「卒業式」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 卒業式とは

2009-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20090902004437

「あなたたちの先祖日本国のために戦いかくかくしかじか・・・」

と教えても

「いや、その頃うちの一族は祖国・・・」

ってなる。

それは別に愛国心教育とはあんまり関連性なさそうな。

具体的には、移民受け入れて何とかなってるアメリカを見習って、毎朝日の丸に向かって忠誠の誓いを唱和させりゃいい。あと、卒業式で起立しないとかガタガタ騒ぐ教師はデフォ懲戒免職、特例でも減俸三ヶ月くらいにするとかね(現在はせいぜい訓告処分が関の山だったはず)。

他には、不法入国者不法滞在者の徹底取り締まりとか。「理由の如何に関わらず全て強制退去」くらいはやってもいいだろう。

2009-08-17

中学入学してから卒業するまで ずっとイジメられてた

死ね」などの暴言は毎日。目が合えば「何見てんだよ!」と机を蹴られた

恐喝されたけど金は一銭だって渡さなかった

一度渡したらどんどん多額になっていくのは分かってたから・・・

金を渡さないと横から足を蹴られたりシャープペンの芯で手の甲を刺されたりした

上履きも隠されたし 椅子に糊 制服スカートチョークの粉

学校の教師共は「いじめられる方に原因がある」といい私を問題児扱い

親は私が登校を嫌がっても無理矢理 家から出され中から鍵をかけられた

友達もいなくて教師や親は私の話を聞こうともしない

「皆と仲良くしろ」だの「学校に行ってないなんてご近所に知られたら母さんたちが恥ずかしいでしょ」

登校拒否すら出来ず 卒業式までいじめられた。卒業式の後、母は他の親と一緒に私の横を視線一つ送ることなく通り過ぎていった

私は一人で帰った。誰とも言葉を交わさず。

10年も前の話。未だに思い出すと精神的に不安定になります

因みに現在鬱病社会不安障害を患っています。人と全く話せないです。

私をいじめ人達は立派な社会人になっていました。

いじめ主犯格が親戚の店で働いているのを最近知りました。

ソイツの事を「とても優しいし気が利くし、いい子だよ」と親戚の人は絶賛

店でも結構 重宝されてるみたいです

いじめなんか無ければ 登校拒否をしていたなら・・・もう少しマシな人生送れたんだろうね

もう全部 終わっちゃったことだけどね・・・

2009-08-04

高校の時、母親病気で亡くなった。父は恋人を作って家を出ていった

編集元:生活全般板より


768 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:29:44 ID:Sz0CHrYx


夜中にこっそり長文を貼ります。怒らないで。


高校の時、母親病気で亡くなった。

父は弱い人だったのだと思う。

苦しむ母親から目をそらして、他に恋人を作って、母親が亡くなると家を出ていった。

高校卒業までは面倒をみる。その後は自力で暮らしてくれ」


受験も追い込みに入る3年生の秋、わたしはこうして独り暮らしを始めることになった。

わたしの通っていた高校進学校で、ほぼ100%の生徒が大学を目指していた。

わたしだけ、大学受験という目標は消えた。

授業料家賃光熱費は父が負担していた。

生活費は送ってもらえなかった。

どこを探しても家にはお金がなかった。

父の新しい相手は他人の奥さんだった。きっと慰謝料のために何もかも持っていったのだろう。


769 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:30:38 ID:Sz0CHrYx


わたしは母の死から立ち直れていなかった。

バイト奨学金で自力で進学することすら思いつかない世間知らずの甘えた娘だった。

お金を送って」と父に連絡すらしなかった。父を憎みすぎて声を聞きたくなかったから。

目先のお金がなかった。

受験勉強する友人から離れてアルバイトを始めた。

お小遣いをかせぐバイトはあんなに楽しかったのに。

食べるものがなくて追い詰められてするバイトは苦しいだけだった。


心配してくれる友人はいた。大人の人も。

父の噂がひろがり、わたしは恥ずかしさと情けなさで、周囲の人から距離をおいた。


年が明けて、TVセンター試験の話題が出始めたころ、心が折れた。

バイトに追われてはいたが、惰性で勉強は続けていた。それをやめた。

年末年始のわずかなバイト料を持って、わたしは家出をした。

昔は仲良しの家族が住んでいた、もう誰もいない賃貸マンションから逃げた。

3年生の登校日はもうほとんどない。

誰も心配もしないし探そうともしないはず。


770 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:31:39 ID:Sz0CHrYx


遠い場所まで逃げた。冬の家出はつらい。

考え事をしたいだけなのに、寒くて外にはいられない。

怪しまれないようにネカフェを転々として、お金はどんどん減っていった。

最悪の決心をした。援助交際をしよう。処女を売ろう。体を売ろう。

街に立って親切そうな人にこちらから声をかけることにした。


良さそうな人はなかなか見つからない。

ようやく優しそうな30代くらいの人に目をつけた。

声をかける前に目が合った。

「何か?」

「あの・・・」

練習したはずなのに、わたしと遊びませんか、とは言えなかった。

その人は察したらしかった。

じろじろと見られた。警察の人かも知れないと思っておびえた。

家出?」 頷くわたし。

お金がない?」 また頷く。

「泊まるあては?」 首を横に振る。

男の人は少し考え込んだ。そして「一緒においで」といった。


立派なマンションに着いて、少し驚いた。

エレベーターで上がり、男の人は「ただいま」といってドアを開け

わたしに「上がって」といった。

「おかえり」と若くて綺麗な女の人が出てきたときは死ぬほど驚いた。

「あら、こちらは?」

「俺もよく知らん。家出してきて困ってるらしい」

「ええ? あら、それは、えっと、あ、とにかく上がってね」

奥さんらしかった。すごく驚いて慌てていた。


771 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:32:28 ID:Sz0CHrYx


先にお風呂をすすめられた。

その間に夫婦会議があったようだ。

わたしがお風呂から出ると、奥さんはすっかり落ち着いていて

「大変だったね。すぐご飯にするから」と笑いかけてきた。

こんな展開になるとは思わなかった。どっと安心した。


事情はきかれなかった。

でも黙っていたら怪しまれるし、間が持たない。

食後のお茶時間、わたしは勝手自分事情を説明した。

時々、質問された。2人とも真剣にきいてくれた。

奥さんは口に手をあてて「つらいわね」と涙声でいってくれた。

旦那さんも「つらいな、それ」といって黙ってしまった。

わたしは思わず泣き出してしまい、ご夫婦はわたしが泣き止むまで

長いこと待っていてくれた。


それから覚悟を決めて、旦那さんに援助交際を持ちかけようとしたことを謝った。

信じてもらえる自信はなかったけど、今回が初めてだと必死に強調した。

怖かった、もう二度としないと言った。

奥さんは「ああ、そういうことか」と旦那さんの方をちらっと見て笑った。

「成功してたら旦那とあなたをグーで殴るとこだった」

「もうこんなこと考えるのもだめ」

優しく言われた。怒られはしなかった。

「ごめんなさい」と繰り返して、また泣いた。


772 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:33:24 ID:Sz0CHrYx


旦那さんは30歳、奥さんは24歳。新婚さんだった。

「落ち着くまで泊まっていくといい」

言葉に甘えることになった。

翌日、学校先生に連絡をいれてくれた。

「そうですか、よろしくっていわれたよ。冷たいもんだな」

旦那さんは苦笑いしてた。騒ぎになってなくてよかった。

「のんびりしててね」

何日かはそうした。

いつまでも何もしないでいると申し訳ない。

