はてなキーワード: 損得勘定とは
憲法やら、世間の風潮やらで、人類は全員自由平等だってはき違えてる人多いよね。
はき違えて、俺の思い通りにならないとおかしいとか。上司のしてることは正しくない!!で怒るとなる。
普段の生活のレベルでは、そこまでじゃない。
能力ある人や経験豊富な人のやり方や意見の方が、すんなり通るのは自然なことだという認識が必要。
私的には、損得勘定で考えれば追従的になったほうが得だから。という話より、
個人的に思うことだが、やたらと「対等」であることにこだわる人って多くないかな。目上の相手だとか明らかに実力で負けてる相手とも対等であろうと張り合おうとしてる。
でもさ、損得勘定的には、むしろ上下関係をはっきり付けて、相手が上で自分が下だって白黒付けておいた方が得なことが多いと思う。そうすると、相手は目下に対する目上の態度として、色々親切になったり寛大になってくれたり面倒をみてくれたりするしさ。色々と楽なんだよな。相手を尊重することで自分も尊重して貰えるというかね。媚びるのとは違うんだけどさ。
ここでも話題になってたようなモテ・モテないという話でも、結構当てはまる物があると思う。例えば女友達が全くいなかったくらいにモテとは遠かった頃でも、そこを気を付けるようになったら色々と変わったよ。男友達は世話してくれるし、女の子と話してるときもポカをやっても大目に見てくれたり助言してくれたりしてさ、どんどん状況が良くなった。
んで、それ以外の人間関係でも随分と円滑に回るようになった。
まあ、考えてみればこんなのは当たり前なのかなとも思う。俺だって、目下として礼節をわきまえてるような後輩がきたら、どんどん世話をしてあげたくなるし、実際にそうしてるから。で、例えば就活の手伝いで色んな人を紹介して話を聞けるようにしてあげたら、ちゃんと後輩が就活で大成功したときとか、俺も少しは役だったんだって凄く嬉しかった。
変な「正義」を求めちゃってるから話がおかしくなってる気がする。
履歴書なんて、所詮は提出する相手に合わせて作るものなんだよな。有利になりたきゃ相手に合わせて作れば良いし、不利で良いなら自分の好きにすれば良い。
結局、履歴書を手書きで書かせて何かの能力を判断するのも相手の企業の勝手。ハンデ覚悟で、手書きを求めてる相手に、パソコン等で作った履歴書を提出するのも勝手。あるいは、相手の要望を分析する手間を惜しんで、無難に全部手書きにしてしまうのも個人の勝手。手書きを求める企業が気に入らないからと志望しないのも個人の勝手。みんな自己責任で自由に損得勘定をして自由なやり方をすりゃ良いんだよ。
ただ、「手書きで書かせるのはおかしい」だとか変な正義を主張し始めたら、病気の一歩手前だと思う。手書きで書きたくないという自分の都合を正当化するために相手を悪役にでっちあげているだけだからな。
ここ数年間、何をしても楽しめない。
後になれば、何故こんなことに夢中になれたのか?
何故こんなことに時間を費やしたのか?と
後悔するであろうことが目に見えるようになった。
昔はそれでも「その時、楽しければいいだろう」精神で
色々、同世代の人が大抵やっているだろうことを
曲がりなり自分なりにやっているつもりではいたし、
それで何となく満足していたような気がする。
今は、その精神も失くしてしまった。
新たに何かをすることに対して臆病になった。
何となく黙々と読書しているだけなのを知られているので
「明日は何かするの?どこか行くの」と聞かれ否定すると
「たまには外に出た方がいいよ」とか
「休みにしかできないことをした方がいいよ」と言われる。
余計なお世話だなんて思わない。むしろ気に掛けて貰える事が
有り難くすらあるし、自分自身そう思うことは多々ある。
実際、毎週そうであり、それを思うと休日前夜から憂鬱でもある。
何かしなければならないという強迫観念に縛られている気さえする。
手始めに昔は楽しいと思い、夢中になっていたこと
少なくともそういう記憶の残っているものをやってみた。
主にTVゲームだったが、案の定、数10分で飽きた。
ゲーム機本体の横に新品・中古合わせて未使用のソフトが山積み。
同じような理由で懐かしさから購入してみたものの
同じく昔習っていたエレクトーンを懐かしみ、
しかしそれはさすがに買えないからキーボードで妥協したものの
結局一度しか弾かず、未使用の楽譜も山積みのまま終了。
