はてなキーワード: 資本家とは
言う事を聞きつつ、正論を言ったら干されるのでぐっと堪え、
取引先のタヌキにも頭を下げつつも、さらに新人に陰口をたたかれ、
でも妻に奉仕しなきゃまた喧嘩になったり発言小町に書かれるから
安い発泡酒で我慢して、それで寝る。
起きたらまたギュウギュウの電車に揺られ、
今朝の電車で触れた女子高生の匂いを反芻する。牛のごとく何度も。
そんなこんなで稼いだ金がどこに消えるかと言うと、
ケツにぶちこんでやろうかと思ったりするんだけど、
そんな勇気はもちろんの事、クビになっても転職して成功するスキルなどがないので、
昼休みにモニタの前で、「たまごや」の弁当のおかずのすき焼きを味わい、
わずかな幸せをかみしめる。そんな日々。
「きみは資本主義奴隷だね」と言われたとしても、「はい」としか
答えることが出来ないわけで。
未来人は続けて、
「歴史の教科書で読んだんだけどさ、20世紀後半から21世紀半ばにかけて、
画期的だったんだってね。いや、むしろサラリーマンが勝ち組とか
ギュウギュウの乗り物に押し込められても文句を言わせない
と言ったとしても、私はハイとしか答える事ができないわけであって。
朝の電車で女子高生と合法的に密着できることです!と真面目な顔をして
主張したいんだけど、主張しても捕まりそうなので、言えない。
あとはオフィスグリコで「パキッツ」をゲットしたときだったり、
というのはいかがなものでしょう。
ささやかかもしれないけれど、なにか新しいものをつくるだとか、そうでなくても製造工程を見直して製造効率を高めるというだけでも、すごく立派なことだ。
事故なく発電所が稼働してくれてることで、こうして夜更かしだって出来る。
教育機関の中では、特に大学では、アカデミズム至上主義がある気がします。
現在教鞭をとっている人間のほとんどは、高等教育機関から高等教育機関の教員になった人間で、アカデミズム至上主義から一歩も出ていないことがほとんどです。
一方、民間企業に勤めると、利益至上主義の洗礼を受けたりします。
金があれば幸せか?
人望か?
よき伴侶か?
答えなんかないんです。
資本を握ってるかどうかなんてのは関係ないよ。
資本を持っている奴は使わないという選択を持っているが、それをすればするだけ奴隷から睨まれるので適切に放出しなくてはならない。
そういう意味では資本家もシステムに組み込まれているし、資本家に自由意志など存在しない。
ゆえに我らはアリや蜂のような社会性昆虫と同程度の振る舞いしかしていないのであり、そこに優劣なんぞない。
せいぜいあるとすれば、外敵が来たときに死ぬ順番が奴隷から回ってくる程度のものであり、その順番は早かれ遅かれ一世紀で大体の人間が回ってくる。
つまり誤差程度の物でいちいち騒いでるのが個人主義や出来そこないの奴隷であり、その誤差程度の物がたまたま大きく見えただけで一喜一憂するバカもそれらに多い。
twitterのTL見てたらこんなやり取りがあった。
(50代物理学者)選挙に行かない限り、若い層が政治的力を持つことはできないね
というつぶやきに対して
この、「若者は数が少ないから選挙で負ける、だからずっと不遇」というのは世代格差なんかの議論の中でよく出てくるロジックだけど、なんか実感と違うんだよな。
そこで、世代格差について簡単に調べてみた。
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若者には「現在の年金負担」と「将来の税負担」という二重の負担が課せられ、老人は得する一方。
社会的に多数を占める「老人」は政党にとって大きな票田なので、政治も変わらない。
今の制度では「60代以上は生涯で5700万円の受益超過(税・年金)だが、20代は1300万円の負担超過」となる。<<
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なるほどなるほど、それなりに筋が通っているように見える。
だけど、実際のシチュエーションを考えると当てはまらないような気がする。
こんな家庭を考えてみよう。
厚生年金で豊かに暮らすじいちゃん、不況で給料は下がったけどもうすぐ定年逃げ切りのとうちゃん、派遣社員で食いつなぐぼく、この3世代の問題だとしたら?
ほっておいたら、じいちゃんととうちゃんは「なるべく今のままでいます」という政党に投票するだろうし、ぼくは「社会構造を変えます」っていう政党に投票するだろう。
でも、じいちゃんの一番の望みってなんだろう?
