清楚系のクリームシチューさんとは相性悪いけどな
http://anond.hatelabo.jp/20150617210211
へーそうなんだ。
俺は28歳で童貞で、それがめちゃくちゃコンプレックスで自己評価はめっちゃ低い。
普通なら結婚して子どもがいるぐらいの年齢でも、女と付き合ったことないし、男の友達すらいない。
子どもの頃からコミュ障だったけど、この年になっても状況は全然変わってなくて、
自分はやっぱり普通じゃない、というかかなり劣っていると思う。他人とコミュニケーションが取れない。
一生一人で生きていくのかなってよく考える。寂しくなってよく病む。
で、そんな俺からすると自分の事を好きだと言ってくれる異性が存在する人間は、
誰かに存在を肯定されているという点で、それだけで自分に自身が持てるんじゃないかってずっと思ってる。
だから元増田が彼氏ができても自己評価が上がらないとか書いてるのみて驚いた。
http://anond.hatelabo.jp/20150617214117
遺族に大変申し訳ない、という理由だけで出版を止めるのはどうかしてる。
そら気分は害するだろうが、はっきり言ってしょうがないんじゃないかな?
そんなこと言ってたら何もできないし、何も進まない。
悲しみに時効はないから、ずっと悲しいまま。だからずっとわがまま。
本は出版していいと思う。
買う買わないはわたしたちが決めます。
覆面していったらええんちゃう
ただの記念写真だと思ったら、活動報告としてネットやらどこかでスピーチされる時に使われるっていうのをシャッター切った後に知らされるとか
訪問記念・記録としてとっていると思ったら、ブログ用の写真だったりして
あと、集合写真でその場の全員が集まって撮る時にも。(三脚・タイマー使用、持ち主が自撮りで他多数は背景集合、カメラ役したとしてもじゃあってんで代わりばんことか)
そんなで、ここ一年で二回ほど回避できずに顔写真が旧住まいとかたまに出入りする場の情報とのセットでネットに上がってしまった。
人に見つけられたくないから。(過去に対人で事故ったことに起因する)
人っていうのは特定の人でもあり、知り合ったすべての人でもあるんだけど。
「写真苦手なんですよー」(直接断る)とか
それ以外の手、ありますでしょうか?
この夏!ご用心バイ!
花粉症らしきものがあるんだけど、通年だし黄砂の時期に酷くなる。
いくつも引っかかるけどこれが原因っていうのが見つからないのでとりあえず時間があれば病院、
そうでないときは薬局で鼻炎の薬を購入して酷い時だけ飲んだりして対処している。
この間旦那とドラッグストアに一緒に行った時に、薬剤師さんに眠い薬は困ると相談してみた。
薬剤師さん、年配の女性で一通りの説明をした後に何故か、延々不妊症と抗アレルギー薬の関連とか
こういう余計な事を語りまくる人は、会社とか近所とか色々な所に生息してるからアーハイハイで聞き流して購入したんだけど、
帰ってから旦那が薬はなるべく飲まない方がいいんじゃないか…と青い顔。
いや、確かにそういう事は私が知らないだけであるのかもしれない。てゆかあるわ、普通に。
でもあの人の説明は正直都市伝説クラス、布ナプキン最強説くらい胡散臭いレベルの無茶苦茶なこじつけ話でしたよあれ…。
「アレルゲンが反応してね、免疫が高まるでしょう、それを無理に押さえるとね、ホルモンバランスも狂ってしまってね…延々」
せめて成分の副作用でこれこれこういうものがある、と説明してよ…何のための資格よ薬剤師さん。
こういう女性の身体を脅す話は世の中ごろごろ転がっていて、私はもう慣れてしまってるんだけど
旦那はそういう場面に出くわしたのが始めてらしく、相当怖がっていた。
まあそうだよね、慣れる方が異常なんだろう。
男性は精子の質がどうこう言われないもんね。なんで女性だけ生理が排卵が云々って人前で堂々と話せるんだろう。
恥ずかしいってほどでもないけど、すごい微妙な気分になるので聞きたくない。
起こるかわからない、でも起こったとしても対処できる範囲内の話を想定して、
鼻水ズルズルなみっともなくだらしない姿を晒して人前に立つ不利益を取る事はできませんよ。
あらゆる場所で言われていることだがそれはREMIXという概念のそれに対する窮屈な環境である。
レッシングのREMIXは記憶に新しい。だが実は時代遅れなのかもしれない。
昭和のころは、というよりも人間はあらゆるものをREMIXしてきた。例えば音楽の分野でもDJはあらゆる音をサンプリングし新しい楽曲を作る。それは70年代の後半だ。クールハークという伝説のDJのおかげだ。あらゆるデータを参照し、再構築し、あたかも新しいもののように世間に出回る。それがおそらく昭和のころは新しいアイデアだ、と賞賛されていた。しかし今は違う。
批評の世界でもそうだ。あらゆる、いかにも新しいアイデアというものは過去に出たものの参照でしかない。新しいREMIXももはや賞賛されない。それに対する窮屈な環境というものもポスト昭和のはっきりとした特徴であると断言する。
東氏の「動物化するポストモダン」はまさに新世代のバイブルであったが、現代はそれに対する窮屈な環境が少なからず存在する。
それに関連し、1968年をメルクマールに増田米二氏らが「機会」の重要性を説いた。林雄二郎、村上泰亮、小松左京、様々な文化人、知識人がこぞって、ネットワーク理論の原型を説いていた。それは学派の垣根を超えていた。機会の窮屈さもそうだ。そうだ、ここでは関係の窮屈さを提唱しよう。昭和のころと今と比べて関係の窮屈さというものが当てはまる人間は多いだろう。
詳しくは述べないが、あらゆる事象を参照してほしい。だがこれも窮屈なのだ。まさに今書いていること自体に窮屈さを感じるのだ。
それがポスト昭和だ。ちなみに私は昭和64年生まれだ。昭和と平成の境にいる。