はてなキーワード: 尾崎とは
「尾崎豊にカブれていたのは同時代でも十分にイタい人たちで、とてもじゃないけど朝日新聞に入社するタイプじゃなかった」ということを
覚醒剤のオーバードーズで死んだ歌手を持ち上げて、若者に怒りと反抗を促す社説って、ただただグロテスクだよ。
同じ事言ってるのが貧乏ロケンローラーなら半分ぐらいは耳を傾けてさしあげるけど、新聞屋さんには言われたくないっス。
あの文章にアジテートされて、若い連中が本当に怒り出したのだとすると、真っ先に火あぶりにされるのは社説子さんだと思うのだが。
若者に対して「怒れ」と言う人たちは、自分が怒りの対象になることをまったく意識していないわけだよね。
「オレたちが学生だった時は権力が見えていた」「君たちには闘う相手が見えていない」って、20代半ばの頃、四谷の飲み屋で言われたことがある。
温厚なオレもさすがに靴の中で足の指を縮めた。
その時のことを今朝の社説を見て思い出した。
まあ、20代半ばのアマチュアロックバンド座付き作詞家の半失業者に向かって、
一部上場企業の正社員が「反抗しろよ」とか言ってたわけですからね。
ただ、武勇伝要素横溢だったり、自分語りの垂れ流しだったりするのはダメ。今日の社説はモロにそれだった。
「で、あんたはいつ辞表を叩きつけるんだ?」と問い返さないでいるのが困難。
失業ほど根源的な反抗は無い。あの人たちにはそこのところがわからないんですよ
何よりひどいのは最後の「ともあれ、おめでとう」の一文だと思う。「ともあれ」はひどい。範囲を限定した祝福は一種の呪い。
ともあれおめでとうとか言われたから、とりあえず黙れって言っといた。ともあれ〆切が迫っている。ともあれやる気がしない。
ヤングジェネレーションに向けたオールドメディアからのフェアウェルだったというふうに解釈すればオレのこの気持ちの悪さもクリアされるわけだな。
(※婉曲な表現を実現するため、カタカナを多用しています。ご了承ください。)
ところで、「天声人語書き写しノート」という商品が発売されています。 http://t.co/HxPT5LFT
店頭で見た時、心底から驚愕しました。写経ですか? 自己肥大もここまで来るともう笑うしかありませんよ。
《朝日新聞の1面に毎日掲載されている「天声人語」を、知らない漢字や言葉を辞書で調べながら書き写し、文章の構成力やリズムを身につけませんか? 毎日続けると、世の中のいろいろな出来事がわかります。》だそうです。うわあぁぁぁ(絶叫)
《朝日新聞の1面コラム「天声人語」。100年以上も続く名物コラムには、文章を書くために必要なエッセンスが凝縮されています。1カ月ほど書き写していると、自然と文章力が見についてきます。受験や就活の対策、また大人の学び直しに「天声人語」を書き写して見ませんか?》だそうです。う(嘔吐)
だいたい「天声人語」っていうタイトルからして、上から目線どころか「天からモノ言ってる感じ」で、もう全然ついていけません。
《大人の学び直しに「天声人語」を書き写して見ませんか?》 って、ものすごいコピーだな。
書いたコピーライターもすごいけど、会議通したヤツ全員が超絶的にすごい。
星の王子様の「やあやあ、またワシに感心しているやつがやってきたぞ」の王様に匹敵すると思うな。個人的には。
「天声人語書き写しノート」、なくならないうちにひとつゲットしておこう。きっと5年後には伝説の商品になっているはず。
①新入社員全員に「天声人語書き写しノート」を配布
②3ヶ月後に提出を命じる
③忠実に書き写した社員はその場でクビ
④「うちもさぁ、コピー機みたいな社員置いとく余裕ないわけだよ。じゃあな」みたいな。
逆に言えば、「社説」を「社の意見」として、毎朝掲げることができるのは、北朝鮮ライクな一枚岩の言論機関だけではなかろうかと…。
個人的に若死にした人間を持ち上げる論調が嫌いなもので。他人に語れるような夢は偽物。
オッサンにならない特権を行使するために早死にを選ぶクリエーターに対しては、全力をあげた忘却で対応することにしている。
努力の介在しない忘却は低能の結果に過ぎない。