奥さんの家事を手伝わせてもらうことにした。

奥さんは優しくて明るくて、急に姉ができたような気がした。

2人並んで旦那さんに「いってらっしゃい」「おかえりなさい」を言うようになった。

不思議光景だな」と旦那さんは笑った。


夫婦に相談に乗ってもらって、今後のことを話した。

地元が嫌ならこっちで職探ししたら? こうなったら最後まで協力するよ」

そうしますといって卒業式に出るために一度帰宅した。

お寺に行って母のお墓の供養のことを頼んだ。

卒業式の後、安い菓子折りを持って、近所や学校先生や友人宅に挨拶回りした。

父には「○○で働きます。引っ越すので後始末よろしく」とだけ連絡した。

みんな旦那さんのアドバイスに従ったこと。

「それでいい。けじめは大事だよ」と旦那さんに言われた。


773 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:34:16 ID:Sz0CHrYx


父からは卒業祝いか手切れ金か、いくらかお金が振り込まれた。

「いまさら」と腹が立った。

「無視されるよりましだと考えたら」と慰められた。

そのお金引越しができた。


夫婦の近所のアパートを紹介してもらった。

心苦しかったけど、お金を借りて敷金礼金を払った。

アルバイトはすぐ見つかった。

バイトしながら正社員の口を探す日々が始まった。

最初は疲れてしまって、食事はご夫婦のお世話にばかりなっていた。

奥さんが何かと物をもってきてくれた。

2週間くらいで体が慣れて自活できるようになった。


今はある会社で経理事務をやっている。

節約すれば貯金もできる。

正社員として決まったとき、ご夫婦はすごく喜んでくれた。

「娘が独立したみたいだ」と旦那さんは笑った。

「妹でしょ」と奥さんも笑った。

「俺が12歳のときにできた娘」と旦那さんがいった。

年齢でいえばそうなる。

夫婦にいろいろ借りてしまったお金も少しずつ返せている。

まだ先は長いけど。


774 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:35:09 ID:Sz0CHrYx


どうしてこんなに親切にしてくれたのか聞いたことがある。

たまたまだよ」と言われた。

「誰でも助けるかというとそうじゃないが。でも放っとけない」

夫婦のこともいろいろときいた。

わたしほどじゃないけど、お2人ともあまり良い家庭環境ではなかったこと。

それで意気投合して温かい家庭を作ろうと、奥さんが卒業してすぐに結婚したこと。

「そうは見えません。奥さんはずっと幸せに育ったお嬢様みたい」というと

「あら嬉しいことを」と奥さんは笑った。

「俺のおかげだな」と旦那さんがいった。

「でもね、きみには悪いけど、俺たち、きみ以上にきみのお父さんを

嫌いかもしれないよ」と言われた。

子供捨てるような親はね、大嫌いなんだ」と旦那さんがいった。

奥さんが頷いて、わたしの方を見て「ごめんね」といった。


775 おさかなくわえた名無しさん :2009/07/14(火) 01:36:11 ID:Sz0CHrYx


今でもご夫婦のお宅をたまに訪ねている。

仲良しのご夫婦を見るのが好きだから。

自分の両親も昔はこうだったと思うとつらくなる。

でも、このお2人のおかげで将来は自分も温かい家庭を持ちたいと思うことができる。


わたしには母がいた。亡くなってしまったけど優しかった母。

優しかった父はどこかに消えてしまった。

かわりに6歳年上のお姉さんができた。

12歳年上のお父さんもできた。




以上です。

2009-07-29

ミミズバーガーの思い出

俺は30代半ばのオッサンだ。

俺ぐらいの歳の間で「ミミズバーガー」の話を知らない人間は居ないと思う。

ミミズバーガーとは何か。

マクドナルドハンバーガーに使われている肉はビーフ100%となっているが、自分達が普段食べている肉とは全然味が違う。これは本当は食用ミミズで作られているのだ。」

という噂だ。

ここまでなら他の世代でもあったかも知れないが、この話には続きがある。

ハンバーガーを食べていたら、肉からミミズそのままの頭が出てきた。怒ってマクドナルドの店員を呼び出して、説教した。黙っていてくれ、と言われ5000円もらった」

という、つまり

マクドナルドがそれを認めて金銭を払ってくれる」

という噂だ。

---

その当時、俺の話し相手は、どうしようもないクズだった。俺は誰とでも分け隔てなく明るく喋る人間だったので、そいつを避けなかった。

実はそいつはそういう相手としか話せないようなクズで、その後俺とも喧嘩して、結局学校卒業時には友達0、卒業式はそいつをボコにする集団が出来てそいつを探し回るというイベントが小中高と3連続で続いた、ぐらい嫌われていた。

中学2年のその時、そいつは自慢げに言った。

「あの噂、本当だよ。本当にもらえるんだよ。

俺、あの中央にあるマクドで言ってやったんだもん。ミミズの形残ってますよって。言いふらしてやろうかって。

そしたら店長が出てきて5000円くれたんだ。コレが証拠の5000円。」

俺の時代だと、中学2年生が5000円というのは大金で、まず持ってない。

へぇえ、俺はマックなんて食べないから、知らないけど、そうなのかー」

「そうなんだよ!お前もやれよ!5000円もらって、俺と一緒に○○買おうぜ!」

○○って当時流行した何かだったんだけど、もう忘れてしまった。当然俺はそんな誘いには乗らなかった。

その後、別のそいつの友達が、マックから5000円をせしめた、という話を5000円をもらった本人から聞いた。

ちなみにそいつは貧乏だったので5000円を手に入れてとても喜んでいた。

それでも俺は、その話には乗らなかった。

---

当時の話を振り返ってみたい。

まず、マックミミズを使っているかどうかだけど、それはあり得ないだろう。ミミズは臭みが強くてあんな味はしないらしいし、牛肉のほうが安くつく。

だから、ミミズなんて使ってないのに、ミミズの形になってると主張してきた中学生がいた、という事だ。店からしてみたら「バーカ」と言って体よく追い返せばそれでよかったんじゃないかと思う。

それで、何故あいつらが5000円を店からせしめる事が出来たか、という事だ。

当時のマクドナルド某中央店の店長アレだったのか?

それとも、たまたま何かで5000円をゲットしたそいつらが、俺を騙そうとそんな事をしたのか?

---

今となっては謎だらけの話だ。

どうでもいいといえばどうでもいいが、どうして5000円を店が中坊に払ったのか。わからない。

2009-07-20

そして彼は憂国の士となった。

高坊の頃、学年に「ウヨク」と言われる男子がいた。

サクラ大戦主題歌完璧に歌い、友人に「歴史教科書の間違い」を熱く語る。

歴史の授業では教師に

太平洋戦争じゃない『大東亜戦争だ!!!!!』」と食ってかかった事もあったそうだ。

(隣のクラスである私でさえ知っていたのだから、相当有名だったと思う)

そして卒業式、式もクライマックスを向かえ、国家である「君が代」が流れた。

鼻をすする人、目頭を押さえる人、鼻声で歌う人……

それぞれが高校時代を思い出し、君が代を口ずさむ。

特に高校生活に思いれが無かった私も

雰囲気に飲まれポケットからハンカチを取り出した。

その時、突然「この野郎ォオオ!!!」と罵声が体育館に響いた。

と、同時にバチーン、ドターンと言う音。

静まりかえる体育館

ワンテンポ遅れ、全生徒が「え?」「何?」と顔を見合わせる。

更にワンテンポ遅れ

「何やってるんだ!!!!」

体育教師を筆頭に男性教師の声。続いて

「何で歌わねぇんだよぉおおお!」との怒声。

どうやら、「ウヨク少年」は「君が代」を歌わなかった教師に我慢がならず

一発お見舞いしたそうだ。

結局卒業式は静かに流れる君が代をバックミュージック

少年と教師の怒鳴り声、生徒たちのざわめき

何が起こったのかさっぱりな在校生保護者で幕を閉じた。

私達の感動的な卒業式の思い出は、ウヨ学生がサヨ先生を殴りとばした。

そんな思い出深い卒業式となったのだ。

今も高校時代の友人と会うと

「彼どうしてんだろね?」

「あーあの右翼?」

と始まる。彼は無事憂国の士になれただろうか?

