ブルゾンはあくまで「かなり特異なキャラの女」をやっているので
もっと一般的な女性の普遍的なイキりやみっともなさをネタにしたものはなくない?
青年誌の漫画なんかほとんどがそういうネタを取り扱ってるのに対して
若い女性の内面省察漫画はせいぜい凪のお暇みたいなドロップアウターかメンヘラを主人公にして
謙虚で十分に自覚のある弱者として同情を取りつけられる角度からしかされない
という部分に触れたコンテンツはあるのだろうか
そうやって元の主張を極限まで希薄化して
「気がするって言ってるだけだからノーカンです―!」っていう守備法の問題点は二つあってさ
1.「そこまで後退するなら何も言ってないのと同じだし、最初から何も言うな」でおしまい。
2.そんな逃げが通用する世界はない。例えば金がなくなって「増田君がとった気がするな―」って発言をして
それ聞いてキレた増田君に「証拠でもあるのか」「白黒つけろ」と詰め寄られた時に
「気がするって言っただけだし!」という逃げが通用するだろうか?
セ○アかなー
男のイキりに対する指摘とイジリはだいぶ進んでる(地獄のミサワみたいなのがたくさんある)のに女のイキりに対する指摘と笑いはまだまだだよね
http://toianna.hatenablog.com/entry/2019/06/25/205348
「フェミニストは一人一派」というのはフェミニストが用いる奇妙な理論で、その内容な「フェミニストを名乗って吐いてもその主張はひとりひとり違うのだから十把一からげのような扱いは拒絶する」「とは言え細部は違っても同じフェミニズムなんで連帯するよ」程度の意味合いだ。
これは一時期盛んに言われてたのだけど、なんでそういう事を言いだしたかといえば非常に便利だからだ。こん「一人一派」理論で、たとえばフェミニストのAさんが言ったことに妥当な反論が集まったとき「でもAさんのフェミニズムはフェミニズムAなんで他のフェミニストには関係ない」というように切断処理ができる。これを繰り返せば無限に尻尾きりができるために、実質的にフェミニストは不敗の存在になれる。
他の社会運動では、穏健派vs過激派でもいいし、派閥Avs派閥Bでも、とにかく運動の方向性において複数の集団が対立したとき、言論でもパワーゲームでもなんでもいいから勝敗をつけることが可能で、それが社会運動としての推進力なり自浄作用なりになってきた。でもフェミニズムは「一人一派」を唱えたためにもうそれが出来ない。過激派は過激派1,2,3,4……と内容がほぼ全く一緒のクローンであっても「一人一派理論」によりそのすべてを個別に論破し打ち破らないと死なないゾンビになった。数が無限のゾンビだ。げっそりする。同じ言い合いをぐるぐるぐるぐる無限に繰り返すだけだ。そしてその無限の繰り返しをやめることは出来ない。なぜなら「一人一派」なので、途中でやめたら差別になってしまうからだ。
(一人一派理論を採用するのなら)すべてのフェミニストはその全員がひとりっきりのワンマンアーミーなのに、全女性の痛みとかいう最終兵器を振り回して暴れるターミネーターだ。全女性の痛みx全フェミニストの数。膨大すぎて絶望する。
どんだけ話し合って個別の問題を解決したところで、後から後から新鮮ゾンビのように「新しい私だけのフェミニズム」が出てくる一人一派理論は、しかし、その特性故に社会を(男性だけでなく女性だけでなく、こうして同じフェミニストさえも)疲弊させてしまった。終わりのない最終戦争みたいな状況でうんざりさせてしまった。
フェミニストはなんでこんな奇妙な理屈を言い出してしまったんだろう? 他のあらゆる社会運動だって大事なのはその勢力=人数なわけだから、自分たちの集団としての価値を細切れにしちゃうような、団体としての価値を損なうような理論をもちだしたりはしない。「私達は互いにかばい合わない個人の群れ、烏合の衆です」なんていわない。そんな「社会性に背を向ける」ようなことを言ったら、「社会」運動として成り立たない。
フェミニズムは、だからもう、運動としてはどん詰まりで終わりに見える。もちろん人間の社会には男性と女性がいてその扱いをめぐる社会運動ってのはなくならないし、この先もまた盛り上がったりするんだろうけれど、それってフェミニズムとは違う名前の別の看板じゃないと立ち行かないんじゃなかろうか。それくらいフェミニズムって理論的にも運動的にも行き詰まってる様に見える。それもこれも「一人一派」なんて自殺のようなことを言い出したためだ。
棒を支柱にして今から苗づくりですね
興味のない人と過ごす金曜日の夜 pic.twitter.com/80PoF6Bq9o— 松本千秋 (@imakarahima) 2019年6月19日