熱しやすく冷めやすいという人がいるがそうではない。
熱しにくく冷めやすいという人もいるがそうでもない。
もはや熱しないし、故に冷めることもない。そうなりつつある。
なら何故上記の物を合計すれば結構な金額になるのに買ったのか不思議。
愉しんでいるのかもしれない。そうやって主に外的な娯楽が
自分に何かをもたらしてくれると過剰に期待し過ぎているのだろう。
そのせいで自分が当初期待していたようなものを得られない、
というより、そもそも、もたらしてくれると期待していた
その「何か」とやらが何なのか実はよく分かっていないらしい。
やらなければ分からないだろうと言う人もいるだろうが…
室内でできそうなことは一通りやってみたが散々な結果なので、
今度は外に目を向ける。世の中、多種多様な店が溢れているから
何か欲しい物が見つかるだろうと、また過度の期待を寄せて徘徊するも
いざ購入する前になると上記の山積み未使用品状態になりそうで
踏ん切りがつかない。迷っているだけで時間だけが無駄に過ぎていく。
それと普段上記の店以外では殆ど外食しないので
色々な店を回ってみたりもした。次第に割と好みの店が絞られ、
また行ってもいいかと思うようにもなった頃もあったが
公の場所であるから、周囲の客が騒々しくても
(愚痴や他人を貶す話、損得勘定丸出しの話等に異常な嫌悪を感じる)
苦情を言える立場にあるわけでもなく、不快な気分で帰途に就く。
それを何度か繰り返すと、出た方がいいのかも…と思いつつも
また前のような目に遭うことを考えると、またしても踏ん切りがつかない。
こちらも買い物同様にそれを迷っているだけで時間が過ぎていく。
もう迷う必要もなくなり、妙に晴れ晴れした気分になる。
サザエさん症候群なるものがあるが、
どこかへ行った方がいいだろうかなどと悩む必要もなく、
長くなってしまったが、
結局どうでもいいことで迷ったり悩んだりするのに疲れた。
というより、本当はどうでもいいことだから迷ったり悩んだりする。
書き始めるも何も書けないか、うまく言語化できないかで
そもそも書きたいことなどなかったのではないかとさえ思えてくる。
それでブラウザ閉じて PCシャットダウンを何度繰り返したことか…
今回非常に珍しく最後まで書ききれそうなのが半年振りだ。
(何が言いたいのか段々分からなくなるのは相変わらずだが)
無駄に時間を費やした割には何もしない。変化しない。それが憂鬱。
最初からそうなる原因を排除してしまおうと思うようになった。
部屋にある置時計もずっと停止している。
未使用品も数々も捨ててはいないが押入れの奥底で寝ている。
何かした方がいいのだろうかなどと考えなくていいように
たとえ考えても極力できない状況に無理矢理持っていく。
何かしなくてはと悶々と過ごすぐらいなら、その方が良い。
残ったのは置き場所に困った山積みの未読本のみだが
信頼を定義してみよう。
元々ボクは信頼とは、単純なメリット・デメリットを超えた、その損得を埋める心の働きだと思っていた。
例えば、一度悪いことをした人でも、そこに信頼に値する感情があれば、次は悪い事をしない、と相手を信じるわけだ。
そして、その信頼はどうやって作られるのか?
それは、おそらくランダムなのではないだろうか、とボクは思っていた。
心とは元々損得勘定で定義できない心の働き、特定のものに対する「その他」の感情を集めたようなものだ。
その「その他」がどう作用するのかは、はかれない。だから、ただ直感的に「コイツといると落ち着く」だったり「楽しくなるな」だったり「安心する」だったり。そういったその他の感情で信頼が生まれる。そしてその信頼を向けられる対象は、特定的な誰かであって決して代用のきく物じゃない。
そういう信頼があるから、特定の人間と根強い関係を作り、信頼がうまれたり、愛が生まれたりする。それが信頼の定義ではないか。
と、思っていましたが、違いました。
信頼とは、他人の目からみた「過去の自分の最適化」意外の何者でもない。
10回良いことをした人が1回悪いことをしても「あの人は10回も良いことをしてるから1回ぐらいしょうがない」と思う。これが他人の目による、過去の自分の最適化による評価。それが信頼だ。
過去に10回悪いことをした人が1回良いことをした所で信頼は生まれないのだ。
しかし、ここには1つ盲点がある。「過去の自分の最適化」ではあるが、その「過去の自分」は誰が定義できるんだろう?