私は君が代メロディ、歌詞が好きなんで

こんな良い歌を歌わないのは勿体ないなと思ってるが

やはり、卒業式暴力で締めくくられた身としては

過激なウヨは(勿論過激なサヨも)勘弁してチョ!と言う事です。

2009-06-24

大学院中退予定

学部4年で配属して与えられたテーマは、いわゆるトンデモ系だった。

研究室看板とも全然方向性が違う。

日本人なら誰でも知ってる有名メーカーとの共同研究だった。

院生助教に最初に言われたのは「僕・私は一切指導できないから」で、

前の院生が残した実験ノートだけしかなかった。

同級生がマンツーマン院生に教えられている間、

別の棟にある小さな部屋に一日中閉じこもって、

(そこがそのテーマをする人の部屋だった)

やっとひとつの機器の電源の位置がわかる、なんて毎日だった。

どこに何があるかもわからない。

何かが切れても、どこに注文したらいいかわからない。

これとそれを、どう組めば測定できるのかわからない。

人との関わりが皆無な日々を送った。

それでも実験が進んでいなければ、非難されるもの。

教授メーカーからと二重。

本も読んだ。前任者と連絡をとった。

「この状態からこのテーマを大躍進させれば

すごいかっこいいな」と思っていた。

夏までは頑張った。

私には、そこが限界だった。意外に早かった。

テーマ変更を打診した。

助教が協力的だったのでありがたかった。

渋っていた教授はその内どうでもよくなったらしく諦めてくれた。

就活もしておらず、

「とりあえず、後悔しないように」と進学した。院への進学率は90%を越える学部だった。

9月からの研究では

まともな卒論にはならないだろうと思ったが

仕方ない、修士まで長い目で見て取り返そうとこの時は踏ん張るつもりでいた。

その頃には周囲の同期はすっかり院生教員ともなじみ、

一通りの実験操作は当たり前のようにこなしていた。

そんな中で、一から十まで聞いてくる私。

一歩も二歩も遅れていた。

状況を察して丁寧に教えてくれる人もいたし

あからさまに面倒そうにする人もいたが、

何より苦しかったのは自分勝手に感じている劣等感だった。

「聞きたいけど迷惑になってしまう」

「嫌な顔をされたらどうしよう」

「みんなは一人でやっているのに…」

元々、気の弱い方だった。

ただでさえ操作が遅いのに、結果も伴わず、苦しい日々が続く。

追い込みを前に体を壊した時、助教の態度が急変する。

以来一度も口をきいていないから、わからないけれど、

テーマ変更の際の自分の尽力に、私が応えなかったから腹がたったのだろう。

退院すると教授からメールが来た。

「私が許可するまでラボには来ないように。指示は追ってする」と書かれていた。

目の前が、本当に真っ暗になった。

卒業者名簿に載った時には、安心よりも、意味がわからなかった。

卒業式まで、卒業しても、連絡はなかった。

大学最後の1年で、

自分欠点が浮き彫りになり、研究室に残念な気持ちを抱いた。

実験愛着を持てなくなったのが、一番こたえる。

同期は戻ってこないほうがいいという。

あれからも体を壊した人が何人かいる。

何もしたくないなんて許されないと思うのだけど、何もしたくない。

2009-05-03

大学学園祭で同じ高校だった女が話しかけてきた

「そういえば卒業式のあと何もなかったな。本当につまんないクラスだったよな」って言ったら「式の後にクラス全員でカラオケ行ったよ?」って言われた。

何も知らなかった。

2009-05-02

http://anond.hatelabo.jp/20090501225144

東大卒で、中央公論世界の名著全部読んでて

多分そこにあがってるのも半数以上読んでたんだろうなあというような人が、五流私立高校先生におられました。

偏差値35以下の糞高校でした。

私の学年では大学に進学したのが明治学院が二名、あと確か東洋大が一名でございました。

上智が一名いたような気もしますが記憶がハッキリいたしません。

生徒は引き籠もりヤンキーばかりがおりました。卒業式写真では半数以上が金髪でした。

2009-05-01

http://anond.hatelabo.jp/20090501110912

このまま展開が加速していくと、原作希望進路提出中)を追い抜いて最終回卒業式を迎えてしまいそうだ。

2009-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20090424160503

葬儀限定は日本地域慣習みたいだけど、欧州でも慶弔用の特別なニュアンスがあるよ。俺の大学卒業式では「黒または白の」タイで出席すべしとドレスコードが指定された。

2009-04-22

ある学生がいる

そいつは自営業してる父親の家庭に生まれた。

けっこう両親ともに年食ってから生まれてきたので、

父と母というより祖父と祖母に近いくらいだろう。

家は、貧乏か裕福かはイマイチわからない。


生まれてから数年のことは聞いてない。

そけいヘルニアだとか、階段から転げ落ちて頭を縫うとかはしたらしい。


普通幼稚園に通いはじめるが、どうも休みがちだったようだ。

彼の記憶によれば、最初の登園日など、送迎バスに乗るときに母親と離れたくなくて暴れてたらしい。

母親は、休み癖も小学校になれば変わるだろうと思ってたようだ。


小学校にあがる。

人見知りが激しく、

「お友達になるために自己紹介カードを交換しましょう」なんてお遊びをやった時、

あまり交換してなかったような気がする。と言っていた。


小学一年でも既に休みぐせが増えていたが、まだ許容範囲だっただろう。

小学二年からは休みが多くなり、教室に入りづらいと既に思っていたかな、とのこと。

小学三年で完全に不登校になるが、担任教師が「放課後クラスのみんなと一緒に遊びましょう」ということをやってくれたらしい。

そいつはしぶしぶながら行き、その癖楽しんでいたかもしれないと言っていた。

小学四年では、担任の努力の成果か、学校に、休み休みながら通っていたし、友達っぽいのも居たらしい。

しかし、秋ぐらいにぱたりと行けなくなってしまった。何故かは憶えてない、と。

小学五年ではそういう奴専用の教室のようなものが学校内に用意されてそこに通い、

六年にはそういう奴専用の、市の施設みたいなところに通っていた。

卒業式には出たという。


そいつは中学校に上がった。

俗に言う中二病みたいなものが、ほんのちょっとあったかも、と悶えていた。

それが原因か性格が原因かは知らないが、同級生に少しからかわれていた。少し

それが原因か他になにかあったのかまでは解らないが、また不登校になった。

前述の施設に(小中学生どちらも行ける)また通いはじめたらしい。

中学二年では、テストを別室でもいいから学校でやれば、点数になって高校受験の時の評価になると言われ、

別室でやっていた。

自宅学習とか出来ない奴だったらしいが、

半分以下の順位になった時は一回以外全く無かった。と自慢していた。自慢かそれ


中学校三年生。

相も変わらず施設には通って、学校復帰の兆しは見せなかった。

成績はあんまり変わらなかったが、数学英語の成績に頼った危うい成績だったため、

個人授業の塾に通っていたらしい。

それなりに成績が上がって、30/150人くらいの順位をキープしていたらしい。自慢気に言うな

受験前というのもあったが気づけば5教科すべて個人授業を受けていたらしい。金かかっただろうな。


受験。成績はともかく、内申点が壊滅的だったが、普通高校に志願した。

面接なんて出来るかボケと思っていたらしいが、

学校で練習したり、前述の施設でも練習し、最終的に担任に誉められて喜んでいた。単純な奴め


結果は合格だった。

ネットで確認した後、一応ということで学校での合格確認の帰り道

たまたま学校で一緒に面接の練習してた、"普通の"子が落ち込んだ顔で通り過ぎていたらしい。

俺は、不登校という理由で落とされるのと、真面目に学校通ってた子が落とされるのと、どっちがマシかなと思いながら聞いた。


そいつは高校に進学した訳だが、

もう早速不登校になりそうだとかほざいていた。

何年も不登校だった奴が突然行ける訳がない、解っていただろうに。

周りの人も忠告していたらしい。リハビリがてらに中学校に顔出せと。

そいつは今更になって現状を怖がっていた。

高校すら行けなくて、将来どうするのだと。


それだけです

2009-03-26

彼女と知り合ったときから今年の春くらいまでの思い出

2008-12-30

置き場所が無かったので、ここに置いておきます。

何の参考にもならないし、読んでもらいたいということではありません。

こんなこと別に書かなくても良いんだろうけど、

去年の夏、恋してました。====

記憶をもとに書いているので、多少違うところもあるかもしれません。

脚色している部分もあるかもしれません。

自分は、今年の3月まで通信制大学学生してたんだけど、

通信ってやっぱ、大人の大学生ばっかじゃん。

平均年齢30歳くらい。

だから、同い年の人なんていないと思ってて、いたとしても、

会わないだろうと思ってました。

その大学は、スクーリング以外はインターネットでやるのよ。

で、大学サイトにも学生間の交流スペースはあったけど、

何となく監視されているというか、窮屈に感じて、自分で非公式の交流サイト作ったのよ。

まあ、掲示板とかがあるだけのようなものだったけど。

それが結構ヒットと言うか、学生が集まってきて、まあ自分から見れば、

おばちゃん・おじちゃんだけでワイワイ楽しくやってました。

そしたらあるとき、僕と同い年という女の子の書き込みがあったわけ。

同い年の人がくるなんて予想してなかったから、すごくうれしかった。

女の子ということより、同い年ということの方がうれしかった。

それから掲示板で交流することはもちろんのこと、何がきっかけか個人的なやりとりもし始めました。

チャットが多かったです。

大学バーチャルキャンパスってのがあって、そこでとか、

Yahoo!メッセンジャーチャットとか、その頃の癖で未だに、

パソコン起動すると、ヤフーメッセを立ち上げてたりします。もう長いこと誰ともチャットしてないけど。。。

ほんと、チャットではめちゃくちゃ話がはずみました。

今思えば、あの、はずみようは何だったんだろう。と思うこともあります。

次第に、直接会いたいね。みたいな感じになっていました。

向こうは関西で、こちらは東海で少し距離があって、なかなか会う機会がなかったのですが、

学校イベントスクーリングだったかな)で、来ることになっていました。

当日は、学校で介助というかサポートしてくれるようなことにもなっていたのですが、

当日、体調が悪くなって来れなくなったと携帯電話(この日のために一応、番号を教え合っていた)がありました。

この日、初めて彼女の声を聞いたのですが、

第一印象は、「おばちゃんみたいな声だな」という印象でした。

今思えば、ひどいですが。。。風邪とかかもしれないし。

結局、自分と送り迎えしてくれた知人と一緒に行きました。

その日のことは、話が外れるので詳細には書きませんが、あまり面白くはありませんでした。

帰ってきたら、親父の同乗する車が子どもを引いたとかで親父が切れてたし。(幸い子どもは、ケガをしたかしていないかのレベルでしたが)

それからというもの、若干、彼女との連絡も疎遠になっていました。

あとから聞くと、仕事を始めたから。ということでした。

実家から引っ越しもして、ネット回線を引くまで時間がかかったようです。

主にチャットだったので、時間が合わなくなったというのも一因です。

メールもしたかしてないかくらいでした。

以前、その時の自分が送ったメールとか読んでみたのですが、

やけにテンションが高かったので、自分自分のこと引きました。

それで、ついにはプッツリと縁が切れました。

まあいいや。と自分でも思っていました。

1年半くらいたった頃でしょうか。

彼女からメールが来ました。

「また前みたいに連絡を取り合いたい」と。

ぶっちゃけた話、うれしかったです。

(以下、第2部のようなもの)

