措置は何も講じられないことを説明すべきです。 そして会集は告発された人を引き続き潔白な人とみなすでしょう -ものみの塔95年11月1日 28~29頁
被害者「わたしが7歳のとき、あの兄弟がパンツに指を入れてきて、」
加害者「してません」
監督者「ということなので調査するわけにはいきません。ほかに見た人がいれば別ですが」
たとえ二人以上の人が、同じ人から虐待を受けた"覚えがある"としても、 その種の記憶は至って当てにならない性質のものであるため、 裏付けとなる他の証拠がない限り、審理上の決定を下す根拠になりません
被害者B「わたしも数年前にあの兄弟からパンツに手を突っ込まれたことがあるんです」
監督者「ということなので調査するわけにいきません。証拠があれば別ですが」
実はエホバの証人は内部の問題を外部の法廷に持ち出すのは「神の御名に疵をつけること」として禁じられている。
自分たちの信教の自由のためにはしょっちゅう争っているのだけれど、信者が信者を、特に監督者を訴えるのは原則禁止。
→被害者は警察へ。刑事訴訟で虐待者は有罪に。そして組織を排斥される被害者
ということがアメリカのNBCで放映されたドキュメンタリー・ニュース番組で特集されたが、日本のエホバの証人のほとんどはこのことを知らない。
https://www.youtube.com/watch?v=8psxo0s1MXk
ものみの塔聖書冊子協会に好意的でないニュースは背教者の手によるものなので、絶対に見てはならないと警告されているからだ。
見たり聞いたり読んだりした内容を、仲間に話したり、監督者に質問したりすると背教者として排斥される恐れがある。
1. 母親がエホバの証人である37歳の男性。エホバの証人の間での立場 奉仕の僕 開拓者
「その人はそうせずにいられなかったんじゃないかな…」
「だから責めるのはかわいそうっていうこと?」
「そう」
「…」
仲間の信者を世の法廷で訴えることは情状酌量の余地があるとはいえ、重大な悪行である。
だから彼らの多くは被害者になっても沈黙を守るし、守らなければ信者の間で反逆者として敵意を買う。
2. 28歳でエホバの証人になった43歳の女性 エホバの証人の間での立場 開拓者
「え…でも世の法廷に出したらいけないんじゃない?」
「じゃあ、私があなたのお母さんを目の前で殺したらどうする?」
「どうするって…悲しい」
「それを見たのがあなただけで他に証人がいなかったとするよね。
私が容疑を否認したら協会内部ではお咎めなしということになる」
「そうだね」
「警察へは行かないの?」
「ああ、そりゃ、殺されたら警察行くよ」
「じゃあ強姦は?」
「…え、強姦だったら…どうかなあ」
「あ…まあ、そうか」
ちなみにエホバの証人内部の性暴力が明らかになったのは皮肉なことに性暴力被害から身を守る記事を「目ざめよ!」で特集したことがきっかけだった。
記事の反響として全世界から子供時代に協会内部のレイプされたという声が寄せられたのだ。
本部はこれを隠蔽しようとして、「証人が必要」「記憶はあてにならない」「世の法廷に持ちだしてはならない」という記事を次々に出した。
結果的にはアメリカでの裁判に惨敗して空前の慰謝料を支払うことになり、ニューヨーク本部を引き払うことになったんだけどね。
http://www.jwstudy.com/ja/candace_conti_summary/
「その話、どこで知ったの?」
「インターネット?そういうの見ると霊的に影響受けるよ」
「会衆で発表がないことなら、私達が知る必要のない情報なんじゃないの?」
こうしてインターネットを介してエホバの証人やものみの塔協会関連の犯罪を知ることは背教行為として厳しく調べられる。
長老と呼ばれる監督者に呼び出され、潔白が証明されないなら「排斥」または「戒め」として文字通り一切口を利くことを禁じられる。
これを書いたことがバレたら自分も教者リスト入りすることになる。
■日本のエホバの証人が「信者が増えない国ランキング」1位になった理由 ※追記あり
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091130-00000111-jij-soci
おいおい中心的役割じゃないから執行猶予付って意味わかんないんですけど。
レイプしなきゃ殺すとか脅されたならともかく(もしそんなこと言われたならむしろ3人でそいつをぶっ殺せと思うが)、主体的に強姦したんでしょ?