答えは誰も定義できない。つまり「10回の良いウソをついてる人が、1回の本当の悪さがバレても、相手にとっては10回の良いウソが維持されるから信頼される」という形で、信頼を意図的に創造する事が可能になる。
どんな手段でも相手にとっての「過去の自分」の定義を書き換えてしまえばいい。演出で書き換えればいい。そうすれば、いくらでも信頼は創造できる。
10回悪いことをした人が、たった1回の良いことをする前に10回分の努力がありました。と、うそぶけば、そのたった1回の良いことに10回分の努力がポジティブ評価され「あの人は過去は悪い人だったけど、すっかり更生して立派になった」などと10回分の良いことをした人と同じぐらいの信頼を簡単に作り上げることができる。
過去そのものは変えられないが、現在は常に過去になってゆく。現在、相手に少しでも「良いところ」をアピールし、それを積み重ねればいい。ただそれだけで信頼はできる。「良いところ」とは「相手にとっての良いところ」であり「都合のいいところ」だ。それをアピールすればいい。
しかも、「悪いところ」は全て隠せばいい。単純に「認識」されなければ、過去の自分の最適化をするときに悪い要素が入ってこないのだ。
100回悪いことをしてる人が、それを相手に伝えず、10回よい所を見せれば、相手は信頼してしまう。
さらに、この理屈でいえば、信頼している人間関係とは大体「代用がきくもの」である事もわかる。
例えば、自分がすごく信頼している人が100回良いことをしている人だったら、同じだけ100回良いことをしてる人が他にいれば(そう認識できれば)、おなじだけの信用を創りだすことができる。
良いこと、悪いことを回数でカウントしてるのは便宜上なものだが、要するに他人にとっての自分に、どれだけのポジティブ要素を演出できるか、これが信頼の創造だ。
会話によって、相手にすごく納得できる話しぶりをしてあげれば、相手が自ら持っていた「10回分良いことをしてたら、こういう形になる」という想像と自分が同じ形である事をアピールできたら、実際に10回分良いことをしなくても、相手の脳内で「ああ、きっとこの人は10回分の良いことをしてきたに違いない。だからこういう形なんだ。よくわかる」と思われる。すると何もしてなくても会話だけで10回分の良いことをした信頼と同等の感情を作り出すこともできる。
これが、信頼の測り方。便宜上の信頼はあるが、心からこの人は信じられる!なんて一生を託せる人間はこの世に一切存在しない。
幼いながら、ようやくこれが分かりました。
根源的な脳の3つの本能、すなわち「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」
壁にタッチした後、振り向いて電光掲示板を見た瞬間をゴールだと考える
結果を求めるあまり能力を発揮できない愚を避けるには、目標達成の「仕方」にこだわるのがいい。勝負に懸けるのではなく、達成の仕方に勝負を懸けるのだ。そして、損得抜きの全力投球をする。
結果を求めず、達成の仕方に全力投球するとき、人間は信じられない集中力を発揮する。ポイントは、「損得勘定抜きに」だ。損得勘定とは、実は、結果を求める気持ちにほかならないからである。
●point 1:ゴールを決めない
●point 2:コツコツやらない
●point 3:結果を求めない
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100212-00000001-president-bus_all
レイプ関連で連呼されているので獣性と呼んだけど、その呼び方に限定せず、要は感情についての徒然。
嫉妬だとか、闘争心だとか、焦りだとか、そういう人を焚きつけて動かす衝動、みたいなもの全般のことについて、ちょっと書いてみようと思う。
これらは、良い面で見れば、誇りやプライドを生み出すものでもあり、美学を生み出す原動力でもあり、勇気や度胸の源でもあると私は思う。
生命に「今ここに生きている」という実感を与える、命の万能感を与えてくれる、人によってはその感情こそが自我の一部だとさえ感じられる、そう言う類の物。
命のありかたそのものだと思うのだ。
でも、そういうのが全てなくなっても、多分人類は何も困らないと私は思う。
これはSFなんかでもさんざんテーマにされてきた、絶望的なけれども大いにあり得る推測なんじゃなかろうか。
普段性欲が無くても、必要な時だけ薬を使ったり、人工授精したりで、もはや子供は作れる。将来的にはもっともっと安価で簡単になるだろう。
恒常的な性欲のせいで、心理的傷を負い社会生活に支障を来たし、生産力になれなくなる人が出るくらいなら、恒常的に性欲をなくしておいて、必要な時のみ、必要な量だけの生殖活動が行うようにした方が、社会はより生産的に上手く回るかもしれない。
