はてなキーワード: ケアワーカーとは
嫌われる理由がよくわかった
①フェミニストは弱者男女に寄り添ってない、強者の女性ばかりの味方である
→現状の日本のフェミニストは強者の女性を救う方向にしか動けておらず、(正社員女性の育休など)ケアワーカーなどの低賃金などを訴えるフェミニストはごくわずかである
最近は未婚女性と非正規労働との結びつきを訴える人も増えたが、なんとなくだが経済学者や社会学者でも男性ばかり訴えてる気がするんだが…
②どうみてもフェミニストのせいで悪くなった状況もあるのに、それをフェミニストの責任と認めない
→専業主婦の減少など
日本はアンチフェミ先進国家で良いんじゃないかな、同僚の産休育休時短なんてみんなうざいって思ってるでしょ?はよやめろって思ってるでしょ?子供抱えながら働いてる女性は旦那が稼いでくれれば良いと思ってるでしょ?
しかないよねぇ。
犯人は郵便局と役所でパート勤めしていて強盗で服役してからも生活保護と訪問看護まで受けていて、現在の制度で行政(他人)ができる生計や医療の支援は十分に与えられていた。
それでも統合失調症の治療を勝手に止めて妄想を悪化させてああいう凶行に至ってしまった。
こういう厄介な病人に寄り添ってなだめすかして励まして治療を続けさせるような水準のケアは、他人の精神科医や看護師やケアワーカーに求めるのは無理で、家族が引き受けるしかない。
家族のケアが無ければ、いくら行政が支援しても一部はああなってしまう。
いや、わかるよ。ああいう男が家族にいて、日々暴力や脅迫を受けて、ご近所トラブルを起こす度に頭を下げて回って、薬をちゃんと飲ませて悪さをしないように親族が交代で寝起きして監視して……それって地獄だよね。
結婚以外に生きる道が無かった時代の女性の中にはああいう男のケアに宛がわれた女性も少なからずいたことだろう。
親は成人した我が子が困窮して狂人になろうが犯罪を犯そうが世間から後ろ指を指されることも無いので放っておけるし、女性が不本意な相手との結婚を強いられることも無くなった。たくさんの人たちが地獄から解放された。
その代わり、何十人もの世界中で愛された作家や職人が理不尽に焼き殺される地獄が出現した。
じゃあ、今更ああいう男は親か嫁がケアして世間に迷惑を掛けるな――というのも無理な話で、精神障害が原因の犯罪者を精神病棟に閉じ込めて治療を強制する方向に行くしかないのだろうね。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180713-10000001-mbsnews-l27
アラフォー共働き家庭の母のほうです。関西某所在住で、小学校低学年の子供を放課後、公設の学童に預けている。先生たちはとても良くしてくださって、子供は学童が大好き。
でもこの記事を読んで、もう本当に指導員の先生に申し訳ない。うちは世帯年収は2K万円を超えている。でも学童に支払っている額は約1.1万円/月。平日、ときには土曜日も預かってもらってこの額。自治体の基準に従って決まっている額だが、いくらなんでも安すぎる。
もっと払ってもいいのになといつも思ってる。支払いが難しい家庭には負担を軽くすべきだけど、払える家庭の負担はもっと重くていいよ。払う。ケアワークを軽視するシステムに乗っかって、ケアワーカーを搾取する側に回るのは嫌だな。どうしたら先生たちの待遇を良くすることに貢献できるのかな。
措置入院を減らすべき、というのはもう何十年も言われていて、治療者側からは、治療のための要求として、地域治療への移行を求めてきたのに対し、おっしゃるとおり、行政側は医療費削減の文脈で、医療保護入院等への移行を進めてきたので、措置入院が約10分の1になっても、その分以上に医療保護入院が増えているので結局措置入院を減らす、という数値目標のために治療的性格を無視した措置入院、そこからの拙速な退院となっているのでしょうと思います。
イタリアだけでなく、基本的に精神保健支出入院医療から地域治療へと変更していく方向はオーストラリアやカナダでも勧められているようです。オーストラリアのMental Health Strategyによって、地域治療への支出と入院治療への支出がほぼ均衡するようになって、利用者満足度が大きく向上したというような報告がでているようですね。(National mental Health report 2013)
アメリカは州によって大きく異なるようですが、少なくともカリフォルニアやフィラデルフィア、ニューヨークなどの主要な州では、措置入院のような入院(involuntary treatment)を2週間とか1ヶ月とか継続するには、医師が裁判所に出向いて、人権抑制の必要性を説明せねばならないというような制度が整備されているようです。しかしそれでも、必ずしも患者、家族のQOLが低下しているということもないようですし、実際に人口あたりの精神病床数はドイツやイギリスよりも相当低くなっているようです。。
措置入院件数の違いは精神保健指定医の偏在ももちろんそうでしょうし、彼らのポリシーによっても大きくかわるだろうということはそのとおりだと思いますが、他の先進国と同様に、精神治療に関わるケアワーカー等への投資を進めていくべきなんだろうと思います。もちろんリソースの拡大も必要でしょうし、病院(1兆円)から地域ケア(500億円)へと移行していくべきだと思います。オーストラリアでは、配分を変えたことで、ケアワーカーの数は2倍以上になったようですし、イギリスでも医師よりも患者、家族のケアワーカーがより多く増加しているようです。海外の先進国にできて、日本にできないということはないように思うんですが。
相模原市の事件を受けて、様々な意見が出ていて、いろいろと考えさせられています。
