はてなキーワード: 損得勘定とは
ミサンドリーを女性からぶつけられなければ、自分の男性性を承認できない。
誰か女性がミサンドリーを男性全体に呪詛としてばら撒いている、その対象にカテゴライズされたことで、ようやく自分の男性性をネガティブながら承認した。そんな自分の特性に、今日気が付いた。
別にネットでもリアルでもミソジニーをあからさまに振りまいてるつもりはないし、どっちかと言うと草食系で通っている。
ただ、どんどん希薄になっていく自分の男性性が、ミサンドリーのような女性側からの攻撃や批判を通じてでなければ、実感できない。これは自分が女性と付き合った事の無い童貞だから、自分の性的価値を誰からも認証されたことがないのもあると思うけれども。
あるいは、母親からの「汗臭い」「ガサツ」なんて言葉から、ネガティブに自分の男性性を発見して来た事に由来する、マザコンの延長線上にあるのかもしれない。
まあいいや、ミサンドリーなんてそうそうぶつけられることがないし、そんな観念的な男性性なんぞ振り回すより、建設的な関係とやらでも築けるように努力した方がいいだろう。その損得勘定じみた恋愛観そのものが、フェミニストから見たらミソジニーだ!ってお叱りを受けそうだが。
とある本屋さんでポイントカードを作った。再販商品でポイントが付けるのはめずらしい。これはすごいと思い進められるままに作ってみた。
いくら使うと5%引きになるのか考えてみたら、ちょっと微妙な気持ちになった。
800円で、10ポイント。8000円で100ポイント。80000円で、1000ポイント。400円の単行本だと200冊。
1年間の購入履歴がない空白があくと、ポイント消滅。
特典の5%引きをどういう商品に使うのかを考えてみたけど、書店で高額の美術書でも買わない限り、消費税分がチャラになるだけというのも微妙な感じがした。
死ぬまでにこんなにたくさんの本を消費するのかどうかを考えてると、囲い込み戦略としてこのポイントカード制度はどうなんだろう。
プロレスだって八百長してるじゃない。なんだって相撲がたたかれるっていうの?
プロレスだって結末以外はガチでやってるじゃん。死人出たりするし。
勝負ってのは神聖なんですよ。娯楽じゃないわけ。
別にいいじゃん。
格闘技に必勝だったり不敗だったりってそうそうあるわけないでしょう。
ないものをつくろうとすれば演出になる。
神聖な勝負とは思ってないだろうなー、それは。
神聖だと思ってたら横綱負けたときに座布団投げたり、メシ食いながら見ないよね。
あとは、公益法人で補助金もらってるからっていうのはひとつの理由になるかも。
そういえば補助金出ている他のスポーツで不正なんかあったら大変ですものね。
そういう意味では理由になるかもしれない。
けど、怒ってる人は、そういうところまで考えないでしょう。
やっぱ神聖だからじゃない?
勝負が?
相撲取りというのは。
え?
勝負のことしか考えてなくて、廃業後はちゃんこ屋やるぐらいしかない、社会に飼われたデブ。
だからこそ、地方巡業先では文字通り、「拝まれる」ぐらいの扱いをされるわけ。
えっ?
この拝まれるって言うのは大変なことで、俺の知るかぎり、名もなき一般人が拝まれるのは相撲取りになるぐらいしかないよ。
ほかはダメなの?
拝まれる、ありがたがられる、しかもいるだけで。
これ、絶対に無理なんですよ。
動く神社仏閣?
まあ参拝客数は不動産には負けるかもわからんけど、真のありがたみ度でいえば、断然相撲取りの方が上だよね。
カリスマというか、ほんものというか。
だからありがたがられる。
つまり、ほんとうらしさ、ってことが拝まれているのかな。
相撲取りの肉体ってのは、ほんとうな気がするでしょう。
稽古と努力とちゃんこからなるすこしだらしのない相撲取りの身体のほうが、
なんぼかほんとうらしいわけ。
文字情報とか映像情報に回収しきれない、ほんものらしさ、みたいなことですかね。
そうそう、ショー栄えしない肉体であり、生活であり、勝負なんですよね。
でも、ほんものなんですよ。このほんものというのは、確かにかけがえがないよね。
たしかに。皇太子と雅子の組み合わせはあんまりありがたくない。
つまり、神聖性よりも真正さってことですね。
そうそう。
相撲はほんものであるべきで、偽者になったとき、崇拝の対象が崩れるわけだから、そらみんな怒るよ。
俺も書いてて怒ってきたわけだし。
まあ真正さに生きるだけでほかにすることのない生活が、星取りの計算に勤しむ時間をつくりだし、八百長生活へと導いたわけですけどね。
ありあまる時間の有効活用を考えたときに、それはもう八百長と同じ、効率性やらショー栄えやら文字情報やら映像情報と同じ論理に囚われた、偽者になっていたわけですね。だって、そんなのほんものぽくないし。
そういった意味では、ありがたみとは、時間の浪費に由来するのかもしれないね。
八百長は、社会からありがたさをひとつ奪ってしまったわけだね。
もうほんものぽさ、愚かさ、真正さはなくなっていた。
そうそう。高い低いの話じゃなくて、
金の話を持ち出した時点でもう勝負じゃねーんだよ。
そうだね。相撲協会の合理的運営なんかおらあ見たくないよ。
みんな怒るだけ怒って、それで理性的に解決しようとして、
なあなあが一番だと思うんだけどな。
かなしいね。
うん、かなしい。
あー・・・。わかる。
ヨメ・収入700万(入社五年目)
だった時に同じような問題が起きた。
「夫婦というのは、持てるリソースを等しく分け合って家庭内の生産性を最大に持っていく」
みたいな前提条件を結ぶしかない。つまるところ、愛の問題なんですよそれ。
「基本的には稼ぎで評価すべきだし、君の稼ぎは評価されるべきだ」という基本軸を持って
それでも夫婦なのだから、損得勘定以外の部分でも助け合うべきじゃなかろうか、と。
そういう風に交渉を運ぶことをお勧めします。愛、というマジックワードを要所要所で使う、ただし使いすぎないのがミソです。
「フェア」という前提に、「家庭内の生産性を最大にする」というような、
なんとなくその原因もわかる気がして、それは綱渡りの競争で勝者にならなければならない義務感が全面化していることなのではないかということだ。
職場はもちろん、親、兄弟姉妹、配偶者、恋人、友人、あらゆる人間関係で安心できる場所が少ない。
もちろん、子供でもない限り「無条件に自分自身を受け入れてくれる場所」なんていうものが誰にでも用意されているわけではないのは当り前だけど、
今の日本の社会って「失敗できない」という感覚が強過ぎやしないだろうか?
「あいつは使えない。使えないやつとはつるまない方がいい。いつ自分の評判に響くかわからない」。
実際、中学生あたりの年頃に、いじめる側にまわるかいじめられる側になるのか戦々恐々とする構造とあまり変わらない。
裏で働いているのは利害関係の論理で、この利害の理屈があらゆるところに顔を出している。
でも、個人的な関係まで悪化するかはともかくとして、ビジネスの場ではある程度それは仕方の無いのことだ。
しかし、恋愛関係が損得勘定なのは珍しくないとしても、親兄弟や利害が無いはずの友人関係までもが損得で勘定されかねない今の状況はどうなんだろうか。
いけてるやつとつき合いのあるいけてる自分、いけてないやつとつき合っているいけてない自分。
そして、自分は自分の友人や親兄弟や恋人から見て、いけてるのかいけてないのか?
あるいは実際はそういうわけでもないのかもしれない。
親兄弟・友人同士の関係における損得勘定感覚、利害の論理はもしかするとそれほど前面化しているわけではないのかもしれない。
だけど、ここで重要なのは「そう感じられる」ということだ。不信の種にはそれだけで十分だ。
社会生活を送るにあたって「失敗できない」という緊張を延々と強いられたらどうなるだろう?
誰に対しても「へまをすれば自分は徹底的に見捨てられる。だから決してミスをしてはいけない。この綱を踏み外してはいけない」
という強迫観念を持って日々を生きなければならないとしたらどうなるだろう?
そして、失敗してしまった人間が「自分はへまをしてしまった。綱から落ちてしまった。だから自分は見捨てられても仕方ない存在だ」
と感じているとしたらしたらどうだろうか?
