はてなキーワード: 世渡りとは
世にはコミュ力を高めると銘打った書籍が多いが大半は善良な市民向けのものである。しかし社会で役立つのは往々にして狡猾な世渡りコミュ術であったりする。例えば人を意のままに操るというと道義に反するので真面目なライターは書きたがらないが、そういう本のほうが実践的だと私は思う。ファシリテーションやコーチングやリーダーシップも人を操るものだと言えなくも無いが、これらは通常は相手の人間性を尊重するものである。対して、催眠術や洗脳術は人間性を必ずしも尊重しない。術者の配慮がなければそれは非人道的なものになりうる。そして実用性を求めれば求めるほど、術者の配慮にかかわらず倫理的にギリギリのラインを行くことになる。もちろん破壊的カルトが用いるような洗脳は明らかに倫理に反するが、もっと狡猾な洗脳はグレーでいて決してブラックにはならないギリギリのラインを行く。例えば、極めて有効な洗脳方法に相手に考えさせて答えを出させるというテクニックがある。こちらが思考材料を提供し相手の思考の方向を誘導した上で相手に質問を投げかけるか疑問を起こさせるような発言をして考えさせる。すると相手はこちらの望んでいた判断や決断を下してくれるという算段だ。この方法は思考力の無い人間をコントロールするにはあまりにも有効であるため、良心的な人間は心が痛むかもしれない。この手法はファシリテーションやコーチングやリーダーシップの手法にも部分的に含まれるものだが、それをラジカルに行っていくと詐欺まがいの商法やマインドコントロールまがいの人心掌握術に繋がってしまう。術者の配慮が行き届いていないとたちまち恨みを買うか、酷い場合には犯罪者になってしまう恐れのある危険な技法だ。そんな強力な手法が何故世間に広まっていないかというと使いこなすのが難しいからだ。セールス勧誘や統計トリックのような限られた状況においては広く知られた思考誘導の技法が存在するが、より一般の場合にも誘導を行えるような共有されたテクニックはたぶん存在しない。伝えるのが難しいからだ。結果として、セールス勧誘や統計トリック等に騙されないための知識を身につけた人達は大半の誘導を防ぐことができている。しかし、少数の狡猾な人間は任意の状況において高度な誘導を行える。この種の誘導に対しては、残念ながら自己防衛を行う有効な方法が存在しない。文脈に依存しないため、こういう危ない手口がありますよという知識は一切役に立たないからだ。文脈によらない誘導はコミュニケーションに長けた人間なら誰でも使えるレベルのものから、高度な知能を持っていないと使いこなせないものまである。前者については文脈依存性をまだ残しているため対策のしようがあるが、後者に至るともう手の打ちようが無い。中身は限りなくブラックに近いグレーであっても、透明度が高いためホワイトにさえ見えてしまうのだ。
たまに聞かれるんだが、いつ頃からかアホらしくて答える気にもならなくなった。それでもまだ聞いてくるヤツがいるから呆れる。私と同じ立場だったとして、理性があれば本当にそんなことを考えるだろうか?それとも、単純に相手が私の立場を見えていないだけだろうか?