とくに「重度の障害を持つ方に対するケアワーカーの陰性感情」についての議論には、様々な方向から風が吹き荒れているようにも感じました。
そこで私は、今回の事件を受けて「感情労働」とケアワーカーのメンタルヘルスについて、少し整理してみようと思いました。
(様々な論点があると思います。犯人の病理などについては僕には分かりかねる部分が多すぎるので言及は避けます)
感情労働(Emotional Labour)とは 1983 年アメリカの社会学者A.R.ホックシールドにより提唱された概念です。[1]
感情労働は――肉体労働や頭脳労働と同様にーーその「感情」が賃金と引き替えに売られるのです。
言い換えれば、感情労働を行う労働者は「上手にその感情を管理し、それを提供し、自らの感情と引き換えに雇用者から賃金を得ている」とも言えるでしょう。
この感情労働を行う労働者としてホックシールドは,客室乗務員、さらに教師や看護師なども例として取り上げていました。
さて、私自身も経験がありますが、重度の障害を持つ方に対し、長期間の日常生活ケアを行っていると「穴を掘っては埋める」作業を毎日しているような気持ちになることがあります。
そんなときに患者(あるいは利用者の場合もありますが、ここでは患者と統一して表記します)に対して陰性感情がムクムクと湧いてきます。
これは、患者自身が強烈なストレスや混乱の中にいて、言い様のない攻撃性を援助者に向けていることとも関連します。
患者が抱えるストレスや混乱と同じような感情を看護者は感じてしまうのです。
「なんで、言うことを聞かないんだ!」「どうして、噛みつくの!」「何度言ったらわかるの!」と心のなかで大きな声で叫んだことは数えきれないほどです。
ケアする人とされる人の間にはーーもちろん、その関係に限ったことではありませんがーー「感情の対称性」があります。
(逆に考えれば、「自分自身の感情から患者の感じていることを推察することができる」ともいえます。)
こうした無意識プロセスを理解をすることは自身の感情をコントロールするために役に立ちます。
しかしながら、このことに一人で気がつくことは、かなり困難であると私は考えます。
感情労働の概念や、感情の対称性について、ストレスマネジメントについての十分な教育や、あるいはスーパーバイザーを交えたデブリーフィングセッションを行っていく必要があると思うのです。でも、現実には、そうしたことはケアワーカーの間では殆ど行われていません。
積み重ねられた陰性感情は、罪悪感や攻撃性、無力感に変化していきます。学習された無力感は自尊感情の低下や自己効力感の低下も引き起こします。
そして、それらはある日、まるで波が引くようにものすごい力で『反転』することがあるのです。
また、前述までと矛盾するようですが、近年の研究では「感情労働は一概にメンタルヘルスに対して悪影響となるものではなく、顧客やスタッフとの相互関係から職場にとって良い影響も与えうる」ともいわれるようになってきています。その肯定的な側面として達成感の向上や患者とのつながり感覚を強めること、職務満足感を高めることなどが述べられているのです。
「よくコントロールされること」「よいものとして認知されるようにすること」が大切なのだと私は思うのです。
介護労働者の待遇改善などの労働衛生管理については各所で述べられている通りだと私も思います。
しかし、ケアワーカーのメンタルヘルスに関しては金銭面だけでは解決できないものもあると私は考えているのです。
私は、今回の事件そのものや犯人に対して、ある種の憎らしさや強烈な嫌悪感を感じています。
当然、許されることではありません。
ただ、私は同時に、どうして今回のような凶行に至ったのかにとても興味があるのです。
自分自身が、同僚が、家族が、被害者・加害者にならないようにするために。
社会としてどうしていくべきか。
ケアワーカーのメンタルヘルスに関してはどう捉えたらよいのか。
わたしたちがコントロールできることとコントロール出来ないことはなにか。
リエゾンなどに携わる専門職が率先し、十分な議論を行い、実施可能な具体策を挙げていけるといいなあと僕は思ったり考えたりしています。
武井麻子先生は『感情と看護』[2]の中で、Winnicottを引用しています。(P.263)
「ウィニコットは、無慈悲にも自分を怒らせる赤ん坊をケアする母親について、このようなことをいっています。
母親は赤ん坊を憎むことを、それをどうこうすることなく容認できなければならない。母親は赤ん坊に対して憎しみを表現することはできない。[中略]母親に関して最も注目すべきことは、自分の赤ん坊によって大いに傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことができる能力、そして後日にあるかもしれない報酬を待つ彼女の能力である。
同じようなことが看護師にもいえるのではないでしょうか。自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを看護師は容認しなければならないのです。」
<参考文献>
[1] A. R. Hochschild, 室伏亜希と石川准, 管理される心―感情が商品になるとき. 2000.
[2] 武井麻子, 感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく). 2001.
[3] パム・スミス, 武井麻子と前田泰樹, 感情労働としての看護. 2000.
[4]Huynh, T., Alderson, M., Thompson, M. (2008)Emotional labour underlying caring: An evolutionary concept analysis. Journal of Advanced Nursing, 64(2), pp.195-208