警察にだけ銃の携行を認められているのは何故か考えてみたら?
陰キャ界隈だと発達障害だと診断されたわけでもないのに勝手に自分はADHDだASDだと思い込みうまく社会適応できているように見える者達を「健常者」と呼びまるで自分達は健常ではない異常者であると思い込む痛い人達がいる。本当にキモいからやめてほしい。
Twitterで騒いでるうちは最近はやりの憎悪クリエイターかなと思ってたんだけど、ブログで相手のサイト引用して対談形式の茶番書いたりしてるの見ると完全にいにしえの「ネットバトル」じゃん。
「ネットバトル」おまえ生きとったんか!
これは昔から言われていたこと。ゲイ男性が外でやりまくり妻に性病移すだなんてLGBTが流行る前、一昔前だとそういう理由で嫌われていた。LGBTプッシュはその反動と言ってもいい。
選ぶということは差をつけて別けることなので本質的には差別である。
問題視される差別は社会的、公的な差別であって個人単位での差別をことさらにあげつらうべきではない。
人と交際するのってそういう風にスクリーニングして決まるものではなくて遍歴を後から眺めたときに背の高い人が好きなんだなあと気づくものではないか。
など言いたいことはいくつかあるが、せっかくなので何を差別と感じて何を差別を感じないか、あるいは許容される差別であるか。を考えていきたい。
結論から言うと、その属性そのものを見ているか、に尽きると思う。
単純に見た目の好みとして「背が高い人」を好む何者かに対して悪い意味での差別性を私は感じない。
しかし「背が高い人が良い」の理由として「身長が低い人は性格もひねくれているから」と言われたら、差別的だな、と思う。
同様に「背が高い人は知能も高いから」も十分に差別的だと私は感じる。
まとめると、「背が高い・低い」ということを「背が高い・低い」という事象そのもので受け取らず、知能や性格に関連付けてしまうような論理の飛躍、偏見に対して差別を感じるのだ。
これは相関関係のあるなしは問題ではない。仮に身長と知能、性格に相関関係があったとして、目の前の人物がどうであるかには一切関係がないからだ。
男性のほうが、黒人のほうが犯罪率が高いとしても、目の前の黒人男性が犯罪者かどうかはその人自身を見なければわからない。
そもそもある集団の犯罪率が他の集団より高かったとしてもその集団内での犯罪者の割合は些少なんだけどまあそれは別の話。
出自が人物に影響を与えることは当然あるだろう。しかし判断は結果としての現在の人物を見れば良いだけのことである。
出自を問うことに意味はないし、書類の出身地を書き換えたからと言って能力や性格が変わるわけではない。
つまり、出自を元に人物を判断するということは、出自に結びついた何らかの論理の飛躍や偏見が必ず存在することになる。
当人の言を聞くまでもなく、差別的であると判断することができる。
最後に微妙なラインについて考える。「運動部出身の人はなんか怖いから苦手」これは差別だろうか。
部活動の種類と危険度には何の関係もないので、運動部出身を恐れる客観的な理由はない。ではこれは偏見から来る差別なのか。
これについては、差別的には感じるが問題のないレベルだと私は思う。何が違うかと言うと、判断の責を誰が負っているのか、である。
ここで言われているのは「なんか怖い」という主観である。運動部出身の人が悪いわけではなく、「なんか怖い」と思ってしまう自分に責がある。とはいえどう繕おうが「なんか怖い」ものは仕方がないのだ。
なので個人レベルでは問題ないと判断する。行政や企業にそういう情緒で動かれたら批判せざるを得ないが。
ちなみに「運動部出身は粗暴だから苦手」という主張だったらどうだろう。「粗暴」という相手の責になっている。
これは容易に「粗暴な人間を生み出す運動部を廃止しよう」という社会的な流れへのモチベーションになる。ここまでくれば直球の差別と言っても差し支えないだろう。
特に着地点も決めないままダラダラと書いたが、とりあえず2つの考えに達した。
偏見、論理の飛躍から来る特定の属性への決めつけ、及びそれを元にした判断、について差別的だと私は感じる。