主犯にしたってたったの懲役3年?
この裁判って「身内に性犯罪の被害者がいる人や性犯罪の被害にあったことがある人は被告に厳しい判決を出すかもしれないから」裁判員候補から省かれて、6人の裁判員全員が男性になった裁判だよね。
黒人が被告の裁判でレイシストを外すならともかく「身内に性犯罪の被害者がいる」というだけで省くってのも訳わからなかったけど(むしろ身内に被害者がいないと被害の惨さが想像できない男性が多いのではないか)、その結果こんな判決が出てるならほんと世話ないよな。
しかも「全員がやろうと盛り上がっている時に消極的なことを言えば雰囲気を壊すので、やめようやとは言えなかった」という証言が情状酌量の根拠として弁護側から提出されたりして弁護側の認識も明らかにおかしかったわけだけど。
弁護士は「公正な裁判を受けさせる」ために存在するのであって「被告に対して一方的に有利な裁判を受けさせる」ためにいるわけじゃないはずだろう。
「獣は檻に入れろ」どころじゃない、獣であっても檻に入れられないこんな世の中。
こんばんは。毎度の長文失礼いたします。
さて、押尾学メンバーに執行猶予付きの判決が下りました。その内容は、懲役1年6月、執行猶予5年というものでした。
執行猶予というのは、刑法25条に定められているもので、刑の執行を裁判確定後すぐにせずに、猶予するというものです。
猶予期間を無事に過ごせば、判決言渡しの効力は効果を失い、ブタ箱に行かずに済みます。
逆に、猶予期間中に何かやらかすと、執行猶予が取り消されて、ブタ箱行きとなります。
要するに、今すぐにブタ箱に行かなくていいけど、また悪さしたら即ブタ箱行きだかんな、と、威嚇して更生させようというものです。
この執行猶予も、以前にもお話しした「段階的処遇」の一貫としてもうけられているのです。
つまり、まだ犯罪傾向の進んでいない者に対して、ブタ箱で悪い影響を受けるよりも、社会内で更生するチャンスを与えようというものです。
たった一度の過ちでブタ箱に行くことになって、職も友人も家族も失い、出所後、頼る当てもなく、そんな彼に残された道は・・・再犯しかないかもしれません。
それは、刑罰で与えようとした苦痛を上回る苦痛を与えることにもなりかねません。
今回の件では、「執行猶予とは甘い」という意見がよく見られましたが、保護責任者遺棄致死の点を措けば、甘いとは言えないと思います。
執行猶予付きの判決を受けると、まず、勾留されていた被告人は身柄拘束から解放されます。
検事が指揮印を押して、身柄を解かれるシーンは、いつ見ても胸が熱くなるものです。
ただ、執行猶予付き判決も有罪判決ですから、不服があれば控訴・上告することは出来ます。
執行猶予期間が満了すれば、判決の言渡しは効力を失い、取り消されることにおびえる必要はなくなります。
大型の経済犯罪なんかの場合、執行猶予期間満了記念パーティーみたいなのをする弁護人もいるそうです。
国家公務員法38条2号
禁錮以上の刑に処せられ、その執行を終わるまで又は執行を受けることがなくなるまでの者
の、「執行を受けることがなくなる」のが、この執行猶予期間の満了です。
(この条文を読むと、懲役1年の判決を受けた場合、懲役に行けば1年で再挑戦できるのに、3年の執行猶予になれば、3年間は待たなければならなくなります。
私は、社会内の更生という観点から、このことを常々疑問に思っています。)
執行猶予を得るには、条件があります。
・1つには、処断刑が3年以下の懲役・禁錮か、50万円以下の罰金の場合。
たとえば、強姦罪は3年以上の懲役ですから、よほど情状が良くなければ執行猶予は付されません。
罰金刑にも執行猶予が付けられるのは、あまり知られていませんが、実際にもほとんど例がありません。
執行猶予期間は、法には1年以上5年以下とありますが、通常は、3、4、5年が選択されます。
たとえば、執行猶予を付けられるぎりぎりの懲役3年なら普通は最も長い5年です。
懲役10月とか、懲役1年6月くらいなら3年です。そうすると、今回は異例の執行猶予期間となります。
・2つには、情状がよい場合。
刑事裁判で情状というと、大きく、犯情と一般情状に分かれます。
たとえば今回の大麻取締法違反の場合、違法薬物を使用した動機、違法薬物の使用量、違法薬物への親和性・・・
たとえば押尾メンバーでいえば、反省の情、前科前歴の有無、正業の有無・・・
これらがよいとされれば、執行猶予が選択されます。
