はてなキーワード: ニューエイジとは
過去の輝かしい実績についてはこちら参照。
そのかっこいいigiさん、最近はてなについての言及が多いんだけど
https://twitter.com/igi/status/328537144320749568
最近ちょいちょい出てきてたからなんとなく今後のはてな界隈について予想として新たに思うことが出来て。限界集落的になって団塊Jr.世代の再生産限界地点に到達しているのが今なワケだけど(だから増田がああなる)、数年後は中年化として何かに対するエネルギーの出力が下がるだろうなとは読んでる
https://twitter.com/igi/status/305125534726225920
ブコメとか文章の中に「ネオテニー」って単語があるかなーと思って待ってたんだけど、待てど暮らせど出てこず。お前ら不勉強すぎだ。他にも「ニューエイジ思想」とかはてな村大好きそうなのにあんま出てこねーし(ブツブツ
https://twitter.com/igi/statuses/317620213560512512
増田はいい線いってるけど、75点止まりなんで、分析は出来ても解法にまでたどり着けてないから、また同じ事を繰り返すんだろうなってのは容易に予想出来るんであって。オタク的なナルシズムとエゴでいけばそりゃそのあたりがおそらく限界だろうと。
一部取り上げたけど、まあいっつもはてながどうのとか増田がどうのみたいなこと言ってる。
site:twitter.com/igi はてな - Google 検索
はてなで言えばいいのに。
怖いの?
ていうかこんなの見つけた
https://twitter.com/igi/status/322142425898430464
増田に書こうかと思ったが週末事務所ぶっこまれると多分めんどっちくなってやんねー気がする。というかそもそも宣言するとやらない率が跳ね上がるのでエッセンスだけ抜くか。
増田に書こっかなー|д゚)チラッ|д゚)チラッ
何がしたいの
また言ってる
フィクションにおける古代文明はわりと人類共通の「黄金時代神話(昔はよかった神話)」によるもので、
「黄金時代」の言葉のルーツはギリシャ神話である。ヘシオドスの『仕事と日々』によると、かつてクロノスが神々を支配していた時代が、黄金時代である。
黄金時代には、人間は神々と共に住んでいた。世の中は調和と平和に満ち溢れて、争いも犯罪もなかった。あらゆる産物が自動的に生成され、労働の必要はなかった。人間は、不死ではないものの不老長寿で、安らかに死んでいった。
その後、ゼウスがクロノスに取って代わると、黄金時代は終わりを告げ、白銀時代が始まった。白銀時代の人間はゼウスに滅ぼされ、青銅時代が始まった。以後、神話の英雄が活躍する英雄の時代、歴史時代である鉄の時代と続くにつれ、人々は堕落し、世の中には争いが絶えなくなった。
そうした理想郷が崩壊した理由を行き過ぎた科学に求めるのはSFの手法で、人口に膾炙したのは Final Fantasy のようなRPGゲームの影響が大きい。また、日本社会はアニミズムに親和性のある社会だったし、RPGゲームが出た頃には初等教育で公害問題を学ぶのが普通になっていたので、「理想郷が崩壊した理由を行き過ぎた科学に求める」ことの下地はあった。
Final Fantasy は、「奇跡の力を独占・横領する、あるいはそれを使うことで暴走する」存在が倒すべき悪として描かれているが、これはニューエイジ思想がファッション化され、エンタテインメントに組み込まれたもの。根底にあるのは科学に対する不信感。正確には科学に対する期待外れ感。これは、マルサス的な人口容量の限界を感じる精神と表裏一体。
科学に対する期待外れ感がフィクション作品にどのように反映されているかは岡田斗司夫「失われた未来」あたりで。
今、生き残っている文明は、環境負荷の増大による文明崩壊リスクを人口制限や科学技術の進歩で乗り越えてきているので、TYPE-MOON作品の「抑止力」と呼べるような精神性を持っているように思う(オカルト的発想だけども)。それがフィクション作品に「古代文明の崩壊」という形で表象している。