それから、やっぱ直接会いたいみたいなことになって、

海の近くの某所で会いました。

そこは、障害を持つ子が楽しく遊べるように知人がボランティアで始めた場所です。

一目、彼女を見た時は、「あ、この容姿なら大丈夫恋愛的に好きにはならない」という失礼な思いでした。ブサイクとかではないです。

自分は少し、人の顔を芸能人レベルで見てしまう癖があるようです。

そこで子どもたちが遊ぶ中で、二人で楽しくお話ししました。

学校のこととかです。

しばらく経って、部屋の中に入って、お茶を飲みながら二人っきりでお話ししました。

不思議と緊張しなかったです。

彼女は、先に大学卒業していました。

そして今でもどうしてか思い出せないのですが、

このときの話の中で僕の言ったことに対して、彼女は爆笑していました。

肩も軽く叩かれました。

僕はそんなに笑うとは予想外だったので、何で笑ったのか今でも思い出せません。

笑いのツボが明らかに違います。

その後、何の話をしたのかも忘れましたが、場の空気がちょっと悪くなってきました。

ようするに、ネタが尽きてきたわけです。

沈黙を破るため、「散歩に行こうか」と提案してみました。

そしたら彼女は、「うん」とニコッと笑って言ってくれました。

そのとき、ちょっとかわいいかも。と思いました。

海の方へと二人で歩きました。

僕は、電動車イス使用しているのですが、室内用と言うか、

外をバリバリ走るタイプのものではないので、速度も外だと遅いし、手が疲れてきたら彼女に頼んで押してもらおうと思っていました。

小川の橋を渡って、海まであと少しというところで疲れてきました。

頼もうとしたとき、

車イス、押そうか」と彼女から言ってくれました。

何、この絶妙なタイミング。とドキッとしました。優しくされることに弱いのです。

彼女は別に、福祉関係の人とかいうわけでもなく、ボランティアとかもしたことないし、車イスとかもあんまり押したことないと言っていました。

そんな人が、「車イス、押そうか」と自分から言ってくれたことに、ものすごい好感を覚えました。

今思えば、これが好きになったきっかけかもしれません。

車イスを押してくれて、海に向かう途中、

僕がちょっとした自虐的な冗談を言ったのですが、彼女は反応しませんでした。

少し笑うはずのところなのですが……

海に着いて、二人で並んでお話をしました。海に浮かぶ空港があるので行ったことあるかとか、こんないいところ1日中本とか読んで過ごしたい。みたいなちょっとした話です。

そして、彼女はあることを言いました。

はてな匿名くんは、将来の夢とかってあるの?」

突然のことだったので、返答に困りました。その時の僕は、将来への不安は抱いていたものの、人に話せるような明確な目標は持っていなかったのです。

「うーん。無いな。」と正直に言いました。

大学卒業したら、何か仕事しなきゃいけないとは思ってるけど、いろんな人に相談してもなかなかね……説教されてばっかり(苦笑)」と言いました。

説教?」と彼女不思議そうに言ってました。

彼女の海を見る横顔は、少し残念そうでした。

今思えば、ここで海を見ながら熱く夢を語る男というのは好感度上がるんだろうな。と思いました。

逆に聞いてみました。

彼女さんは、夢とかあるの?」

「うん。先生になりたい。あ、普通学校先生とかじゃなくて、今、寮母として働いているところの。」

彼女は、私立の少し変わった教育方針学校で働いていました。

別に宗教的とか怪しいとかいうのではないです。

生徒同士が協力してログハウスを建てる。とかそういった感じのです。

僕は、先生と聞いて何となく言葉が見つかりませんでした。

職業的に学校先生というのはあまり好きではなかったからです。

適当に相づちを打って、海から離れることにしました。

古い民家が立ち並ぶところを歩きました。会社保養所とか古い別荘のようなものもあります。

彼女車イスを押す中で、分かれ道がありました。

僕は、そろそろ帰ればいいかなと思い、帰り道を選択しました。

でも彼女は、逆の別の道を言っていました。

僕は、これ以上、遠くに行くのは危険かなと思ったので帰り道を言いました。

理由は言いませんでした。

ちょっとした押し問答みたいになりましたが、彼女景色を見て、

「うん。こっちでもいいや。」と折れてくれました。

今思えば、彼女の方の道を選択していれば、もっといろんな話ができたのかな。とは思います。

元の場所に帰ってきました。いたのは知人のスタッフの人(おばちゃん)だけで、あとはもうみんな子どもたちも帰っていました。

そこへもう一人のスタッフの人(おじちゃん)が帰ってきました。

その人は、そこを住居にして暮らしているのです。

おばちゃんに、ここの場所の説明をしてもらうとして、いろいろと中の見学となりました。

僕は、おじちゃんと部屋(管理人室)の中に入って、疲れたので横に寝かせてもらいました。

ほどなくして、彼女とおばちゃんが入ってきました。

横になった僕を見て、彼女は「大丈夫?」と言っていました。

おばちゃん、おじちゃん、彼女でいろいろと話していました。

彼女職場の話もしていました。おばちゃん・おじちゃんは共感していたようです。

今度、七夕祭りで、某有名交響楽団コンサートがあるから来て下さい。というような話になっていて、

本当におばちゃんとおじちゃんが行ったのにはびっくりしました。

僕は、行きたくても遠くて行けませんでした。

僕の体力も回復してきたので、起きました。

それから、部屋にあるパソコンを立ち上げて、僕が運営しているその場所のサイトを見たり、彼女が働いている職場サイトを見たりしながら、

みんなでお話しました。

その中で、僕があるつまらない冗談を言ったのですが、

彼女の顔が真顔。能面みたいで、あれ?と思ったのが印象的でした。

笑いどころが明らかに違うのです。

夕方になり、晩飯をどうするかみたいな話になって、

4人で近くに食べに行くことにしました。

海鮮料理が食べられるところです。僕は、昔に一度家族で行ったことがありました。

僕は、おじちゃんとおばちゃんのと彼女が話すのを聞いていました。

複数人で話すのはどうも苦手なのです。

その中で、

「お父さんとは、別々で暮らしている」というのが印象的でした。

家族の話をしても、父親の話とかは出てこなくて、mixiバトンとかにも、

父親  いない

とか書いてあったので、何となく複雑なんだと思ってはいましたが。

食べ終わったら、おじちゃんが俺が払うよ。と言って、おごってもらいました。

店を出るとき、彼女が、のれんをさりげなく、手でどけてくれました。