そりゃあ、「年金制度が続きますように」とか「老人医療費が上がりませんように」とか願うのは自然だろう。でもそれが一番の望みではないと思う。
きっと、孫のぼくにいい仕事が見つかって、お嫁さんももらって・・・・・・そんな社会を1番望んでくれると思う。
だから、必要以上にジジババ世代を憎んでる若者たちは、自分のおじいちゃんやおばあちゃんに訴えてみたらいいよ。
「おばあちゃん、ぼくもきちんとした仕事について、家庭を持ちたい、だから若者党に投票して!」って。
それで、
「ごめんね、お前の気持ちも分かるけど、わたしは自分の年金や医療費の方が大事なんだよ。だから年寄り党に投票させておくれ」
なんていうおばあちゃんは相当少数なんじゃないかな。
こんなふうに、本来は味方になってくれる人たちを敵にしか見えないとしたら、そりゃあキビシイ戦いになるよねっていう話。
俺はいま、ペリーヌ物語を見ている。まさに見ているところだ!
お母さんはインド人だ。 だが本当はハーフだ。ゆえにコスプレする。写真も撮るよ。
出演しているロバさんはの名前は、パリカール。ガン×ソードにも出演なすったベテランだ。
お母さんは死んじゃうけど、おじいさんは金持ちだ。工場経営している資本家なんだ! みんなの共産党の敵だ。
でもペリーヌは体を売りはしないが苦労しておじいさんに取り入る。
どうするかというと、英語がしゃべれるバイリンガルを売りにすんだった。トイック何点だ? うらやましいほど感動する。
けど最も感動的なのは、お母さんが死んだりおとオサンが死んだりおじいさんが頑固だったり貧乏だったり苦労したりすることではない。
最も感動的なのは、ペリーヌが自分で靴つくったり生活用品作ったり池の小屋に不法侵入して勝手に住んだりすることだ。
子供に針ポッタを見せるなんて害悪以外の何ものでもなく、ペリーヌ物語を見せるべきだ。もしくはロミオの青い空。
ペリーヌ物語を見て子供が学ぶべきことは、以下のことに尽きる。
人生は、才能と生まれ育ちがものをいう。
http://twitter.com/zaway/status/22888381585
それは、未来の経済社会のあり方についての「ビジョン」についてである。それを堺屋太一は「知価社会」とよび、ドラッカーは「知識社会」と呼ぶ。キーワードは「脱工業化」、そして「知」だ。従来型の産業構造の転換が求められているという議論は、今も日本で話題になっているが、これは新しいようで古い。そこで今回は、彼らの著作の紹介を通じて、過去の議論をざっと見てみようと思う。
当時はかなりの反響があった。鉄鋼やエレクトロニクスなど日本の製造業が絶頂期にあった中、周囲からのひんしゅくを恐れずに堂々と脱工業社会の到来を予言した。ある意味で、時代を先取りしすぎた本と言えるかもしれない。
まず著者は、古代以来の世界史の「精神史」的側面を振り返りつつ、現在の世界が直面している変化を位置づける。むかしは、カネや領土を追い求めた「物質」尊重型の古代文明(ローマ帝国や中国の漢王朝のような)、古代の巨大帝国が崩壊すると今度は、信仰に篤く慎まやかな生活をおくる「精神」尊重型の中世が到来した。それが、産業革命以後の近代ではまた「物質」を追い求める時代へと転換した。その意味では、現代社会の価値観は古代帝国が基底にある。
しかし、足下ではこれが中性的な「精神」尊重型の社会に立ち戻る動きが見られる。2度の石油ショックが起こり、これで資源が有限であることに人々は気づき、環境意識が高まっている。「このまま大量生産、大量消費を続けたら我々はまずいのではないか」、そうみんなが確実に思い始めている。この流れの延長線上にある社会の姿と位置づけるのが、「知価社会」である。
