出してもいいが行動には責任が伴うので
不思議と他人は此方を分析しようとするのだ。配偶者に問題があるのかどうかと。極めてプライベートな問題に頭を突っ込んで来る。此方は、彼方の日常に興味はない。幸せそうな他人の生活に微塵も心が動かない。承認欲求とやらを満たす為に行われる吐露も数年経てば見飽きてしまう。これも一種のマンネリズムに違いない。
昔アーチェリーをやっていた。弓は持ち手部分と上下のリムの3パーツに分解し、矢と一緒にボウケースに入れて持ち運ぶ。結構重い。持ち運ぶのは試合の時か、修理のためショップに持ち込む時くらい。ボウケースは経験者以外には細長いキャリーバッグにしか見えないと思う。もしくは楽器のケースか。しかし経験者には一目でボウケースだと分かる。
街中でたまにボウケースを引きずっている学生を見つけるとなんだか嬉しくて声をかけたくなる。かけないけどね。
まず、正しいことは絶対だと思っていることに息苦しさを感じます。それは、人は間違えることもある、という基本則を認めない息苦しさであるだけではなく、正しくある自分は絶対であると思っていそうな傲慢さにも息苦しさを感じるのです。
なぜそんなに傲慢になるのか、私なりに分かるところもあります。私もかつてその類の傲慢さを持った人間であったからです。
前提条件として、自己肯定ができない人がこの傲慢の罠にはまります。なぜなら、自己肯定ができないということは自分の中に評価軸というものがなく、何が良いものか悪いものかを計るときに他人の物差しを借りてこなければなりません。で、借りてくる他人の物差しに正しさを求めます。その正しさが絶対的なものであれば、自己肯定ができない不安定な自分が確固たるものになるからです。
絶対に正しい評価軸に沿って生きていれば、何か自分を揺るがす出来事などに遭遇しても「自分は絶対に正しい基準に従っているのだから間違っているのはあいつらだ」と思うのが非常に楽になります。それは不安定さからは程遠いものであり、生きるのには楽な姿勢ですが、でもやっぱり傲慢でしかありません。
そしてこの傲慢な人間は、他人の価値観を基本的に認めることができません。この傲慢を支える絶対的な物差しがそもそも他人からの借り物でしかないからです。加えてその物差しを絶対だと思っているから、さらに他の人の価値観を認めることは構造的にできないのです。
次に、自分が正しいと思っていることを他人にも求めていることに息苦しさを感じます。先ほど述べた傲慢さは、「自分は正しくなくてはならない」という生き方であり、この時点でも自分が間違ったときにそれを肯定できなくなるため生きづらいです。
けれども加えて、「なぜおまえは正しくないんだ」ということを他人に問う生き方をする人もいます。これはハッキリと生きづらいです。なぜなら、自分が信じている価値観に沿った生き方を他人にも求めているからです。それは、他人は他人の価値観があるということを認められないから起こる態度です。
ここで、自分が信じている価値観が無条件の自己肯定感から出てくる自分なりの考えであるのならば、他人の価値観を認められなくなるところまで行くことはめったにありません。自分が肯定している自己と同じだけのものが他人にもあると思えるからです。無条件に自分を肯定できているからこそ、他人の価値観を認めても自分が揺らぐことはありません。
けれども、自己の価値観を持てず絶対的に見える他人の正しさを借りてきただけの人だったら、その正しさを絶対的だと思えば思うほど、他人もその正しさを身に着けるべきだという視野狭窄に陥っていきます。ここでもまた、他人の価値観を信じてしまっているからそれ以外の他人の価値観を認めることができないという構造的な問題があります。
さて、ここまでで述べてきた、絶対的に正しい他人の価値観とは何でしょう?かつてはそれが宗教でした。自己のアイデンティティがなくその確立を宗教に求めてしまったからこそ、自己を守るために自分が信じる宗教以外の宗教が認められないという構造がありました。
けれども、今は宗教がそんなに絶対的なものではないということが明らかになってきました。絶対的でない神には意味がないので、そういう意味で現代は神が死んだ時代です。
しかし、全ての人が無条件に自己のアイデンティティを持てている時代になったのかというと、それもまた否であります。
私にはポリコレというものは、かつての宗教にとって代わる現代の聖典のように見えます。
だからこそ、あの界隈の人々は正しくあることに妄信的であるし、他人にも正しくあることを求めます。それが自己のアイデンティティを支える術だからです。
でも、正しくなくてもいいじゃないですか。自分だって他人だって間違えることはある。それを認めることができる強さを持ちたいと思います。
それに、絶対に正しい他人の価値観に沿った生き方はやっぱり息苦しいのだろうと思います。その他人の価値観に沿わない自分を認められなくなるからです。自分を正しさで守るために他人の価値観にすがったのに、その価値観に沿わない自分が現れたら苦しいなんて言うのは本末転倒にしかなりません。
そうじゃなく、自分で自分を評価するのをやめて、自分が感じることをそのまま認められるようになるのが、自分を守り、他人を認める一番の近道だと思うのです。
そもそも差別主義者というものを想定する段階でおかしくないか?
良くて「これは区別であって差別ではない」と主張する論者だが、
そうね、やはり謝罪は軽いと感じるので製作者の意図はともかく、「その程度で解決するように描くのが気に食わない」と思われることも有りかと。
"夕食の準備がしかけてあるので、子供が食事を我慢できる"とはいえ、飾り付けをしたりクラッカーを用意して待っていた上で、一度ラップをしてしまったような印象があり、電話をしてまで今か今かと待っていたのかと思えたし19時頃にスタンバイしてたのに21時頃帰宅だと子供の就寝時間考えるとキツいなー等の妄想が膨らんだよゴメンね
バージョン対応が出るかもしれないので、変数にプリフィックスつけましょう、自分が考えたプリフィックスではバージョン対応できませんが、みたいなの見て、この人、自分が言ってる日本語本当にわかってないんだな、という気持ちだった。