切込隊長のブログ記事「なんかエコ活動とかやってる奴がいるけどさ」に、ブクマを見るとほぼ全面支持なのに驚いたのでちょっと書いてみる。「エコ」がこれほど不人気となると正直、日本や人類の未来は暗いと思わざるを得ないからだ。またその一方で、そうなるのも仕方がないのかなと諦観する気持ちもある。理由は、グリーンピースをはじめとする「環境保護団体」には確かに、隊長が指摘するような非合理性と偽善性がつきまとっており、一般人が不信感を抱いて当然だからだ。
なお、私は環境問題の専門家ではなく、市井の理工系の人間に過ぎない。ただ、多少の科学知識があればこの程度のことはわかるはずだということを示すためにこの記事を書いている。
隊長曰く、
なんかみんな、エコバッグ持ってたり、スタバとか逝ってマイカップ持ち込んで飲んでたり、してるけどさ。
本当にエコとか考えてるなら、風呂の回数減らせよ。一日おきでいいだろ。ドライヤーも使うなって話だ。マイカーでぶんぶん通勤してる奴が、得意げになって使用済み天ぷら油の再利用とか言ってて馬鹿なんだろうかと思う。
これは全くその通りと言わざるを得ない。ここでは話を単純化してCO2の削減についてのみ考えることにすると、生活の中でCO2を直接的・間接的に最も排出しているのは自動車と光熱費(特にエアコン)であるのは余りにも明らかなのだ。CO2は基本的に炭素を含むものを燃やしてエネルギーを取り出したときに排出される。そして、物理を少し学んだことがあれば自明のことなのだが、日常生活の中ではものを動かしたり熱したりというのが圧倒的にたくさんエネルギーを使うことなのだ。そして、50kgぐらいの人間1人を動かすために、1tぐらいの乗り物を使い、そしてゴムタイヤでアスファルトの上を走る自家用車というものがいかに、たとえば鉄道と比べればエネルギー効率が悪いかは明らかなわけで、エコバッグとかマイカップとかをやっていても車通勤をしているだけでおつりが来るぐらいのCO2を排出することになる。
つまり、個々人が「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」るような「エコ」活動は自己満足以外の意味はほとんどないのだ。
では、本当の「エコ」とはなにか。上に書いたことからおわかりだろうが、エアコンや冷蔵庫を高効率のものに買い換えさせ、人間やものが移動する必要を減らしつつ、できるだけ自動車に依存しないように路面電車の整備や業務のIT化を進めていくといった社会構造の改革をするほかない。同時に、エネルギー源をできるだけ化石燃料に依存しないように、その方面での技術開発も進めていくことだ。
要するに、「エコ」とはどこまでも今後のエネルギー・資源戦略の話であり、マクロ経済、都市工学、そしてエネルギー工学といった堅い分野の成果を積み上げていく話なのだ。本質的に、「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」たり、経済成長を否定したり、科学技術を悪と糾弾したりするような話ではない。
ちなみについでに言うと、温暖化CO2原因論に対する懐疑論も跋扈している(どういうわけか、池田信夫氏を筆頭にラディカルなリバタリアンは判をついたようにそうなのだが)が、化石燃料の枯渇を見据えればどのみち取らねばならない対策は同じである。だからそのことは考えなくてよい。
もう一つ、隊長の書いている
「環境を考えて、太陽電池パネルをつけました」とかさ。太陽電池パネルを生産するのにまず二酸化炭素やエネルギーロスがかかるっつーの。
はよくある誤解で、最近では太陽電池では余裕でエネルギーの元が取れるようになっている。
ではなぜ、このような誤った「エコ」のイメージとそれにたいする反感がここまで広まってしまったのか。それは、グリーンピースに代表される環境保護団体の姿を考えてみるとわかりやすい。彼らの中には菜食主義、呆れるほど不合理な反捕鯨運動、経済成長や科学技術や物質文明への否定的評価、そしてオカルトじみた「スピリチュアル」といったイデオロギーへの親和性が強く見受けられる。これは本来、上に述べたように「エコ」と必然的な結びつきはどこにもない。にもかかわらず、世間では「エコ」というと、もっぱらこうした偽善的で胡散臭い印象ばかりがはびこってしまっている。これはなぜなのか。