僕の言う冗談に対しては無視(?)しているのに、ちゃんと気遣ってくれていることに好感を覚えました。

外は、もう真っ暗でした。元の場所に戻って、解散することにしました。

別れ際、ちょっと二人っきりになったところで僕は、

「今度は、僕の家で会おうよ」と、とっさに言っていました。(別に、やましい意味ではないです。)

彼女は、「うん。いいよ」と言っていました。

それから彼女に対して、笑いどころが違うというもどかしい思いと、さりげない優しさへの好感という複雑な気持ちを持ちました。

笑いどころが違うというか、僕が言う冗談に対して無反応という人に初めて会いました。

別に自分に笑いのセンスがあるとは思っていませんが、笑わせようとしている空気を読み取って、愛想で笑うこともできるはずです。

そういうのはありませんでした。

でも、しばらくして彼女に何となく手紙を書きたくなりました。

ラブレターとかではないですが、近況と、いつ自分の家で会うかの提案です。

それと手紙を書くということで、予想外の僕への好感を持ってもらいたかったからです。(たぶん、下心です。阿呆です。)

彼女から返事はありませんでした。


しかし、こんなこと自分でもよく覚えているなと思う。

ストーカー的気質があるのか、女の子と二人っきりで長時間話すことなんて無かったので印象的な出来事として脳が記録しているのか。

続き。

返事はありませんでした。別件でメールを送ってみることにしました。

この前はありがとうみたいなことと、七夕祭りに、おじちゃんとおばちゃんが行ったんだって。的なことです。

すぐに返事が来ました。

その中で、

手紙ありがとう。読んだよ。私も手紙書くの結構好きなんだ。はてな匿名くんもよく書くの?とメールにありました。

僕は、たまーーに書いたりします。なので、手紙を書くことが特別なことではありません。

しかし、手紙書くの好きなのにメールで返されたのは少し残念な出来事ではありました。

そこで夏に会う件について、触れられていました。

OKということでした。嫌々という印象は受けませんでした。

そのまま、日程を決めて自宅で会うことになりました。

その日程の月は、嫌なことがありました。

そのことがずっと頭にあったのがいけなかったのかもしれません。

正直、彼女と何を話したのか覚えていません。

ただ言えることは、彼女に良い印象は与えていないということ。

ここで僕のイメージは下がったかもしれません。

・途中、アクビをしていた。

・やっぱり、笑いどころが違う。

場の空気を変えるため、パソコンとかもやってみたのですが、

あまり効果は無さそうでした。

正直、頭の中が真っ白のまま終わりました。

人と話すことでこんなにストレスを覚えたのは初めてでした。

このときのことは、思い出すたびに、ため息が出ます。

ただ、初めて会ったときより、かわいいな。と思いました。

そういうことを知人に話したのですが、恋しただけだろ。みたいなことを言われました。

客観的に見るため、初めて会ったときに一緒に撮った写真を見たのですが、

やっぱり顔は変わっていました。痩せたのかな。と感じました。

そして後日、彼女から、うちの母と話せて良かったとメールがありました……

それっきりメールの交流は続きませんでした。送信しても彼女から返事が無いのです。

神様のいたずらか(あまり好きではない言葉だけど)、のちに途中で止まっていることに気がつきました。(携帯

年が明けて3月。卒業式

彼女は、受付をしているとのことでした。

会って話せると意気込んでいたものの、受付がめっちゃ混んでて、

あっ、どうも。と目くばせをしたくらいでした。

あとで、「話せなくて、ごめん」とメールが来ました。

ただ、メガネをかけていたせいか顔が全然違った感じがしました。

いまいちというか。ちょっと太ったような。

会うたびに、顔の印象が変わっているという人も珍しいなと思ってて、

実は彼女は複数いるんじゃないか。と思ったりもしています。(ミステリー?)

そして卒業式後のメールで、来月に会うことにしました。

しかし、僕が風邪を引いて体調を崩しました。

会うのは中止になり、

自分の中で、もう会っちゃいけないんだという変な納得感が生まれました。

それっきり、会っていません。

来月、彼女から年賀状は来るのでしょうか。僕は年賀状自体、止めることにしたので送りません。

来た人へは返す予定でいますが。

今、会いたいか?って言われれば、会いたくないことはないですが、

学校卒業して関係性が変わったことを考えると、自分から求めてはいけないような気がします。

マイミクは解消されてなくて、彼女日記更新されると必ず読んでますが、

彼女からの足跡はありません。

でもやっぱ、会いたい・・・・・・・・。orz

このまま何もなければ、時間が経って思い出になるだろうけど。たぶん。

<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/517X6XNR59L._SL160_.jpg" alt="茶の味 グッドテイスト・エディション" title="茶の味 グッドテイスト・エディション" /&gt;

茶の味 グッドテイスト・エディション

映画好きの彼女が面白いと言っていた映画

だけど、笑いどころが違うためか僕は全然面白くなかった。こんなに笑えない映画と言うのも初めて観た。

シュールというか。

でも、アマゾンでの評価は高い。。。

映画好きに受けるのかな。

<img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41KhcazwQbL._SL160_.jpg" alt="ちりとてちん 完全版 DVD-BOX I 苦あれば落語あり(4枚組)" title="ちりとてちん 完全版 DVD-BOX I 苦あれば落語あり(4枚組)" /&gt;

ちりとてちん 完全版 DVD-BOX I 苦あれば落語あり(4枚組)

これも彼女につられて観たドラマ

これは面白かった。

彼女は、ここに出てくる地方に興味があって観てて、

笑いについてはいまいちだと日記に書いていた。orz

てか、好きな人の好きな作品を観てるのって、

いかがなものか。ですよね。

息が詰まる3

いつだったか、こんな文章→http://anond.hatelabo.jp/20081220233553を書いた増田です。

例の草食に卒業式に告白して、ふられました。はあー。何回かデートして、うっかりお泊りまであって、お泊りで全く何も起こらなかった時点でもう脈無いと思ったんだけど、私自身のけじめのために告白しました。友達以上恋人未満みたいな関係が気持ち悪くて。

