twitterやらInstagramやらがこれだけ広まってる現代で幽霊が発見されてないから、やっぱりそれらは空想の産物だったんじゃないか。
いや空想というと積極的に想像したみたいだけど、多分、幽霊の正体見たり枯れ尾花、ある種の精神状態にあるときにみる幻視のようなものだと思う。いっそ統合失調の前駆症状かもしれない。
人間の脳をコンピュータと考えて、コミュニケーションをその配線と思うことにすると、幽霊は脳の制御できない空き領域を半ば自律的に徘徊し、怪談や恐怖の共感によって分裂・増殖、別の人の脳に移動し、その人の死によって忘れさられる、つまり死滅する。そういう情報生命体とみなすことができる。かもしれない。
大前提としてAは単体で完結してるけど、
「問題ない」と「気に入らない」が共存している状態は相互に優先なしだよどっちも強要してないんだから
「問題ない」とする側が「自分の権限の及ばない範囲で」なにか「気に入らない」側に強要してるか?
「やはり現金が最強だな」
タツマキが我々の味方で良かった
ありていな話、「わかりやすいエンターテインメントフィクション」は前近代的価値観でないと成立しにくい
たとえば、私的な問題に対する司法権力を無視した暴力による解決、私情による復讐での殺人、近代的な企業のビジネスライクな上下関係にはない濃密なロマン性を持った主従関係、所属集団が敵対しているゆえ結ばれない男女……等々
おかげで、それらを描いた作品を作ろうとすれば、時代劇とか異世界ファンタジーになるのが通例
現代劇でその手の要素を描こうとしたら、「現代に生きてる前近代=侠客アウトローの世界」ぐらいしかないのだ
現実の生活においてはとっくに、ヤクザや不良や暴走族を嫌う人間の方が多数であろう
高倉健の任侠物映画や深作欣二の実録ヤクザ映画が若者の基礎教養みたいなもんだった60~70年代に比べれば、ヤクザも不良もエンターテインメントの世界においても随分と隅っこに追いやられた方だと思う
しかしながら、フィクションの世界において現代においてなおヤクザが都合良く使われているのは、みんな心の奥底では「近代の自由・平等ってつまんない、前近代的な暴力性や主従の束縛などがあるほうが”ドラマとしては”面白い」と思ってることの証左
衣食足りて礼節を知るというけれど、あくまでエンターテインメントとしては、平和な時代になったからこそ、むしろみんな前近代的なものを楽しく思うのさ
「A=エロいラノベを子供の目の届く所に陳列しても何も問題はない」
「B=エロいラノベを子供の目の届く所に陳列するのは問題があるから何とか(表紙を変えるとかゾーニングするとか)しろ」