答えを書いてしまうと、これは近代現代欧米に特徴的な「ニューエイジ」と呼ばれるある種の疑似宗教的社会運動の産物なのだ。ダーウィンの進化論などの影響によりキリスト教的思想基盤が揺らいだ後、既存の価値観を否定し、オルタナティブを「東洋」に求める動きが西洋社会には発達した。それが「ニューエイジ」なのだ。西洋にはなぜか、日本のあらゆる事物を「禅」に結びつけ、むやみやたらと親日的な人(それでいて捕鯨のこととなると途端に北朝鮮まがいの反日戦士になる)が多いが、これも一つには「ニューエイジ」の影響である(日本がそれを利用した面も多分にある)。このほか、北京オリンピックへの反対運動の旗印がなぜ「チベット解放」ばかりで「ウイグル解放」ではなかったか、本質的に同じ宗教の分派であるイスラム教があれほど嫌われる一方で紛れもない異教徒であるダライ=ラマがなぜあれほど尊敬されるのか、そういったことにもこの「ニューエイジ」が背景にある。そしてついでに言えば、オウム真理教とか船井幸雄とかはたまた「水からの伝言」といった訳のわからないものは、日本にこうした「ニューエイジ」が「逆輸入」された結果であるといっても間違いではない(早い話、オウム真理教が伝統的な漢訳の仏教用語ではなくサンスクリット語やパーリ語をカタカナ書きした用語を使っていたのはこのためだ。これが「阿吽真理教」であったり、ホーリーネームが「マイトレーヤ」や「マンジュシュリー」ではなく「弥勒」や「文殊」だったらあれほど信者を集めたかどうか想像してみるとよい。オウムは仏教の原理主義でありつつ、伝統回帰ではなく伝統否定なのだ)。
少し脱線気味になったが、要するに「エコ」を敵視している人は戦う相手を間違えているのである。グリーンピースをはじめとする「ニューエイジ」運動がキモいことには何の疑いもない。ああいう偽善的かつカルト的なものは叩いておくべきだと私も思う。しかし、「エコ」全体を一緒くたに攻撃するのは誤爆もよいところなのだ。
鳩山内閣のエコ政策が嫌悪されたのはこう見ると当然の話だ。鳩山氏の「いのちを守りたい」というエコ政策は、本物の「エコ」のような国家戦略ではなく、もっとナイーブな感情に端を発していて説得力がまるでなかったからだ。鳩山夫人のオカルト嗜好ともども、これも「ニューエイジ」の影響の産物である面が多分にあり、国民が偽善臭を嗅ぎ取ったのはおそらく当たっている。
しかし、エコは本来国家戦略であり、未来にわたる豊かな生活を保つために不可欠である一方で、日本の国益にも繋がる可能性をも秘めているのだ。上に述べたように「エコ」のためには重工業の技術力が強く求められるのだが、これは日本の得意分野であって、中国や韓国といった新興国に対して優位を比較的強く持っている分野でもある。同様の事情を抱える独仏が「エコ」に梶を切り、オバマも「グリーン・ニューディール」を提唱しようとしているのはこのためなのだ。日本政府がこの方面に消極的なのは、重電産業に身を置くものとして実に歯痒いものがある。どうか、もっと事実を冷静に理解し、お涙頂戴物語としてではなく国家戦略としての硬派な「エコ」の推進の世論の形成に手助けをしてくれる人が一人でも増えて欲しいものだ。
まず誰が読んでも分かるように、アセンションってなんなのよ、と
「惑星地球の次元上昇」。ニューエイジ、新興宗教などのスピリチュアルな考え方を尊ぶ思想では、未来の予測の一つとして盛んに取り上げられるが科学的根拠はない。アセンションの存在を支持する人々によれば、アセンションとは人間もしくは世界そのものが現在の三次元からより高次元の存在へと進化することとされる。アセンションの存在を支持する人々は、アセンションは2012年前後に起こるのではないかと推測しており、現在の地球の環境問題や混沌とした社会現象、人間の善悪に対する意識レベルの低下をその変化への前触れであると見なしている(フォトンベルト参照)。
^v^ ・・・
・・・
ということで
アセンションというのはヒトが持つ、宇宙または地球、社会、生物などの「環境」や「存在」に対する認識が、
種として安定的に生存・存続する上でプラスになる方向に大きく変化すること.