私「私、やっぱ好きです」

草「どうもありがとう

私「付き合ってみませんか?だめ?」

草「付き合うかー、それはちょっとめんどくさいなー!」

私「だよねー!」

終始笑顔に包まれたままふられました。変な空気にもならなくて、告白してよかった。すっきりしました。なんかすっごい切ない笑顔で見つめられました。惚れてまうやろー!あんな顔見たことなかったからその瞬間にもっと好きになっちゃったけど超キュンとしたけどもう充分です。いいんです。心を閉じ気味の彼にとって、私が泊りまで許された良き友人でいられたこと、人として好かれていたこと、それを本当に嬉しく思うのです。そりゃ彼女になりたかったけどさ、すごい切ないけどさ、下心抜きで好かれてるなんて素敵じゃない。それあれじゃん、愛されキャラじゃん。やったじゃん。

・・・ちくしょーーーーーーー!!!!悔しいから、気を紛らわせるために明日は「据え膳食わない奴なんてサイテーだよ!次行くぞ次!」てセッティングしてもらった合コン行ってくる!!!!(私の)ばーーーーーか(´;ω;`)

以上超個人的な話でした。色々すいません。

2009-03-24

http://anond.hatelabo.jp/20090319193357

もうすぐ、卒業式入学式のシーズン。だが、児童ポルノ法が改正されれば、小学校中学校入学式卒業式、また、高校入学式写真を持っているだけで、「18歳未満の被写体が写っており、人によっては性的写真に見える」という理由で逮捕される可能性がある。もちろん、ただ卒業式入学式写真を持っているだけで逮捕されたりはしないだろうが、日本警察は、別件逮捕日常的に行っていることを忘れてはならない。警察が、あなたを疑わしいと思ったら、卒業式入学式写真をたてに、「児童ポルノ法違反の容疑で逮捕」として別件で逮捕し、23日間拘留して事情を聞く、なんてことは普通に行われるようになるかもしれない。

なんてこといっても、訴求力はないんですよ!!

むしろ、「中国北朝鮮などの反日勢力が自分たちに不都合な勢力を抹殺するのに使われる!!」と煽った方が訴求力があります!!

人権擁護法案の騒ぎを覚えていますか!? 国籍法改定の時の騒ぎを覚えていますか!?

人権擁護法案は、右派が騒ぎ立てた結果、4年以上も闇に葬り去られて再提出の動きはことごとくつぶされていますし、

国籍法改定阻止にこそ失敗しましたが、法案提出後、審議が始まる直前の土壇場で猛然と追い込み、

数多くの国会議員ジャーナリストらを巻き込んだではないでしょうか!!

イデオロギー的な要素を持ち込み、特定のイデオロギー層を煽った方が法案潰しには効果的だと思うのですが。

ネット右翼の大多数は規制反対派ですし、瀬戸弘幸氏も規制反対派なので、可能性は十分あるはずです!!

卒業式関連の話題を見て

卒業しても会えないわけではない。だが、学校で会うことはできなくなる。

今は携帯電話と言う代物があるが、昔は卒業後に連絡を取り合うことが難しかった。

学校で顔を合わせることもなくなるし、連絡を取り合うことが難しいから、卒業後は能動的に連絡を取り合う必要がある。

だから、卒業後に学校で会わなくても相互に連絡が取れ、関係が切れない友達こそ真の友達だ。

卒業後に連絡が途絶えた友達はその程度の友達だったんだと思え。

と恩師が言っていたのを思い出した。

で、今高校卒業するような世代はケータイ電話帳に名前が残ってれば普通卒業後も会うんだろうなぁ・・・と思った。

最近は「中学高校の(地元の)友達がいるから」って理由で予備校大学で友達を作ろうって精神希薄だって話も聞くし・・・

グラデュエーション ブルー

大学時代は死ぬほど遊んだ。

「現役で某国家試験合格してやるぜ」と息巻いていたのは、入試合格してから入学式後の数日間だけ。当時リア充なんて言葉は知らなかったけど、おそらくそういうものを目指していたと思う。毎日違うやつに話しかけて知り合いをたくさんつくった。もっともその中で今でも携帯アドレス帳に入ってるやつはわずか。

部にも入った。友達ができた。テストの頼りはこいつらだった。出席評価なんてないから学校に行くのはテスト週間だけ。未だに掲示板がどこにあるのかわからない。彼女もできた。部の人気者だ。モテる女の彼氏はつらい。特に初カノの場合は。つきあっていることが内緒なのも良くなかった。目の前で彼女に行われる体育会セクハラには耐えるしかない。どんどん心の余裕がなくなっていった俺に彼女が冷めたってことは頭ではよく理解している。部からは遠ざかった。辞めなかったのは部内での責任ノートのためだ。自分の中でどちらの比重が大きかったのかはあえて書かない。部中心だった人間関係はほとんど切れた。

その頃からゼミがはじまった。呑み会メインゼミだ。入学以来まともに勉強してこなかった自分に、まじめなゼミは無理だった。専門授業に初めて通った。そして呑んだ。教授について夜の街にも行った。教授陣の中で顔と名前が一致するのはこの人だけだ。成長もした。1年生の時よりはスマートに遊べるようになった。いい感じの女友達もできた。人気者だったから彼女にはしなかった。卒論もないし単位もほぼ揃っていたのでバイトに明け暮れた。たまに気が許せる友達と遊ぶ以外、ひたすらバイトをした。使い道がわからないお金は貯まりつづけた。

就活は頑張れた。勉強の積み重ねがいらないから。事実2割ぐらいの「自分」を作ってそれなりにいい会社からいくつか内定をもらった。それからはまた毎日バイトだ。たまの消費が唯一の自己表現だった。親の代わりに学費を払うことは、思いついたがしなかった。そうやって300日以上過ごした。バイト先では積極的に仲良くしようとはしなかった。だからプラスマイナスもないそれなりの関係だ。

卒業が近づいて、またかつての部の知り合いと遊ぶようになった。もっぱら向こうからお呼びがかかる。俺はさびしいから行く。だけど絶対行かない集まりもある。ゼミの集まりには何度か行った。女友達彼女にはなってもらえなかった。行かない集まりが増えた。

今日卒業式だ。俺は行かない。グラデュエーションブルーがその理由ではない。大学時代に学んだことはいくつかある。

社内恋愛は俺には無理

・人に依存してはダメ

・本分を果たすべし

勉強代が高かったのか否かは今後にかかっている。

以上、事実9割の話です。新大学生反面教師になれば幸いです。あともし奇特な方がいらっしゃれば、新社会人にアドバイスください。体験談だとうれしいです。

2009-03-20

公立学校なんて行くものじゃない。

中学時代はストレスまみれの生活で大変だった。

日通うのが苦痛だった。

私の生まれた田舎私立中学なんてなく、皆が何の疑問も持たずに近所の公立中学校に通うようなところだった。

公立学校の崩壊が叫ばれているが、私の母校も例外ではなくやっぱり荒れていた。

ガラスは割れ、生徒間でのいじめ先生いじめ暴力万引き妊娠煙草

荒れに荒れていた。

先生たちはこの処理に追われて疲れてイラつき、余裕が無くなっていた。

当然学校中の雰囲気は悪く、おとなしい子、真面目な子は怯えて縮こまり、小さくなっていた。

私は幸いにもいじめには遭わなかったが不良が怖くていつもびくびくしていた。

先輩からの抑圧もきつく、特に運動系部活いじめの巣窟になっていた。

こんな学校だったから卒業式なんて泣けたものではなく、卒業したときはせいせいしていた。

(なぜか今まで散々暴れまわっていた生徒はこういう時だけ号泣していたりする。)