盗んだバイクで新聞を配達したこともないあんたに何がわかるんだ? と、オザキが生きてたらきっとそう言っただろうな。
なんにもわかっちゃいないくせにというよりもなんにもわかっちゃいないからこそなおのこと。
尾崎社説程度のものに過剰反応しているのは、オレがなにか苛立ちをぶつける対象を探しているからで、
その原因は…たぶん盗んだバイクで走り出した先にある。
何か機嫌の良くなる話題を考えよう。そうだ澤穂希。バイクを盗まないで走りだす中盤の宝石。ありがとう澤穂希選手。
どうしてこの憎しみを晴らすことができようか。(否、晴らすことはできない)
動画共有サイト、youtubeにアップロードされた「いじめ動画」は2chネラーの心に火をつけた。
すぐさま、特定、晒し、中傷、電凸が行われ、まさしくいじめた加害者達は大衆による私刑を受けようとしている。
この話を書くにあたってもこの憎しみが原動力になっていることは否めないが僕達自身は冷静にならないといけない。
僕達が人格的人間であり尊厳を持ち、また、他者の人格を尊重するなら、つまり人間であるなら、
そう簡単に、その憎しみを個人的には晴らすべきでない。
まず彼ら(被害者も加害者も両方)を傷つけることを避けることは一番の至上命題にしなければいけない。
少なくとも、被害者をないがしろにする正義は君だけの正義にすぎず、被害者からしたらむしろ迷惑だ。
加害者を傷つけることを避けることはもはや不可能だが、それでも注意を払わなければいけない。
人間であるかぎり、例え殺人者であろうと人格を尊重すべきなのだ。
そして未だ彼らは子供であり、未発達であり、更生の余地があることを考えると余計慎重にならなければいけない。
私たちは、相手が不正義すなわち悪ならば、何をしてもいいわけではない。
冷静に対応するということは、冷酷に残酷に対応するということではない。
フェアに、彼らがどういうミスを犯してしまいどう償うべきなのか、そして被害者はどう対応してもらいどう保護されるべきなのか、
それを議論し考え、僕らの立場からは集団的圧力、非難として諭すのである。
「いじめた奴を徹底的に潰せ」。ただ単にこう暴言を吐くだけではいじめはなくならない。
あなたが通った学校でもいじめはあったでしょう?私が通っていた学校でもいじめはありました。
いじめを防ぐために学校はどういう対処をすべきなのか?一切の揉め事をもみ消すべきなのか?喧嘩は許すべきなのか?いじめをどう定義するのか?社会に出て生じるいじめとどう折り合いをつけるべきなのか?
私たちがより良い社会を作るために、それぞれの価値観を持ち寄りどうすればよくなるのかを議論し改善することができるはずだ。
もちろん非難も大切な行動の一つだ。
社会的制裁は悪というものを全人類に知らしめ、今後同様の悪をすれば実態を伴うリスクがあることを示唆する。
しかし、非難一辺倒は、単なる集団の暴走に終わり、彼らの生活基盤を破壊するだけに終わる。
感情は行動の原動力となり、巨大な圧力となる。圧力は他者の行動を変え、未来はより良い社会に向かうかもしれない。
暴言を吐き嫌がらせをし違法に動画を拡散し、子供を中傷する人間は、いじめた加害者となんら変わらない。
むしろ、そういう陰湿ないじめをする人間がいるからこそ日本の学校や職場でいじめがなくならないのかもしれない。
弱い者ほど相手を許すことができない
許すということは、強さの証だ
そして、加害者にはもう一度チャンスを与えるべきだ。
もし、今までの罪をあらため今後同様の罪を犯さないならばのうのうと無かった事のように生活をする権利を与えるべきなのだ。
加害者を最終的に許し、のうのうと暮らさせることはいじめを許すことにはならない。
我々が悪意と誹謗中傷だけに終始すればするほど、彼らは私たちを脅威とはみなすが、話は聞かなくなるだろう。
結局は問題はうやむやにされ、再発防止策は甘く、「いじめ」をこの学校だけの問題に終わらせ、被害者は報われず、そんなことにさえなりかねない。
彼が嫌だと思っていたとしたらいじめだし、まったくもってそうじゃないならいじめではないかもしれない。