人類総メタ化とか認識2.0(認識される存在2.0)とか、認知的情報的進化の影響が遺伝情報にまで及んで次世代からは前頭葉ver2.0脳が発達しますとか(ないです)
そういう種総出の進化の宴がいつか起こればいいのに!ワクワクドッドッドッという誰かの願望的予測が生み出した用語か何か.
ぐらいの解釈が近いと思う
そんで分析哲学的・技術的・状況的・経済的に可能になるのが2012年前後ということで
「2012年頃にアセンションが起こりますよーとりあえず何かが起こりますよー」という
誰かの願望的推測か、意図された計画の概要の一部(凄まじいですね^v^;)が流布しているのが現状なのかなと
この日記の題名の一部である「2012年にアセンションが…」については、そんな感じの解釈が近いのかなと思う(二回目)
それで、この「アセンション」だ
一番びっくりするところは、その思想というか、現実のリアリティというか、おそらくサトリみたいな高い「認識」が、
青い空を見て「青いなあ」と思うぐらい(そう感じられない人には通用しないたとえだが)当然のこととして人類規模で共有されて、
そしておそらく共有していることが自覚されるだろうということ(人類規模て。中学二年生でも言わねぇよ、最近。)
そんなことが起こったらもう、大変だろうなと
少なくとも現代社会では、自分が安定的に生活する上で友好的な関係を維持する必要のある人とか、見知りの人にしか挨拶しないと思うけど
「アセンション」が起こったらもう、根底から現実のリアリティの共有が自覚・確認されるわけだから
嬉しすぎて東アジアのみんなおはよう!こんにちは!おやすみ!ってなことになると思いますあの
「こんにちも!(今日もよい環境です。)」なんて言葉ができたりして、なんのこっちゃ
とりあえずそこに始まって、当たり前だけど、精神状態や行動の動機に大きな変化が起こるんだろうなと
それを思うと本当にワクワクドキドキしてくるわけです
話変わって、最近友達の友達の友達が何かを悟ったらしい わはは
しかしその話を聞いたときに、あやかりたいと思わなかったのはカルトショックの影響なんだろうか
そういう?悟りといわれる抽象度の高い認識を、伝統的な宗教やカルトへの拒否反応を回避しながら
世間の必要に応じて一般化(情報強者だけではなく、おっさんにもおばはんにもヤンキーにもニートにも)するには
どうすればいいんだろうなあとふと思った
カルト的な論理・認知のものでなければ、早めに共有してほしいと思うので
こんな支離滅裂なことを書いておいて何が言いたかったのかというと
ある時期に「オープンソース」というものがすごいぞと喧伝されていたことがあった。
ソフトウェアを作る際、プロジェクトリーダーがスケジュールや役割分担を決めて作っていくよりも、
ネットを通じて不特定多数が思い思いに自分のアイデアを注ぎ込み、
一つのものを作った方が色んな奴の知識や発想によってすごいものが出来るぞ、という考え方だ。
どっかの外国人が旗振りとなって、色んなプログラマが賛同して、それなりに盛り上がった。
でも、結局、今見てみたらどうだろう?大失敗じゃないか?だって、リナックスはOSの主流になってないじゃん。
梅田望夫はオープンソースの思想をプログラミングの分野だけでなく
ネットを使って人文科学などにも応用したらなにやらすごいことが起こるはずだ、と書いていた。
速水健朗はそれを「ニューエイジ」と切って捨てていたけど、でもある程度は成功していると思う。
その一つの集大成がウィキペディアだと思う。今やウィキペディアは誰も読みきることができない雑学の貯蔵庫になっている。
プログラミングの分野から出発したオープンソースの思想だったけど、結局はプログラミングでは失敗した。
やっぱりお金をかけた企業製品の方が優れているし(そもそも優秀なプログラマは企業に囲われちゃうしね)、
便利なフリーウェアはあるけどみんな個人個人で作っていて、誰もオープンにしちゃいない。
マイクロソフトがオープンソフトについて分析した「ハロウィーン文書」にあるように
整頓はそのうち。
腐女子関係はもうちょっとかかりそうなのでとりあえずアニメ、漫画オタク全体の話。
以下いろいろ分かったら徐々に書き足す。
『「おたく」の精神史ー一九八〇年代論ー』大塚英志 講談社 2004
『異文化とコミュニケーションーオタク国家・日本の危機ー』島田裕巳ほか 日本評論社 1991
『天使の王国ー「おたく」の倫理のためにー』浅羽通明 JICC出版局 1991
『たけくまメモ』 http://takekuma.cocolog-nifty.com/
『やおい少女の来し方行く末』 http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/Socio/lab/sotsuron/98/yamane/
ビーダーマイヤー朝
創
コミケの隆盛の話
受けが男である必要性
知人に一人、占いとか幽霊に親和性の高い人がいて、ベッドの配置についてこんなことを言っていた。
「北枕って良くないって言うけど、本当は良いんだって」
(その知人を含む)何人かが相次いで引越しをした頃だったので、間取りや家具配置について話していた流れで出てきた言葉である。