「いい女とエッチするために出世したいから人は働くんだ」と言う人もいるが、性欲が弱い人だけしか世界にいなかったとしても、明日おいしいご飯を食べてあったかいベッドで寝て、趣味をまったり楽しむ、という目的だけで、充分働くことが出来てしまうから、別にエッチをご褒美にしなくても社会は回ってしまうだろう。
セックスだけじゃない。
人は何かを誇るから、何かを差別する。何かを誇ってしまった時点で、それはそれ以外の物に対する差別そのものだからだ。
誇りを捨ててしまえば、差別もなくなる。差別がなくなれば、しがらみに囚われない裁量により、適材適所を推し進めることが出来、社会の生産性を上げることが出来る。
感情や衝動。そういうものがなくなったら「人はきっと何かとにかく、生物として致命的な欠陥を負って、駄目になるかも知れない」と、いう意見をしばしば目にするけれど、今までの歴史を振り返ると、どうも実際は「一定の技術力がその感情を代替できるようになれば、人類はその感情を捨てることによって、駄目になるどころか、むしろ繁栄する」が正解な気がする。
人類は大まかに分けて、原始社会→中央集権社会→資本主義社会 と発展していったのだけど、その度に一つずつ「大切」だと言われていた感情を捨ててきたんじゃないかと思う。
原始的な社会では、恥の概念がとても強く、恥を避けて生きることに、美学を見いだす(細かいことは文化人類学とか、まぁそんな感じでググってくれ)。
今でも原始的な生活を続ける部族は、自然をあるがままに受け入れ、その範囲内で最適な行動を取ることが美しいとされる世界観を持っている。自然に逆らって、環境が気にくわないとがなりたて、書き換えようとするのは、みっともないと感じる価値観だ。
だが、恥も美学も捨てることによって、自然に従うのではなく、抗ってコントロールし、支配することに成功した中央集権社会が、おおよそ原始社会よりも高い生産性を持ち、彼らを歴史の影へ追いやった。
文字の発明によって、数万人単位の人間が法によって共同作業できるようになったため、分業化が進んだからだ。自然を理解しそれに合わせて生きなくても、ただひたすら法に従って生産活動していれば、自然を逆に支配できるほどの力を得られる。
これによって人は、恥の概念を捨てて、支配者の定めた法からはみ出すことのみを恐れる、罪の概念を得た。
日本は先進国では珍しく、原始アニミズムの信仰を未だに強く残している国だが、これは明治維新時に、中央集権的な思想を一部取り入れつつ、資本主義にシフトしたからこそ発展できたわけで、江戸時代以前のままの体制を続けていれば、今の日本はなかっただろう。
一方、中央集権社会の、剥き出しの支配欲の元となっている「誇り・プライド」さえも捨ててしまったことで、発展したのが資本主義社会だ。
資本主義を支えるのは単純な損得勘定と、それを支える「リスクへの恐怖感」だけだ。もはや罪の概念すら必要でなく、ただひたすらリスクを避けるために踊り続けていれば回る社会だ。
人が人を支配しなくても、代わりにお金がそれを代替してくれるようになったから、人に誇りも意地も必要なくなったのだ。
資本主義社会で戦争が起こるのは、おおよそデフレの時くらいであり、つまりは高すぎた生産性を下げるために、わざと誇りや意地を煽って生産性のない破壊活動を行う始末であり、当然その背後にある有り余るほどの生産力は、中央集権社会を八割方駆逐した。
この流れが続くとしたら、多分、人はそのうち、リスクに対する恐怖心が無くても、うまく社会を回せる発明品を手に入れるのかも知れないと、私は思う。恥も、支配欲も捨てることで発展してきた人類が、次のステップへいつの日か進むことも、充分あり得ると私は思う。
そしてそれらを突き詰めていくと、人類の発展とは、感情を一つ一つ捨てていく作業に他ならないのかも知れない。
感情を捨てたことで人類が滅びれば、まだある意味人類は救われる。私達の中にある、自我の一部とも言うべき様々な感情は、必要な物だったと証明されるからだ。
でも実際はその逆に進むのではないかと私は思う。
人間がただ計算するだけのコンピュータの用に生きるようになったとしても、多分人類は何も困らず、むしろますます発展していく。していってしまう。
人間はシステムを動かすための素子であり、人類としての主体はむしろ、社会システムの方にある、そんなSFみたいな世界も、案外本当にいつの日か実現してしまうのではないかと、そう考えてしまう。
それでもって、人の獣性を肯定して、「人の獣性はなくなるわけないんだ!! なくなることを期待しちゃいけないんだ!! むしろ自衛本能という女の獣性を駆使してそれに立ち向かえ」みたいに説いている人というのは、社会システムが支配する世界が訪れないように、戦っている人なのかも知れない。