だいたい、いじめと悪ふざけの境界線なんてないのだ。
最初は悪ふざけで相手も嫌がってなかったものでも、簡単にエスカレートしいじめになる。
被害者は内心いやでも友達付き合いもあるし言い出すことが出来ない。
ただ僕は、このじゃれあいの不公平性と、彼の表情から、実質的ないじめであろうと判断したにすぎない。
でも、僕自身もいじめをしたことはある。
彼は僕のことをどう思っているかしらないが、僕自身は親友だと思っていたし、幼なじみだった。
そんな彼に対し、僕は毎日登校時に、彼の後ろに周り、靴のかかとを踏むのだ。
今思えば、あれはいじめだったと思う。本当の親友であれば、そんな悪ふざけなんてしないはずだ。
僕は彼をおもちゃとして遊び、人格を踏みにじったのだから僕自身も反省しなければいけない。
往々にして、多くの人はいじめに関わっている。
明らかな差別、いじめ、暴力をする人もいるし、同調圧力に負けて結果的にいじめに加担する人もいる。
いじめが悪いことだと知っていることを、それを止めることが出来るかは別問題だ。
塾でそれなりに中の良かったA君とB君は、エアガンの貸し借りで揉め、A君はB君をいじめるようになった。
受験を控えたある夜、極めつけにA君はB君の腹をおもいっきり蹴り、それ以来B君は塾に来なくなった。
B君は最後の最後蹴られるまで笑っていた。B君にとってA君は友達以上の友達だったはずだ。
その後、A君自身も、B君をいじめて塾を辞めさせたというレッテル(事実)を貼られ、クラス全体から、「無視」、「関わらないようにしよう」「陰口」という新たないじめに会うことになる。
僕は終始、傍観者だったし、受験前だったから極力関わらないようにしていた。つまりはいじめに加担したということだ。
その時はいじめがあったこともB君の名前すら忘れていて別の友人の名前を出してしまった。
「よぉ、ひさしぶりやな尾崎」
「誰やねん。」
「あれ?C君だろ!?」
「違うわwwBだよ」
「あ!!Bかwwww塾で一緒だった。」
「Cって誰だよwww」
みたいな会話だった気がする。
ちなみに、B君の実名はもう忘れた。
いまの僕はどちらかというといじめられる側にいるが、運良くいじめられずには済んでいる。
いまなら、相手をおもちゃとしてではなく、一人の人格として尊重することもできると思っている。
でもいじめを止める自信はやっぱり無いなぁ、、、。
デフレ脱却議連の主要メンバーには、外国人参政権に反対し、靖国神社にも参拝している代表的な議員がたくさんいます。彼らを売国呼ばわりする人は、外国人参政権賛成&靖国粉砕という思想を持っているのでしょう。バレバレすぎる尾崎っぷりに引くわ。 #defle
https://twitter.com/smith796000/status/71184832067153921
リフレクラスタとネトウヨクラスタの融合が見られるとはw リフレ派はリフレ政策への賛成という紐帯が存在するのみで党派性がないなんて寝言をほざいていた方々は、上念氏をきちんと批判するんでしょうな? そういう言動が、リフレ派に党派性があるという誤解を招くのだから止めろ、と。
ついでに、リフレへの賛意がネトウヨ的主張への政治的動員に流用されるのではとの懸念を表明した人々に対して、
まあ、率直にいって、いまさら右派と左派とかよく本人もわかってないような対立軸持ち出して、ある特定の経済政策を主張する人を批判する場合は、1)その主張する人が感情的に嫌、2)別な私的利益を守りたい のいずれかでほぼ間違いないと思う。そうでなければ、ただの古臭い思想ボケ
http://twitter.com/hidetomitanaka/status/21626737559
と的外れ極まる言いがかりで応じていた田中センセは、当然謝罪してしかるべきだけど、謝罪できるだけの知能と誠実さがあれば、そもそもこんな言いがかりはしませんわなw
そりゃあ
尾崎の時代の方がバイク窃盗する学生や学校の窓を割る学生多かっただろうけど
それってその世代の学生に根性があったとか言うことじゃないよね。
