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はてなキーワード: 請願運動とは

2024-01-25

anond:20240125202639

「我々は被災地で聞いた声をれいビジョンとしてまとめて総理提案しています。具体的には全国に2000隻以上あるフェリー避難所にすること、あるいは20万台近くあるキャンピングカーを国が借り上げて仮設住宅にする。そして大阪万博辺野古埋め立ては中止して被災地リソースを回す。」

とか言ってるそうだ。相変わらずだな高井崇志。実は元々俺の地元選挙区だ。うちの近所でポツンと辻立ち説法やっていた。

通りすがりに耳に入った内容は超テキトーだった。「えーこれからは、エネルギーのぉ、いらないような、照明器具とかぁ、そういうものもお、作っていこうじゃありませんかー」みたいな、マジで意味不明なことを言っていた。やってますよ感出すために脳死で口動かしてるだけ。

その後は地元加計学園のために獣医学部新設許可請願運動したり、党に言われて獣医学部設置許可反対運動したりしていた。変節を咎められると「自分には影響力はないので問題ありません」と言い訳していた。

その後はご存じ、コロナ自粛警察投稿をしながら風俗通いしてクビになりれいわに行った。

なんというのか、居そうで居ない人間だ。

ところで近場には柚木道義もいる。

なんかすごい。

2022-09-11

[] 婦人の日

説明員(山川菊榮君) 今勞働組合婦人團體が請願運動を起す用意をしておるのですが、婦人の日と、母の日と一緒にして最初日本婦人参政權を行使をいたしました四月十日を記念してそうしていろいろの運動を記念にして、外の母の日でも、婦人の日でも同時にそういうものを二つ合せて一昨年の四月十日に、婦人参政權というもの行使いたしまして、選擧のとき婦人解放だけを大變賑やかにやれて、あとすつかり忘れられてしもうので、一年に二囘ぐらいそういう日を設けて、男も女も一緒に本當にそれを實現するためにそれを努力したい、これはぜひ設けて頂きたいと思います

委員長山本勇造君) これはいかがでございましようか。

説明員(谷川徹三君) 私は子供の日母の日という名前で以てこの二つは贊成です。婦人の日というのは私は贊成しませんが、母の日というのは贊成します。

委員長山本勇造君) それはどういう理由ですか。

説明員(谷川徹三君) 婦人に參政權を與えられたということに大きな意義がありますが、そういうことを國家的に祝祭日とする必要はないと思います。併し子供というものは未來の日本を背負つて立つものであり、未來の希望であるという意味で、私は子供の日というようなもの特に設けたいと思います。同じように人間の姿の中で最も美しい姿は、私は母の姿だと思います。その意味で、又こういう祝祭日というものは勿論大人たちに取つても意味があるのでありますけれども、私共のことを振り返つて見ると、特にこの祝祭日は、子供にとつて深い印象を與えると思います。そういう子供に深い印象を與えるものとして、母の日というものを作るところに大いに意味がある。私はこういう祝祭日というようものは餘りに理窟に囚われちやいけない。理窟は分らないけれども、何か美しい感じを與えるものと思いますそれから理窟では否定的でも、私共民族歴史、國の歴史というものと何か結びついたものとか、そういうものを私は祝祭日としてすべきものだと思う。そういう意味母の日というものを私はぜひ入れて頂きたいと思います

説明員(山川菊榮君) 母は勿論大きな貢献をしておりますけれども、母でない婦人も(笑聲)國家の生産に非常に貢献しております。母も随分虐げられておりますが、婦人一般が決して平等の人權を認められておりませんので、いろいろ問題毎日山積しておりますから、そういう問題について、特に母を讃美すると言わないでも、自分々々の母親は皆讃美しておりますから一般婦人を本當にもつと實質的解放する意味で、そのために記念日を作つて、實質的解放することに協力して頂きたいと思うのでございます。これは理窟感情と一致しておりますし、歴史的に意味のあるものというお話でございますけれども、日本が大變古い國だというお話でございますけれども、何萬年ぐらいか知りませんけれども、とにかく歴史あつてこの方、初めて投票を許された日でございますから、これは特に歴史的にも意味のあることだと思うのです。

委員長山本勇造君) 御婦人以外の方の御意見を伺つてみたいですね。婦人デー或いは母の日というのは如何でございますか。

説明員(岡本禮一君) 山本先生意味が違うんじやないですか、母の日婦人の日は。ママーズ・デーは感謝の日ということになつておるのじやないですか、婦人というとその點は離れておる。