知価社会とは「デザイン性やブランド・イメージ、高度な技術、あるいは特定の機能の創出といったことが、物財やサービス価格の中で大きな比重を占めるようになる社会」と定義する。ここで、単に情報産業、サービス産業などという特定の業種転換より広い意味をもっていることに注意したい。むしろ、強調されているのは製品としての「コモディティ」の終焉である。彼は確かにこう書いている。「安い規格品よりも高級なブランド品が、より長く使われる「知価」の部分が肥大化した価格攻勢が一般化する」(文庫版p225)。
すでにアメリカでは知価社会への適応が進んでいる。単純な製造業が衰退する一方、ブラディング、マーケティング、サービス産業の比率が高まっている。翻って、我々日本にとられるべき選択肢は2つ。知価社会への移行を推し進めるか、それとも従来の工業社会の基盤に固執するか、だ。日本が取るであろう道について、彼は製造業での成功体験が忘れられず従来型産業構造維持型の政策を取り続ける可能性は高いと予測している。しかし、その道は安易であり、長期的に有利とは限らない。国際環境の変化に適用できない硬直化に陥る危険性があると警鐘を鳴らし、締めくくる。
原著は1993年刊。この時齢83歳。
ドラッカーといえばマネジメントだが、 本来は政治・社会批評家である。彼がマネジメントの研究に入っていったのは、その思想を実践するための手段としてマネジメントが有効だと気づいたからにすぎない。
彼はまず産業革命が起こった要因について振り返り独特の解釈をする。産業革命を起こったのは、生活水準や資本の変化意外に、1700年以降から変わったある決定的な要因があった。それは職業別組合などの内部のみで、数千年に渡って発展してきた秘伝としての技能が、初めて収集され,体系化され、公開された。技術学校や「百科全書」のような書物によって経験は知識に、徒弟は教科書に、秘伝は方法論に置き換わった。この「知識」こそ、道具,工程、製品への応用の連鎖をうみイノベーションの加速度的な発展を促したものだった。
そして、今、知識の役割はさらに重要になっている。放射線治療機器、CTスキャナ、高度なCVD装置、超高速のスパッタリング装置。今の製造業の基盤になっているこうした生産手段は、労働者の高度な知識があって初めて動く。昔の資本主義がそうであったように、けっして労働者は歯車のように資本家に所有された代替可能な機械ではなくなっている。従来の資本主義にあったような「資本家対労働者」という次元は今や完全に消滅している。今や富の創出の中心は、資本、労働、土地から、人間の知識そのものへと移行している。
ドラッカーは、このような形で変化しつつある社会を「知識社会」と称した。そうした社会では、労働者達の知識を効率的に活用し、いかに収益にむすびつけていくか(これをドラッカーは「知識の生産性」といっている)がこれまで以上に国,産業、企業の競争力にとって重要になってくる(p244)だろう。それはこれまでもそうだったし、これからはさらにそうなっていくだろう。イギリスは過去、CTスキャナ、コンピュータ、抗生物質、ジェット機を開発したが、それを製品やサービスや仕事に転嫁できず、アメリカに抜かれていった。他方、アメリカはアメリカでマイクロチップ、コピー機、工作機械などのパイオニアだったにもかかわらず、日本企業がそれらの市場を奪取するのを指を加えてみるしかなかった。そして、日本は、自らが事業の先鞭をつけたほとんどの主力産業(液晶テレビ、カーナビ、電池)で韓国、中国企業の強烈なキャッチアップを受けている。
では、いかにして知識の生産性を高めることができるのか?それを実現する手段が「組織が成果を生み出す機能を高めること」。つまり、マネジメントなのである。この結節点において、社会学者としてのドラッカーと経営学者としてのドラッカーとががっちりと連結される。
それは、資本の集中が起きないほどの再分配を行う国家を資本主義国家と呼んでいいかどうかという問題じゃね?