オリジナルな反骨心でやってることでもなんでもない。
世代のブームとして反社会的行動が多い=頼もしいひねくれものが多い
なんて安易な観測の仕方をするなら
学生運動してたような世代が一番オリジナルでタフな思考力を備えてる事になるけど
実際にはそんな奴等はどうしようもないアホばかりだってことぐらい今の政権見ててもわかる。
その世代に頼もしいひねくれものが居るかどうかなんて事は
一体、大学生の顔や行状をズラッと並べて遠景で眺めたぐらいじゃわかるわけがない。
強いて言うなら例えば
あと10年ぐらい経って
「1990年生まれには単独犯の、ちょっと世に聞いたこともない動機のテロリストが多いな」なんてことになれば
確かにその世代にはタフなひねくれものが多い、なんていえるかもしれない。
世間にはそうしたほうがいいっぽいってことがある。
そして、俺はそれに従って生きてきた。
会話が面白い人の方がいいっぽいからそうした。
優しい人の方がいいっぽいからそうした。
音楽聴いてた方がかっこいいっぽいからCDをめちゃくちゃ借りた。
運動はできたほうがいいっぽいからサッカー部に入った。キャプテンになった。
サークルは入ったほうがいいっぽいから入った。
家庭教師は割がいいっぽいのでやった。
やりすぎない程度にかっこいいっぽい服を着た。
彼女はいた方がいいっぽいから作った。
いいゼミに入ったほうがいいっぽいから入った。
就職はいいっぽいところを受けて、そこに入社した。
俺は世間においていいっぽいことをやれる才能がそこそこあるらしかった。
いいっぽいことをやっているとそれなりに楽しいし、大抵すごいねと人に言われるのでそれなりに気分はよかった。
いい「っぽい」ってのはそれなりの理由と要素があって、いい「っぽい」とされてるらしい。
金やら経済システムやら人間の心理の仕組みやらその他諸々の条件から生み出される。
俺が生まれたころのいい「っぽい」ことと今のそれは違うだろう。
ただ、それはすぐにはそんなに変わらなくて、だから俺はそれを当てにしてきた。
そして人はその「っぽさ」で人を判断したりする。
しかし最近その「っぽい」ことに飽きた。というかだんだんアホらしくなってきた。
いろんな価値基準は全然確かじゃなかった。知ってはいたけど。
出世するのがいいっぽいらしいし、MBAとるのがいいっぽいらしいし、起業するのがいいっぽいらしい。
そんで結婚するのがいいっぽいらしいし、社会貢献するのがいいっぽいらしい。
で、子ども作って、その子どもに「いいっぽい道に進め」って言うんだろうなと思う。
でも、いっぺん頭の中の枠外しちゃうとストレートにその「っぽさ」を受け取れなくなる。
俺はそうじゃなかったらしい。
入社してすぐの会社をやめて放浪したいなんて訳もわからない衝動が出てきた。
それは世間ではダメっぽいから今のところ粛々と仕事をしている。
でも2010年の現在に俺は生きてるから世間にある様々な「っぽさ」を肯定も否定もしない。
ただその世間にある「っぽさ」を利用して、自分の自由をひっそり獲得したい。
それがどんな形をしてるのか今はわからないけど。
久しぶりに酒を飲んで酔い心地になって、勢いで何故かBluebellsの動画をYouTubeで探し始めたのが運の尽き。BluebellsがAztec Cameraに、さらにOcean Colour Scene、Trash Can Sinatras、そして何時の間にやらパーフリに。Friends Againを聴き始めた頃には既に涙が止まらなくなっていた。今もCamera Camera CameraのギターポップバージョンをBGMに、止めどなく流れる涙をこらえつつ、酔いに任せて書いている。鬱屈した日常を送る高校時代の僕にとって、この上なく純粋でこの上なく美しい、この上なく真実なのにこの上なく嘘くさい、自分にとっての「青春」の象徴、それが彼らであった。
その頃の僕は今でいうオタクやヒキコモリに近い、都会的だけど暗くて内気な自己顕示欲の塊だった。小沢と小山田に対する忠誠心は誰よりもあると自負しながら、親が出してくれる金で彼らのCDを購入するのがせいぜいで、かれらの音楽をどんなに愛していると信じていても、そのライブに赴く勇気も行動力も欠如していた。