中学時代は今考えても酷い環境だった。

地元を出て大学に入り、周りの子たちの中学時代の話を聞いていてはっきりと思った。

公立なんて行くものじゃない。

子供に安全な生活をおくらせたいなら、せめて中学は私立に行かせた方がいい。

私立にもピンキリはあるが誰でも通える公立よりマシだ。

中学から私立に通っている友人の話を聞いていると、平和で羨ましくなってくる。

「あの中学で鍛えられたでしょ!」なんて言う人もいるが、とんでもない。

逆にストレスで上から横から押さえ込まれ、歪んだだけだった。

青春などこれっぽっちも感じなかった。

私の中学時代は今更どうすることもできないが、もし子供を持ったら私立学校に行かせたい。

わざわざ環境の悪いところに放り込んで疲れさせて歪ませたくない。

たまパニック症候群

【症状およびそれに至る経緯】

仕事やいろいろな面倒くさいことが山積み。

とにかく面倒くさいことが多いだけでテンション駄々落ち。

この世で自分が一番不幸なんだ、もうダメだ、とかいう方向へ思考が陥っていく。

まさにデススパイラス。

一度そうなるともうダメ

頭の中は面倒くさいことについて考えるだけで、他のことが手に付かない。

何も手に付かない。

ダルいめんどい、最悪だ、不幸だ…

そんなキーワードが頭の中をぐるぐるします。

【処方】

匿名Tさんの場合

自己啓発本を読む。

さっきはニコ動アップル創始者の卒業式ピーチみて、復活しました。

より効果的な方法

大好きな人に「な~んにも心配しなくていいんだよ。よしよし」って頭をなでられたい

きめぇ

彼女ほしいです

2009-03-19

卒業式入学式写真は燃やそう

もうすぐ、卒業式入学式のシーズン。だが、児童ポルノ法改正されれば、小学校中学校入学式卒業式、また、高校入学式写真を持っているだけで、「18歳未満の被写体が写っており、人によっては性的写真に見える」という理由で逮捕される可能性がある。もちろん、ただ卒業式入学式写真を持っているだけで逮捕されたりはしないだろうが、日本警察は、別件逮捕日常的に行っていることを忘れてはならない。警察が、あなたを疑わしいと思ったら、卒業式入学式写真をたてに、「児童ポルノ法違反の容疑で逮捕」として別件で逮捕し、23日間拘留して事情を聞く、なんてことは普通に行われるようになるかもしれない。

もちろん、修学旅行写真も、燃やすか消去しないと、児童ポルノ法改正されたときに、すべて別件逮捕に使われる可能性がある。自分関係ないと思っているかもしれないが、例えば、あなたが男性で、自宅の近くで児童に対する凶悪事件が起こったとしたら、とりあえず、現場周辺の男性全員を、卒業式入学式修学旅行写真をたてに「児童ポルノ法違反」の疑いで別件逮捕して取調べする、なんてことは、普通に起こりうるはずだ。

児童ポルノ法改正に、デジタルカメラなどを製造している電気電子の大手がなぜ絡んでこないのか理解が出来ない。これらの企業は、よく、子供運動会ビデオなどを取っているお父さんのCMなどを流して、自社のカメラ/ビデオカメラを買ってもらおうと腐心しているが、児童ポルノ法改正されると、小学校運動会写真ビデオは、全て、児童ポルノに該当する可能性があるということになる。大勢の子供写真ビデオが、児童ポルノとして使用されるかもしれないからだ。逮捕されて人生台無しになる可能性がある、という記事が週刊誌に出るだけで、デジタルカメラの売上はがた落ちになるだろう。

電機業界の大手がもっと積極的に、児童ポルノ法改正に反対してロビー活動を行うべきだ。日本カメラは、世界的にも強いのだから。

2009-03-17

http://anond.hatelabo.jp/20090317213005

自分は、小学校の時苛められてるのが嫌で、受験した口なので。

もし出身小学校卒業式にそんな風習があったらと思うと。

間違いなく総スカンだったろう。

それでなくても、受験で数日授業を休んだだけで空気違ったし。

(元々ずっと無視されてたようなもんだったから、実害なかったけど)

リアルでそんな経験をしている子供もいるのかと思うと。

なにやら背筋が寒い話だ。

今日、某小学校卒業式をみて

今日、某小学校卒業式をみた。私の住む地域小学校卒業生は式に中学校制服を着て出るという風習がある。おそらく、元は式が過剰に華美にならないように配慮して生まれた風習なのだろう。皆、行く中学校が違わない時代はそれで良かった。

ここまで読んだだけで察しがついた方も多いだろう。そう、お受験だ。

私がみた某小学校卒業式は、卒業生(特に女子)の着ている制服が多種あった。私は私立中学のことには詳しくない。だから、どの子がどの中学に行くのかまるっきり分からなかった。けれども、この光景は一部の親や卒業生中学受験を控えた在学生にとってはどう映ったのだろう?

競争社会からドロップアウトした経験を持つ私には、正直恐ろしくて仕方がなかった。

2009-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20090314211858

5年前の3月、5年間通った大学中退した俺が通りますよ。

自分は出られない卒業式に参加して、卒業していく連中には絶対負けないと誓ったのが5年前。

以下結論は特にない駄文

社会人になって4年半。

昨年正社員になってようやく人並みの生活をおくれるようになった。

大学出てなくても希望の職種でほぼ望み通りの仕事ができている。

意外となんとかなったのは、多分運が良かったから。

一歩間違えば派遣村で年越しするはめになってたかも。

派遣就職するまでの3ヶ月間。

フリーター生活しながらの就職活動は死ぬほどしんどかった。

面接で必ず「なんで大学やめたの?」と聞かれるのに、明確な答えを返せなかったから。

これからもし就職活動するのであれば、何か旨い返事を考えておいた方がいい。

働くのなら、次につながる仕事を探した方がいい。

大学に行く頭があれば、今の日本でも仕事はある。

たとえブラック企業でも職歴はアピールできる歴史になる。

辞めた当時、親は実家に帰ってきて専門学校に通い、公務員試験を受けろと言っていた。

そうなったら俺はもう死ぬんだと思った。

自殺するとかじゃなく。うんこ製造機になってしまうと思った。

その人生意味が見いだせなかっただけで、今となってはありだったのかもしれないと思ってるけど。

同時期に大学をやめた友人は、もういなくなってしまった。

俺はまだ生きてる。

今の俺はいろんな人のおかげで生きてる。

これからの君にも、いい出会いがあることを祈る。生きろ。

2009-03-15

僕の知り合いに天才がいます

自分ブログに書いても誰もたどり着かないので、ここにも書く。

僕の知り合いに天才がいます今日、ばったりとその人に会ったので、その人の話しをします。

頭がいいな、賢いな、と思う人はたくさん知っていますし、とても性格が良い人は少し数が減りますが知りあいに何人かいますですが「この人は天才なんだ」と思わせる人はその人だけです。彼だけは他の誰とも違うのです

彼は大学の先輩で、3年生の春休み出会いました。そのとき彼は5メートルくらい離れたところに立って、とても難しそうな話しをしていました。連続体仮説がどうの、とか、そういう話し。話しの内容はよく聞きとれませんでしたが、ぎょろっとした大きな目と、視線がまっすぐ前を向いたまま微動だにしなかったことがやけに印象に残っています

僕は4年生から研究室の後輩として彼の指導を受けました。彼が天才であることと、教育者に全く向いていないことは指導を受けるようになって3日でわかりました。彼は、研究室の誰もが答えの糸口すら見いだせない問題に、ものの10分足らずで解を与えることができました。10分のうち、8分は問題がなんであるかを彼に説明することに費やされました。それを聞いた彼は、20秒ほど黙り、そして解を述べました。そして、1分ほどまた黙り、なぜその解が正しいのかを30秒で説明しました。問題によって10分が5分だったり、たまに数日かかったりしましたが、おおよそこんなものでした。

要するに、問題を理解した瞬間、彼には答えがわかってしまうのです。彼によると「答えが降ってくる」のだそうです

彼は修士課程の2年生でした。4月中旬ごろに、システム開発をやっている会社内定を取ったということを彼から聞いたとき、「よく○○さんに内定をだす企業がありましたね」と軽口をいいました。てっきり彼が冷やかしで就職活動をしているのだと思っていたのです。彼が博士課程に行くのだと決めつけていたのですしかし彼は真面目な顔で「本当だな。なんとか死なずにすんだよ。」と答えました。彼はよく真顔で冗談を言うので、そのときの僕は笑って受け流したのですが、後から助手先生に「彼は××社にいくらしいね。」という話しを聞いたときには、少し混乱しました。本当に就職するということを理解するのにおそらく10秒ほどかかりました。そのあと、彼でも混乱することがあるのだろうか、という疑問が浮かび、きっと無いだろうな、という結論を1秒もかからずに出しました。