説明員(山川菊榮君) 私もそう思います。併し婦人の中に母が入つてもよろしいのですが、母だけ取立てて申しますと、女の中で母の日けが美しいというのは、矢張り軍國主義時代の澤山子供を産むのを讃美する、(笑聲)それでなければ非常にセンチメンタルものが多いように思います婦人人間として解放されて、本當に母としての機能も十分果すことができるのでございますし、婦人解放の中に母の日を込めるということを婦人團體は主張しておりますが、それでよろしくいかと思います

説明員(長谷部言人君) 私はいろいろの日を言い立てて、これを祭日にするということは贊成致さない。これは限りのない話で、たびたび繰返して申すようでありますけれども、年に四囘ぐらい、月にすれば四月、六月、八月、十月ぐらいとか、それをそこにお話のように、できるだけ集めて、その話後でやるというので十分ではないか、大體その日がぜひ共それでなければならんというのではない、仕事が主なんでありますから、そのくらいの融通は十分取り得るじやないかと思います

委員長山本勇造君) 山川さん、ある人が婦人の日はいいけれども、特に婦人の日というのは、憲法で男女同權が認められておるのに、特に婦人を區別するように見える、という説が出て居るんですが、如何ですか。

説明員(山川菊榮君) 特に言わなければ、平等形式だけでございますからね。職場でもどこでも犠牲になつておる。四月頃からお花見でもそうでございます。皆醉つ拂いの男が犠牲しましてね、(笑聲)あらゆる場合そういう事實を眼の前にあるのを忘れておりますから、こういう機會に反省して頂きたい。どこで認められたかというと、憲法で認められておるだけですから……。

金子洋文君 婦人の日とすると男があまり参加しないですね。

説明員(山川菊榮君) そこを參加して頂くようにする。

金子洋文君 そこがむずかしい所で、やはりセンチメントが相当勝つてもいいじやないかと、それで母の日の中に婦人デーを、解放した行事をというと、却つて効果が百パーセントになる、その意味で私は母の日にしたいのですがね。

説明員(山川菊榮君) ついこの間まで男女同權ということをみな嫌いましたが、それだけは耳なれたのでありますが、まだいろいろの點で平等ということを嫌がるのですから、やはりその點を強く言う必要があると思うのです。

https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/100215072X00219480219/124

2022-05-28

明治時代、庄屋の娘が夫のDVから逃げて上京議員財政を立て直した話

矢島 楫子(やじま かじこ、1833年6月11日天保4年4月24日〉 - 1925年大正14年6月16日)は、日本女子教育者社会事業家

肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島左衛門直明・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって度重なる女児誕生は歓迎されず、名付け親10歳違いの姉である三女・順子であった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰徳冨蘆花兄弟を生んでいる。蘇峰は明治大正昭和にかけての大論客、蘆花は明治大正文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた。

かつは学校などない当時、一通りの教育を母から厳しく身につけさせられるが、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主だったかつは、やがて母亡きあとは母に替わって兄・直方のために尽くす。その兄も妹のために良縁を求め、かつ25歳の時、初婚にはもはや遅いとして既に2男1女を儲けていた富豪林七郎(1828年生) を家柄・人物ともに相応と認め、後妻として嫁がせる。林は武家出身で、横井小楠弟子であった。後年楫子自身の口からも「この人は気品の高い、竹を割ったような人でした」と語らせるが、家族への乱暴など夫の酒乱の悪癖にかつは極度の疲労と衰弱で半盲状態に陥り、かつ自身も三人の子まで儲けながら、このうえは身の破滅と思い、末子達子を連れ家出する。迎えに来た使いの者に見事に結い上げていた黒髪を根元からプッツリ切って紙に包み、無言の離縁を言い渡したのである明治元年(1868年)、これを転機に新しい一歩を踏み出す「新生元年」ともなった。

妹たちの間を転々とする間、兄・直方が病に倒れ、達子を置いて上京を決意する。長崎東京行き蒸気船に乗り込み、船上にて自ら「楫子」と改名する。兄は大参事副知事兼務左院議員で、神田の800坪の屋敷に書生、手伝いらはもとより千円という借金を抱えていた。楫子はその放漫財政を正し、3年で借金を片付けると、生来の向学心から教員伝習所に通うこととなる。明治6年学制が施行され全国に小学校が設置、訓導試験合格した楫子は芝の桜川小学校(現・港区御成門小学校)に採用される。当時教員初任給3円のところ、楫子は5円という破格の待遇であった。

