家の網戸を張り替えるとか。
中毒気味になってることがあって困ってる。平日は仕事があるから耐えれてるけど土日は何もやることないから我慢も節制もできず、ついついお金と時間を費やしまう(今日もそう)。でも明日の日曜日はしたくない。耐えねば。気を紛らすためにやること作れば大丈夫なんかなぁ。家にいるのもメンタル的にもダメだし誘惑にも負けるしでダメダメなんだよな。
そもそも男性への経済的優遇の是非以前の話として、少子化問題は問題でも何でもないのでないか、という問題を何とかしたい。
少子化で困るのは団塊の世代を始めとする高齢者であり、私達若い世代は少子化を前提にした社会構造を考えるという選択肢がある。
反出生主義や親ガチャ議論が成熟してきたのだから、その議論の結論として「そもそも少子化の何が悪いんだ?」と開き直らないのか。
おかず以外も入っているし参考になるか分かりませんが
ケチャップ系の甘さが大丈夫ならケチャップライス、オムライス、ミネストローネ、ナポリタン(しょっぱさに引っかかるかな)
ホワイトソースやミートソース系ならラザニア、グラタン、ミートスパゲティ
甘めの味付けの鍋の素使った鍋
たぶん「お前らこれに欲情してるだろ!」ていう直感ないし超能力が「性的」の根拠だと思う。
後付けで乳袋とか服のシワとかが持ち出されるのまで含めて、毎回繰り返されてきたやり取り。
自分は運動音痴だ。だから運動を楽しいと思えたことは皆無に等しい。健康のために運動をしなくてはいけないのだろうが自発的にやることが困難でやったとしても「やらされ感」が付き纏う。
事の発端は小学生の頃にまで遡る。自分が通っていた小学校は「体力作り」をスローガンに挙げていた狂っていた学校だった。朝学校に着くやいなや体操服に着替えさせられ「朝のかけ足」と称して全校生徒全員が運動場を走らされた(※そしてその後の授業も体育以外でも体操服で受けさせられた)絶対義務でなかったのは不幸中の幸いだったが「冬でも半袖裸足が良い」みたいなのが暗黙の了解としてあって靴を履くのが気まずかった記憶がある。他にも朝のかけ足とは別に持久走とか縄跳び大会だとか様々な体育系のの行事があって拷問だった。まるで野生児でも育てているかのような感覚だった
あと、嫌だったのが競争ベースだった。朝のかけ足にしても専用の用紙に運動場を何周したかマスを塗るというのがあって「どれだけ多くマスを塗ったか」で否が応でもカーストみたいなものができていた。別に朝のかけ足でなくてもそういう競争ベースが体育会系の根性論と合わさって体育はさながら使役と公開処刑のようなものだった
そんな母校の小学校も今では運動場は土から人工芝に変わり、朝のかけ足なんてものはなくなり、小学生は冬になったらジャージを履いて昼休みは遊んでいる
せめて体育の授業が「がっつりやるコース」と「ほどほどにやるコース」みたいなものに分かれていたらよかったのかも知れないがそんなことを日本がやってくれるわけはこれからもない、もしくはあったとしても非常に限られた話だろう
話は逸れるが「運動音痴だけどスポーツを見るのは嫌いじゃない、でも運動しないけど見るのが好きなのは恥ずかしい」と思うことがある。落とし方がわからなくなったのでここらで終わる
自転車は左側を走れと言う人は左側だけ極端に狭い道を無くすことも同時に訴えろと思うことがある。でもそういうことを壊れたラジカセのように言う人は交通ルールというより単に自転車を狂ったように蛇蝎の如く憎んでいる人のような気もする
あと方向指示器を上げろとこれまた壊れたラジカセのように言う人にも「見せつけなくてはいけない人も対向車も全くいないクソ田舎の交差点でもわざわざ四角四面馬鹿正直に上げるのかよ」と思うことはある