日本に住んでいると、治安もいいし、インフラも整っているし、物資にも困らないから、「ああ、先進国なんだな」と思う。
だけど、1955年から2015年の60年間のうち、57年という長い期間自由民主党が第一党であるということを省みると、政治的には先進国とはいいがたい気もする。
自分が昔、道徳の教科書をうけて変な話だなとおぼえてるのは次のような話。
下校中にお腹が減った。
なっている白桃を盗んで食べた。
硬くて甘くなくて美味しくなかったので捨てた。
後日バレた。
怒られるかと思ったら、ちゃんと熟した桃を食べさせてくれた。
平成生まれの自分には、お腹が減って桃を盗むという行為も、下校途中に桃がなってるというシチェーションも実感がわかなかった。
なんだったんだあの授業は。
そういえば高校生くらいの頃、優しい父親と兄と恋人を兼ねたような相手が欲しくて、ハプスブルグ家も真っ青な近親相姦シチュエーションを妄想してたの思い出した
一杯のかけそばとかもそうだったけど、この手の「人情のためにルールに抜け道を作る」のがイイ話とされるのって、何でだろうね
抜け道を作るっていかにも姑息的かつ恣意的で、陰湿な感じを覚える
ちなみにセッションは2014年に作成され現在も公開されている音楽映画。
簡単に説明すると音楽学校に入学した偉大なドラマーを目指す生徒(アンドリュー)と非常にスパルタな講師(フレッチャー)とその周辺を描いた作品であるが、詳しくはwikiを見て欲しい(ネタバレあり)
※以下完全ネタバレ
この先は映画を見ていることが前提の内容となるが、気になった批評内容は主に以下の2点だ。
前提として、フレッチャーは「偉大な音楽家となるためには尋常ならざる努力が必要」「良い音楽家は人類にとっての宝」だという思想を持っている。
そのため、生徒達を口汚く罵り且つ無謀とも言える追い込みを行う。
フレッチャーは人格破綻者だとかサイコパスだとか理不尽とかの指摘をしている人は大した努力をせずに生きてきたんだろうなと思う。
こういう人が「毎日20時まで残業続きで耐えられない」とか言うんだろうな。
はてな住民はこういう発言を嫌うだろうけど、ほんとに世界を変えるために狂ったように働いているやつはいくらでもいる。
直接的には描かれていないけれども、フレッチャーも物凄い努力を行っている。
それでなければ、全パートの演奏を小説単位で覚えられているわけがない。
「指導が極端」なんてのは当たり前で、みんなで楽しくがんばりましょうで世界を変える程の力を得られると思っているんだろうか。
彼は自分でも認識しているように、嫌われ者になることを厭わず音楽の発展に貢献したいと本気で考えている。
そしてアンドリューも、歴史に名を残すために他の全てをかなぐり捨てる覚悟はできている。
彼は偉大なる音楽家を生み出すためにその生涯を捧げていた。
にも関わらずアンドリューの密告のせいで所属していた音楽学校を追われてしまう。
これにより、彼自身の職だけでなく、後に偉大な音楽家が生まれたかもしれないという可能性も失われてしまったのだ。
つまり、彼は自身のためだけではなく、人類を代表して彼を罰しようとしたのだ。
最終的にアンドリューは最高の演奏を見せ、フレッチャーもその渦に巻き込まれていく。
元増田です。
ちょっと距離が離れていたというのもあって、会うのは月1回ぐらい。
普通に外で飯を食べるだけという事も多かった。
実際に肌を重ねるのは2ヶ月に1回ぐらいだった。
当然毎回TRYしようとしたけど、凄く彼女は痛がるし、濡らしたりするテクも無かったので結局2年かけても貫通出来なかったんだよな。
それだけ大変だった彼女の処女が行きずりの男が簡単に奪っていたのはショックだった。
俺が下手すぎたのかもしれないが。
サクラのコメントとか、荒らしコメントの削除とかそういうきめ細やかなサービスが他のブログサービスに比べて優れてるからっしょ。
オリンピックや国立競技場騒動を見てもそう。過度の東京への集中もそう。仮にも国民主権なんだから他ならぬ国民のせいなんだろうけど。多分国民の殆どが「田舎者」の感覚だからなんだろうなと思う。大都市に住んでいるとか関係なく全員田舎者。いやむしろ大都市こそ田舎者の大量流入でそういう感覚に染まってるのかも?だから国際標準語も喋れないのかな。「12歳の子供」は未だに成長していなかったのだ。昨今の日本礼賛番組なんか完全に「オラが村はこんなにすごいんだべ!!!」って感じ。本当に成熟してたら他の人が褒めることはあっても自分から言い出さないっての。言い出すにしても「それとなく自慢」がナチュラルに出るくらい。あと何百年経てば先進国になれるのかな。