誰よりも早く彼らのCDを購入し、CDショップでのイベントに出向き、MTVはエアチェックし、FM横浜は毎週欠かさず聞いていた僕にとって、その瞬間はあまりにも突然に訪れた。無機質な女声が語る彼らの解散の知らせを、僕はその瞬間には何の感動もなく、だが次の瞬間に訪れる限りない混沌とともに聞いた。
エンディングに流れるTokyo's Coolest ComboのFriends Againはその後永遠のレクイエムとなって僕の中に焼き付けられた。Friends Againに見たはずの大学時代を、彼らとは全く別の意味で理想的にすごし、周囲に迎合してそれを幸せと感じた大学時代を経て、気がつくと僕は高校時代に最も嫌悪していたような、平凡で退屈極まりない人間になっていた。
悲しいことに、それが平凡でも平均でもないこともわかっていた。それがオトナになるということなのかもしれないけど、かつての僕が死ぬほど忌避していたことには変りない。尾崎とピチカートの両方を評価するようになった僕にとって、もはやあの輝かしく危うく誰よりも純粋でまがい物である二人のOは、決して近づくこともできなければかといって忘れることも許されない存在となった。輝かしい未来の象徴は、決して叶うことのなかった美しい過去の遺産となった。
僕は今彼らの歌を涙なしに聞くことができない。再結成して欲しいアーティストとして彼らの名を挙げる人たちがいる。その安直で単純な思考を理解しないわけではないが、あの時別れたあの道は、もう決して交わってはならないし、また交わることもないだろう。
未来と革新と反抗と青春の象徴であった彼らの楽曲も、そう信ずる僕らの思いとは裏腹に、かつてなく反体制的・非倫理的であったビートルズと同じように、今では当時の「時代」を解釈するための科学的な要素して評価されてしまっている。
でも僕らは覚えている。それが決して健全な目的に余するような、誰もが求める優秀な生徒ではなく、皆が忌避しかつ心のどこかで憧れる、それは大人すらもまきこむような、この上なく嘘くさくて、でもごまかしのきかない姿であったことを。
あくまでオタクに限った話ね。
一般人から見たらオタク趣味やオタク思想なんてそれ自体が反体制的だと思うんだけど。
ある意味で尾崎を更にネガティブ方向に強化したような感じの「汚い大人になりたくない」主張がごろごろしてるし
「自分一人が誰にも干渉されずに趣味を楽しめたら他はどうなってもいい」という気持ちがオタクの本懐では無いかと思うのだが。(これは偉大なクリエーターでも同じ)
森永卓郎が「オタクになれ」って言ってるのは国家に忠誠を尽くさない生き方がオタクライフだからじゃないのか?
愛国するなら趣味なんかうっちゃってでも真面目に働いて税金をたくさん納めて結婚してたくさん子供を育てて国家の発展に勤しめばいいのに。
http://anond.hatelabo.jp/20081130203438
歯車とかレールなんてとっくに崩壊してるしな。歯車にしがみつく努力の方がなんぼか楽。
今の時代は尾崎の時代よりもっと複雑で悪条件の中サバイブしなくてはならない。
思えば良い時代だった訳だ。
歌は世につれ…という言葉がある。流行歌は時代背景と密接な関係がある。
1983年は元増田も、元増田の読んだと言うエントリの「大学生」も生まれてない時代。携帯電話もインターネットもない時代。ファミコンが発売された年。流行語大賞を調べようと思ったら初回は1984年でやんの。全く使えねぇ。
ちなみに1965年生まれの尾崎の時間軸では15歳は1980年に相当する。
この「時代」を想像できなければ「歌詞の意味が分からない」で終わってしまう。
下向いちゃうしww
男にはせめてもっと暑苦しくない音楽を聴いて欲しい・・・
駅とかで聴いてたら・・・・もう最悪ww
せめて普通に倉橋ヨエコやマッド・カプセル・マーケッツぐらいは聴いて欲しい。
常識的に考えて欲しいだけなんです!