・もう1つ、上記の執行猶予とは別に再度の執行猶予というものがあります。
これは、執行猶予中に、さらに1年以下の懲役又は禁錮の言い渡しを受けた場合に、情状に特に酌量すべきものがある場合に認められます。
猶予中に、更に禁固刑以上を受けて、それについて執行猶予がない場合などは必ず取り消されます。
罰金刑を受けた場合や、保護観察中に遵守事項を遵守しなかった場合は、取り消される場合があります。
たまに刑事裁判を傍聴しに行くと、この執行猶予の取消しの裁判を見ることが出来ます。
保護観察中は、保護司などに定期的に近況を報告したり、住居が制限されたりします。
保護観察の条件として、暴力団関係者から手を切る、とか、家族と同居する、とかの制限が付く場合があり、
これを破ったり、保護司をシカトしたりすると、執行猶予ごと取り消される可能性があります。
情状酌量は加害者と被害者(遺族ではない)との関係性だけで決められるものであって、
被害者と加害者との関係とは無関係なところでの、被害者の社会的評価によって量刑が左右されるべきではない。
同じ態様で人を殺したら、
たとえ被害者が高所得者で社会に貢献して人々に支持されている人であれ、
浮浪者で社会に貢献しておらず死んでも悲しむ人がいない人であれ、
生物としての「ヒト」である以上、「人権」を持つ以上、量刑に差があってはならない。
加害者・被害者の形式的な属性によって量刑が変わることはある。
これは、加害者・被害者の損益を妥当に評価するための采配であって、
「他者からの主観的な評価」とは無関係に決められるものである。
裁判員になり犯罪者の量刑を決めるのが心に重圧がかかるとは思わない。
人の人生を左右させる判断を下す権利、ああなんと素晴らしい。法のもとにより自分自身が犯罪者に刑を課すことができるのだ。
たとえそれが死刑判決であったとしても、なにも心痛む事はない。そういうシステムなんだから仕方ない。
実際手を下すのは死刑執行人がやるんだから自分の手を汚すことなく犯罪者を断絶できる。
被害者の遺体の写真が見られないなんて甘ったるいこと言ってんな。
被害者は好きでそんな姿になったわけじゃない。って表向きには言っておきながら普通は見れるもんじゃないんだからという興味本位で見てみたい。
私なら、犯罪を犯した加害者に情状酌量の余地を少しでも見つけようとなんてしない。
どんな理由があれ、人を殺めたものというのは所詮、殺人者になりうる「質」があった者なのだ。
反省しやり直すためには、自身のかなりの強い意志、それに周りの支えや世間の協力が揃わなければ更正は難しい。性犯罪者は更正なんて絶対無理。だったら人の道を外したものにより厳しい刑罰を。とそう思う。
被害者側の遺族にとって私のような考えの人間はかなりいい人材だと思うね。
被害者を出した限り、犯罪者は被害者のように苦しみ罪を償わなければならない。
それを人権云々言って被害者以上に加害者を守ろうとする日本の制度に驚きだ。
できれば関わりたくないだなんて思っている国民が多すぎて笑える。被害者なんてもっと被害者になんかなりたくなかったはずだ。
と言っておいてじつは裁判員という特別な一員になれるのがうれしいだけ。
ああ裁判員になりたい。
私がもし裁判員になったときに悩むとしたら、
「死にたい」「死刑にしてくれ」と言っている犯罪者に死刑判決を下すこと、それが犯罪者への刑罰になるのか疑問。
刑罰は刑罰で間違いないわけだが、犯罪者の希望通りなるということがいかがなものか。「死にたくない」「死刑にはなりたくない」と必死に訴えている人間相手に下すからこそ極刑は意味があるのに。きっと量刑の判断をするときに、私はこういう部分で悩むだろうな。
何だよ、難しい本とか。ってアホ過ぎる見出しはとか自分でも失笑するが、その通りに思うことがある。
2次元とか表現の自由とかに関してうだうだ言ってる労力をリアル児童虐待写真を無くすことに使えよという話である。
「高尚で綺麗で正しくて愚民どもには理解不能な思想だとかイデオロギーを持ってる俺スゴイ」を発露するネタにしてんじゃねえよと言う話である。
当たり前だが、そんなものが今まさにシャッターを切らんとしている変態の人差し指を止められるわけがない。
「リアル児童虐待写真とか撮ったり流通させたら死刑。情状酌量してもチンコは確実にもぐ(使用器具:ダイソーのペンチ)。」
これを本気で投入したらかなり減ると思わね?
