もんじゃが食べたいと言った40過ぎの上司のリクエストで店を用意して、自ら嬉々としてヘラを握り、キャベツを切っているそばから
「何で私がやるのよ!あんたやりなさいよ気が利かないわね」
と説教された事を思い出す。
と言われて育てられた。母の方針。
気持ち良い気分になって喜ぶが、それで喜ばれたからといって、
「女の子要員」として重宝されたって、嬉しく無いし正当な評価じゃない、
飲み会でマメにお酌したり、男性のコートを脱がせたり着せたり、
灰皿を取り替えたり、サラダをとりわけたり、
女性らしく場をもりあげたりが、上手ければ上手いほど、
本当にそういう仕事の経験がある人は、その手の仕草でバレるし、
そういう仕事の経験がない人でも、あまりに気をつかってやりすぎると、
だんだんそれっぽくなってくる。
(一流の会社で働いているバリキャリの女性でも、こうやって上司に
取り入るようなタイプの女性はちょっと夜の住人っぽかったりする)
そういう雰囲気の人と思われることは、圧倒的に得じゃない。
男性たちも、気が利くねなんておだてながら、薄々感づいて、見下してくる。
むしろ、飲み会の場ではちょっと気が効かなくて、「うっかりしてました〜」くらいのほうが、
結局は信用される。
調子に載ってお酌したり席移動して場を盛り上げたりしては
社会人になって、それをやっている可愛い同僚の姿を見るにつけ、
(あるいはその手のキャラで偉いおっさんに侍り続ける系の女性を見るにつけ)
母の言っていたことは正しかったんだなと思った。
実際俺もクソみたいな教師は何人も見てきた
教師なんてクソばっかだわ、って思いそうになるし、実際中学の時は俺も苦痛でたまらなかった
しかし、本当にクソばっかなんだろうか?
人生で関わる先生って、小学校から高校卒業まで、各学年で一人と関わるみたいな単純な数え方でも9人、
部活や教科だけで関わる先生もいれたらその倍以上、20人くらいはゆうに関わるだろう
そして、教師の仕事って、どうしても個々ではなく集団に対して行うものである以上、全員にばちっと受け入れられる
指導ができることの方が稀だろう
すげえよくできた素晴らしい先生でも、40 人クラスのなかではどうしても 1 人くらいは、先生ってクソだわーと
そうすると、生涯かかわる 20 人の先生のうち、ひとりもクソとはおもわなかった確率は (39/40)^20 ってことだよね
計算すると 0.6 になるようだ
つまり、全員が聖人で、たまたまウマがあわない先生に出会ってしまっただけでも、高校卒業までの間にクソと思って
で、実際、先生は聖人じゃなくて普通の人だから、クラスで 2, 3 人くらいは合わないと思う生徒は出てくるだろう
そしたら 8 割くらいは、先生ってクソだと思ってしまう計算になる
それから、20 人の先生のうち 1 人くらいは本当にクソがいる
つまりまあ、平均して生涯で 2 人くらいは、クソだわーと思ってしまう先生に出会うのが当たり前なんじゃないかな
その印象をもってして、教師はクソばっかりだ、と言い切ってしまうのはどうかと思う
それでいいのなら、人間なんて全員クソだ、って話
匿名じゃないと書けないのでここに。
先に書いておくと、ゆうきまさみの漫画版も映画は1も2も、横手美智子の小説も俺は好きだ。
解説というか考察なんだけど、結論を簡単に言うと、「パトレイバーという物語がまがい物についての物語だから」ということになる。Xのようで、Xじゃない、というやつだ。
例えばみんな大好き劇場版1だと、「警察官というより正義の味方」が活躍する。警察官のまがい物なわけだ。特車二課はどの媒体でも「こいつらおまわりさんです」と言われる組織で、警察官のようで警察官じゃない、でも本人達は警察官として一生懸命やっている。
