はてなキーワード: 神との対話とは
これは神学命題。プロテスタンティズムと決定論に対して言及がないので不完全。
アメリカの歴史の初期においてピューリタンが重要な役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。
フス戦争やカルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学的決定論)である。カンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」
というのがあった。
こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。
因果が逆転してるというかなんというか。
この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!
となっていった。
(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイプのプロテスタントもあります)
「世俗社会の修道院化」によって、日常生活の全てを信仰と労働に捧げる。
節制と禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神で禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。
この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像の象徴。
…というあたりで、発展しすぎた禁欲的資本主義は本来の宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。
自己研鑽しない者たちに対する憎悪や侮蔑は、従来の「つまり予定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。
・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神"という本とかで書いてたこと。
今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである。
(なぜならそのほうが発展に有利だからね)
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補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸のカリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からのカトリック移民が多いからです。
ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想的原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的にOK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。
そして何より、【西海岸のリベラリズム】と対極っぽそうな南部のバイブル・ベルト。
この地域は基本的にプロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的。
ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想が固定化されたっていうのとかありそう。
これは神学命題。プロテスタンティズムと決定論に対して言及がないので不完全。
アメリカの歴史の初期においてピューリタンが重要な役割を果たした。彼らの思想の一部は今も残ってる。
フス戦争やカルヴァン主義やその前史にまで言及すると長くなりすぎるので省くが、重要な要素が【予定説】(神学的決定論)である。カンタンにいえば「全知全能の神。神は全知全能なのですべて予定済でお前の自由意志なんかねーよ!なので善行した"から" 天国に行けるとかあるわけねーじゃん。俺が "善行する" と思うことまで神は予定済なの!」
というのがあった。
こうなると、「えーじゃあ善行しようと思うこと意味なくね?」ってなって人々は悪事を働きそうなものであるが、実際にはそうはならなかった。
人々は「私は神によって救済される(=天国に行く)ことが予定済の人間なので、そうあるべくふるまう(=善行を行うしより良くなるため努力する)」となった。
因果が逆転してるというかなんというか。
この因果の逆転によって、ダラダラ働いてシエスタするようなカトリック圏と異なり、プロテスタンティズム圏では修道院のように禁欲的に働き、禁欲的に自己研鑽し、禁欲的に金儲けをしその利潤を禁欲的に再投資する…ことによって世の中を良くする。なぜなら私達は神に選ばれているので!それができる!
となっていった。
(※ 禁欲的に慎ましく暮らすタイプのプロテスタントもあります)
「世俗社会の修道院化」によって、日常生活の全てを信仰と労働に捧げる。
節制と禁欲のために複式簿記を導入…。合理的精神で禁欲的に社会を発展させる(なお奴隷制ry)。。
この辺の時期の代表例としては、ベンジャミン・フランクリン(アメリカ建国の父にして実業家であり学者であり外交官。そして偉大な政治家。今も100ドル札に顔がある)など。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像の象徴。
…というあたりで、発展しすぎた禁欲的資本主義は本来の宗教性を失い、資本主義になり、「内なる光=神との対話」みたいなあたりが「自由意志」に変わっていく。
自己研鑽しない者たちに対する憎悪や侮蔑は、従来の「つまり予定説におけるアイツラは地獄行きになる怠け者」から、「侮蔑すべき怠け者」だけが残った。
・・・というあたりはマックス・ヴェーバーが"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神"という本とかで書いてたこと。
今のアメリカ人は直接プロテスタントというわけではないが、連綿とこの思想を引きずっているのである。
(なぜならそのほうが発展に有利だからね)
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補足すると、こんだけ「プロテスタンティズムがー!」と書いておきながら、実は西海岸のカリフォルニア州は全米でももっともカトリックが多い地域である。なぜならもともとあそこはメキシコであり、今でもスペイン語圏からのカトリック移民が多いからです。
ただ、思想的な主流派は?というと難しい。モルモン系やユダヤ教徒(思想的原理は異なるが同様に資本の蓄積が宗教的にOK)もスゴイ多いし、西海岸を語るなら中華系の人々に言及を避けることが出来ない。
そして何より、【西海岸のリベラリズム】と対極っぽそうな南部のバイブル・ベルト。
この地域は基本的にプロテスタントだ。そしてめちゃめちゃ保守的。
ただまぁ、この辺はそもそもバプテスト派なので同じプロテスタントと言ってもなというのと、更には南北戦争で負けたエリアっていうのと、そもそも南北戦争以前から移民が少なかったため思想が固定化されたっていうのとかありそう。
朝、目が覚めたら雪が降っている。けっこうな勢いで雪が降っている。
外に出るのはよせと、天が示しているのか。
天は沈黙の中で人に何ごとかを伝えようとするようだ。市場も同じだなと思った。市場は明確な言葉ではなく現象で以って人に語りかける。金利であったり特定の商品の価格であったりである。市場の伝えんとすることを正確に読み取れるかどうかでその人の市場との付き合い方の巧拙が変わってきて、上手に市場と対話できる人は自らの金融資産を増加させられる。市場との対話は神との対話を彷彿とさせる。
日本人の致死率が極端に低い。世界中の医者、感染症の専門家を戸惑わせているレベルである。
BCG接種が免疫を強化させているのではないかという仮説がある。オーストラリアはその効果について研究を始めたという。
日本における病床数の多さも人口あたりで見れば世界一だそうだ。
満員電車の状況が連日続いているはずなのに、東京都内での感染爆発が未だ起こっていないように見えることが不自然ではあった。
神の国…なのか?
武漢肺炎ウイルスの蔓延によって見えてきたものがある。いろいろなものがクリアになる。付き合っている人間のこれまで見えなかった本性ようなものが明らかになってくる。ウイルス騒ぎが人の本性を暴く。ある人は、私のことを駒としか考えていなかったのだ、人扱いされていなかったのだと知れた。
付き合うべきでない人が見えた。人の本性が見える場面が増えた。
世界的なキャッシュクランチが起こっているようだ。現金化を急いだ多数の投資主体が投げ売ったせいで、株価は極端な低下を見せた。どう考えても安いという会社が続出している。致死率はさほど低くない。特に日本においては。ペストを考えればとても低い。かつてヨーロッパが黒死病で壊滅的なダメージを被った頃に比べれば、医学は発達しているし適切な対応についての方法論もある程度確立されている。専門家たちが賢い対策を立ててくれていて、それをしっかりと守れば少なくとも自分自身の身の回りの人々の命を守ることもできるようだ。これもまた天啓と考えるべきか。

人付き合いってようするに自慢コミュニケーションってことを言いたいのか?なら納得できる。
確かにだれか同じ人間がいなければ自慢もできないしね。パチンコは誰かに自慢するもんではないか。その点ではより原始的な快楽なのか。ソーシャルゲームは対して、より高度というか、人間にしかない欲求を満たす中毒性を持っているといえる。
そういえばパチンコって音と光の快感が中心だったね。音と光といえば人間みたいな動物が最も影響を受けやすいものだ。音と光で洗脳は行われるし。
神との対話(トランス?)≒麻薬、アルコール→パチンコ→MMO≒ソーシャルゲーム→?
って流れのような感じがする。
神は自分の内側に存在する、徹底的に相対化されたもう一人の自分だ。
社会の中で生きて行く中で、思いもしない矛盾や理不尽に見舞われる事は沢山ある。それに対して自分が反射的に返すのは、怒り、憎しみ、絶望などの、負の感情だ。でもそれをいちいちむき出しにしていては社会の中で平和に生きてはいけない。
精神的な安定と慰めは、愛する家族や友人がいればその人達によって与えられるかもしれない。どんなにその人達が矛盾した存在であっても、その人達を愛することには関係しないだろう。
だがそういった人達が存在しない場合は?あるいは絶対的な信頼を寄せられるだけの愛を感じられない場合は?
最後に残るのは自分だけだ。だが自然状態の自分は負の感情で一杯になっている。
そこで自分の中で神という存在を作り出す。自然状態の自分から徹底的に相対化するために、仮想の人格を与える。聖書の言葉はそのための設定資料だ。
その神に対して語りかける。怒りと憎しみと絶望を。それが神との対話だ。
それは本当は自己との対話ではあるが、絶対的な存在だと設定された自分の中の神に対して語りかけているのだから、やはり神との対話なのだ。
社会の矛盾や理不尽に対して、矛盾せずに理不尽でない完全無欠な答えを見つける事は難しい。だが、設定資料である聖書に書いてある言葉は示唆にはなる。人を憎んではならない。復讐は神の仕事である。
愛する家族や友人の矛盾が許せるなら、聖書の矛盾だって大した問題ではない。
答えのない問いに対してなお答えを求めて神に対して問いかけているうちに、時が経って頭は冷えて、答えらしきもののかけらも見つかって精神的安定が訪れる。
私にとって神を信じるということはそういうことだ。だから私の信心は私だけのものであり、非常に個人的で大切なものだ。
そういう神という機能を自分の中に作り出す事で、私はなんとか今日も心安らかに生きていける。