このころ長姉・藤島もと子が息子二人と、直方の妻・糸子も子供をつれて上京、兄宅は一気に賑やかになった。しかしそうした喧騒の中、楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿す。堕胎父親に渡すべきだと諭す姉の言を受け入れず、楫子は妙子(鵜飼猛の妻、湯浅清子の母)と名付け、練馬農家に預けて独り下宿生活に戻る。そんな折届いた兄から手紙で、熊本に残してきた長子・治定がキリスト教徒になったのを知り愕然とする。熊本学校生徒35名による花岡キリスト教奉教同盟事件である。治定だけでなく甥の横井時雄、徳富蘇峰徳冨蘆花も参加している。やがて熊本学校廃校になり、彼らの一部は、新島襄同志社入学し、熊本バンドと呼ばれることとなるが、この熊本バンド札幌バンド横浜バンドと並び日本におけるキリスト教の三大源流と言われている。教え子の居宅で父親の酒害を目撃し、寂しさでタバコを覚えた楫子だったが、悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、遠い異国の宗教ではなくなった。

明治11年(1878年)、楫子は後半生に多大な影響を受ける米国宣教師教育者マリア・ツルー夫人運命的に出会う。明治7年(1874年)にB六番女学校として設立された築地居留地にある新栄女学校教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に移る。

自ら吸いかけのタバコによるぼや騒ぎを起こして禁煙を決意、翌12年(1879年築地新栄教会ディビッド・タムソンから洗礼を受ける。ほぼ同時期に、三人の姉である富久子、横井つせ子、竹崎順子洗礼を受けている。当時17歳キリスト教徒であった甥の徳富蘇峰は、純粋がゆえに楫子の洗礼に際して、「過去の過ち(1.幼いわが子を置いて家を出たこと 2.妻子ある人の子を産んだこと)」を告白すべきでないかとの手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで「過去の過ち」を公表することはなかった。

明治14年(1881年)夏、櫻井女学校の校主(現在校長理事長を兼ねた職)代理就任。楫子は校則を作らず、「あなたがたは聖書を持っています。だから自分自分を治めなさい」と生徒たちを諭したという。

明治23年(1890年)、櫻井女学校新栄女学校合併して女子学院となり、初代院長に推される。

明治29年(1896年)、恩師のツルー夫人が55歳で客死。楫子64歳であった。

一方、恵まれなかった結婚生活小学校教師時代に抱いた心の疑問から、楫子は「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出、国会開設と共に二大請願運動として継続する。

楫子の情熱日本に止まら日本国外にも向かい明治39年(1906年)、74歳にして渡米、ルーズベルト大統領と会見。激務のため白内障を患う。大正9年(1920年)には欧米の旅に出掛け、翌10年(1921年)には満州に、同年から11年(1922年)にかけては三度渡米、このとき楫子89歳であった。教職大正3年(1914年)、女子学院院長を後裔に譲り、齢81で名誉院長として退いた。その後は禁酒運動公娼制度廃止運動等に尽力するも、大正もその幕切れを迎えんとする大正14年1925年6月半ば、楫子は眠るように大往生を遂げた。明治大正といういまだ婦人が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、楫子は婦人福祉のためにその一生を捧げたのであった。

