神は自分の内側に存在する、徹底的に相対化されたもう一人の自分だ。
社会の中で生きて行く中で、思いもしない矛盾や理不尽に見舞われる事は沢山ある。それに対して自分が反射的に返すのは、怒り、憎しみ、絶望などの、負の感情だ。でもそれをいちいちむき出しにしていては社会の中で平和に生きてはいけない。
精神的な安定と慰めは、愛する家族や友人がいればその人達によって与えられるかもしれない。どんなにその人達が矛盾した存在であっても、その人達を愛することには関係しないだろう。
だがそういった人達が存在しない場合は?あるいは絶対的な信頼を寄せられるだけの愛を感じられない場合は?
最後に残るのは自分だけだ。だが自然状態の自分は負の感情で一杯になっている。
そこで自分の中で神という存在を作り出す。自然状態の自分から徹底的に相対化するために、仮想の人格を与える。聖書の言葉はそのための設定資料だ。
その神に対して語りかける。怒りと憎しみと絶望を。それが神との対話だ。
それは本当は自己との対話ではあるが、絶対的な存在だと設定された自分の中の神に対して語りかけているのだから、やはり神との対話なのだ。
社会の矛盾や理不尽に対して、矛盾せずに理不尽でない完全無欠な答えを見つける事は難しい。だが、設定資料である聖書に書いてある言葉は示唆にはなる。人を憎んではならない。復讐は神の仕事である。
愛する家族や友人の矛盾が許せるなら、聖書の矛盾だって大した問題ではない。
答えのない問いに対してなお答えを求めて神に対して問いかけているうちに、時が経って頭は冷えて、答えらしきもののかけらも見つかって精神的安定が訪れる。
私にとって神を信じるということはそういうことだ。だから私の信心は私だけのものであり、非常に個人的で大切なものだ。
そういう神という機能を自分の中に作り出す事で、私はなんとか今日も心安らかに生きていける。
http://anond.hatelabo.jp/20070321120130 あなたがクリスチャンだとしたら、たぶん新教系ですね。