システムを挟まず、主体性を持った命と命がぶつかり合う、システムに主体性を譲り渡さない世界を、願っているのかも知れない。
最近の流れを見て、ちょっとだけそう思った。
まぁ、だからといって、セカンドレイプを看過していいわけではないと私は感じているし、それを制するためのシステムを発明する必要があるだろう。
ただ、そんな私自身の発想自体が、多分世界をシステム化していく原動力なんだろうな、とも思うのでした。
以上。
何をいまさら、いつだって結論は出ないテーマ。
「男が女より多く金を払うべき」
僕は基本的には男女等しく割り勘にすべきだと思っている。
それがこちらが誘ったデートならまだしも、友達同士ならなおさらだ。
学生時代の友人と飲むときは割り勘が常だった。
ところがあるときそこに学生時代の友人とは別の友人が輪に加わるようになった。
僕らも「やってくれるなら」と特に不満はなかったのだが、僕には一点だけ不満があった。
それが、「男は女より金を多く払うべき」だ。
彼はなぜか毎回会計時に「男4000円、女3000円」という言い方をする。これが僕は非常に気に入らない。
理由はいくつかあって、一点目として、もともと割り勘だったのになぜ今多く払うのかということ。
二点目として、友達同士でなぜ男女で差をつけるのかということ。
三点目として、給与の差を考慮したって、僕が一番給料が安いということ。そして二番目に安いのも3人男がいる中のうちの一人だということ。
つまり、幹事男>女の子たち>男友達>僕という順で給与の差があるということだ。
この状態でなぜ多く払わなければならないのか。
これがようやく口説き落とした女の子のためならまだ小さい男だと思われたくないとか、
経済力をアピールしたいとか下心があるからといった理由がある。
でも損得勘定なしの学生時代の友達じゃないか。多く払う理由が見当たらない。
だったら割り勘を切り出せばいいじゃないかとか、お前が会計をやれというのはもっともなのだが、
それは置いておいて、先に幹事男に切り出された場合を考えてみる。
これが非常に厄介で、各々がそれぞれの金額を出し始めたときに割り勘と言うのは非常に勇気がいる。
女の子からしたらお金を多く払わずに済む話で、割り勘なんて言おうものなら露骨に嫌な顔をするだろう。
もしかしたら、友達だからこそ了解してくれるかもしれないが、裏で小さいやつとか思われるかもしれない。
また一番めんどうなケースは、「じゃあお前は3000円でいいよ」と言われたとき。
これは、正直、ある種義憤みたいなのを感じていたはずが、ちょっぴり萎えてしまう。
となると、僕は「男は女より金を多く払うべき」というテーマに憤りを感じつつ、
それを隠れ蓑にして、単純に自分が多く払いたくないだけということになるのだろうか。
そんなことない、とは思うけれど、でも、きっとそうなんだろうな。
けどそれならそれで、そういう通念はもっと存在していいと思う。
幹事男は「男は女より金を多く払うべき」というのはマナーだと言った。
それは男が女より高い収入を得ているという社会的通念の存在という前提がある。
彼はその前提の上に立ってマナーだと言っているのだろうが、それならそのマナーは自己完結していればいい。
金を多く稼いでいるやつが多く出す。男女でどうこうとか言わず、それでいいんじゃないかと思う。
案外「男は女より金を多く払うべき」というテーマを隠れ蓑にしているのは彼もなんじゃないか。
しかし世の中はそうは見ないんだよな。それが不思議。
友達が友達でなくなっていくのは、時間と空間の隔たり、そして収入だ。
いつまでも利害関係のない友達関係を続けていくには金銭条件はきちんと考慮されるか、
あるいはまったく考慮しないかのどちらかだと思う。
僕はどっちかはっきりしてほしいし、どちらかと言えば後者であってほしいのだが、彼は一体どうしたいのだろうか。
この人の考え方自体に恋愛至上主義的なにおいを感じる。
何か恋愛が神聖なものであるとか思ってそうだ。
結婚とか恋愛なんてものは普通に損得勘定だけでいいと思うんだ。
自分がしたくないとか、したいとかいう意思だけで決めるよりも、
例えば結婚しない道を選んだとすると、自由な時間が持てたり、人間関係の煩わしさからは解放されるけど
その分、金銭的余裕もなくなるだろうし、当然子供も持てないし、将来困るかもしれないというリスクが伴う。
そういった利益になることとリスクを天秤に乗せて、「どっちか自分にとって得か」だけで決めたらいい。
そこで、結婚するべきだなぁと思ったなら結婚すればいいんだと思う。
結婚なんてそんなに難しいことじゃないから。
まず腫れ物に触るような態度を続けている限り改善は見込めない。