劇場版1の犯人は本来「存在する人間のようで存在する人間じゃない」キャラクタであった。背景は、88年の東京のようで、88年の東京じゃなかった。こう考えると「この物語はフィクションである」という例のあれも、まがい物の物語を補強しているように思える。現実のまがい物としてパトレイバーの物語は存在する。
パトレイバーの多くに存在するテーマとして「まがい物なんだけど、どうしたらいいんだろう」というのがある。一つの例がパト2で、「軍隊のまがい物なんだけど、どうしたらいいんだろう」という自衛隊と特車二課の立場を描いている。特車二課は警察とは思えない37mm砲という物騒な武器を持っているが故に、軍隊のまがい物でもあるのだ。
あやふやでどうしようもない、それでもなんとかしなきゃ、なんとかしなくちゃ、なんとかしよう、とした結果、という物語だ。それは「クーデターのようで、クーデターじゃない」状況下で描かれる。
漫画版パトレイバーだってそうだ。「俺たち警察官のまがい物、あっ軽い人々なんだけどどうすりゃいいんだろう」というのが、22巻をかけて「正しい資質を持つ人」に成長する、パトレイバー全体のテーマを表現した素晴らしい作品だ。なお、敵は、「大人のようで大人じゃない」子どもの内海だ。
で、実写版だ。「初代のようで初代じゃない」「俺たち特車二課第二小隊のまがい物なんだけど、どうすりゃいいんだろう」というのが、おそらくテーマなのだろう。
最近の発言を見る限り、押井はどうやら、「若者はまがい物でしかなくて困っている」と思い込んでいるらしく、それに対して「まがい物なりになんとかなるんだ」という話をやりたいらしい。例えば、本田圭佑は中田英寿のまがい物として困っている、ようなのだ。彼の目からすると。そんなことないと思うけど、確かに本田はどうしたって、中田と比較され続ける。それについて、何か示したいのだと思う。パトレイバーとしても、この展開は珍しいことではなく、近頃の若いもんはと榊が文句を垂れる整備班がいる。
だから、実写版が世界観だけ流用したパラレルワールドでも、野明や遊馬を俳優がやるわけでもないのは、それこそがテーマだからだ。なんで明は野明じゃないんだ、パチモンみたいな名前を使いやがってと言われること自体が実写版パトレイバー全体の物語のスタート地点だからだ。だから、実写パトをdisりたいなら、そこをdisってはいけない。それこそ押井の思う壺だからだ。押井の大好きなジョゼ・モウリーニョが「お前は選手から非難を逸らそうとして逆に選手が非難されている!」と非難されることによって結果的に選手から非難を逸らすというハメ手を使うのと同じように(真にモウリーニョの戦術を無効化したいのなら、モウリーニョを完全無視して選手を非難し続けるしかない)、押井は完全に思える罠を用意した。お前達が三代目のまがい物性について非難すればするほど、物語の足場が固まるぞ、というわけだ。
ただ一つ疑問に思えるのは、押井がゆうきも言外に「わかってない」としていることだ。ゆうきは、少なくともパトレイバーとグルーミンで「まがい物」とか「何者にもなっていない者」が、「本物」や「何者か」になる物語を巧みに描いた稀有な人間だからだ。ああ、バーディーのあの可愛い男の子もそうか。もし、俺の考察が正しければ、実写版パトレイバーはもっともゆうき的な押井の作ったパトレイバーになるはずだ。まあこの考察が間違ってるんだろうね。
ラノベのパロディについて、回答していただいた中に「一般小説にもある」という言葉があるけど
それは、推理小説でいうところの「見立て殺人」みたいなものと同意だと理解しているということなのかな
他にはそういうものってある?
専用道具のことじゃなくてフリーの箸くらいテーブルにあるか言えばすぐにでてくるだろという話
精々一テーブルくらいの少人数客ならまだしも、職場の飲み会とかだったらデフォで取り分け用の道具来るもんでないの?
男女関係なく目下が目上にやるもんだと思ってた。
元増田の所は女はどんだけ歳食っても永遠に最底辺と言う職場なんだろうか。
それとも女は3年で肩叩きされるような職場か。