そんで、そういうラジカルな法案を通すためには絵とか自由とか思想とか無駄。
政治家さんにメールやら金やらを送ってロビイングしたり、善良なお年寄りを騙して票を沢山集めてあげないとダメ。
今現在似た境遇にいる立場から
思ったんだけど不良とは違うくね?
そうなんだ。君とはだいぶ不良の定義が違うようだね。
とか
元増田のこれらの文章を読んで、不良と言う表現でも甘いと思ってたけど。
そんなことどこにも書いていないし、普通の人は偉くない。普通なだけ。
不良はちょっとした悪事を不良のしたことだから、とか
若気の至りで、なんて甘やかされ、
更生して普通の人になると賛美される。
こっちを引用して欲しかったな。
他人の波乱万丈の人生のことなんかどうでもいいけど、
悪事を犯した人間が公正したのが偉いみたいな漫画や小説や日記にはうんざりする。
・・・まあ、いいや。
普通がえらいなんていってないよ。
「どちらが重いのでしょうか?」っていうのは、遥か昔から議論の対象になっていて、
「問うて曰く『知って犯した罪と、知らずして犯した罪とでは、いずれが重きものなるや』」
というのは、“多門第一”といわれた、釈尊の高弟“阿灘”の問いとして紹介される事も多い設問だけれども、原典は『那先比丘経』という、西北インドを治めていたギリシャ人の王ミリンダと、仏教僧ナーガセーナの“対談集”だよね。
http://anond.hatelabo.jp/20090517101611
つーのはやっぱりあると思うんだよね。
で、そもそもこの『過失>>>>故意』って考え方、ここ最近のネットはずっとそうだよね。
冒頭の問いかけに対する釈尊、あるいは仏教僧ナーガセーナの回答として記録されている文章というのは、
「あなたはどう考えるのか。灼熱し、燃焼し、炎熱し、炎上した鉄丸を、一人が知らないでつかみ、一人が知っていてつかむならば、いずれがひどくやけどをするのか?」
↑これだけ。文献によっては鉄丸だったり火箸だったりするんだけれど、そこはまぁ、大した問題ではない。
いわゆる「先進国」での、“法律的”“世間的”な標準は「知らなかったのであれば情状酌量の余地あり」というのが主流。「自発的に行われる行為にたいして罪状を重く見ている」のね?
どうしてかといえば、“再発・再犯の防止”という社会運営上の都合でもあるし、「全く知らなかった事を理由に処罰されたくは無い」という人情の表れでもあるだろう。
「(それをすればどのような結果になるか)分かっていれば実行に移さなかった」
とか、
「(適切な対処・対応の方法を)知ってさえいれば防ぐ事ができた」
とか、少なくとも、
「きちんと理解している人がそこに居さえすれば被害の拡大を防ぐ事ができた」事例というのは数限りなく存在するわけでね?
だからなのかどうかはいまひとつ確信できないんだけれど、哲学・宗教系では「知らずに犯した罪の方が重い」という解説が付いている事がほとんどなんだわ。
「無知こそが罪悪である。」
「悪いと思っていないから際限が無い」
大雑把にまとめるとこのようなスタンス。確かにごもっともなんだよ?ごもっともなんだけれど、非常に恣意的なものを見出してしまうのよ。少なくともおいらが知る限り、釈尊・阿灘の問答にも、ミリンダ王と仏教僧ナーガセーナの対談にも、原典に近いとされるものには「知らないで犯した罪の方が重い」という記述は無いんだよね。
「知らない」 という、そのこと自体が 「罪」 なのだから、人間はいろいろなことを知るべきだ。少なくとも、知ろうとすべきである。”
↑こんな言い回しがあちこちで目に付いてさ。
でもこれって、簡単に変質してしまわないか?