恐れる人間は当然のようにその恐れの原因である自分の物差しを、そのまま他人を評価する物差しとして使う。
この場合「へまをしないようにそこに精力を傾けて努力している私は、へまをした人間を切り捨ててもいいのだ」という感覚だ。
こうして実感された全方向における関係性の「綱渡り感」は社会的現実になり、再生産され、綱から落ちた者への容赦ない冷笑・蔑視・罵倒は正当化される。
とにかく明るく元気で前向きにいることが義務づけられているこの空気の中、
少しでも気鬱な表情を見せれば途端に敗者の匂いが漂い、それだけであらゆる場面で敬遠の対象になってしまう。
今までの日本社会ならば、失敗したとしても、明るく元気で前向きにいることが可能だった。
社会全体が経済的な繁栄を享受する中で一度二度つまづいたとしても、もう一度立ち上がってライフコースを再構築するくらい日本社会の路は太く安定していたからだ。
「なあになんとかなるさ。死ぬわけじゃあるまい。人が人でなくなるわけがあるまい」が現実だったのだ。
だけど、今や日本社会の路は一本の綱になってしまった。誰かがどこかで失敗することは避けられない。
そんな社会で私たちは「一度躓いたら徹底的に孤立する」という「綱渡り感」から逃げられない。
「みんながやっている綱渡りなんだ。敗者が孤立するのは当然だ」という声があらゆるところから聞こえる。
でも果たして本当にそうなんだろうか?本当に失敗した人間は孤立しなければならないんだろうか?
目の前の路は、落ちたらまっさかさまに孤立へと落ちる、一本の綱なんだろうか?
実は、目の前の路を「綱渡り」にしているのは僕たち自身なのではないだろうか?
僕の弟は今大学4年生で、本命ではないけれども、某企業から内定を頂いている。だけど本人はひどく落ち込んでいるようだ。
大企業へ就職する者が多いという周りの友人に比べた時、弟は、既に失敗している、綱から落ちてしまった、という思いがするのだそうだ。
驚いたことに、留年してもう一度本命の企業(某広告代理店)に挑戦したいと言い出す始末。正気の沙汰とは思えない。
挙句の果てに、弟は僕に対しても卑屈な態度をとるようになってしまった。
僕の会社は弟の内定先よりもはるかに知名度の低い会社だというのに、だ。そんな弟を見るのは軽くショックだった。
だけど、自分の周りを見てみても、もしかしたらそういう感覚は、この日本社会ではもう当り前なのかもしれないと思うようになった。
共に氷河期の就職戦線を生き残った大学時代の友人が、弟とまったく同じ卑屈な態度をしていたからだ。
失業をきっかけに鬱になってしまった彼の元を彼の妻は去っていった。幸か不幸か彼らには子供はいなかった。
そして友人は変わった。ひどく自分を卑下し、まるで「まともな人達」と同じ場所で生きていること自体が申し訳ないことかのように振る舞うようになった。
彼の失業や離婚に心を痛める人間は世界で彼ひとりしかおらず、他の誰一人として彼の心痛を共有できるものはいないかのような物言いをするようになってしまった。
氷河期世代の割に比較的のんきに生きてきた僕は、今とても恐ろしくなっている。
今まで考えたこともなかったけれども、もし僕が会社から解雇を告げられたら、あの卑屈な表情を僕に向けてきた弟や友人は僕を嘲るだろうか。
僕の恋人は負け犬を見る様な目で僕を見て、そして僕から離れていくだろうか。何より僕はそんな態度をとり始めた周りの人間を恨まずにいられるだろうか。
人生の苦しい状況で、支え合うことよりも、蜘蛛の糸を奪い合った亡者達と同じように蹴落とし合うことを選び、
ひたすら損得と利害だけで行動するような餓鬼の如きなにかに成り果ててしまうのだろうか。
綱の下に広がる網は、綱の上を歩いている時にははっきりと見えるけれど、一度綱から足を踏み外した瞬間に消えてしまうのかもしれない。
なんという恐ろしさ。徹底的に孤立するから綱から足を踏み外せない、でも誰かは足を踏み外さなければならない。
ならば蹴落とす、自分が落ちない為に。落ちたやつには目もくれない。
こんな緊張があらゆる人間関係で全面化してしまったら、そりゃ狂うわ。
綱をうまく渡れている時でも生きている心地がしないもの。
「もし、お前の一番の希望が通らなかったとしても、その時は僕がどこかにコネをつけてやるから。そのくらいはなんとかなるから。だから後悔の無い様に思いっきって挑戦してください」と。
そして、友人にはこうメールする。「元気?お前が暇なうちに久しぶりにまたオールナイトでも見に行こうぜ」。
彼女にもメールを送る。「お仕事おつかれさん。今度、温泉でも行っておいしいごはんでも食べて一日中ぼーっとしてゆっくりしよう」。
多分、会社の同僚にも送るだろう。今はもうあんまり顔を合わせなくなった大学時代の友人や高校時代の友人にも。父と母にも送ろう。
少なくとも、僕にできる部分だけでも常に網を張っておこうと思う。
きっと今は、そういうひとりを思いつめさせないように気遣う努力がひとりひとりにとって必要な時代なんだと思う。
そうじゃなきゃ、みんな悲惨な気分を内に秘めて、そして隠しきれずに卑屈な顔をしながら生きていかなければならなくなってしまう。
いいことがあれば共に喜び、わるいことがあったら共に悲しみ、そしてまた再スタートを切ることをお互いに後押しし合わなければダメなんだと思う。