あのね?たとえば週末10??20人ぐらいでバーベキューとか行くでしょ?
でも、少し茶々入れられるだけで、もう笑ってしまう。
いや、かっこいいんだよ。
かっこいいんだけど、笑っちゃう。
何なんだろうね?
「当時はこれがかっこ良かった」っていうくらいの想像力はみんな働くだろ。その上でクスクスなわけで。
ていうか、尾崎に限らず、かっこつけるってリスキーなんだよ。だってかっこつけることってかっこ悪いもん。間抜けだもん。
で、その間抜けさを承知で意図的にかっこつける(逆のニュアンスも多少帯びる。あくまで多少)やり方を現代人は探し当てちゃったからな。
ガクトとかネタも混じってるわけで。ネタ1割本気9割みたいな。自分がかっこつけてることに全く無自覚な人は本気10割で、これはもう天然ボケに等しいよ。
本人の意図関係なく「笑ってください」って言ってるようなもの。
昔ナンシー関が書いてたけど、かっこつけた俳優かなんかがテレビで「おれシャイだから」と言った時、どうしても間抜けさがつきまとう。なぜかと言うと、本当にその人がシャイかどうかはその人の一生をテレビに映らないところまで相当な時間追いかけてないとわからないわけで、あくまで「自己申告」なわけだ。
でも一つだけ確実に言えることがあって、この人は、テレビという公衆の面前でそんな自己申告をしたわけだから、少なくとも「シャイだと思われたがってる」ことは間違いないわけだ。ここに間抜けさがつきまとう。しかも本人は「思われたがってる」ことに対して無自覚だったりして間抜けさ3割増。
人前でなにかする、っていうことは、「自分の言っていないことまで結果的に言ってしまう」というきわめてリスキーなことなのさ。
よりによって尾崎にこういうことを期待する感覚が全く理解出来ない。知ったかぶりしてそれっぽいことを言ってるだけに聞こえる。
そうか?日本て、外国より年取っても現役ミュージシャンの割合が多い気がするけど。ある程度売れた人って結構そのまま音楽業界に残ってるよね。
「60越えてまだ女両わきに抱えて喜んでそう」なのはいないけど、そりゃ若いときからそういうタイプがいないからなあ。実は女好きなら結構いるんだけど。
ていうかフォーク世代の次がいきなり尾崎はないわ。間をどんだけ飛ばしてんだよっていう。
そりゃ知ってるよ。有名なフレーズだもの。でもそれってウッドストック世代のことでしょう。今回の話と一体どう関係するのさ?
尾崎が和製ミックみたいになれば面白かったのにって言いたいならそれだけ書けばいいのに(個人的にはセンスを疑う見解だと思うが、センスは人それぞれだからとりあえず不問としとく)、「日本じゃオッサンとかジジイのミュージシャンで一線はれるのがいない」とか、よく知りもしないで余計なこと言うから突っ込まれるんだよ(いくらなんでもそりゃ実態を知らなさ過ぎ。むしろオッサン天国だから、日本は)。そんで突っ込まれたら、なんとなくそれっぽいこと(でもそれっぽいだけで全然回答になってない、典型的な知ったかぶり)を言って誤魔化そうとするから、余計突っ込まれるんだよ。
高校くらいで尾崎が流行ったドンピシャ世代だけど、時代的にはジャストの世代においても、もともと1割くらいしか共感してなかったと思う。でも1割も共感したら、すごいヒットなんだけどね。元々ああいう感情というのは、そういうもんなんだと思う。だから普遍性はあると言ってよいと思う。青春のある時期のあるタイプの若者の心境としての普遍性が。
あと大学生に聞かせたのがまずかったというのもあるかな。中学生や高校入ったばかりくらいで触れてないと、その後受け入れるのは難しい内容のような気もする。ああいう精神て、ちょっと通り過ぎたところで急に拒否反応出る性質のもんだから。