集中を遅らせるだけなら「回避」ではなく「先送り」だろ。
永続性のある先送りならどうだろう。
前にこのように書いたとおり、
そもそも資本主義は指摘の通りの特徴を持つからこそ、
運用にあたっては様々な再分配のための仕組みが導入されるのではないか。
税による再分配は当然のこと、あとは独禁法とか。他は思いつかんが、とにかくたくさんあるだろ。
原理的に集中が起きるとしても、システムを破たんさせてしまうような集中には至らないよう、
先送りするための仕組みを導入するのが「○○主義」の運用においては必須だろう。
攻撃的サッカーといってもディフェンスはちゃんとするように。
そういった運用面を無視して主義の特徴だけで議論すると、
あれ、もしかすると共産主義は主義の特徴だけで議論すると将来性があるのかな。
個人的には共産主義は嫌いではないのだが、どうも運用面の現実性が無い気がするんだよ。
そこの泥臭い所を無視してロジックを固めても、どうも信ぴょう性に欠けるというかなんというか。
いや、武力によるちゃぶ台返しが起こらない限り、資本主義を掲げる国家が勝つかもしれないが、そこに含まれる大多数の人間は社会主義国家の人間より幸福にはなれないだろうということ。
そう、資本主義国家は基本的に競争したら強いよね。そして世界は有限なリソースの奪い合いをしているわけだよね。
国家内で競争を取り除いたところで、国家間では競争を強いられるという状況において、社会主義はどう戦うのか。
国家間で負けても国家内では幸福度が保たれる、というのであればいいのだけど、そんなことは可能なのか。
資本主義国家に生きる身としてはなかなかそれを現実的な話として聞けないんだよなぁ。
社会主義ってのは、外部の国が別の主義を採用して世界的には競争が強いられる状況においても、
ちゃんと成立するように設計されているものなんでしょうか。
資本主義の問題は、つまるところ勝者が次の勝負で圧倒的に有利なポジションを得ることになってしまうせいで、ゲームが煮詰まることなんだよな。
そう、結局はゲームデザインなわけですよ。
んで時間経過とともにゲームデザインは更新されなくちゃいけないんですよ。人も状況も変わるから。
F1のレギュレーションもそうだし、サッカーのオフサイドとかバックパス禁止とかもそうだし。
そのとき重要なのはF1らしさ、サッカーらしさを失わずに、ゲームを成立させるデザインですよね。
話を戻すと、理念として持つのは「資本主義らしさ」なのか「社会主義らしさ」なのか、と。
それで、その理念が持つ「らしさ」を失わずにゲームを成立させるデザインが必要になってくる。
それをここでは「運用」と言ったわけだけど。
俺としては「資本の(ゲームを破たんさせるほどの)集中が起きないような再分配を行う」のは、
資本主義らしさを失う運用ではないと考えているんですね。で、あなたは違うと。
そもそもご指摘のように「資本主義」という言葉が持つ意味がお互いにずれているわけですよね。
まぁあんまり詳しくないンど得、俺の方がなんか勘違いしているのかもしれない。
つまるところ資本主義とか社会主義とか借り物の言葉で議論するから悪いわけで、
自分が理想とする理念は何か、そのために必要な運用は何か、を語るべきなんですよね。
Wikipediaで「資本主義」を調べて驚いた。こんなに違うんかいな。専門家が見れば同じに見えるのかな。
「資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」をそのまま回せば、
「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」
になるのかもしれず、それだと将来的に破たんするというのはわかる。気がする。
それに対して、「生産手段が少数の資本家に集中し~生産様式」となることが問題であるならば、
「資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」を維持するための運用として、そうならないルールを設ける、というのが俺の解釈だったりする。
「それは資本主義じゃないよ」と言われるかもしれないが、
資本主義を「資本が利潤や剰余価値を生む社会システム」くらいの定義としているので、
これも資本主義だと思ってしまっていたりする。
しかしこういう風に話を整理すると、日本が一番成功した社会主義国家という説明は正しいのかも。
かつての日本は資本主義的な運用はしたけど、社会主義的な理念を持っていたような気がする。
# まぁ詳しいことは良く知らないんだけどねー。
邪悪な資本家と卑劣な消費者を合体させて結果を出す資本主義は資本主義でいいんだが、問題は、そのクソ最悪な世界と、清浄でまともな世界がちゃんと分かれていないんだよ。つまり真面目なやつとか真摯に学問をやっていこうって個体はそのクソ最悪な世界とは別の世界に隔離しろってことだよ。学校制度とか大学制度とかおもいっきり一緒にしてるから、クソ最悪な個体どものせいで真面目な奴が鬱になるんだろうが。真面目なやつは一生最悪な連中の存在を感じないで良いように制度を工夫しろよ。
で、ついでにいうと、清浄な連中が邪悪な連中より社会的地位が上なのは当たり前なので、清浄な連中にはちゃんとその権力がすごいことを公示するものを与えて、邪悪な連中の意見や誹謗中傷を封じ込める工夫をしろ。それは親の意見でさえも同じ。親が資本主義の世界に生きていて、息子娘が清浄な世界に生きている場合は、親ですら息子娘の意見に対抗できないようにしろ。
極論だけ書く。
もう授業なんて出るな。出席取る授業は代返してもらえ。試験ができればそれで良いだろ。レポートは適当に友達と情報共有してなんとかこなせ。あ、でも、感謝の気持ちは、忘れないようにな。
その理由。
日本の大学の授業は、一部の例外を除いておおむねクソで、教授にやる気はなく、教える気もなく、一時間半という貴重な時間を浪費する。それは東大や京大でも同じだ。上から下まで基本的に授業は終わってる。だから、同じ内容で、もっといい授業を探そう。それはどこかの私塾にあるかもしれないし、書籍にあるかもしれないし、PodcastやiTunes Uにあるかもしれない。OCWってのもあるだろ。あと自主ゼミっていう手もあるな。iTunes Uは英語?まあ、それぐらい勉強しろ。「同じ内容で、最善の結果を得られる授業を探せ」。これがキーワード。だから、その授業が提供している内容が、最善と思えないなら、授業には出ちゃいけない。
バイトするな。これは厳しいかもしれない。なんせ経済がアレだから、親に仕送りしてもらえない人もいるだろうな。でもバイトはなるべくしない方が良い。
大学生のバイトは明らかに搾取だ。もっといい仕事はいくらでもあるのに、とりあえず働かなきゃ、とりあえず実績を作らなきゃ、とりあえず社会に出なきゃという焦りを利用して搾取してる。資本主義は搾取とか、資本家は搾取してるとか、そういう古式ゆかしきマルクス主義みたいなことを言うつもりはないが、バイトだけはやめたほうがいい。大学生の四年間という貴重な時間を空費するには、時給何百円だ千円だってのは、あまりにも見合わないぞ。
じゃあどうすればいいのか?
自分で仕事をもぎ取れ。この世にフリーランスとして関われる、割の良い仕事はいくらでも転がってる。あなたがこの春から通うことになる「立派な大学」に比べれば、しょーもない学歴の奴でも、立派に稼いでる人はいくらでもいる。確実に成長できて、自分の仕事を拡大できるような仕事を自分で取ってきた方が良い。
だから、覆すようだが、「自分の仕事を拡大する」ことの第一歩としてバイトすることは、むしろ推奨する。が、「その先」が見えないバイトはダメだ。たとえ大学生活の間だけでやめるつもりでも、きちんとその先、十年単位で食っていくためのキャリアプランを考えられるようなバイトに関わること。時給は関係ない。最初の時給がたとえ0円でも、のちのち何百万、何千万という富を生み出す仕事もある。もっとマッチョな言い方をすれば、今の時給がどうあれ、その「バイト」をのちのち何百万、何千万という富を生み出すような「仕事」に、あなたが、「変える」のだ。そういうバイトに関わることは、将来のリスクヘッジにもなる。
ここで扱うのは極論だから、「サークルには入るな」と言うけど、サークルを全否定するつもりはない。楽しければそれでいいじゃん、とは思う。実際、入るサークルによっては、結構、楽しい。
が。
いずれ就活のESに書くため、実績を作るため、みたいな打算で参加するようなバカは、サークルに入るな。それだけは言っておく。
だいたい、「サークルで○○をしました」なーんてESに書く野郎はどうして絶滅しないんだ?おまえのサークルが、おまえの世界のすべてだったのか?そんなしょうもない学生生活だったのか?残念な奴だな。そんな小さい世界で、チマチマ箱庭いじってるようじゃ、なあ。
それから、自分のプライベートタイムまで浸食してくるようなサークルもダメだな。
嫌々入ってるようなサークルのやめ方は、「四畳半神話体系」を参照のこと。
友達を作るのもダメだ。友達って「作る」ものか?無理すんなよ。ぼっちでもいいじゃないか。無理して友達を作ろうと躍起になってる奴ほど、ぼっちになるからな。かわいそうに。
ぼっちはぼっちどうしで集まるし、「リア充」がどうの、とか、気にしてる暇があったら将来のこと考えようぜ。
もう就活なんてすんな。残念ながら、就活する奴は負け組だ。結局「名も無き大学生」として生きるしかなかった、無名の学生たちの墓場だ。一人の人間として扱われたいのであれば、墓場に行ってはいけない。生きる道を選ばなければならない。そのために、大学生活四年間+αの期間には、できるだけ布石を打っておくこと。大人と一対一で渡り合うこと。企業と一対一で渡り合うこと。交渉すること。何があなたに利益をもたらし、金を生み出すか、知っておくこと。どういう仕事をすれば、何円の利益が出て、何円が懐に入るのか考えること。資本は、肩書きは、なぜ必要になるのか。何が信用を生み出し、それを持続させるのか。それらをよく考えよう。生きながらにして墓場に葬られ、石の下で腐らないために。
間違っても、「就活のために勉強」とかしちゃいかんぞ。「よりよい墓」を探したってなんにもなるもんか。
自分にはどんなオプションがあって、それらをどう行使すべきなのか、自分の頭でよく考えること。
「当然」とされていることを、疑うことから始めよう。
惑わされるな。
「誰にも当てはまること」なんて、ないんだから。
じゃ、がんばってね。
ttp://d.hatena.ne.jp/skicco/20100118/p1
ちなみに「働かざるもの食うべからず」って軽く検索をしてみたんだけど、元は新約聖書の「働こうとしない者は、食べることもしてはならない 」という言葉で、失業者や病人を責める言葉ではなかったらしい。それが旧ソ連の指導者レーニンによって、労働者から富を搾取する資本家や特権階級を攻撃するために使われたんだとか。さらに転じて日本の戦後では、滅私奉公一所懸命とともに社畜教育に絶大な威力を発揮して、今日にいたるまで労働の効率化を妨げ、日本の競争力低下の一因になってるのは皆様ご存知の通り。
というわけで決して失業者や貧困層を攻撃する意味は無いし、ベーシック・インカムを批判する言葉でも無い。「働かざるもの食うべからず(キリッ」とか言ってくる奴がいたら「お前クリスチャンかよ!」とか「お前共産主義者かよ!」とか言ってやりましょうかね、笑。
搾取とは、一般的に、
階級社会において、生産手段の所有者が生産手段をもたない直接生産者から、その労働の成果を無償で取得すること。資本主義社会では、資本家が労働者から剰余価値を取得する形で表れる。マルクス経済学の基本概念の一つ。
という意味で使われます。ですから、バイト時間の削減は、搾取になりません。求める労働の成果(勤務時間)も、賃金(時給*勤務時間)も削減しているからです。求める労働の成果が変わらず、賃金だけ減少するなら、搾取といえるかもしれません。
あなたが提示している例だと、あなたを含めた社員が自ら進んで搾取されたと考えるのが自然だと思います。賃金がかわらないまま、バイトの方がしていた仕事をしなくてはならないからです。社員に求める労働の成果が増加したのに、賃金が変わらないからです。
それをいうなら鉄道会社・官僚だってそうせざるを得ない状況に追い込まれてるといえるんじゃないかと。労働基準法があるのも別に資本家が強いからではなく(中小零細企業経営者なら倒産→自殺というパターンもあるし収入だって大企業社員以下だったりする)正社員の数が多いから、それを法律として押し付ける事が可能っていうだけの話と思う。資本家なんかより労働運動のほうが力が強かったからそういう法律できた。
それに労働運動だってストライキやったりするわけで「満員電車を生み出す鉄道会社がけしからん」と思うなら乗らないという形で擬似ストライキをやるのも選択肢の一つのはずで労働運動の考え方を一歩進めた先にみんなで団結して乗車拒否という選択があってしかるべきなんじゃないかな。
私は、
と言える世の中にすべきだと思うよ。
生活保護・失業手当の強化やベーシックインカムを導入すれば、そう言ってもいい世の中になるとおもう。
本題からずれるけど、今の日本では、
は、無い。日本は、ずっと金余り。
それ言ったらなんだって本人が悪いになると思うけどなあ。
「本人に自由が与えられているようで、実はそうせざるを得ない状況に追い込まれている」っていうのも一種の強制じゃないかなあ。
労働基準法だって、資本家の方が労働者より強いからあるわけじゃん? 資本家をほっとくとほんとひどい条件で労働者を使う。
それさえも資本家にしたら「別にうちに就職しなきゃダメなんて言った覚えはないし、嫌だったら就職するな」になると思うんだ。
で、そういう状況に対して労働運動みたいのがわーっとあって、労働基準法なりなんなりができたわけでしょ。
その考え方を一歩勧めるだけだと思うんだよなあ。