北枕が良くないというのは、死者を北枕に寝かせる習慣からきている。「良くない」というより「縁起が悪い」と呼ぶ方がしっくりくるのはそのせいだろう。形態の類似は性質の類似を呼ぶ。あるいは単に死を想起させる。仏教の習慣を基にした類感呪術である。ちなみに死者を北枕にするのは、ざっくり言ってお釈迦様が死んだときそうだった(頭北面西)から。
知人曰く「南はパワーをもらえる方角。休むべき就寝時にはその方角に頭を向けるのは良くない」。南の反対である北に頭を向けて寝るのが、つまり良いということである。風水学は昔からあったが、「家庭内の運気を高める方法」として一般化したのは、ここ15年ほど最近である。また、但しがなく言い切っているところを見ると、知人が持っているのはいわゆる「ニューエイジ風水」の知識であると推測できる。
一般に「本当は」は、隠されていた事実が明らかになったなどの理由によって、同じ視点からの見え方が変わった場合にのみ使用される(ゴムって茶色いって言われてたけど本当は黄色かったんだって!)。視点が複数ある場合、どちらをより重要視するか選択することはできるが、選ばなかった見え方が無効になるわけではない(ハーゲンダッツって美味しいけどカロリー高いよ!)。「北枕は良くない」は宗教習慣についての呪術であり、「北枕は良い」は風水学に基くとされている。二つは別の体系に属する視点であり、風水を取り入れたからといって「縁起が悪くなくなる」ということはない。このケースでは、今までとは異なる視点が明らかになっただけであり、「本当は」と形容するには相応しくないと考えられる。
では何故、知人は「本当は」という言葉を使ったのか。
たぶん、「縁起が悪い(呪術)」と「風水(占い?)」を区別していないのでしょう。「北枕が良い」という情報に接したとき、その発信者が「北枕は悪いとされているが、」なんてことを言っていたのかもしれません。でもそれは「本当は」ではなく「風水では」だったはず(いくらニューエイジであっても、きちんとした人なら)。神社にパワーストーン御籤があり、寺社の御籤に血液型別相性が書かれている時代なので、一般市民がそのへんを区別してなくても不思議ではないのだけれど。
分けないんだなあ、と私が感じたというだけで、どうということはないのですが、カジュアル・ビリーバー(?)の考え方のひとつの例として。
クラシック; バッハ, マーラー ,ワーグナー,モーツァルト J POP: Mr.Children、サザンオールスターズ
R&B: Mary J Blige、Chris Brown、Aaliyah アンビエント: Brian Eno Tangerine Dream
エレクトロニカ: Fennesz、boards of canada ブルース: Jimi Hendrix B.B.king
カントリー: Hank Williams、Johnny Cash ゲームBGM: MOTHERシリーズ、テトリス、東方
サイケ: 1200Mics、Boredoms ジャズ: Bill Evans、John Coltrane 、Miles Davis
ポケモン; 初代のラストのライバル戦BGM ファンク: Sly、JB、the new master sounds
ブレイクコア; XANOPTICON, Jason Forrest,kid606 スカ: スカパラ, Specials、The Skatalites
ダブ :Lee "Scratch" Perry、King Tubby テクノ: Jeff mills、Derrick May,Orbital
トランス: Tiesto、Paul van Dyk、Goa Gil ニューウェーブ: XTC、Depeche Mode 、New Order
フォーク: Simon & Garfunkel さだまさし プログレ: Yes、EL&P King Crimson, pink floyd
ニューエイジ: Enya、zabadak ハードコア: Bad Brains、Suicidal Tendencies,
ハウス: Masters At Work、Daft Punk、Deep Dish パンク: Sex Pistols CLASH , iggy pop, あぶらだこ, スターリン
ヒップホップ: 2pac、Nas、de la soul, JURASSIC 5 オルタナ: Nirvana Sonic Youth, Pearl JAM
フュージョン: Weather Report Brecker Brothers パフューム; 断然のっち
ジブリ; 君を乗せて, 風になる, 心オナニー ロキノン; BUMP OF CHICKEN, RADWIMPS, 相対性理論
ポストロック: Mogwai、65dos miceparade メタル: Iron Maiden、Megadeth、Slipknot
メロコア: Green Day、Blink-182 ハイスタ レゲエ: Bob Marley 卍ライン
ノイズ; ノイバウテン、灰野 レアグルーヴ; The Wooden Glass 和田アキ子
エレクトロ; justice,Boys Noize ドラムンベース; 4Hero , Makoto、kabuki