彼はとても順調に研究成果を出し、最後の数ヶ月に同級生たちが苦しむのを尻目にあっという間に論文を書いて卒業していきました。その年は、学部卒業式大学院卒業式が合同で行われましたが、彼の姿はありませんでした。風邪をひいて休んだのだと彼の同級生は言っていました。

その年の初冬、僕は彼に再会しました。彼に声をかけられたとき、僕は彼が彼だと確信を持てませんでした。彼の顔から表情は失われ、頬が少しこけ、彼が天才であるというただ一点のために発せられていた存在感がすっかり消え失せていました。僕は驚きました。人が10ヶ月もしないうちにこうも変わるのかと。

彼と僕は、明治通りから少し奥に入ったところにある喫茶店で30分ばかり話しをしました。日曜日原宿だったので喫茶店は人でいっぱいだったのですが、僕たちが入っていったときに、たまたま学生とおぼしきカップルが席を立ったので僕たちは運良く座ることができました。なぜかBGMモーツァルト作曲オペラがかかっていて、それがひどく間の抜けた空気をあたりにまき散らしていました。

はじめの10分間、彼は黙ってコーヒーを飲んでいました。僕は本当に彼が彼なのか、まだ信じられずにいました。学生時代の彼はとにかくよく喋りました。話題の90%が研究の話しで、残りの10%が最近寝た女の子の話しでした。その90%の部分で僕は彼に嫉妬を感じ、残りの10%でもっと嫉妬を感じました。

一度僕は「なぜそんなに色々な女の子と寝られるのか」と彼に聞いたことがあります。そのとき彼は「女のほうが数が多いからじゃないか。」と真顔で答えました。ぶん殴ってやろうかと思いました。

・・・きっかり10分して彼は深いため息をつき、そして口を開きました。

ーーーーーーーーーー

彼はやっと絞り出すといった風で口を開いた。

「とてもシンボリックな話しがあるんだ。」

間の抜けたモーツァルトを聞きながら、僕は何も言わずに次の言葉を待った。

「俺の会社は昼寝をしたら怒られるんだ。」

「僕の中学もそうでしたよ。高校は放任主義だったけど。」

僕の言うことを無視して彼は続けた。間の抜けたことや間違ったことを僕が言ったと感じると、学生時代からはいつもそれを無視した。

「自慢じゃないが、俺は生まれてから大学卒業するまでの22年間毎日欠かさずに昼寝をしてきた。それも、毎日午後4時ぴったりに寝て、15分後に目が覚めるんだ。まあ、たまに3時45分に寝て4時10分に目覚めることもあれば、4時30分に寝て4時40分に起きることもあるんだが、それでも昼寝していることには変わりない。とにかく俺がいいたいことは22年間毎日昼寝をしてきたということだ。」

壮大なんだか、アホらしいのかよくわからない前フリだと僕は感じていた。たぶん両方だろう。

「俺が一番他人に誇れるのは集中力なんだ。俺はその集中力を6時間完璧に維持することができる。逆に考えると、6時間しかもたないんだよ。きっかり6時間たつと、俺は猛烈に眠くなるんだ。そこで、15分間だけ眠るんだ。すると、また頭が冴えて6時間集中できるんだ。集中している間は、食事をとろうが、テレビがついていようが、100%の能力を発揮できているんだ。それは俺にとってとても幸せ時間だし、親も教師も研究室助手だって悪い気はしなかったと思う。俺は1日に2回あるその6時間で、テストで良い点をとり、研究成果をあげ、そして女を口説いていた。」

彼が集中力の途切れる夜10時までにセックスを済ますのか、それともセックスにはその集中力が必要ないのかを考えながら僕はうなずいた。

「そして、その22年間の幸福な習慣が終わりを迎えたんですね。」

「そう。そうなんだ。この話しを聞くとたいていの理系の男はこういうんだ。半分の時間が失われたんだねって。昼寝した後の6時間が集中できなくなったと考えるわけだ。でもそれは違う。習慣が崩れるというのはそういう簡単な話しじゃないんだ。1たす1が2という計算ばかりやってきた連中がそういう発想しかできないことには憐憫の情を感じないわけではないが、違うものは違う。答えはな、ゼロなんだよ。全てが失われてしまうんだ。」

彼は淡々とそう言って、言い終わると小さくため息をついた。学生時代、彼は最もため息から遠いところに存在していた。だが今は違っていた。ため息で作った洋服があったら、今の彼にはとても似合うだろうなと僕は考えた。

「昼寝をしなくなってから、何かが狂い始めたんだ。俺が言うことに誰も耳を貸さないんだ。集中力が失われてしまっていても、いままでと同じように正しい答えを出しているはずなんだ。問題が何なのかを理解し、そして解が閃く。解が正しいことを確認するためにしばらく考えて、解が正しい理由を言う。何も変えちゃいない。自分で言うのもなんだが、解が間違ってるわけじゃないはずなんだ。周りの連中が俺の言うことを無視するもんだから、さすがに不安になって後で何度も考えたよ。間違えてるんじゃないかって時間をかけてとても慎重に考えた。でも、やっぱり正しいんだ。俺は混乱した。」

そのときの僕は、彼の話しが安っぽいミステリー小説のようになってきたとだけ感じた。そうじゃない。今の僕にはわかる。彼が言っていたことはとても本質的なことだったんだ。

「俺はイライラしたよ。俺を無視して1時間ときには3時間もかけて無駄なおしゃべりをして、そのあげくに出す答えがなんとも唾棄すべきものなんだから。そして、俺はその唾棄すべき答えに従って仕事をし、唾棄すべきものを世の中に排泄するんだ。」

話している彼も、とてもイライラしていた。とても無表情だったし、異常なほど淡々と話していたが僕にはわかった。彼のイライラの原因は、間の抜けたBGMのせいでも僕のせいでもなかった。たぶん。

ーーーーーーーーーー

そして、今日、彼にまたしても原宿駅のそばでばったりと出会いました。前回出会ったときは昼下がりでしたが、今日は夜の10時をまわっていたと思います

彼に声をかけられたとき、僕は彼が彼だと確信を持てませんでした。彼は宗教家のようなとても穏やかな表情をしており、すこし肉付きがよくなっていました。

筋トレを始めたんだ。」

がっしりしましたね、という僕の質問に彼はそう答えました。

「この間会ったときはすまなかったな。俺の愚痴ばかり聞かせてしまったな。」

「いえ。」

「本当にあのときの俺は幼かったよ。まあ、あの状況は遅れてきた五月病だったんだな。」

彼は頭を掻きながらそう言いました。

五月病が結局のところなんなのか、いまだによくわからない僕は曖昧にうなずきました。

「久しぶりに会ったんだ。お前さえよかったらちょっと飲んでいかいか?」

まり気乗りしなかったので、とても丁寧にお断りをしました。ちょっと疲れて胃の調子が悪かったことと、次の日の仕事の量を無意識計算したんだと思います

「なんで、○○さんは就職されたんですか?てっきり僕は研究の道に進むんだと思ってました。」

別れ際に、ずっと疑問だったことを思わず聞いてしまいました。聞いてから自分デリカシーの無さに少し辟易しましたが。でも彼は特に嫌そうなそぶりは見せず、思慮深くしばらく考えてから

「うん。まあ、そうすべきだったんだよ。いま振り返れば正しい選択だったと思ってるよ。」

と答えてくれました。彼は薬指に指輪をしていました。

彼と別れてから花粉症対策でいつも着けているマスクを外して僕は深呼吸しました。もう3月も中旬。春の匂いがとても濃密だったことに驚きました。いつもそうであるように、とても間の抜けた春の匂いでした。

2009-03-14

今日卒業式

卒業式家族総出で遅刻してたやつがいてワロタ

人生で一度の祝い事なのにね

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん