ここ3ヶ月ぐらいシャワーだけで済ませて来たが、どうもチンコが臭い。
やはりお湯につかってアカを落とすのに比べて、汚れが残るのだろう。
それがまして、チンコともなると、カリ首や亀頭にアカがたまりやすい。
シャワーの水は上から下に流れるわけだが、チンコを洗うには不向きな水の流れだ。
だから手で水をためて、亀頭をすすぎ洗いするようにしてから、だんだん臭いがとれてきた。
そこでふと思ったのだが、チンコでさえこれなら、マンコだったらどれだけ洗いにくいのだろうかと。
時々、お風呂はシャワーだけで済ませてる、なんて女がいるが、間違いなくマンコ臭いのだろう。
なんとなく風呂よりシャワーの方がオシャレ感あるし、実際そんな事言う女は髪の毛巻き巻きなオシャレ女ばっかりだ。
だけど、マンコ臭いのだ。
アカ溜まってるのだ。
そう思うと、なんとも言えない興奮を感じる。
オシャレに気をつかって、自分を着飾ってるのに、マンコは臭い。
「私はクサマンです」と自白しているも同然なのに、それに気づいていない。
みんなそうだよな?
追記
おうおう。
なんだお前ら、流れたと思ったら反応してきやがって。
自分では気づいてないのかもしれないが、湯に浸かることの浄化作用をなめてはいけない。
お湯に10分でも浸かることで皮膚の角質がふやけて、軽くこすっただけで清潔に保ててるんだよ。
シャワーだとそれがないから、風呂に入ってた時と同じ洗い方じゃアカが十分に取りきれなくて臭くなったんだよ。
女だって確実おんなじだ。
少なくとも10年単位で考えましょう
そりゃあ他の人からすれば当たり前のことだし、ちゃんと外に出れるようになってから解決しなきゃいけない問題がいっぱいあることも分かる。
でもな、一回引きこもらなくなったからって外に出るのは辛いんだ。毎回毎回怖いんだ。その恐怖になれてないから普通の人より毎日大変なんだ。
当たり前だって思われるとつらい。
褒めてくれ。ウザいのは分かる。でも褒めてくれ。当たり前のことが出来ない人が当たり前のことをやっているときは褒めてくれ。俺もできるだけそうしてるから。
再掲。
単に、いまの生活が充実していないのを「自分は周りよりも知能があるからだ」という優越感を持つことでバランスさせたがってるんじゃないかという風に見える。
悟れば自ずからわかるようになる
私がトイレから帰ってくると「ぶっというんこ出た!?ねぇぶっというんこ出た!!?」と聞いてきます。
「ううん。ころころしたのしかでなかったよ」と答えると
「そっかぁ。きらりんやかな子が嫁さんだったら毎日ぶっというんこしてくれるんだろうなぁ」といってきました。
私の立場がアニメのキャラクターと比べられていること、そして私がコロコロのうんこしかできないことになんだか悲しくなってしまいました。
こんな経験私だけですか??
少なくともオレにとっては
奴隷の服装みたいで制約されていることを服自体が公言している。
私は奴隷です、好きなようにしてください、と言っている。
毎日着てきてほしい。
就活というもののために購入して着るわけだ。会社に入って働き始めてから着ている人を見たことが無い。
はっきりいって着てる側も面接する側も、ほとんど誰も得してないよね。
まぁ俺はあの地味な服装好きなんだけど。
髪の毛受けに嫁の経血が。
それを見て別になんとも思わず、いつも通りiPhoneでエロ動画見てシコり、
なんとは無しに嫁の経血に精液をぶっかけてみた。
これで排水口から俺の怨嗟を具現化したような鬼子が産まれたら、
今では私がおじいさん。
孫にあげるのは、もちろんヴェルタースオリジナル。
君の理屈が完全であることと、君が正しいことは、同じではない。閉じた円は完全だが、その円が君一人を容れる余裕しかなく、その狭さが君を嘆かせている以上、君は間違っているというのが客観的に見て妥当な結論である。
「馬鹿とは知性の欠如ではない。馬鹿は馬鹿なりに完全なのだ。」という、昔の賢い人の言葉があるが、その意味で君は十分に馬鹿である。馬鹿になりたいなどと心配する必要は全くなく、馬鹿である。自分の小ささをさらけ出して臆面無いあたり、実に救いがたく知能レベルが低い。
人生の幸福とは、いかに適切に騙されるか、ということである。社会的規範を盲目的に信仰しているがゆえに幸福の地平が開かれる。