ロック: The Beatles、Led Zeppelin、Queen、Rolling Stones 演歌: 氷川きよし, 北島三郎, ジェロ
現代音楽; ライヒ、クセナキス ジョンケージ グラス トリップホップ; Massive Attack, Portishead
V系; hide、黒夢、ガゼット, dir en grey ソウル: Stevie Wonder、 Marvin Gaye
まあ、どのくらいの数のちょいケルオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかしちょいケルの童貞臭さを肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないちょいケルの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、アニメのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「the most relaxing feel」「iamge」の正反対版だな。彼女にアニメを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴うイベント、「芸能山城組ケチャまつり」「Sound Horizon Live Tour - 領土拡大遠征」などの参加は避けたい。
あと、いくらちょいケル的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
ちょいケル好きが『JVC WORLD SOUNDS』もちょいケルだ!と言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
ちょいケル知識はいわゆる「テレビまんがから流れてくる劇伴」を除けば、菅野よう子程度は聞いている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「Enya以前」を濃縮しきっていて、「Enya以後」を決定づけたという点では
ただ、ここで「Enyaの姉がClannadというアイリッシュ・トラッドグループに参加して……」と言ってしまうと、「エロゲーオタ超キモイ!」と彼女との関係が崩れるかも。
この多重録音過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の癒しポイントを彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力(ニューエイジ臭くなりがちなちょいケル暗黒部をできるだけスルーするという意味合いにおいて)」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなヒーリングミュージック(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「ちょいケルオタとしてはこの二つは“音楽”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のちょいケルオタが持ってる自然への憧憬と、エリック・ムーケとミシェル・サンチェーズのオタ的なサンプリングへのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもDeep Forestな
の二要素をはじめとして、オタ好きのする要素を音楽にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「Hallucinogenだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、このアルバムに収録されていた「Divine Moments Of Truth」がFlash作品となって大人気になったこと、
アメリカなら亜流が大量に発生して、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
ちょいケル界隈でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりちょいケルはアニメによく収録されているよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「地球少女アルジュナ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける原の思いが好きだから。
ガムラン使いてーと言ってAKIRAで先につかわれくそー!と思ってもアルバムに収録されている「逃走」で使っちゃうっていう所が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
クゥの長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
宮崎アニメの久石譲だったらきっちり自分の音楽の枠内にしあげてしまうだろうとも思う。