これだけ厳しい時代なんだから、経済的な意味でも、人間的な意味でも、そのくらいのことができなければ、僕たちは人間でなくなってしまう。
タイトルをつけてみました。本当に世知辛い世の中ですよね。義理人情、僕は余り義理というやつが好きではないのですが、人情が廃ればこの世は終りだ、と実感するようになりました。
損得勘定しながら男にくっついたりやらせたりするぐらい頭悪いDQN中学生でも出来るしやっとるぞ
そんなんで「行動力」とかどんな幻想抱いとるんだ
俺も昨日、あんたと同じような思いしたよ。今まで良好な関係を気づけていたと思っていたお客さんに、物凄い剣幕で怒られた。
その時何が起きたのか全く頭で理解できず、物凄いパニックになったけど、事実として「お客様を怒らせた」事に変わりはないわけで、俺に落ち度があったんだろうと思う。
お客様に対して「良かれ」と思った事が結果的に悪くなる事はある。自分の意図と違う事もあるだろう。しかし、あんたが「良かれ」と思った事は、自分の損得勘定だけでやったわけじゃないだろ?限られた時間で、相手と良好な関係を気づきたい。心も体も気持ちよくなって欲しい。そう思って話を切り出したんじゃないのかな。
その考え方は決して間違っているとは思わないし、きっと楽しいと思ってくれた人もいるよ。
ちょうど結婚する友達の紹介で、合コンしようという話になった。
だけど、合コンについて人と話したりググったりしてるうちに
なんか合わないなーと思いだして結局お断りした。
というのも、女の子はおごられて当然みたいなことを言われて、
そういうのがなんだか自分の中でいやーな気持ちになったからで。
会社の同期何十人かで旅行に行ったときもこんな気持ちになった。
飲み会の出し物で、2000円程度のプレゼント交換をしようという話になり、
女性陣は自分とのデート券とお菓子の包んである封筒を回すということに。
前日の楽しみな気分が台無しだった。
結局用意していたプレゼントをデート券の当たった人に押しつけて無かったことにした。
まぁ過ぎたお話。
私は大して親しくもない人からなにかしてあげたり、してもらうのが無理な人なんだろう。
例えば、自分に対して好意を持ってる人がいたとしても、
その人を受け入れるのには時間がかかるわけですよ。
いや、時間がかかるというより、一生受け入れられない。
学生のときに周囲の悪ふざけでそういう人と二人きりにされて
どうでもいい人の好意なんてうれしくもなんともない。
好きでもない人とデートするなんて死んでもいやだ。
きっと私はガキなんだろう。
それ、損しないかなぁ。
全然別視点からの話なんだけどもさ。
高校のデザインで「ご当地キャラをデザインした」って結構なハクというか
経歴になると思うのね。特に「欲が大きい」なんていうくらい先見据えてるんならさ。
ぶっちゃけ、そのデザインあなたがゴネれば相手方は別の人に変えるだけだろうし、
「俺は納得いくようにした」って満足感以外の何も得られないと思うのね。
俺なら足がかりにしようと思うけどなぁ。結構な損をしてると思う。
もちろん、自分がデザインしたものをフリーで利用されるのは気に入らないって発想はわかる。
辞退する権利もあると思う。そうしたいなら、そうすべきだよね。
でも、それが得になるかっていうと全然ならないんじゃねーかなぁ。
なにせ、あなたの人生これからなんだし。今カネにならなくても、将来的に他人に語れる形ある実績になったってのは
結構「得をする」話に俺は思うんだけどねぇ。
そして「得をする」ことがマーケティングの基本だとも思うね。
どこの誰様でもないあなたが、「~をデザインしたひと」になる機会をほうり捨てるっていうのは
結構な損失になってる気がするなぁ。商売って、何を幾らで売るってだけでもないからね。
まーでも、「納得できない」気持ちはすんげーわかるので、思ったとおりにしたらいいと思う。
気持ちは大変わかるし、俺があなたの立場でも同じこと言いたくなるだろう。
俺は損得勘定重視で生きてるので、言わないだろうけども。
街にいる誰もが街頭演説に耳を傾け、自分にとっての良を模索選択してる訳じゃないからね。
だがこれがもし「街頭演説を聞いて、演説内容についてペーパーテストします、100点満点中60点を越えたら賞金を差し上げます」なんて事になったのなら誰もが自分の予定をなげうって挑戦するだろ。
問題は、そこだ。
損得勘定でしかその結果の経緯や全容を知りたくもないくせに
そのくせ、結果だけを簡潔によこせといい、
その結果だけで判断するという事だ。
格好つけて「X行で」とか「簡潔に」なんて言っていないで、
興味ないから結果を含めてわからないままで過ごせば問題ない。
けれど、結果だけを知りたがるから始末が悪い。
http://anond.hatelabo.jp/20100512122859
前回の続き。
自分の中の整理ができたつもりで、できた。と思い込んでる。
一人、感傷的なA君はとっても寂しがりや。
でも、表立って出てくる事はほとんどない。
もっぱら世に出ているのはB君。
実はA君だったりする。
でも、このA君、条件を満たすと結構出てくる。
それは、俺が心を許したかどうか?
