>> この問題はかなり根が深くて、大学の最短修業年限にこだわる学生と「(留学などの特別な事情がないのに)留年する学生は要領が悪い?」と社会が見なしていることが問題のように感じています。ホントかどうかわかりませんが、留年生が増えると文科省の評価が下がるということを同僚から聞いたことがあります。学生の学ぶペースはそれぞれで、遅ければ遅いなりにしっかり本質を獲得する可能性もあるのに、とにかく画一的な年限で卒業させようとする雰囲気が強いのは困ります。 <<
例えば就職しようとしたときに、浪人より留年の方が問題視されやすい。これは標準に近ければ近いほど良いという日本の雰囲気のせいでもあると思いますが、しかし大学における学業の質が見くびられているということでもあり、後者は大学側にも責任があるのでは。
やる事が無くて、暇だ。
成人だったら友人でもその辺の誰かでもいいとかいうやつ。
あまりに簡単に戸籍関係の手続きができるので、虚偽の婚姻届もまれにあるんだ。疑わしいときに、役所が「あの入籍は本当なん?」と尋ねられる相手の連絡先を(婚姻当事者以外に)2名書いておく欄だと思えばいい。
IS03で同報メールを受け取った場合、デフォルトの「返信」だと、「全員に返信」になってしまいます。これでは大きな事故が起こる可能性があります。その点に危機感を覚えたので、auに問い合わせのメールを送ってみました。下書きでは長ーいのを書いたのですが、お問い合せメール送信画面を見ると、「500字以内で」と書かれていたので、かなり削らないといけませんでした。(これも問題だと思うなぁ…)
というわけで、問い合わせの全文です。
*******************************
1.同報メールであるとメッセージの表示画面から判断できない。
例えば、私がAさんBさんと共に飲み会に参加することになっているとします。私はある日、幹事役のAさんから同報メールを受け取ります(そのメールの宛先は私とBさん)。「○日の飲み会は、○○に○時集合でお願いします」の様なメールです。その返信で私が(同報メールだとは知らずに)「了解しました。また次もBさんの長い自慢話を聞かされるのかな。うんざりだよね。」なんていうメールを送ったりすることもあるわけです。このメールがAさんだけでなく、Bさんにも届くということになると、大変なことになるということはわかっていただけると思います。
具体例を検討するまでもなく、同報メールのデフォルトの返信形態が「全員に返信」であるのは常識的ではないと考えます。
こソフトウェアのアップデート等で修正していただくことを強く望みます。また、この件についての貴社のお考えをお知らせいただきたいと思います。
あ、めんどくさいんで保証人っていってごめんねw
従って業務の効率化を推進し、コストを切り下げることが至上命題となる。
よって選挙で選ばれた首長には、能力が高いことが期待されるのだが、
高い能力の証左としての高い報酬を自ら切り下げるのは、報酬に見合った政治ができないことの自認と言える。
政治家の寿命は短い。3期12年を全うしたら他の選挙区に移るのが通例である。
そのため政治家の世代交代は頻繁に起きるのだが、給与引き下げはその障壁になる。
供託金、選挙費用を積み立てたらぺんぺん草も生えないような給与では、別に十分な収入が見込める人間しか立候補できないからだ。
仕事をしないのに給与が高すぎるのではなく、安すぎて仕事ができないのに自己顕示欲や正義感の強い無能しか集まらないのである。
仮に、奇跡的に自己顕示欲の強い有能な首長が就いたとしても、それは12年間しかもたない。
給与削減によって、自治体は次に途方もない無能が来るリスクを背負い続けねばならないのだ。
名古屋市の場合、有権者が10円出せば議員が1人養える。実は議員とはお安いのだ。
今回は5円の価値も認めないとノーを突きつけた形だが、10円の世界でさえああなのだから、5円になってレベルが飛躍的に上がるとは到底思えない。
75議席×5円=375円のために、まあ痛い出費をしたものだ。議席半分が実現されれば年間500円か。大した削減効果である。
無論、給与カットは分かりやすい。具体的な数字も出るし、改革の前に自ら痛みを受けたとして半ば英雄視される。
はっきり言って食傷なのはさておいても、行政全体で見て首長議員の歳費なんてものは雀の涙である。
しかし、具体的で分かりやすい給与カットは、メディアの格好の餌だ。
影にある抽象的な問題には光が当たらず、まして返納そのものが問題になった場合、
下らないパフォーマンスのために光を当てるべき問題が先延ばしになるのである。(現に河村市政当初これがあった)
このような指摘はそれこそ食傷だとは思うのだが、やっぱり流行るのである。
それは何故か?
いちおうDVIはデュアルリンクなどがあるし、コネクタも大きいので、一般論的に片方を高品位ケーブルとかにでもしないかぎりは
どうでもよすぎて、涙が出てくる。
世の中には、分析屋タイプの人と、プレイヤータイプの人がいる。もうひとつ、わけのわからないエネルギーを周囲に発散しまくる種類の人間もいるが、そういう人はやはり例外だろう。
分析屋タイプの人は、今まではそれなりに評価されてきた。こういう人は規範意識も高くて言うことに説得力があるので、中間管理職レベルのマネジメントには結構向いているように思う。いわゆる才能みたいなものがなくても自己研鑽によってこのタイプにはなれるので、一般人が目指すにはもってこいだ。ただ、最近は社会全体の底上げが進んだせいか、このタイプがあまり評価されなくなってきている。言葉を換えれば市場に溢れているとも言える。ネットなんかで見かけるのもこのタイプが多いかもしれない。
反対に評価されているのが、プレイヤータイプの人だ。このタイプの人の特徴はなんといっても当事者意識。社会を変革しようとか、既存の枠組みを躊躇なくぶっ壊すことに興味を持ち、実行しようとする。実行フェーズにおいても、自分で陣頭指揮を執りたがるし、現場に出たがる。また受け身になることに我慢ができず、つい自分から動いてしまう。言ってることはよくわからなくても、行動で裏付けて周囲を黙らせる。ただこのタイプは少ない上に敵を作りやすい。異端児扱いされたり、自己中心的に思われることも多い。しかし本人は割り切って考えることも多い。
プレイヤータイプは近年急に求められるようになったが、その原因はおそらく日本社会全体が行き詰まっていることにある。この閉塞感を打開してくれる「誰か」をみんなが求めているのだ。しかしそんな人間はそうそう見つかるものではない。多くの場合見つかるのは「自称」プレイヤータイプで、過度な期待と自己評価によって結局潰れてしまう。だが社会が必要としているのならば、プレイヤータイプにならない手はない。ではどうすればなれるのか。断言はできないが、プレイヤータイプになるための第一歩は、欲望に対して素直になることだろう。プレイヤータイプの人を観察してみると、規範意識よりも欲望に対しての執着が強い傾向があることがわかる。そもそも日本人は規範意識が強すぎる。正確に言うと、他人の規範意識に対しての監視が強すぎるのだが。そしてこの傾向が変わりゆく社会にフィットする人材を輩出できない大きな原因であることはおそらく間違いない。そうと決まれば、六畳一間の幸せとか言うのはやめて街へ出よう。そしてガンガン稼いでガンガン美味いものを食べて、良い酒を飲もう。もはやそういう人の方が評価される時代なのだから。