現時点で弟と世界とのつながりが家族しかないのなら、その家族からも拒絶されると弟はもうどうしようもなくなる。
だからまず家族が弟との接点になるしかないと思う。初めは向こうが突っぱねても、じっと我慢して接触を続けるしかないと思う。
そして家の中で仕事を与えて、それをこなしてくれたら感謝する。それで彼にその日一日の生きている意味を与えられる。
それを少しずつステップアップさせていって、最終的に再就職する所まで辛抱強く持っていければいいなと思うよ。
そのレベルから始めなおさないといけないのなら、それをするしかないんじゃないかな。
損得勘定というよりは『慣例と違うし何となくやだ』という感情の問題じゃないかと思う
っつーか、友達づきあいって損得勘定ありきのもんだと思う。
そうなのか。あんま考えた事なかったな。
その場その場で誘いを受けたいか受けたくないか、誘いたいか誘いたくないかって判断はするけど、友達であること自体が損か得かっていう計算はしたことなかった。
やべー、俺、友達の心の中で干される5秒前かも。
っつーか、友達づきあいって損得勘定ありきのもんだと思う。
たとえば、自分がその人に何かをしてあげるのが快感で、その人は人に何かをしてあげるのが快感だとすれば、それは利害の一致した対等な友人関係と言えるわけだし。
形はどうあれ、自分にとって利益のある相手(物質的か精神的かは問わない)と一緒にいるのが、人間一番楽しいわけだから、お互いがそういう相手であれば、利害関係はプラスマイナスゼロで、「一緒にいて楽しい」ということになる。
いきなり無償の友情を求めるのは都合がよすぎるし、こっちがいきなりそれをやったら向こうも戸惑うだろう。
極端にいえば、「損得抜きで自分と付き合ってほしい」というのは、自分の利益でしかないわけで。
「自分を楽しませてくれる相手」という利益を求めてその人と一緒にいてみて、向こうが自分に対して何かの利益を求めてくれれば対等な友達関係は成立する。
割り切って、というか、もっと簡単に「自分が一緒にいたい相手・利益のある相手」とだけ付き合ってみて、その利益を自分が得るために、相手に何をしてあげればいいか、っていうのが人づきあい。これはどこまでいってもそうだと思う。
http://manysided.blog85.fc2.com/blog-entry-15.html
なんとなく人気記事にあったからあげておくけど、
基本的にレイプレイに真っ向反対している人の主張は概ね同じだと思う。
むしろ、こうしたゲーム反対派の主張に基づいたエロゲーの方がもっと気持ち悪いのだ。
嫌がる事、非人間的な行為をゲームとして楽しむ、というものだ。
楽しむことの良し悪しは置いておく。
(犯罪小説を書く人間と読む人間を犯罪予備軍だ、といってるようなものだから)
「悪い事を疑似体験する後ろ暗い楽しみ」という認識は至って健康的だと思うのだ。
陵辱を陵辱と認めない風潮だ。
最初は酷く違和感があったのだが、どうやら陵辱物と同様に、ひとつの嗜好として広く求められているらしい。
彼女達は恋人でもない相手や非道の行為に対して「妊娠させて」といとも簡単に口にする
本人の同意で行為に及び、結果として妊娠したとしてもなんら問題視されないのだろうか?
それが異常だという事から目をそらして。
ロリコン物もこれに近い。
えっと、「ずっと自分の事をネトウヨだと思っていた」⇒http://anond.hatelabo.jp/20090530222111を書いた増田です。
初めての投稿なので、毎日ドキドキしながら見てました。
数日経って、もう新規さんはあまり来ないと思ったので、一応今回の記事の意図と、皆さんへのレスを少しだけ書こうと思います。
今回の記事について、この最後の文章は完全な釣りですが、それ以外は本当の事です。
実際に自分の事を「ネット右翼」だと思ってた時期も大して長くなかったですが・・・
実は、今回の記事の意図がこれです。
見抜かれていたのかは不明ですが、同じような指摘がブクマコメントに多かったです。
ネトウヨを自称するって変だと思う。
人の考えなどそう簡単に分類できないものだと思うんだが、特定のページを見ていると、そういう考え方自体を拒否する人もいると考えないと説明がつかない変な文章がいっぱい
はい、皆さんがおっしゃる通りネトウヨという言葉の定義なんてどうでもいいんです。
むしろ無理やり定義づけすること自体がおかしいという事を言いたかったのです。
でも、2ch等を見るとなんでもかんでも善悪二元論的な考えに当てはめる人が多すぎて嫌になります。
「愛国なら自民党、売国なら民主党」「韓国朝鮮に侵略されたくなければ自民党、侵略されたければ民主党」「自分の考えを持っている奴は自民党、マスコミ鵜呑みは民主党」といった感じです。