心を許した相手の前ではA君はこれでもか。
って言うくらい出てきてしまう。
それがうれしくてうれしくて仕方なかったんだね。
でもね、感傷的なA君は、時々論理的なB君の口をふさいじゃう。
だから、つきあってる時にB君が見たもの聞いたもので、
あれ?と思った事もA君が口をふさぐから気づかないふり。
だけど、A君傷ついて自分の傷をさすり始めたら
口が開いたB君はとたんに言い始める。
彼女はあそこがだめだった。ここも違ったんじゃない?とか。
でもこれは弱いA君が壊れるのを防ぐためのB君のやさしさ。
でも、同時に彼女を否定するっていう暴挙。
A君は痛いよ。辛いよ。と泣き叫び。
B君は駄目だよ。駄目だったんだよ。と押さえつけてる。
それは自分の心の平静を保つために、一生懸命わめいてるんだな。
そういう風に感じるようになってきた。
そして、今日はA君の声の方が大きい。
ここに1本のバナナがあります。これを皆さんにあげましょう。ただし、今日ではなく明日まで待てば2本のバナナをあげます。
この条件で、今日バナナが欲しいと言う人はいませんね。そう人間は損得勘定ができる生き物なのです。猿とは違うのです。
だってこの校長先生、どう考えても、あしたバナナを2本みんなに配る気はない。
しかし、今持っている1本のバナナならもらえる可能性がある。
そして、その1本のバナナをもらえれば、あとは、明日生徒全員に2本のバナナを配らなくてはならなくなるだろう。
であれば、なんとして、1本のバナナをもらうべきである。
そして、翌日、2本もバナナいらないという人から1本バナナを分けてもらうべきである。
この1本のバナナのおかげでみんな2本のバナナを得られたにも関わらず、
この1本のバナナの奴は、もともと1本もバナナを得られなかった集団にバカにされるのである。
おまえは1本のバナナしか得られない、先が読めないバカだと。
先が読めていないのはどっちだろうか?絵に描いた餅は誰だろうか?
