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【産経抄】日本を貶める日本人をあぶりだせ 10月19日 - 産経ニュース http://www.sankei.com/column/news/171019/clm1710190003-n1.html
というのも、(たぶん)毎年憲法記念日付近になると言論弾圧を批判する記事を掲載しているからである。
今年の分はこのようなものだった。
【主張】朝日支局襲撃30年 暴力には言論で対決する - 産経ニュース http://www.sankei.com/column/news/170502/clm1705020001-n1.html
「怒りを新たにしたい。」「決意は、揺るぎない。」とはなんだったのか。
数か月で忘れてしまったのだろうか。
産経ってたまにいやこれアカンでしょ…って記事あるじゃん(特に産経抄とか)
でも産経新聞取ってる奴は何がおかしいの?って感じで普通に読んでるし、アカンって…ってなる奴は金出して購読したりしないわけよ
んでGATEも作者と価値観共有してる奴しか読まなかっただろうし、アカンわ…ってなる奴は読まなかったと思うんだな
でもそれがアニメになって、地上波に乗ったら、「原作を読んでない」奴だけじゃなくて「原作を読まない」奴にも見せつけちゃうわけよ
産経ソースでスレ立てられて、産経の記事がホッテントリ入っちゃうわけよ
内容がアレでも正しいと思う奴しか見てなかったら賛否両論にはならんし荒れなかったわけよ
でも晒されちゃったわけじゃん
当然つっこまれるじゃん
でも自分で購読してる奴にとってそれは正しい、というかそれが間違ってると思うことが間違ってるわけで
んで信者とアンチの争いってのも内容が正しいか正しくないかじゃなくて「正しいと思う」奴と「正しくないと思う」奴の争いなのね
結局分かりあえない
んで「正しくないと思う」奴が矛盾点を指摘しても向こうには通じないし、「正しいと思う」側が意見を主張しても向こうにはいやいや間違ってるって!ってなってわかりあえんのよ
でもこうやって色々可視化されちゃったのは結果的に良かったんじゃないですかね
多分
▼ソクラテス式どころか、元慰安婦が「日本の蛮行」を告発するドキュメンタリーと称するプロパガンダ(宣伝)映画を上映しただけで質問も受け付けずに終わり、という講義が広島大学で堂々と行われていた。しかも講義の題目は「慰安婦問題」ではなく、「演劇と映画」だったそうで、詐欺といって差し支えない。
▼学問の自由は、言論の自由と同じく、大切に守らねばならない。ただし、まったくのデタラメや偏った政治的メッセージを学生に垂れ流す行為は、学問ではなく、洗脳という。
▼きのう広島大に電話したところ、「事実関係を確認中」とのんびりした答えが返ってきた。独立行政法人になったとはいえ、国立大学の収入の大半は、税金で賄われている。お隣の国の勝手な「反日」宣伝の場に国民のキャンパスを使わせてはならない。
「なんで他国の反応を気にして靖国神社に参拝するかしないかを決めなくてはならないのだ!」という意見を目にすることが多い。信仰を自由を侵害しているのではないんじゃないのか、と。
信仰に関して他国に云々言われる筋合いはない、という意見はもっともである。靖国に参拝する多くの人だって、国体護持を唱える右翼じゃなく単に戦没者哀悼のためであろう。動機が、政治的な、つまり不純なものである人はむしろ少ないと思う。だって一個人が靖国に参拝したって政治的意味は何もないもん。
だけど、やっぱり政治家──とくに首相クラス──になると、やっぱり話は別でしょう。
サヨクの人びとは、「A級戦犯が祀られているから」とか「あの戦争は侵略戦争だったから」首相を非難するだろう。私としてはその意見を支持したいと思っている。
しかし、「A級戦犯」という言葉は東京裁判によって押し付けられたものであり、その言葉自体が非常に政治的なものであることをサヨクは自覚すべきだ。
さらに、「侵略戦争」であったかどうかは、もう一つ厄介な歴史認識の問題に移行してしまう。
そうすると、靖国参拝の問題は「東京裁判を支持するかどうか」とか「歴史をいかに認識しているか」という別問題にシフトすることになってしまう。
認識の相違によって、議論はつねに並行線を辿ってしまうことになるだろう。
私は靖国参拝問題については、もっとスマートに言えばいいのだと思う。
靖国が「問題」になるのは、つねに「政治」という場においてである。
政治においては、人は「行動の動機」によって評価されるものではなく「行動の結果」によって評価されるべきものであろう。善意から悪政を行ってしまったり、自らの野心から徳政となることは歴史上珍しいことではない。
たとえば「生類憐みの令」なんかは前者だよね。
靖国問題はしたがって、それが私たち国民にとって有益であるかどうかという点から見ていったほうがよい。私は首相の靖国参拝は、有益ではないと判断する。
──しかし、そうではないと言う人もいる。産経新聞は、2013.12.28の「産経抄」で、首相の靖国参拝は「国益」につながると言っている。