なのに、若草恵に頭下げて東南アジアの楽器を取り入れた劇伴を作らせてしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ原がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今のちょいケル若年層で生のそのままのブルガリアン・ヴォイスを見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
菅野よう子よりも前の段階で、ちょいケルの哲学とか女性ヴォイス技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品が民俗音楽として大昔にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくちょいケル好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる「Zone of the Enders Beyond the Bounds - Theme from Anubis」でしかブルガリアン・ヴォイスを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
KOKIAの「声」あるいは「歌詞づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない祭を毎日生きる」的な感覚がちょいケルオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそテイルズ オブ イノセンスの主題歌はKOKIAや姫神以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というちょいケルオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「ちょいケルオタの気分」の
源はKOKIAなどの女性ヴォイスにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。彼女がカネダーテツオーと騒ぎ出すか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうむき出しのエスニックミュージックをこういうかたちでアニメ劇伴音楽化して、それが非オタに受け入れられるか
ナカマーハシルーを誘発するか、というのを見てみたい。
サンホラとかルルティアくせーハルヒのキャラソンとかあればゲラゲラ笑いながら聞きてーなぁ。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
面白かったッス。
資料まとめただけとか、主張がないとかいう批評が多いけど、おまいらどこに目をつけとるのかと。
著者は、中田英寿の「引退と旅立ち」から筆をたて、「あいのり」「須藤元気」「イラクの人質事件」といったアイコンから「現代特有の自分探し」の様相をつまびらかにする。
そして、自分探しのルーツをさまざまな資料をもちいて探し当て、現代にいたるまでの自分探しの変容を記していき、こうした自分探しが生まれた原因と、それを食いものにする産業構造を告発する。
労作だと思う。
ここまで資料と史料を駆使して、「自分探し」に切り込んだ本はなかった。
なぜ自分探しはとまらないのか。
それは、著者自身がふれているように、また大澤真幸の「不可能性の時代」でも指摘されているように、近代において「個性」であるとか「自己実現」「かけがえのない自分」といったものが異様なまでに称揚されてきたことにあると思う。
普通であることは凡庸とみなされ、多くの人が「何かになるよう」に「強要され」たえざる不安の中で生きることになった。
政治・財界、マスコミ、多くのリソースがそそぎこまれ「不安な個人」を形づくった。
そうした「不安な個人」はちょっとつつけばすぐに「自分探しという病」にからめとられる。
「自己啓発セミナー」や「我求館の杉村太郎」、「ワタミグループの労働スタイル」など、それぞれに自覚があるかないかはともかく、「不安な自己」をくじいて、過剰なポジティブシンキングで「どこかにいる自分」を目指して走らせるというスタンスは「自分さがし業者」に共通する。
この手法の始祖をニューエージやニューソートに求めた著者の指摘は概ねただしいだろう。
そう考えると、「自分探し」は近代の先進国に共通する宿痾といえるのかもしれない。
では、自分探しは悪なのか。
著者にはこうした自分探しにはまる若者を嘲笑するスタンスが見え隠れする。
私もそうだ。
でもちょっぴり羨ましかったりする。なんだか楽しそうだしね。あのテンションの高い人生は。
けど、「自分探しが悪」とは言い切れないと思う。
「自分探し」と「よりよく生きるための努力」は紙一重だからだ。
ただ、化粧やダイエットからはじめればいいのに、いきなり美容整形に手を出すような「自分探し」は危険だと思っている。
とりわけ悪徳業者にその「自分探しによる生きがい」をいいように利用されているな事態は問題だと思う。
手段である「自分探し」が目的化したとき、「自分探し」は病に転化するのだ。
著者はこうした自分探しへの処方箋として「前向きに生きること」なんてのを掲げている。
ちょっとそりゃないだろうって気がする。