しかし、現実はこいつは虐められる。
であるならば、だれも1本のバナナに手を出したりしない。
そして、みんなバナナはもらえない。
ようするに人類は、猿にも劣るという事である。
結婚式の披露宴のご祝儀が1万円だったと文句を言っている人の記事と、それについて付いているコメントを見かけたので思うことを書いて見る。
まず、常識的には3万円は出すものだとは俺も思う。感情論を敢えて除外しても、出さないと陰口等々のリスクが高すぎて割に合わないし、新郎新婦がかけているコストとのバランスがあるからな。その意味で、1万円しか包まなかった人は賢明ではないと思う。(ただし、地域差とか経済的事情等々もあるから、事情によってはもっと少なくても良い場面もあるとは思うけど。)
でも、1万円しか出さなかった人を新郎新婦が非難したり、あまつさえ1万円じゃ赤字だとか言い始めるのはおかしいと思う。そもそも、披露宴というのは、新郎新婦が披露したくて開くイベントだ。会場選択も料理の選択も引き出物の選択も、言葉は悪いが、新郎新婦の自己満足で決めたものだ。そして、多くの場合、出席者はそんなものは望んでいない。あくまで、新郎新婦を祝いたい気持ちが強いから出席しているだけだ。だから、例えば1人辺り2万円かかったから、出席者は最低でも2万円を払うべきだとか言う損得勘定はしてはいけない(少なくとも他人に見せてはいけない)ものだと思う。あくまで、建前上は、自分達の結婚を自分達が披露したくて開くんだから全額を自費で出すのが当然だと思う。所詮は建前ではあるけど、そこは崩しちゃいけないところだと思う。全額自費で出すと破産間違い無しだとかいうなら、そんな分不相応な披露宴はそもそも開くべきじゃないんだと思う。
つまり、ご祝儀というのは、あくまで善意によるもので、新郎新婦の権利であってはいけないと思う。披露宴の負担を少しでも減らして貰えれば、それだけで新郎新婦は感謝しなくてはならないものだと思う。そして、第三者も、その新郎新婦の感謝を尊重して、余計な口出しはしてはいけないものだと思う。額の大小より前に、祝いにわざわざ来てくれたこと自体に価値があるんだから。
更に言うなら、ご祝儀を3万円出さないなら来るなとかいう人がいるけど、余りにも暴論だと思う。新郎新婦は、そもそもご祝儀の額次第で「来るな」とか言うような相手を招待すべきじゃない。それこそ、ご祝儀目当てで呼んでいると認めるようなものだ。あくまで、自分達が披露したいと思う相手を呼んでいるのだから、来てくれたこと自体を感謝すべきだと思う。そして、第三者が他人の結婚式について、ご祝儀を出さないような奴は参加するななんて勝手なルールを押しつけるべきでもないと思う。
これらのことを前提にした上で、日本では相互扶助の観点から新郎新婦の負担を押さえるために、3万円というご祝儀を渡すという「善意」が常識として定着しているものだと思う。このご祝儀があくまで(本来はしなくていいのに)善意でやっているということが大事なのであって、まかり間違っても新郎新婦が権利だと認識するようなことはあってはいけないことだと思う。金勘定もそりゃ大事だけど、何というか、守らなくてはいけない建前というものもあるんじゃないかと思う次第。
そして、義務ではないのに、出席者は祝いの気持ちや費用負担への配慮を込めてご祝儀を渡すからこそ、良いものなんじゃないだろうか。暗黙上の義務ではあっても、言葉にしてはいけないものもあるんじゃないだろうか。
(まあ、元の記事では、新婦は1万円しか出さなかった出席者の結婚式では3万円を包んだそうだから、その意味では新婦が不満を感じるのは人情だと思う。だけど、それは、あくまで上記のような話を前提としたものでなければならないと思う。)
その自己認識は確かに俺も大事だと思うし、だからこそ他人を尊重しようという発想が出て来た訳です。
ただ、実際のところ、見る力のない人には見えないんだよね。そもそも他人を軽んじてるような人には、他人の良さなんて目に入らないし、自己認識も適切にできない。
だからこそ、最初は損得勘定で良いから、目上とか客観的な評価の高い人を立てることを覚えるべきだと思う。そうやって張り合うのを止めて一歩引いて見ることで、見えてくるものが大きいんじゃないかと思う。そうして、損得勘定だけでなく、納得して行動できるように成長していくのかなと思う。
最後のくだりは、元増田が後輩を「下」に見下した故の自己満足だから、(直接後輩から「上」として尊敬された、という訳ではない)それを「損得勘定」として「満足」に結びつけるのは少々侘しいのでは?
元増田がしてるのは「世界が百人の村だったら」で散々言われてきた差別意識からの優越感でしかないよ。
元増田は自分が「上」に対して「損」した部分を、自分より「下」から搾取しているだけだ。(物でも感情論でも)
あるいは、元増田はその後輩が「下」関係でなくても満足かを自分に問いかけてみるといい。
「相手を尊重することで自分も尊重して貰える」事に、上下関係が必須(有利)というのは、「尊重」される部分が立場や年齢しか「ない」という事だ。
勿論、他人との間にそれしか上に立つ手段を持たない人もいるだろうが、大概の人間は、自分がそうした存在という事を認めたがらないし、そうじゃないよう努力をする。
それが、「例え対等でも尊重しあえる」存在じゃないのか?
元増田の感覚はいかにも学生らしいものだけど、そんなのは就職して数年しか有効じゃない。
勿論、年上への礼節を軽んじろ、という事じゃない。単なる上下関係だけでの優越感や損得なんて、1年経ってまだしがみついてるようじゃ、会社にとっては「使えない」人間でしかない。
社会人になったら、超えなきゃいけない壁の前で立ち止まってるように思えるなぁ。
がんばって欲しい。