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2021-01-24

anond:20210124040252

元増田です。聞いてもらえて嬉しいです。質問もらったのにかこつけて自分語りさせてもらいます

殺人鬼wikipediaとか読んでると時間忘れるよね。家族の前では読まないのは、インモラル系統を隠すぐらいの意識はあるんだと思う。

クスリとか化学系統は、文系から理解できないんだよな。でも、文系でもドラッグの話は相性良くて、最近アヤワスカ体験談ブログで読んだ。面白かった。

本は、『ミリンダ王の問い』って本をいま読んでいる。アレクサンダー大王ときから、「征服するつもりで東方に来たら、おい、東洋美術とか哲学とかマジヤベぇぞ」ってのがあったみたいで、これはその流れを継いで、ギリシャミリンダ王(メナンドロス1世)とナーガセーナ(インドの高僧)の哲学対話をまとめたものです。仏教を軸にした東西文化交流、っていう、おそらく伝承とはいえ、すごく歴史的に意義の深いもののはずなんだけど、お互いマジメすぎるのか言動常軌を逸してて、ツッコミのないWボケみたいになってて、ヘラヘラ笑いながら読んでる。

でもすごい暇人向けなので、次は直近で読んだ、翻訳家岸本佐知子さんの『死ぬまでに行きたい海』をおすすめします。これはマジでいいです。岸本さんのワナビー文章書いたから、もし俺の文章で少しでも時間が潰せたなら、『死ぬまでに行きたい海』はきっとすごく幸せ読書体験になると思います

マンガは、最近ネルダイスキの『いえめぐり』が良かった。物件探しって切り口にかこつけて、狂人のぶっ飛んだ妄想を執念で可視化したみたいな怪作。描くの、すげえ時間かかってると思う。ほんとに売れてほしい。そんで、こういう漫画月一で出てほしい。本人のtwitterで試し読みができたと思います

あとフツウに(?)ブルーピリオドの9巻昨日買った。美大入試のハックものって切り口だと思うけど、それは入口で、やっぱ上質なスポ魂だと思う。パワーもらえる。あときねみ可愛すぎ。

2009-05-17

知っていて犯した罪と、知らないで犯してしまった罪とでは

「どちらが重いのでしょうか?」っていうのは、遥か昔から議論の対象になっていて、

「問うて曰く『知って犯した罪と、知らずして犯した罪とでは、いずれが重きものなるや』」

というのは、“多門第一”といわれた、釈尊の高弟“阿灘”の問いとして紹介される事も多い設問だけれども、原典は『那先比丘経』という、西北インドを治めていたギリシャ人の王ミリンダと、仏教僧ナーガセーナの“対談集”だよね。

故意と過失の境界線

http://anond.hatelabo.jp/20090517101611

判決が」ってよりブコメの『市民』感情の中に

飲酒運転>>>(越えられない壁)>>>故意殺人

つーのはやっぱりあると思うんだよね。

で、そもそもこの『過失>>>>故意』って考え方、ここ最近ネットはずっとそうだよね。

意図的に他人を批判してサイト閉鎖に追い込むような人』には次々に擁護者があらわれる一方で

『「ついうっかり」な失言した人』に対しては容赦ない弾圧と炎上がはじまる、みたいな。

冒頭の問いかけに対する釈尊、あるいは仏教僧ナーガセーナの回答として記録されている文章というのは、

「あなたはどう考えるのか。灼熱し、燃焼し、炎熱し、炎上した鉄丸を、一人が知らないでつかみ、一人が知っていてつかむならば、いずれがひどくやけどをするのか?」

 ↑これだけ。文献によっては鉄丸だったり火箸だったりするんだけれど、そこはまぁ、大した問題ではない。

 いわゆる「先進国」での、“法律的”“世間的”な標準は「知らなかったのであれば情状酌量の余地あり」というのが主流。「自発的に行われる行為にたいして罪状を重く見ている」のね?

 どうしてかといえば、“再発・再犯の防止”という社会運営上の都合でもあるし、「全く知らなかった事を理由に処罰されたくは無い」という人情の表れでもあるだろう。

「(それをすればどのような結果になるか)分かっていれば実行に移さなかった」

とか、

「(適切な対処・対応の方法を)知ってさえいれば防ぐ事ができた」

とか、少なくとも、

「きちんと理解している人がそこに居さえすれば被害の拡大を防ぐ事ができた」事例というのは数限りなく存在するわけでね?

 だからなのかどうかはいまひとつ確信できないんだけれど、哲学宗教系では「知らずに犯した罪の方が重い」という解説が付いている事がほとんどなんだわ。

無知こそが罪悪である。」

「悪いと思っていないから際限が無い」

 大雑把にまとめるとこのようなスタンス。確かにごもっともなんだよ?ごもっともなんだけれど、非常に恣意的なものを見出してしまうのよ。少なくともおいらが知る限り、釈尊・阿灘の問答にも、ミリンダ王と仏教僧ナーガセーナの対談にも、原典に近いとされるものには「知らないで犯した罪の方が重い」という記述は無いんだよね。

「知らない」 という、そのこと自体が 「罪」 なのだから、人間はいろいろなことを知るべきだ。少なくとも、知ろうとすべきである。”

↑こんな言い回しがあちこちで目に付いてさ。

でもこれって、簡単に変質してしまわないか?

例えばこんな風に↓

無知である事は大罪である。この大罪から逃れるために、この神(思想・主義・その他諸々)を信じなさい。信じない・信じられないものは大悪であり、人間ではないのだから、打ち滅ぼしてやる事こそが彼らにとっての救いである」

「知っていれば、つかみ方が違うし、布を巻くなりするだろうし、そもそもつかもうとしないだろ?」

っていうのが大体共通するところなんだけれど、知っていようが知っていまいが、同じように焼けた鉄を同じようにつかんだら、やっぱり同じように火傷するんじゃないのか?

 だからこそ“原典”ではあえて「自分で考えろ」で止めてあるんだろうと思うんだが、どうだろうか?

2008-12-16

パソコンを分解しながら、ミリンダ王の問いを考える

パソコンを分解しながら、ミリンダ王の問いを考える。

大王よ、CPUパソコンなのですか」

「いいえ、尊者よ」

マザーボードパソコンなのですか」

「いいえ、尊者よ」

メモリが…HDDが…光学ドライブが…ケースが…電源が…がパソコンなのですか」

「いいえ、尊者よ」

大王よ、いったいCPUおよびマザーボードおよびメモリおよびHDDおよび光学ドライブおよびケースおよび電源がパソコンなのですか」と。

「いいえ、尊者よ」

大王よ、それならCPUマザーボードメモリHDD光学ドライブ・ケース・電源以外のものがパソコンなのですか」

「いいえ、尊者よ」

大王よ、それなら私は質問しても質問してもパソコン発見できません」

どこまで分解すればパソコンと各部品ジャンク品の境目が立ち上るのだろうか・・・

 
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