例えばこんな風に↓
「無知である事は大罪である。この大罪から逃れるために、この神(思想・主義・その他諸々)を信じなさい。信じない・信じられないものは大悪であり、人間ではないのだから、打ち滅ぼしてやる事こそが彼らにとっての救いである」
「知っていれば、つかみ方が違うし、布を巻くなりするだろうし、そもそもつかもうとしないだろ?」
っていうのが大体共通するところなんだけれど、知っていようが知っていまいが、同じように焼けた鉄を同じようにつかんだら、やっぱり同じように火傷するんじゃないのか?
http://anond.hatelabo.jp/20090325012652
「浮気の共犯」ということが呑み込めないのは「浮気が悪いこと」であることが納得いかないからじゃないよね?
なんで、独身者のほうも責められるのかということだよね?
罪を犯すとわかっていて手助けをするのも罪になるということが納得いかないわけだ。
じゃ、たとえ話。
あるところに、コンビニ強盗がいました。主犯者は男です。コンビニに実際に押し入り、金を奪って逃走します。共犯者は女です。車の運転をして、男の逃亡を手助けします。分け前ももらいます。女が実際にやったのは「車の運転をする」ことだけです。別にコンビニに押し入ったわけでも、店員を脅したわけでもありません。
でも、この2人組が、強盗として逮捕されれば、女だって罪になります。もちろん主犯のほうが罪は重いし、誘われ方によっては女のほうは情状酌量の余地があるとして軽い罪で終わるかも知れません。
でも、共犯であることは否めません。なぜなら男がコンビニに強盗に入ることを知っていて、それが罪だと知っているからです。「えー、だって、あたしが金取ってきたわけじゃないのに、なんで捕まるの? 私がしたのは運転だけだし、運転免許は持ってるよ」と言っても通りません。
同じように浮気相手の女が「あたし独身だし、別に奥さんを幸せにするって約束したわけじゃないし、裏切りじゃないもん。罪なんかないよ」と言っても通りません。
コンビニ強盗が、通りがかりのタクシーを拾って逃走した場合、タクシーの運転手は罪になりません。
同じように、カレがしていることが浮気だということを知らなければ、罪にはなりません。
オレは左翼だけど
どうやら朝日は、裁判を、「反省」を求める場であり、同時に、慣用的に使われる「裁判で真実を明らかにしたい」とする場であると考えているらしい。
東京裁判という「場」が一般の「裁判」とは異なるものであったことくらいは知っている。
増田は「裁判上の反論」であって反省の有無とは別問題、と捉えたいようだけど、A級戦犯とは天皇免責のための生け贄役であって、個人的にはむしろ『どう考えても無罪主張は無理』であり、その意味では裁判戦略としてはむしろ本来『情状酌量を狙って反省の弁を述べる』方向でいくべきだった、とは思う。
だが、おそらく『生け贄役を務めるため、あえて有罪を目指』しつつかつ『不名誉な名目で断罪されることを拒否』した結果として、戦中と同じ『聖戦を信じた狂信者』のごとき言説を述べざるを得ず、『国民はそれを「我々を欺いた狂信者奴!」と罵ることで自らの無罪性の担保とする』という壮大なマッチポンプがそこにある仕掛けなのだ。そして、その一歯車として朝日新聞は機能したし現在もしている…というのがそこにある問題だよね。
で、そういう戦後空間そのものの欺瞞性を問いあらためて国民と天皇の罪を問うという文脈でならば、この件の欺瞞性を問う行為には意味があると思うが、どうもそういう意図にも見えない。そのあたりの踏み込みが浅すぎて、増田のエントリには納得できないと言わざるを得ないな。
つーか、裁判員制度に絡めて朝日叩きがしたいだけなら、別なネタ探した方が良いと思うんだ。
(追記)
それにしても、イラク戦争反対・ブッシュくたばれ派のオレだが、戦争裁判が今行われて「ブッシュをA級戦犯(平和・人道に対する罪)に問うべきか?」という問題が出されても、それがイエスかノーか分からないというのが本音。戦争というのは、個人や特定の少数の考えで起こるようなもんではないという気がする。単なる感覚ではあるけれども。
思ったことなど。
オタクとの関連性を頑張ってるマスコミだが、知的障害者だった。どこまで追いかけていくのか。
劣ったモノが死なされる世界だと、最初に死ぬのは障害者。つぎに来るのは病人・老人あたりとして、非モテ・キモオタはどれくらいで死ぬんだろう?