マスコミにしたって官僚にしたって公務員にしたって、中は十人十色でどの党の味方という訳でもないのにどちらかの陣営に属させようとする人が多過ぎる。
そこで、自分の事を例に出してみることにしました。
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ひねてるな。ネトウヨというくくりが無意味と分かっているのに、わざわざ持ち出してきて、何がしたいの?匿名なんだし主張があるならまっすぐ言えば。
すいません、誤解されるくらいなら最初から言いたい事を言えばよかったです(汗
よく見かけるのが、「マスコミは麻生叩きばかり、民主党朝鮮人の味方」という文章です。
「マスコミ各社は民主党に政権を取ってもらいたいように見える」のは私も同意ですが、だからといって「マスコミは民主党陣営」と単純には繋げられません。
別に彼等は自分達の利益の為に民主党を応援してたに過ぎません。
二大政党制が現実のものとなりつつ今、「どちらの政党を勝たせるか」というカードはマスコミの手に握られる事になります。国民次第だけどw
今の状況では自民党が勝っても「勝った」で終わりですが、民主党が勝った場合に「俺達が勝たせた」という事実を作る事が出来ます。
それにより、「俺達の有利になる法律を通せよ、なんだったら次は自民党についてもいいんだZE!!」とか「うちの社員を公認候補にしろ」とかいう干渉も可能になるというわけです。(あくまでも例えです)
勿論敗れた自民党にも干渉可能です。
マスコミ各社が何処まで考えているかまでは不明ですが、「この行動は彼等にとってどういう利益になるのだろう?」という視点で見た場合の一つの考えです。
どうも「マスコミは民主党の味方」で思考停止している人が多い気がします。
そこで常に「なんで?」「どうして?」という疑問は常に必要であると思います。
わざわざ書くまでもないと思って省略したのですが、色々と突っ込まれてしまいました。
そういうのは小沢支持のブログとかを読めば納得するかなと思ったのですが、簡単に私自身の小沢一郎支持理由を書きます。
まず、小沢一郎の魅力は政策ではないと思っています。
恐らく、小沢自信も「自分個人の意見なんて政治の荒波の中では大した意味を持たない」程度に考えているのではないでしょうか?
で、それがなんで自民党離党という事に繋がるのか?という事が重要です。
「仮に小沢一郎があのまま自民党に残り総理大臣になったとしても、官僚改革はできなかったであろう」というのが答えです。
理由は簡単、長く与党に居過ぎた自民党では、官僚改革を行おうとしても自分の身を切るような事になってしまい結局は何もできない。
これが小沢一郎の改革だと思っています。
これに何の意味があるのか?という事です。
ですが、この「権力が移動するだけ」というのが非常に重要です。
てか、今までこれが殆どありませんでしたから。
これまで磐石の地位だったものが選挙によって変わる可能性を作る事によって、国民の監視下に置かれます。
官僚が国民の監視下に置かれれば、これまでの省益優先から国益優先にシフトせざるをえなくなるのではないでしょうか?
まぁ、これは政党にも同じことが言えるのですけどね。
小沢にとって民主党は「二大政党制を日本に敷く為の道具」なのでしょう。
「政策なんてそんな飾りみたいなものは後回しでいいから、二大政党制の実現が優先っしょ」な考えを小沢は包み隠しもしていません。
だからこそ「政策よりも政局優先」と叩かれるのでしょう。
ですが、小沢一郎個人の思想も一目置かれるべきであるとは思います。
小沢が常に言っている「今の日米の関係は同盟ではない、日本はアメリカと対等になるべきだ」というのは保守タカ派にとっては良い事だのに・・・・
これを非現実的と切り捨てるのは簡単です。
つまり、非現実的と思っている人は「日本ごときにそんな力はねーよwwww」って考えているのではないかと疑ってしまいます。
勿論危険要素はあります。
過去にこれを言って実行に移して失敗した外務大臣の名前を我々は良く知っているはずです。
まぁ、松岡洋右さんの事なんですけどね・・・
ネットで政治の話を出すと必ずと言っていいほど出てくるコピペです。
しかも本人が本当に言っているからタチが悪いw
これって言い換えれば「日本列島は日本人だけのものじゃないし、アメリカだってアメリカ人だけのものじゃないし、中国だって中国人だけのものじゃない」なのですが、すぐに「日本を中国に売り渡すのか?」という反応になるのは悲しい事です。
とはいえ、私はこの発言は危険だと思います。
単なるグローバリスト的な発言と言えばそれまでですが、「グローバルな考えこそが絶対に正しい」という前提で話しているからです。
これって意見の封じ込めじゃないのでしょうか?
