裁判員になり犯罪者の量刑を決めるのが心に重圧がかかるとは思わない。
人の人生を左右させる判断を下す権利、ああなんと素晴らしい。法のもとにより自分自身が犯罪者に刑を課すことができるのだ。
たとえそれが死刑判決であったとしても、なにも心痛む事はない。そういうシステムなんだから仕方ない。
実際手を下すのは死刑執行人がやるんだから自分の手を汚すことなく犯罪者を断絶できる。
被害者の遺体の写真が見られないなんて甘ったるいこと言ってんな。
被害者は好きでそんな姿になったわけじゃない。って表向きには言っておきながら普通は見れるもんじゃないんだからという興味本位で見てみたい。
私なら、犯罪を犯した加害者に情状酌量の余地を少しでも見つけようとなんてしない。
どんな理由があれ、人を殺めたものというのは所詮、殺人者になりうる「質」があった者なのだ。
反省しやり直すためには、自身のかなりの強い意志、それに周りの支えや世間の協力が揃わなければ更正は難しい。性犯罪者は更正なんて絶対無理。だったら人の道を外したものにより厳しい刑罰を。とそう思う。
被害者側の遺族にとって私のような考えの人間はかなりいい人材だと思うね。
被害者を出した限り、犯罪者は被害者のように苦しみ罪を償わなければならない。
それを人権云々言って被害者以上に加害者を守ろうとする日本の制度に驚きだ。
できれば関わりたくないだなんて思っている国民が多すぎて笑える。被害者なんてもっと被害者になんかなりたくなかったはずだ。
と言っておいてじつは裁判員という特別な一員になれるのがうれしいだけ。
ああ裁判員になりたい。
私がもし裁判員になったときに悩むとしたら、
「死にたい」「死刑にしてくれ」と言っている犯罪者に死刑判決を下すこと、それが犯罪者への刑罰になるのか疑問。
刑罰は刑罰で間違いないわけだが、犯罪者の希望通りなるということがいかがなものか。「死にたくない」「死刑にはなりたくない」と必死に訴えている人間相手に下すからこそ極刑は意味があるのに。きっと量刑の判断をするときに、私はこういう部分で悩むだろうな。
意外なことに、こういう偏った人でも無難に仕事がこなせるように制度設計されているから大して問題は無い。 理由は秘密。