知的障害者だから「責任能力がありません」になりそうで怖い。むしろそうなった方が知的障害者の人たちに不幸。
刑に対して情状酌量(出会い頭の事故等)はあってもいいとは思うんだけど、責任能力が胡散臭くて仕方が無い。
現在容疑者であり、まだ犯人になっていないのに、押収した物品はおろか、レンタルしたビデオやCDまでマスコミに流す警察は個人情報保護法違反にはならないの?
それって殺人犯が「あなたたちだってたまたま殺人したかもしれない。その辺想像力足りてないよね」とか言うようなもんだろ。いやだから普通は殺人しねえよっていう。
あのね、ニコチン依存はタバコ4本程度であっさり形成されてしまうの。そういう研究がある。何かのきっかけで一箱も吸ってしまえば、それで喫煙者になるんだ。きっかけはさまざまだ。親にタバコをもらったり、友人や同僚や上司に勧められて断れなかったり、中二病に罹患したり、「タバコは二十歳になってから」と宣伝されているので二十歳になったから素直に手を出してみたりな。そういう危うい瞬間が自分にはまったくなかったの? 自分は意識的に非喫煙者でいられたのか? たまたま家庭環境や学校環境に恵まれただけだったりしないか?
仮に自分はそうでないとしても、たまたま喫煙者になった人間、たまたま非喫煙者になった人間が大勢いることは分からない? タバコに手を出すというのは、殺人ほどハードルの高いことなのか? 実際の殺人事件の件数と新規喫煙者の数を比べるまでもなくそんなことはありえないわな。
そもそも、タバコに「健康のため吸いすぎに注意しましょう」(吸いすぎなければ大丈夫と言っているのがポイントね)の注意書きが入ったのが1972年。いわゆる嫌煙運動が起こったのもこの辺。で、数年前にやっとタバコを規制する条約が成立して、警告が今のように強化されて。今でこそタバコは総バッシングされているが、5年前、10年前、20年昔にタバコを吸いはじめた人たちは、タバコの有害性や依存性についてきちんと知らされていないんだよ。規制もぬるかったし、タバコも吸えないなんて要は勇気がないんでしょみたいな馬鹿げた風潮もあった。男性喫煙率が80%を超えていたのはたった40年前だ。大学生の喫煙率だってこの10年で半減している。社会環境がまったくちがうの。新聞がタバコについてまっとうな報道をするようになったのもついこの10年ほどだと認識している(テレビはいまだに全然報道しないよね。どの局もJTのCMだらけ。週刊誌も)。
ある程度の禁煙教育や十分な警告を受けてきたはずの、そうだな、今の20代半ばより下あたりの喫煙者は、いったい何を考えていたのかと俺も思わないでもない(かといって見捨てもしないが)。が、それより上の世代の喫煙者については情状酌量の余地がありすぎるんだよ。
それとも、今の中高年男性の8割に向かって「想像力がない」と言うつもりか。無茶な。喫煙者に瑕疵があったのではなく、原因は別にあるんだ。国とか企業とかな。矛先を間違えるなというの。
念のため言っておくが、自分は生まれてこのかた非喫煙者。ヘビースモーカーだった知人を若くして失ったのが動機で、ささやかながら禁煙運動に参加している(なお、禁煙運動というのは、タバコを撲滅しようという運動だ。WHOなどが展開しているのがこれ。単にタバコの煙を吸わせるな、自分さえよければ誰が死のうが構わないという嫌煙運動ではない)。
問題の背景を学びもしないまま、ただ喫煙者叩きをするような手合いは、禁煙運動、反タバコ運動的にはむしろ逆効果なので自重してもらえないかと思っている。繰り返し言うよ。喫煙者は悪くない。たまたま最初の何本かを不幸にも吸ってしまっただけだ。
歴史的経緯を知るには、とりあえずこのあたりの本からいかがですか。