確かに、同世代で結婚している人間もいるし、子供がいるヤツもいる。友人の中にもいる。でも私にとっては、そっちのほうが特殊に見える。それが彼らの当たり前なのかもしれないが、少なくとも私にとっては特殊だ。だったら単に私のことが見えていないだけなんだろうな。私は特殊なんだろうか。果たして。そうは思えない。とても。
27歳。団塊ジュニアより5年ほど下か、ゆとりより5年ほど上か。
我々と大体同世代になるのは、サカキバラの東くん、バスジャックのネオ麦くん、芸能人はよく知らないけど、最年少で芥川賞だった人とか、思いつくのはそれぐらい。
我々の世代の流行といえば、イジメ、キレる十代、円光、バタフライナイフ、オウム真理教、あとなんだろう、時事としてはそんなもんか。
ソ連も一応は知っている。ベルリンの壁も知っている。教科書でも習った。ソフホーズとかコルホーズとか、五カ年計画とか、過去としてではなく。
私は映画が好きだったから、子供の頃はベトナム戦争の映画ばかり見て育った。洋画と言えば、ハリウッド映画と言えば、どこもかしこもベトナム戦争だった。
バブルも崩壊直前直後だけを知っている。平成米騒動とかもあったっけ。覚えてないけど。
小学生の途中で土曜日は完全に休日になった。確か卒業間際だったと思う。
小学校は4クラスあった。中学は6クラスだった。我々以降はどんどんクラスの数も減っていっていたと思う。少子化の走り。
失われた20数年とかリーマンショックとか重なっているけれど、もう物心ついたときにはそういうのは当たり前。
日本が経済世界一だったことがあるってのも幼い頃の記憶であるかないか程度で、実感としては残っていない。
だから、老人が言っていることは何一つ信用できないし、そもそも老害としか思っていないし、老人が作った会社も信用していない。そしてその老人が作り上げ、老人にて成り立っているこの社会も信用していない。参加したいとも思わない。早く逃げ出したいというのが本音だ。
老人は我々を食い物としか思ってないだろう。我々を奴隷としか思っていないだろう。彼らは自分の息子に対してでも、まともに人扱いしているのか疑問に思う。私から見れば、彼らは自分にへつらうか、同調するか、そういう人間以外は取り合わない。取り合ったところで果たして人間扱いしているのか、上手く使おうとしているだけにも見える。そして、私はそれだけは絶対に出来ない。吐き気がする。
今思えば、そういう反発、反発ではないな。脱却、逸脱、それはずっとあったのかもしれない。子供の頃から、学生の頃から。大人になっても。
老人と若者の世代間闘争とか、感覚のズレとか、大昔からある話だと言うけれど、今と昔が違うのは、その数の割合であって、社会が成熟した今は老人が圧倒的に多い。若者の反発などは、存在したとしても見向きもされないほど無力だ。そのことが老人には理解できるだろうか。丁度今中国と日本が戦争するようなもので、力も数もジジイたちが握っている。我々は既に諦めている。
私は外国のニュースを見るたびに思う。40代の首相がいる国だったり。26歳のCEOが老人たちの会社を、一瞬で、理解も出来ないようなサービスで、追い抜いたり。老人たちはその自らが作り上げた狭き共同体の中で、どう考えているのだろうか。狭い中で権力を奮ってはいるものの、それが井の中の蛙であるということに対して、そしてその井戸は、自らの無能によって自ら侵食や崩壊を招いていると言う事実に対して。老人帝国は無視されて終わるか、食いつぶされて終わるだろう。このままだと。私は別にどっちでもいい。同国人として多少なりとも憂う気持ちはあるけど、関係ない。どうしようもない。
一芸がある人、世渡り上手な人、金のある人、上手くいってる人は同世代にだっていくらでもいるだろうから、彼らはただ好きにがんばってください、としか言いようがない。ただ、それらを何一つ持ち合わせていない私のような人間は、ただただ毎日を成り行きに任せて過ごすしかない。普通の人が普通に暮らし、普通に過ごせて普通の人生を歩み、普通の生涯を終える、そういう絵に描いた普通は、今の私にとっては理想でしかない。理想、理想ですらない。私はそういう普通を望むことすらしなくなった。どうでもいい。
やりたいことがやれない、できることをやっても周りからはバカにされクズ扱いされ人扱いされない、となったらそりゃ絶望して死ぬさ。
ということを言いたい。
例えば、工事現場で働く人をDQNだとか、土方だと言って笑う風潮がある。
でも、その仕事に誇りを持っている人も居るわけだ、その人らは「俺らがいなけりゃ家にも住めないし、車も走らない、水だって届かない」と言う。
卑屈になって死ぬ人と、誇りを持つ人の差は何処に出るのだろうね?
その違いは「社会の所為」なの?
学生時代に自分の生き方を決めずに居る人は、いつの時代だって多いと思うよ。
真面目に考えていた人や、世渡りの上手い人が、いいポジションを取っていってしまうね。
当然、残ったイスは自分の望むものじゃないだろう。
で?