意見の封じ込め⇒損得勘定なしで政策実行 を孕んでいるとも思えます。
というわけで、私は鳩山由紀夫代表は支持しません。
まぁ、小沢シンパですし、あまり個人の思想や人柄で投票先を決めたりはしません。
まぁ、私にとってはそれが投票先を決める最重要事項でないだけの話です。
増田にゃんねるβに嬉しいコメントを発見しました⇒http://masuda.livedoor.biz/archives/51258267.html
これはある程度計算された「工作」じゃないだろうか?
・念の為、民主党に関する噂が本当の事なのかを確認する為に一次ソースを調べてみたが、案の定デマばかりだった。
(ここが嘘。デマだと証明する具体性が全く無い。この嘘を宣伝するのが本件の最大の目的)
ここまで細かく分析して工作員扱いしてくださるなんて!!
てか、マジで本当の事を書いただけなんで、疑われるくらいに典型的ネトウヨ思想なのかもしれません(汗
ちなみに「デマ」ですが、「民主党が政権取ると日本崩壊」についての根拠が乏しい・・・だけの話です。
「そんな事は絶対にないよ~」という事を証明できた、というのとは意味が違います。
南京大虐殺だってそう、「南京大虐殺を実際に行ったかの根拠は乏しい」と言う事は出来るかもしれないけど、「南京大虐殺はでっちあげだ」という事を言ってもそれを証明するのは不可能ではないでしょうか?
一応最初から種明しはするつもりでした。
これを機に匿名ではなく、自身のブログの方へ誘導しようかなとも思いましたが、よくよく考えてみると自分のブログは政治的な話も軍オタな話も皆無でしてwwww
元増田です。周囲からの評価と自己評価についてそれぞれ追加します。
自慢じゃないがそんなもん作るための努力は一ミリもした覚えがない。
リアルで接してる女性に変な対応をしたことはないつもりだし変な悪感情も全くない。
周囲の女性の評価は「エロ本とか一冊も持ってなさそう」とかそんな感じ。
(ご飯食べにいっても何をしても下心的な行動を微塵もしないせいだと思う、下心ないから)
…でも、ネットで非モテ議論やミソジニー議論みたいなの見ると本当にカッとなって
延々見物したりたまに参戦してしまうところがある。
以下に腹のたったものを類型別に3分類する。
1・「本当は欲しい筈なのに酸っぱい葡萄をしている!勇気がない!」(聞く耳持たない系)
彼らは自分の願望と妄想が前提になっているから全く異論は耳に入らない。
しかも「彼女が要らない人はこのエントリに反論なんかしないで流す」という卑怯な予防線を張る。
「反論は全部このエントリが図星だったからムキになってる奴等」の出来上がり。
で、なんか無茶苦茶なマッチョナンパをしろとかのアドバイス。北方先生話を聞いて。
2・「彼女が欲しくないなんて自己愛強すぎ。そんな心や人生は腐ってる。」(聞く耳あるけど価値観は認めない系)
じゃあ逆に、彼女をたくさん作ってる人は必ず自己愛が薄くて博愛的なのか。そんなわけない気がする。
「ソレに余り興味がないだけ」という答えはやはり認められない。
「ソレにあまりリターンを期待しないし価値を感じない」なんて言おうもんなら
「損得勘定・メリットデメリットでやるものじゃない!」「やっぱり腐ってる!」とくる。
人間の行動は何かしら合理的判断に基づいて…なんて話は通用しない。
他の趣味や価値との相対化も許されず、従わない者の首を撥ねんばかりの原理主義者。
3・「こうすれば女の子に気に入ってもらえるよ!」(お得情報系)
「どんないじましい努力をしてでもそれで女の子に気に入ってもらえるならやりますよね勿論?」から始まる。
そりゃあ、自分をターゲットにしたものではないと思ってスルーするのは簡単だが
にしてはなんだか我々「彼女いない歴=年齢」的な方を向いてピンポイントにおしつけてくるアドバイスも多い。
我々の中には俺のように、たいして欲しくないから彼女がいないって人間がかなり居ると感じてる。
だが勝手に「恵まれない人」扱いをして「こうしたらいいよ」と施し顔。
しかもそのアドバイスに従わせる過程でなんか、アドバイザーに利益出る構造?が見えることも有る。
モテモテ男性も女性もちょっと自分に合う例に置き換えてみて欲しいが、
たとえば欲しくない商品のダイレクトメールが頻繁に送られてくるってイラ付かないか?
それもなんだか上から目線で、その商品の需要を勝手に確信してる変な業者。たまに説教まで書いてある。
一言言ってやりたくならないか? スルーするには余りにイライラしないか?
俺はネットでそういうのの相手するのにはまってから一時期、
単にネットでの自分のような男への中傷にカッとなってるだけだと気付いた。
いい加減にせーよ、本当に。