何月何日何時何分何秒の満員電車のどの車両で感染したかなんてわかるわけがないし、それがわからないのでそこに乗ってた人をすべて集めて検査もできない。
「今から皆さんにちょっと検査を受けてもらいます。陽性が出るまで帰れませんよ」
子供の頃は 家族とか友達とか狭い世界だったけど、大人になり仕事を始めると利害関係者が増えた。その繋がりを知りながら、生きていくことが"倫理的な生活"。
よく知らん人の事は関係ない。
脳の多様性ですね🧠
時間も金もかけずにってなると、とりあえず主食主菜副菜揃えとけとしか言いようがないな。
主食:ごはんパン麺。家ならご飯炊くか食パン買っとけ。コンビニとかでもおにぎりやパンは安いし、特に問題なし。
主菜:肉魚卵大豆製品。家で迷ったらとりあえず卵一個ゆでとけ。コンビニならタンパク質系の具が入ったおにぎり、サンドイッチがオススメ。主食主菜兼用できるので金を(あと食べる時間も)節約できる。
副菜:正直一番めんどくさい。野菜系の惣菜買ってもいいが、面倒な時は野菜ジュース(出来れば野菜生活みたいなのではなく、一日分の野菜系。マズいけど)飲んどけ。家なら冷凍カット野菜は意外に安くて便利。自分はカットほうれん草をインスタント味噌汁にぶち込んだり、レトルトパスタに冷凍ブロッコリー混ぜたりしている。
「住めば都」と同じように、車だっていざ自分のものになればめちゃくちゃ愛着が湧くし最高の車だなって思える気がする。
自分を含め周りの人間で1台目を古い中古車にする人は多かったが、なんやかんや乗り換える前には必ずみんな「いい車だった」と呟いている。また逆に、まだ就職してもいないのにローンを組んで憧れの車を買い、毎日楽しそうに乗り回していた人もいた。
何が言いたいかと言うと、「自分の車」ってのはそれだけで特別になるんだ。新車でも中古車でも、軽でもスポーツカーでも構わない。
個人的には、運転に不慣れな状態で高い新車を買うと傷付けた時のダメージも金銭的な負担も大きくなるから、中古車で「所有する楽しみ」を味わってみるという選択肢も検討してみて欲しいと思う。
新車も中古車もどちらにもメリットデメリットがあるし、自分が車を買う上で何に(値段、見た目、ブランド、走り、維持費等)重きを置くか考えた上で、自分がこれだと思った車を選ぶのが良いと思う。自分で調べて気になった車種について聞いてみれば、ネットの有識者達が色々と教えてくれるだろう。
2012年に発売されたゲームを未だにやってる。大好きだ。セーブデータが複数作れないので、セーブデータ分のカセットを買った。今でも新品が買える。半額で買える。3DSで遊んでる。楽しい。
でも、ダウンロードコンテンツがもうダウンロードできない。
8年前だよ?最近じゃん。まだやってる人いるだろ。なんなら1999年に発売されたプレステ2のゲームまだやってるわ。すごく好き。
それなのに、ダウンロードコンテンツがダウンロードできない。もうなくなってる。
プラスアルファ要素ならまだいいけど、キャラクターを全部揃えるのにはダウンロードコンテンツが要る。ダウンロードコンテンツがないと、ゲームが完結しない。発売当初に買ったけど、何度かセーブデータを消したので、ダウンロードコンテンツがダウンロードしてあるカセットはない。いつでもダウンロードできると思っていたら、いつの間にかできなくなっていた。
ダウンロードコンテンツがあるゲームは、お得感があるのかもしれない。でも、いつか消えるのかと思うと、ソフトだけで完結しないというのは弱みでもあるのだなと思った。
ソフトを売るなら、ダウンロードコンテンツはプラスアルファにしておいてほしい。それがないと完結しないゲームは、ダウンロードコンテンツが消えたあと、寂しい。
私は趣味で街中の写真を撮っている。そのような写真は殆ど自己満足のために撮っているので、その是非について特に疑問は浮かばない。
ここで家族写真について考えてみる。写真を趣味にしていない人でも子供や祖父母の写真を撮るだろう。だがこれは本当に良いことなのだろうか?
まず子供の写真について考える。ある程度自分が成長して、子供の頃の写真が全くなかったら、自分は親に愛されていなかったのだろうか、と思うだろう。これは写真が我が子を愛していることの象徴になるからだ。だが写真を撮るよりも、しっかりと向き合って子供を育てることの方が大切なのではないか。写真を撮ることが、子育てをおろそかにすることにつながるわけではないが、子供の写真を撮ることは、幼かった子供を永遠に保存しておきたいと願う親のエゴに過ぎないのではないだろうか。
祖父母などの死が迫っている高齢者も同様である。写真を撮っておけば、その人が亡くなった後でも、その人を擬似的にずっと手元に置いておくことができる。だがこれも亡くなった人のことを徐々に忘却してしまうのを恐れて、逃げ道を作っているだけなのではないだろうか。そうするよりも、亡くなる前に、その人に誠実に向き合うべきだと思うのだ。
これまで述べてきたように、家族写真を撮ることは一見愛情や家族の豊かさを象徴するように見えて、家族との真摯な向き合いを放棄することのような気がしている。
他人を殴らないのは殴られないため、優しくするのは優しくされるため、そんな感じだった。
今でも変わらない。
就職しても、自分に不利にならない程度に頑張るという打算的な生き方をしてきた。
ふと周りに理由なく皆のために頑張っている人がいて、何もかも嫌になった。
もう、自己中心的じゃない「ふり」をして生きていくことが嫌になった。