何が言いたいの?
そういう人らをその人の望むポジションで甘やかせない、今の世の中が悪いの?
その人が自分の仕事に誇りを持てずに、周りの視線ばかりを気にして、詰まらない事で死ぬのは、社会が悪いの?
個人的には、隣近所の視線があって未婚や無職への圧力が強い昔よりも、隣が誰かも気にしない今の方が全然生き易いと思うんだがな。
見事にない。
嘘だ、本当はどこかある。
--------------
--------------
--------------
寝ると意識が途切れるし、
忘れる ということは、例えばその時感動して泣いた自分とはもう別物になっている気がした。
そういえば小さい頃は、泣く、というより涙を流すということ自体が恥ずかしいことだと
強く認識していたせいで、あくびで目が潤むこともないように気をつけていた。
今では簡単に人前で泣く。簡単に泣く。泣いたことも忘れる。
これだけではないけど、もう昔との自分の連続性はほとんど途切れている。昔の自分に憧れるくらいだ。
当時はおそらく全能感があった。幼稚さからのものもあるが、ほんとによくできるところがあったと
今でも思う(まあ、今でもこんなだから成長できてなさから自信がないのかナルシストなのか)
--------------
小学生のときはふと気がついたときにいつでも心の中で名前、学年、組、好きな人の名前、
好きな色、友達の名前、好きなこと、嫌いな食べ物、夢なんかを言ってた。
あと、接してる人が変わると、自分の態度が変わることを気にしてた。
人見知りなほうだったけど、より人見知りの子の前ではまったく平気な風だったり、
親の前ではやんちゃで子どもらしかったり、うまく言えないがそこにいるといいと思える
友達で、誰に対してもずっと同じでいられる子がすごいなと思ったような記憶があるような、
でもそうする自分に少し優越感のようなものをもっていたような。
その人に対しての、自分の態度みたいなものに明確な差があって、
友達と親とでは全然違う態度なので、違う態度をとっていた両者が一度に
自分の前に集まってしまうとどう振舞っていいかわからなくて恥ずかしかったり困ったりした。
人に合わせる癖はまだ変えられてなくて、無駄に心から同調してしまう。流される。
同調といえば、小~中学生のときはもっとひどくて、泣いてる人を見ると
無意識に涙が出てきた。悲しくなる、とかではないし、ただこすって目が赤くなった人
(←テレビ越しやまったくの他人でも)涙が出たので、そういう人の顔は直視できなかった。
--------------
先生や目上の人には敬語を使うと教わってきたが、敬語を使って話す生徒より
親しげにため口で話す生徒へのほうが先生は世話を焼いたし、表情も柔らかかった。
おかしいなと少なからず感じた。
学校では、物事を強制されてきたせいで、学校から出てしまった今、もう
自主性もなくてやりたいこともわからない。やりたいこといっぱいあったと思ったのに な。
制服が男女で分かれていることがもう、嫌だった。絶対に私服ではスカートははかなかったのに。
持っていたこだわり、プライドや自信は必要以上にすり減らされてなくなった。
絶対的な自信がなくなってしまった。人間関係とか。
いろんなことに散々うちのめされた。世渡りが下手だった。正義感がおそろしくあって、
なにかと頑なだった。小さいのに頭が固かった。今思えば恐ろしく純粋で萌える。
それなのに、高校途中から変わって性格が変わった。変えようと努力してたら、
そんな風な性格パターンがつかめた気がした。こんなときはこう思うのかと。
とてもそれは不自然だけど。
変えないといけないと思って髪形も服も変えた。ちょっと自分では高圧的な態度くらいが
一般では普通で、親しみやすいようだった。
--------------
最近は元に戻ってきている。
もう自分がよくわからない。
--------------
悪いこともいいことも、自分がすることだが、それはまったく同じ環境下で育てば
同じように行動していく(していける、とも、してしまう、とも思う)
与えられた情報・環境・偶然が意思や思考を作ってくんだから、その人の努力の範囲も、
その与えられた環境下で与えられたやってきた情報で考えうる限りの努力しかできなくて、
自分の意思では絶対的に抜けられないものがあると思っている。
自分自身をそれを否定しても、いまだに納得いく否定がしきれていない。
--------------
文章まとまってないけど、いつかこんな漫画を描こうと思った。
5年に一度くらいの頻度で人を好きになる。
だけど、僕には欠陥がある。
僕は傷を抱いた人しか好きになれない。
彼女と出会ったのは今から一年と半年ほど前、僕が働く会社にアルバイトスタッフとして入社した。僕は社会人で、彼女は大学生だ。
僕が彼女に対してはじめに抱いた印象は、決して良くなかった。人は見た目が九割というが、彼女はどう見ても外見的に僕が好きになるタイプの人間ではなかった。
いかにも軽薄そうで、世渡り上手な感じで、ギャルのように見えた。そういった心証があった。
僕と彼女はすれ違っていた。あまり会話も交わさない、お互いが顔を合わせた時は便宜としての挨拶。「おはようございます」と声を掛け合うくらいの関係。
今となって思うのは、そのままの方が良かったんじゃないかってこと。
だけど、いつしか変化が訪れた。僕と彼女は喫煙者なのだけど、会社の喫煙所で軽く会話をした。趣味の話や、仕事の話はもとより、プライベートの愚痴だったり、彼女の学生生活の話だったり。
とりとめのない会話が続いたけど、僕が先に抱いた心証は少しずつ変わっていった。
「最初は気むずかしい人だったと思ったけど、話してみたら案外面白いですよね」なんて僕は言われる。それはだけど、僕もおんなじだったんだ。
彼女との関係性に変化が現れたのは昨年の冬。
仕事上がりが重なったせいか、彼女の気紛れで一緒に遊びに行こうという話になった。
よく分からない。
一緒にスポーツをしたり、夕食を食べたり、した。
それから何度か、遊びに出掛けたり、飲んだり、した。
しかし、関係性に若干の変化が訪れても、当時の僕はまだ彼女を好きになっていなかった。
いつだったか、よく覚えていない。たしか、今年の初頭だったと思う。
彼女には別れようと思っている彼氏がいた。その彼氏は、彼女がいうには未練たらしく関係の再構築を謀ろうとしたらしい。彼女が別れようと思った理由は、端的にいえば浮気だ。彼氏のケータイを覗いた時に、その証左を得たらしい。
どういった証拠を掴んだかはここには書かない。だが、吐き気がするものだ。ケータイを使って確固たる証拠となるものといえば、いくつかしかないだろう。
彼女は頻繁に届くメールや鳴り止まぬ電話に、少しの怯えを見せていた。
彼氏との関係性が破綻しかけた頃、彼女は軽いDVを受けた。本来的な暴力ではなく、傷が残るものではなく、押さえ付けられたり、首を絞められたり。傷の付かない暴力。
だからこそ、誰かにそんな話を聞いて欲しかったのだろう。今になって分かるのは、彼女にとっては誰でも良かった、ということ。話し相手として、偶然に僕が選ばれただけで、しかし僕以外にも社交的な彼女は他の誰かにも同様の相談をしていただろう。
僕は『誰か』に過ぎない。何人もいた『誰か』にしか過ぎない。
彼女は、でも既に壊れていたのかも知れない。
自分を傷付けるために沢山の男と寝た。
身体目当てで寄ってくる男は、最悪だと思いながら、そんな男を抱く自分を最低だと感じながら、悲劇のヒロインを演じるために。
なんで僕にそんな話までするのだろう? 僕は疑問を感じていた。だけど、答えが分かってしまえば単純で、それはきっと――僕が『誰か』だからだろう。
話を聞いてくれるだけの捌け口だったからだろう。
王様はロバの耳で、僕は彼女のストレスを緩和させてあげられれば良かった。そういう存在。
だから僕は彼女と会い、どんな話にも興味を持って耳を傾けた。
僕はそんな毒にしかならない話を聞きながら、かわいそうだ、とか、不幸だ、とか、そういった感慨は抱かなかった。
全ての結果には原因があって、それをなぞるのが僕たちの生きている世界だ。
彼女は自分を傷付けるために、そのためだけにその道を選んでいた。
かわいそうでも、不幸でもないと思う。ただ僕は、いつしかそんな彼女を好きになってしまった。
沢山の男と寝る女に?
僕はそんな話を聞いても傷付いていない。だけど、おかしい。何故かそんな彼女を愛しく感じてしまった。
僕はきっとおかしい。
そして、あの冬が終わりそうだったあの季節。もうすぐ春が訪れそうだった世界で、僕の携帯は彼女から一通のメールを受信する。
残念ながらドラマティックな展開なんてない。これは現実だから。
ただ彼女が『これから彼氏と電話をして、しっかりと別れを告げようと思います』とだけ、僕に伝える。
僕は彼女が傷付く要素が減れば、それは良いことなんだろうな、と何となく思っていた。だから『頑張って』と返す。
彼女が電話を終えて――深夜だ。夜中の3時くらいだった。彼女から電話がくる。
彼女は泣いていたのだろうか? 辛かったのだろうか? ただ、少し涙声に聞こえる声で、精神的にやられてしまったんだろうな、というのは分かった。
僕は、くさいセリフしか吐けない。きっと(これを読んでいる)あなたが聞いたら寒気がするような言葉しか伝えられない。少ない語彙で、彼女を励ましてあげることしか出来ない――出来なかった。
君が笑っていてくれたら僕は嬉しい、だからいつも笑顔を忘れないで。
そんな内容を、オブラートに包まず、長々と僕は伝える――伝えたんだ。本当はすごく会いたかったのに、君をもっとちゃんと励ましてあげられたら良かった。目を見て話したかった。
僕は彼女が恋しくなる。
いつも会いたいと思うようになる。
それが、3ヶ月くらい前。
そうしてまた何度か遊びに行き、飲みに行って、僕は酔っ払ったまま、彼女に自分の気持ちを伝えた。
僕は君が好きだって。
雪は溶けて、季節は春になっていた。
僕は優しく振られる。でも、それで良かった。このよく分からない曖昧な気持ちを、ちゃんと言葉にして伝えられて良かった。それだけで少し幸せだったんだ。
彼女は優しいから、僕とはそれまで通りに接してくれる。僕は今だって彼女のことが好きだけど、だけど、本当に『この気持ちが』好きなのかどうかは分からない。
彼女が他の男と肉体的な関係を持っても、別にどうでもいいと思う自分がいて、彼女が妻子持ちと不倫をしているのを僕に告げても僕はどうでも良くて……それは本当に好きなのだろうか? これって、好きっていえる?
こういう感覚は、よく分からない。
僕が昔、ルームシェアをしていた本当に救いようのない不倫をしていた女を好きになった時も、その好きだった子が堕胎しても、僕があの子を好きだったあの頃のように。
世界を悲観して精神を安定させるために恒常的なリストカットを続ける別の女を好きだった時も。
全部が全部、それは副次的な要素として完結していると考えてしまう僕の気持ち。
頭でいくらおかしいと理解していても、心が付いていかない。どこか遠くに離れている。
今好きな彼女を、好きだっていえるけど。これは好きと違うのかな。ただの同情なのかな。
彼女を抱きたいとも思わない。直截にいえば、セックスしたいとか思わない。
だけど、ただ抱きしめたいと思う。
この感覚が、一体なんなのだろうと、僕は考えている。
だけど君にとって、僕は『誰か』であり続けるのが正しい。
これからもそうしようと思う。
君は君で、僕は他人だ。ただ曖昧な感情を抱いているだけの、壊れてしまった人間なのだから。
出来すぎた話だが、これを書き終えた今、彼女から電話を受けた。
すこし辛い気持ちになってしまった。
何年も世渡りを続けていて、ふと思うことがある。
私たちはみんな同じ一つの高い高い山の、そのどこか別々の場所に居て、それぞれ無関係に暮らしている。