▼第一は、首相が公約を守ったという事実だ。アベノミクスがうまくいっているのに中韓と波風を立てる必要はない、としたり顔でいう識者は、約束を守らない政治家を見過ぎたのだろう。政治家が自らの発言に責任を持ち、実行に移すのは当たり前の姿であり、「政治力」アップは間違いなく国益に資する。▼米国務省が「失望した」と、表明してくれたのも国益に大いに役立った。日米同盟が永久不変なものではなく、歴史認識ひとつとっても日本が逐一、主張しなければ、中韓のプロパガンダ(宣伝)工作にしてやられかねないことを教えてくれた。▼米国はかけがえのない同盟国ではあるが、国のために命をささげた先人への感謝は譲れぬ一線である。心ある日本人が「嫌米」にならぬようケネディ駐日大使はぜひ、靖国神社にお参りいただきたい。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131228/plc13122803080003-n2.htm
あらゆる行動の結果に収穫と損害があるのは当然だが、首相の靖国参拝を支持する産経新聞が「収穫」を上の二点しか挙げられなかったというのはイタい。
「政治力」についてだが、安倍首相の靖国参拝については次のようなデータがある。
NHKが11~13日、全国の成人男女1千66人を対象に実施した電話世論調査で、安倍首相の靖国神社参拝について「非常に評価する(17%)」という回答と「ある程度評価する(27%)」という回答が合わせて44%で、「あまり評価しない(29%)」という回答と「全く評価しない(23%)」という回答は、合わせて過半数の52%であった。「安倍首相が今後も靖国参拝を続けるべきだと思うか」という質問には「継続するべきでない」という回答が38%で、「続けなければならない(27%)」という回答よりも多かった。
「賛否両論」という表現が正しいだろう。これが政治力の向上につながるとは思わない。産経抄の指摘する第二点についてはあまりに意味不明なので取り上げることができない。ケネディ駐日大使に靖国参拝を薦める部分なんかは、筆者は頭がパーンとなってるのでしょう。
──もうね、ひと言で言っていいと思うのだけれど、靖国参拝は、産経をはじめとする保守論壇が喜んだっていう収穫しかなかったんではないの?
そう考えると、やはりますます首相の靖国参拝は、いかに崇高な動機から行ったにせよ、私たちの役には何も立たず、海外からのイタい視線を浴びただけで終わっただけの行為だと言わざるを得ないのではないかと思うのだ。
id:Yagokoro 在日朝鮮人, 在日IDほいほい 2013/02/10
産経抄に付いたブックマークが気に入らないので「在日朝鮮人, 在日IDほいほい」とラベル貼り。
id:Yagokoro 在日朝鮮人, 馬鹿サヨク 2013/02/15
排外主義、歴史修正主義における加害性と非対称性を指摘した記事に「在日朝鮮人」とラベル貼り。
id:Yagokoroという人物は異なる意見は全て「在日朝鮮人」「在日ID」と無根拠に決め付けることで、どうにか自我を保っているのだ。
今月13日の産経新聞「産経抄」では白洲次郎の言う「プリンシプル」の例として、60年代末の安保闘争について白洲が提起した「自分のふところ勘定だけで防備すればいくらかかるか」という視点を挙げている。
また暗に、フィリピン人不法滞在一家問題で、他人のパスポートで入国した両親を強制送還すること、ならびに公立高校における授業料滞納者に卒業証書を渡さなかったこと、もプリンシプルの例としている。
産経抄でのプリンシプルの訳は「原則」。ちなみに旧白洲邸の公式サイトでは「信条」という訳語を当てている。
さて。
2009年の今を生きる私が白洲次郎の口を借りて話すならば、と考えてみる。その場合、日米安保のプリンシプルとしたいのは自国の防衛費の額ではなく、東アジアの平和だ。今日本から米軍が去れば、或いは逆に今後十年の滞留を決定すれば、それが東アジアの平和にどう貢献できるのか、といった軸だ。平和以外どうでもいいと言い切ってもいい。
また不法滞在の話に関しても同様に白洲を気取って言うならば、どうすれば皆が幸せかという話でしかない。不法滞在が横行しそれによる犯罪の増加があり、という状況は幸せではないし、2万人の同情的な署名を集める人を法にそむいたという理由で強制送還する社会も幸せに暮らせる社会だとは思わない。
授業料滞納問題も同様。なぜ授業料滞納が問題かといえば、それを認めて滞納がはびこれば公立学校のシステムが崩壊し、教育の機会が減ることで私たちが不幸になるからだ。なぜ卒業証書を渡さないことが問題かといえば、やむを得ぬ事情で授業料を滞納した人が、それが理由で卒業できない社会はやはり不幸な社会だからだ。
つまり、私にとって白洲次郎のプリンシプルとは、原則ということばを使うならば「大原則」とでも言うべきものだ。翻って、産経抄の言う「プリンシプル(原則)」は「小原則」だ。規則であって、プリンシプルではない。皆が幸せになれないから悪なのではなく、法を守らないから悪なのだ、という主張は視野が狭く、内向きだ。
13日の産経抄は白洲を引いたりすべきではなかった。白洲は愛国者であろうが、産経によく見る内向きの愛国者ではない。内向きの論理だけでケンケンガクガクやっている新聞屋たちを外国人的な視点で見て、もう少しプリンシプルに注目したらどうだ、と言ったのがまさに白洲であった。