こういう、小学三年生が三日で思いつくような理屈を、何か一角の思想家になったように得意気な顔で書き散らかしているのを俗に黒歴史という。3年たって君が学校を卒業する頃、このエントリを読み返したら、君はおそらく蒲団を被って三日間ほど寝込むだろう。寝込まないとしたら、君の馬鹿さ加減はいよいよ病膏肓に入ったのであって、ようするに真に救いがたい阿呆になったということである。大体それで君は喜ばしいのか。
ただ、いくらか救いがあるとすれば、君は君が(どうやら)正しくないということに薄々気づきはじめているのだろう。だからこんなエントリを書くのだ。厨二病がうすら惚けて、ようやく下の毛も生えそろうような年になってきたということなのだから、それは大変喜ばしい。
それなら、君は気づくべきである。
君の書いたエントリは、この世の中の矛盾を何一つ解決しない。君の言葉は、今この瞬間、自分の信じるもののために血を流すことを厭わず戦っている人間にとって、蚊ほどの価値もない駄文であり、君の言葉はしじまに消え虚無に還っていくばかりだ。人々は今日も明日も血に染め血に染まって死に続けるだろう。君の言葉とは何の縁もなく。
また、君の言葉は、今この瞬間、飢えに飢えてこの世への呪詛の中で死ぬばかりな子どもにとって、あぶくよりもはかなくシラミの糞より価値のない、その存在を認識すらされない拒絶の壁の向こうにある。君が何をのたまおうが、彼らの腹はほんのわずかも満たされることなく、彼らがその空腹を万分の一秒すら忘れることなどない。
自分をロンパせよ、と、居丈高に叫びながら、君はカタツムリの殻のようなちっぽけな円環に閉じこもっているだけだ。世界は君の円環よりずっと広い。誰も君の円環の中でしか通じない理屈になど、何の興味ももっていない。世界自体が、遥かに遠く広く、そして混迷と矛盾に充ちており、多くの人が(君が馬鹿だと蔑む多くの人が!)、恐れながらもそこにむかって足を踏み出そうとして、そして生きている。
いま、カタツムリの殻のような円環の中に閉じこもっている君に言うが、君がいまの自分の在り方に不安を覚えているのなら、君の方にこそ、自分が少なくともカタツムリ以上の何者かであることを、自らの言葉で証してみせる必要があるのではないか? 他人に甘えるのも大概にすべきだ。世界は君のママではないのだから、君の言葉に価値があるのか否か、立証する責任は世界の方にでなくて君の方にある。
君にまだ、自分がダンゴムシよりも少しはマシな何者かであるという自負があるのなら、石の下でまるまっていることをやめて、這い出せ、太陽の下にでよ、そして歌え。喉笛が裂け倒れるまで。そうしてら、初めて君の言葉は世界に届くのかもしれない。まだまだだ、君は。You just haven't earned it yet, baby. まだまだだ。君は、まだまだ全然だ。本当に君が苦しむのは、これからだ。
こういうことが言われている→それの論点がわからないもん!→読めば分かるだろう→分からないもん!詳しく調べられないもん!…だろ。
http://anond.hatelabo.jp/20150416201757 へ
増田の悩みはとっくに解決済みなのだ。たった一行で解決方法を書くことができる。しかしいきなりそれを書いても素直には受け止められないだろうから、先にこんな話を紹介しよう。
「俺は入門する前から上手かった。とても上手かった。上手すぎて誰も俺の落語を理解できなかった。
稽古した結果、俺は下手になった。下手になったおかげで、客は俺の落語を理解できるようになった。
だが下手じゃ悔しい、下手なままじゃいけないと思って、もっと稽古した。そのおかげで、俺は人並みになった。
今俺は、人並みでいるために稽古している」
真剣に勉強すればするほど、自分の知識があやふやであいまいなものであることに気づく。実は自分が何も知らなかったことに気づく。
どんな分野でも、第一級の大家と呼ばれる人はみな、驚くほど謙虚なものだ。
それは彼らが、自分の業績が先人の膨大な遺産の上に成り立っていることを知っているからであり、未解決の課題が山のように広がっていることをありありと眼前にしているからだ。