でも時々、山には津波が押し寄せてきて、下の方に住んでいる人をさらってゆく。
みんな津波が怖いから、より高いところに住むことを目指す。
でも津波はたまにしか来ないから、命を奪われる恐ろしさ、住んでいる場所の高低で生死が分かたれる恐ろしさを、結構簡単に忘れてしまう。
それが怖くて怖くて結局忘れられなかった私は、追い立てられるように努力して、山のすごく高いところ…へは能力も才覚もないから行けなかったけど、それなりに高いところの、津波の影響の来づらい山の裏側に住みついた――と自分では思っている。
実際、今の仕事は以前とは比べようもないほどラクで、不況の影響も比べたら失礼になるくらい少ない。
安楽な日々を送る私の目には映らないところで、今日も会社は次々と潰れ続け、私と何ら変わるところのない人達が大勢路頭に迷っている。
でも、今やってきている不況は、こうなんというか…うまく言えないのだが、慢性的かつ継続的な、大不況に相当するものなんじゃないかと思う。構造的不況、と言うのが一番正確だろうか。
この、じわじわ来ている大津波は、いずれ山頂まで到達するかもしれないし、津波が山の裏側まで回ってくる事例だって普通にある。
別に、現状の経済に対する一家言があるわけでも、先行きに対する確固たる見識があるわけでもないのだが。
他の人の足元に水が来ている状況では、どれだけ高いところに居ようと自分の足元を心配せずにはいられない。
もっと高いところへ逃げなければ、と、私の逃走本能に再び火がついた。
ばあちゃんに、
「もっと世渡りがうまくならなな」と言われた。
ばあちゃんは、むすめの時分から日記をつけてる。
けどそれは帳簿だった。
帳簿が日記になってる。
妹には、名前を呼び捨てにされる。「増田くん! メシつくって」
オマエにミルクを飲ませたのは、オレだぞ! あ、だからか。
ふられた。
「わたしはオモチャじゃない」「女の子はみんな、お姫さまなのよ?」
なんじゃそりゃ!? わからぬ。
オレか? オレが悪かったのか?
もう出家しよう。
ブックオフの100円コーナーで、『完全自殺マニュアル』を買う。
次の世紀末まであと90年ヴァージョン、のマニュアルが出ないかな。
気になるのは、これの前の持ち主だ。
自殺を思い止まったのか?
オレもやったことあるけど、
遺品って、大切な思い出が詰まっているような気がするけど、それは錯覚だよ。
売れないし、しかも量だけ異常にある。整理に何週間もかかるよ。
オレは、ばあちゃんの持っていた、ミシン糸をもらったよ。赤い糸だ。
かさばらないところが気に入っている。
急に嫌な事を思い出した。
自分もかつて自分を虐めた相手が問題を抱えて不幸な状態になってる、と学校卒業後何年も経ってから知人経由で知った。
元増田みたいにザマミロ、とは思わなかった。
で
その知人が、虐めっ子が塞いでるので慰めよう、問題解決に協力しようと言い出した。
一瞬頭が真っ白になった。
聞き流そうと努力したが、私にも協力を、と言い出して無視できなくなった。
気を取り直して、
今問題を抱えているのは可哀相だと思うけど
そもそも詳細を知らないし、かかわりたくもない。
悪いが、それに賛同も参加もできない。
と伝えた。
そしたら、
アナタが虐められていた事を知っているから今まで言わなかったけど
自分は卒業後、数年たって虐めっ子と偶然知り合い、それから懇親にしている。
あの人は変わった!