多分「自分探し」のカーネルがなんだかを探求しつくせずに、自分探しの様相を総覧的にまとめあげ、そのルーツをニューエイジとかに局所化しすぎたからそんなしょぼい結論しかでてこなかったんじゃないかと思う。
アクセル全開に人生を突っ走り「無限遠の彼方にいる自分」を探すのでもなく、「そのままの君でいい」なんて甘言にのせられて「そのままの自分」を探しだすのでもない、「宙づりの自分」に我慢できる第三の道が、自分探しにからめとられない生き方のヒントだと思う。
それってなんだよ。
具体的にいえよといわれても、私も思索の途中です。
すいません。一生答えなんて出ない気もしますが。
けど、「闇金ウシジマくん」の<サラリーマンくん編>の主人公、医療営業の小堀が全てを失ったあとに達した境地がヒントになるような気がするんだけどね。
(あれって「小さな成熟(苦笑)」?・・・)
ニセ科学対抗勢力としてはかなりの面子だと思われ。
ぱっと見た感想。かなり年齢層高め。ニセ科学に対するウェブの盛り上がりとは裏腹に、おじいさん率が高かった。男女比は6:4くらいか。会場はかなり混雑していて、立ち見もちらほらと。座ってみてる人もいましたね。
筆者は寝坊して菊池先生のしか聞けなかったのでちょっとだけ要旨をまとめてみます。
まだもうちょっと喋ってらしたのですが、あんまりうまくレポートできてないですね…ニューエイジや、船井幸雄、水伝とか百匹目の猿の話もしてらっしゃいました。二分法的思考というのは別にニセ科学だけの問題ではなく、単にニセ科学という分野に現れてきているだけではないかと菊池先生はおっしゃっていました。
最後に菊池先生にホメオパシーが云々の話をしてたおばさんが居て、全否定されてちょっと凹んでらっしゃいました。でも…でも…となんとか納得しようとしてるのがもうなんとも…先生曰く、治った、という事実は確かにある。因果関係は科学では認められていない。それだけの事。個人的な体験を一般化しない事。一般化するには適切なプロセスを経る必要がある、などなど。
このような価値ある講演会ですが、おじいさん方が本当に科学リテラシを身に付けて帰るのかは正直謎です。最後に質問する機会が与えられたのですが、還元水と純水は違うのかーとか薬飲むときに飲む水は水道水か純水か?とか。そんな事は問題の本質じゃないだろうと思ったのですが、身近な例から入っていくのが正しいのかもしれませんからなんともかんとも。やらないよりは絶対にやった方がいい講演活動ですが、一人ひとり問いただすと凄い人が居そうな気がしました。
説得力より納得力、だそうです。信じたいものを信じちゃう。
あと個人的に聞いたんですが "ネットの盛り上がりに反して意外とご高齢の方が多いですね" と言ったら
やっぱりまだ既存メディアの影響力というのは果てしなく大きい。ある年齢層以上ではウェブを情報源にすることはほとんどない。ネットを使えてもヤフーくらいのもの。僕はYouTubeで自分の動画をみたけど。こういった講演会、新聞やテレビなどといったものの方がいわゆる一般市民に影響を与えることになるだろう。やっぱりテレビが一番いいんだけど、さすがにゴールデンは厳しいだろう。出れても「世界一受けたい授業」くらいか。(スポンサーとかもあるのでしょうね、と相槌) ただあの時間帯で民放だと編集されるのが一番怖い。どこを切り取られるのかわからない。その点、「視点論点」というのはノーカットなので良かった。たまに怪しい人も出ますけどね。
ということでした。
ウェブでの活動に際して嫌がらせ等はあんまりないのだが、既存メディアに出演するようになると嫌がらせが増えると。左巻先生は京都新聞で連載している時に、研究室に浄水器の販売会社の社長と会長が現れて、恫喝まがいの事をされたそうだ。どこから金もらっとんじゃワレ…的な。
訴状 - http://atom11.phys.ocha.ac.jp/wwatch/claim/case01/index.html
ずっと噛み付いている反論サイト - ttp://www.minusionwater.com/
どうもこういう人らは嫌がらせには長けていて、研究室に抗議しにいくのではなくて、大学へ抗議するのだそうだ、内容証明郵便など用いて。すると大学の方からご注進みたいなのが行くと。あんまり事を荒立てないでね、と言われるそうな。
7/7に学習院でも同じような講演があるらしい。申し込み制なのでいけないかもしれませんが。
http://www.doblog.com/weblog/myblog/32167/2621176#2621176
ざっと目に付くのをあげてみた。まだいっぱいあるので皆さん参考に。
はてなブックマークのページにAds by Googleが出てるけど、非モテ系エントリーの一覧(たとえばこれhttp://b.hatena.ne.jp/bookmarklist?url=http%3A%2F%2Fd.hatena.ne.jp%2Ftorly%2F)とかのAds by Googleをクリックしてみると、自己啓発 or ニューエイジまがいのサイトも結構あるよ。
そしてトラウマは消えた
その他種々のページを探って見つけたもの。
人とうまく付き合えない人
職場で悩みのある人 私にはわかります。その解決方法
他にも山ほどあるよね。