大正時代華族の娘が50歳の男に売られた話

anond:20220526160552

2020-02-17

anond:20200217172441

すでにブコメ言及で書いてあるけど、人に貸す場合を想定している。

で、次第にリビング電話の居場所が移っていくわけだが、法律の制定や条約の締結とかと違って、各家庭の事情が絡んで「いつ」は言いにくい。

ただ言えることは各家庭に電話が普及するのと表裏一体の動きだということだ。

ところが、電話の普及ってのも技術革新と絡んで複雑な経過をたどる。

都市部の「即時化」

電話の普及は、ただ電話線が家に引かれることを想定するだけではダメという話。

「交換士あり」から「即時電話」(これには二つの意味合いがあって複雑なんだが)への変化を見なくてはならない。

私は北海道の事例しか調べたことがないのでそれを例にすると、市街地では昭和20年代後半から30年代丸々をかけて、まず「市内即時化」がなされていく。

これはある一定範囲の市内通話だったら交換士なしで自動で繋がるシステム。それまではトトロみたいに電話をつなぐ中の人がいた。

これを「即時化」とか「自動化」という。「即時化」「自動化」は地域ごとにボトムアップで進んでいく。中央から一気に御達しが出て一斉スタートになるわけではない。

その際に電話番語が改まる。それまでは電話の開通順で「1番」とか「8番」とか「53番」とか「104番」とか番号が割り振られていたが「即時化」で全ての番号が再編成され、私の調査値だと4XXXみたいな4桁の番号が新たに割り振られる。詳しくは忘れたけど、官公庁公共施設はは2XXX、病院は3XXX、みたいにある程度分野ごとに割り振りがあったと記憶している。

今でも市内だったら全部の電話番号押さなくても下何桁かで連絡できるでしょう。それはこの時期に出来上がった技術

今まで手動でしなければならなかったところが自動化されたことで、通信線が強化されつつ、電話が急速に都市に普及していく。

市外局番

市内での即時化が完了したが、都市ごとの連絡には未だ交換士に繋いでもらうことが多かった。

これも次第に、時に市内自動化と並行して解消されていく。

例えば北海道なら札幌を起点に、札幌函館札幌釧路札幌東京札幌大阪函館釧路釧路小樽……みたいに自動化がなされていく。なおこの順番は適当だぞ(道内では多分誰も順番調べた人いないんじゃないだろうか)。ともあれ網の目状に進んでいったという点に留意されたい。

都市間の自動化は、都市に固有の番号を割り振りそれを頭につけることで実行される。

市外局番」の誕生である

農村事情

主題とは遊離するけれども北海道農村部の事情を見ていこう。

戦後農村部ではラジオの普及と電気電話の開通が急務だった。

これは天気や雑穀価格変動の最新情報をつかむためだ。

また北海道では、NHK地理的にも経済事情的にも農業勉強がかなわなかった農家に対して、朝早く(野良に出る前に)「ラジオ農学校」を開設しており、地域ごとに識者を読んで種まきや農作物維持管理啓蒙に努めた。不作や冷害の場合への対策も、時にラジオを通じて伝えられた。

農業の成果に直に関わるため、各地域農家リーダー役の人々は、請願運動をし、時に自分たち出資して電気ラジオ電話を普及させていった。

農協からキロも線を引っ張って、自分たち電信柱を立てて、地元情報をもたらそうとした。

こうした事情もあり、農村地域電話は限られ都市自動化が進む時期においても電話を借りる、というシチュエーションは多く残されていた。

ラジオ電気に遅れるも、おおよそ昭和40年代丸々をかけて、農村部でも電話は普及していく。

私が見たことのある昭和37年北海道の事例だと、小学校の連絡先にその児童の隣のうちの名前電話番号が書いてあったり、農協事務所の番号が書いてあったり、電話ないけど学校からいから直接連絡伝えてください、と書かれているものがある。

おまけ もう一つの「即時化」

交換士なしでの電話を「即時化」というと説明した。

とってもわかりにくいんだけど、「即時化」と呼ばれる現象はもう一つある。

交換士が特に都市間の電話をつなぐ時、回線が限られており、相手先に繋がるまで相当待たされた。これを「待時」という。

場合によっては数時間かかる。いったん電話を切って、交換士さんから電話を待つ。

時間後、交換士さんから電話がかかってきて「〇〇さんとつながりました」と言われる。

それでようやく遠方の人と会話ができる。この現象がよく起こった時期は調べたことがない。

この問題回線を増強することで解決していく。

それで、この「待時」の解消も、時に「即時化」と呼ばれる。

この辺りの事情連続テレビ小説なつぞら」の考察をした人が最近詳しく書いている。

https://www.excite.co.jp/news/article/E1562427232846/

電話進化はめちゃ早

今生きる私たちも、ガラケーからスマホへの劇的変化の時代を生きている。

契約方法もどんどん変わる。誰もそれを詳しく記録していないし、きっと、全部は記録しきれないだろう。

個人的には、カメラ付き携帯がではじめた頃の数秒に一度しか画面が更新されないカメラから現在自撮り時代に至るまで、たったの十数年なのに隔世の感がある。

身近で微妙な変化も今のうちにちょっと記録しておくと、50年後くらいに楽しく老人会が開けるかもしれない。

 
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