あんないい人を今だにいじめられただの言っているアナタがどうかと思う、と力説。
知人とはそれっきり縁を切った。
けれど、虐められた記憶を掘り起こされた以上に、最悪な記憶を植えつけられた。
かつては味方だった人が虐めっ子を心底偲んで涙していても、
強く気持ちを持って欲しい。
虐める側というのは、大概立場も数も強い人間だ。
虐められる側ならば、よく分かってると思うが、
心して行ってきて欲しい。
話題になってたのでみてみました。そして悲しくなりました。一生懸命な勝間さんに胃の痛みを覚えたので、全部は見れてないです。でも必死で笑顔を作ってかわいそうだったので、書きます。ひろゆきさんとの議論がどうこうっていうよりかは、勝間さんを見てて思った、今のインターネットについてです。
たぶん勝間さんは、どこかで誰かに悪口を言われてる可能性を全く疑わずに生きてきたか、他人の意見に耳を貸さずに一生懸命生きてきたか、そのどちらかなのだと思います。そうしたらやっと地位を築いた今になって、ネットでの叩きを目にして悲しい気持ちになってるのだと思います。インターネットのすごいところは、発言者を選ばず、言葉に等しい力が与えられるところだと、わたしは思います。だって、現実で発する言葉には外見や表情やイントネーションや、さらには発言者の社会的地位なども含め、影響力を変化させる要素が幾つも絡まりあいますが、文字って誰が書いても同じです。ずーっと見てて好きなブロガーの発信する文字はまた別だと思いますが、それを誰かに紹介した時に同意ってしてもらえるものなんでしょうか。ホームページのデザインセンスが、文字に重みを与える事ってあるんでしょうか。わたしはそこが文字とネットの限界だと思ってます。
インターネットの可能性に夢を見られるのは最初のうちだけな気がします。ネットで成功したって、その後は結局現実につながります。世渡りの術やおべんちゃらなど、結局いつか求められます。一人で生きてけるような気がするのは、部屋に閉じこもってる間だけです。ネットをツール以上のものだと過信するのは、本当に危険だと思います。「口で言うのは簡単だけど、行動にうつすのが難しい」という言葉がずっとあるのに、どうしてみんな文字情報を過信するのかな。わたしは名前を出して戦ってる勝間さんを評価しますよ。論破されまくりだと笑われてますけど、ネットへの基本意識が全く違うので、もうあれはしょうがないのだと思います。ひょっとしたら暇つぶしに他人の悪口を言う、という習慣からして勝間さんにはないのかもしれない。
あと、話は変わって世間での話なんですが。ツイッターでビジネスチャンスが生まれた!画期的!とか言ってますけど、契約も交わしてない口約束になんの意味があるんですかね。けっきょく会って打ち合わせするんであれば、ピンポンダッシュで出会いが生まれた!画期的!とか言ってはしゃいでた小学生時代と同じじゃないんですかね。目新しいきっかけを見つけてもちあげてるだけ、ってのはうがりすぎなのかな。
控えめすぎる人は、みんなもっとずるくなっていいんだと思う。
もっと器用になってもいいんだと思う。
と身近で世渡り上手な人を見るようになって、思うようになった。
世渡り下手な人はね。遠慮するところを間違ってるんだって言われたよ。
世の中迷惑かけられたり頼られたりした方が嬉しい人って、たくさんいるらしい。
自分が迷惑かも…って言わなかったことを隣であっさり言ってて。
別に迷惑そうじゃなく普通に受け入れられてて。
あ、それでいいんだ…って思った。
自分的には迷惑かも…ってすごく心理的抵抗があったのに。
傲慢なのは同じように許せないと思うけど。
だからって周りを気にしすぎておどおどする必要もないって近頃思うようになってきた。
そいつは頭良くて、世渡り上手で先生達のお気に入り。特に担任の。
そいつのおかげでクラス中からずっといじめられ続けて(クラスの奴らにあいつきもいからシカトな、とか言ったらしい)、あまりにも悔しいから
見返してやろうと思った。勉強で。
その途端嫌がらせの嵐。
目の前で大声で俺と親の悪口(母子家庭でどうのこうの)、教科書破かれる、ジャージ隠して俺が探してる姿見て仲間と大爆笑。
お前ら本当に高2か?って疑いたいくらい馬鹿みたいな事してくる。
今日、担任から「お前がカンニングしたっていう情報が入ってきた」って電話かかってきた。
勿論カンニングなんてする訳が無い。担任に言っても、とにかく明日学校来い、と。
そいつの仕業だったら、ついに自分が爆発しそうだ。
もうどうしたら良いんだ。