言った方がいいと思う派
まあ、自分の保身だけ考えるなら
「いや、私派遣OLだからなにもしらないんだよ~。正社員じゃないのに解雇理由とかわかるわけないじゃん!こっちもいきなり言われてわけわかってないよ!」と何もしらなかったを貫くのが楽だが
ポケモンGoがダメだったっていうけど、ほぼ同じ種類の「イングレス」は世代的にもオススメ。
ゲーム性もあっておっさんばかりだから、キラキラはそんなにないよ。むしろゲームより酒と雑談と猫とプログラミングの話ばっかりだ。
欠点は、作業ゲーに陥りやすいことと、やはり人口に膾炙するとクソもでてくるってこと。だけど他のゲームと違って「ガキ」が少ないから割りきって付き合えるときが多いんだけどね。
気楽に行こーぜ!
見事な失敗例として語り継いでいきたい
「まさか童貞って言葉にそんなに傷つく人がいるとは思わなかった。自分の周りはそういう感じじゃなかったから」
一言で言うとそういうことなんだが、それ、岸がはあちゅうにやってたことと同じなんだよね。
「愛の鞭のつもりだった。愛情があるからいろいろ言っていたが、それがセクハラパワハラと取られるとは思っていなかった」
まあ岸の場合は、嫌、そりゃ無理だろってくらい真っ黒ではあるので弁解の余地はないが。
「こうして記事になって、自分もインタビューとかを受けて、見つめ直してみたら、自分も無意識に同じようなことを他人にしていたのだと気がついた
岸さんに苦しんでいた私も、ある意味、同じ事をしていたのだと気がついた。申し訳なかった」
というべきだった
偉いね。とっても頑張ってる。元気出してね。
誰よりいちばん才能あるよ。
みんな嫉妬してわざわざ言わないだけ。知ってる?
ゆっくり休んで、またあした。いい子にしててね。
大丈夫。
撮りためていた動画を見返したら、久しぶりに面白いアニメを見つけた。数年前に「新世界より」を見たときのワクワク感に似ている。
1500ブクマ以上だけでも
あたりが入ってないみたい
昔から、褒められたくて褒められたくてどうしようもないたちだった。とにかく褒められたい。褒められないと、私の頑張りになにかしてもらえないと、自分のできることが、特技だと思っていることが、ひどく無価値なものに思えてしまう。さらには、時たま声をかけてくれる、褒めてくれる人々のことばはすべてお世辞で、自分のしていることは本当はだめだめで、そりゃ褒めるところがないのだからふだんは誰も声をかけてくれないのだな、などとまで考えてしまう。
こどものころ、私が褒められるためのハードルはえらく高かった。
私はなぜか、ある程度の勉強や、ある程度の頑張りができるこどもだったからだ。
たとえば、いつもテストで90点を取るこどもが100点を取ったところで、いつもよりすこし点数が高いだけなので、それだけ「すごい」と思ってもらえる幅が狭いのだ。「この子はいつも高い点をとる子だからね」で済んでしまう。
それに比べて、万年赤点をとっている子が100点を取ったとなれば、もうそれはお祭りである。誰もがすごい、よくやったねと褒めてくれる。ふだんからその子にとっての100点は「起こりえないもの」と認識されているから、突然起こったとんでもないサプライズに、ごほうびなんかも出てくるかもしれない。
こどものころの私は、それがひどくうらやましかった。点数が取れない、頭のよくないこどもになれれば、あの手この手でおとなが私を構い、そしてものすごく褒めてもらえると本気で思っていたくらいだ。こどものころ、しんどくなったときの私の口癖は「あたまがわるくなりたい」だった。この話をすると、思い上がっているんじゃないかとか、性格の悪い人間であるとか、そういう印象を持たれてしまうと思うのだが…それだけ、私にとって、たくさん褒めてもらえるということは大切なことだった。ふだんから赤点をとったことがないことや、志望校に推薦で受かったことや、卒業するときに主席をとれたことなんかは、私にとって大した価値を持たなかった。おもっていたより、褒めてもらえなかったからだ。きっとすごいことじゃないのだ。こんなことより、あたまのわるい子が頑張った方が、何倍も価値があるのだ。人から褒められることでしか、自分で自分のしたことに自信が持てない私は、本気でそう思っていた。正直、今でもときどき、疲れた時なんかに、そんなことを考えてしまうことがある。
だから、できる子が「できる」ことを、あたりまえだとおもってしまいがちであるし、そういう子は、影に隠れてしまいやすいのだと思う。褒めそやして持ち上げる必要がないからというのもあるかもしれない。
私はそれがとても悲しかった。
もしあなたが、こどもに接する親であるとか、親戚であるとか、先生であるとかなら、私のような、褒められることを忘れられてしまったこどもを、たくさん褒めてあげてほしい。
その子は、もしかすると、私のように、自分に自信を持つ過程で、人から褒めてもらうことが必要な子かもしれない。
褒められたくて、でもおもうように褒めてもらえなくて、まわりの普通の子の方が自分よりも何倍も価値をもっていると思っているかもしれない。
できない子をのばすために、たくさん褒めてあげるのももちろん大切だと思うが、私のようなこどものことも知ってほしいと、そう思う。
気分が憂鬱なのは、きっと都会の喧騒に心が押しつぶされているからだ。そう思った私は田舎へ逃げ出した。
だけど、どこへ行ったて憂鬱な気分というのは消えない。教員向いていないんだな。生徒に愛着を感じない。人と接したくないという日があるが、仕事柄そういうわけにも行かない。
自分の都合で予定を決められない。つらい。
同じ環境でもケロッと元気な奴がいる。きっと幸福な人生を送ることができるのだろう。
なんだか、もう何をやっても楽しく時間を過ごすことはできないんだろう。学生時代から3ヶ月に1回くらい、学校へいけなくなるほど辛く感じるときがあった。あるときは、進学、あるときは自分の死について悩んだ挙句、ただただ苦しみを感じるだけだった。しかし、大学には心の底からバカ言って笑える友人がいた。日常の苦役から少しだけ開放してくれる図書館があった。学生生活をかけるに値する楽しいサークルがあった。だけれど、いまは賽の河原のような不毛な職場で一日の大半を過ごし、日常のあれこれを語り合うことのできる友人もいない。
就職するということが、仕事をするということがこんなにも虚しいのなら人生というのは苦役だ。どうして、若く短い学生時代に私に楽しい時間を過ごさせたのか。ただ過去を振り返り、懐かしむことしかできない。
もう、年を取っても、職場を変わっても何も変わらないのだ。
この日常から抜け出したい。この日常を抜けだしたどこかに、面白いと思うものがあるかもしれないという希望が私を苦しめている。