大変なんですね。
開発者に頭上がらないです。
一応、ゲーム屋5年目なんですが、
今月入ってから、AWS借りて、PHPの本を片手にゲーム作り始めてみたんですよ。
スマホで、Twitterと連携した最高に面白いゲームの予定でした。
そしたら、当初の壮大な企画はだんだん萎んで、最後にクソゲーが出来上がりました。
正直なところ、これでも何度もはまりながら何とか形にした次第です。
これを毎日やってる開発者の方々にはホント頭上がらない思いです。
齋藤聡史 (@otias_saito)
上司や先輩からの食事のお誘いは、「学び」の最大のチャンスですよね。
「断る」なんて「もったいない」どころか、「上から目線」な証拠。
皆さまの会社では、いかがですか?
おお、流石によく理解されてるな。横だけど。
なんつうか、この世は完全にクソであることを理解しつつ同時にある種の希望を持って生きるという感覚を理解できてない人は結構いるよな。
指摘の通り、“現実の問題に対して結局は自力で立ち向かわなければならない”
その事実をつねに自覚している人間は、そもそも神や信仰に頼らない。もっと現実的で、冷めている。
この世には夢も希望もないような顔をしてクールにドライに生きている。野良猫みたいにタフだ。
だが、世の中いつもそう強く在れる人間ばかりではない。
残酷な現実に救いを求める人は必ず存在するし、それは自然な心の働きとも言ってもいい。
だから一時の救いとなり得るものは世の中に沢山存在するし、宗教や信仰もその一つと呼んで差し支えないだろう。
しかし彼らにとって現実から永遠に逃げ切れる場所として、宗教が存在し得るわけではない。
神や信仰や宗教は、現実から逃げ切る為のツールとしては、残念ながらそこまで有能ではない。
ツールはあくまでも(個人差のある)時間稼ぎをしてくれるだけであって、やがていずれは全員、彼らの現実に立ち返らざるを得なくなる。
逃げたい逃げたいこの辛い現実から逃げたいと思っている人にとっては、宗教は優しいし、良い心の拠り所となるだろう。
もちろん、逃げたい逃げたいと思っている人にとっては、出会った宗教や信仰を、自らの人生における終の棲家としたいと考える方がむしろ自然な心の働きと言えるだろう。
だがそれはあり得ない。
逃げ場所はたくさん存在しても、どれも皆、いずれ出て行かなければならないセーフハウスだ。
いっとき逃げるのもいいだろう。
安心できる隠れ家に落ち着いて、一息つくのも許されるだろう。
だがしかし、逃げた先で惰眠を貪り続けてはならない。
そこで強くなって、そしていずれは自分から扉を開けて、外に自らの足で出て行ける自分にならなければいけない。
生きる事は戦いで、戦う相手は他でもない自分だ。
安易な救いを求めるのは弱さであり、いずれ克服すべきものでしかない。
傷ついたら休んでもいいが、十分に休んだら自力で立ち上がらねばならない。
就活もスタートし毎日きゅうきゅうとしている学生達はみんながみんな(主にツイッターなどで)「内定欲しい」とつぶやいている。
それを見ると私は日本人の誇り高さに感服せざるをえない。
他の民族にとって仕事とは罰であり、金を得るための手段でしかない。
奴隷をたくさん持っていれば自分はしなくていいことを、奴隷を持っていないがために自分がしなくてはいけないのである。
そういった人にとって、真っ先に出る言葉は「金欲しい」なのだ。
「仕事が欲しい」ではない。
しかし、それは他に手段がないから仕方なくするのであって、真っ先に欲しいものではない。
それは社会に正のフィードバックを与える立場を欲しているのである。
人の役に立ちたいのである。
どんなに茶化していても、「竹やぶで一億円拾いたい」とは言わないのだ。
自分は無力で才能とかもないから、小さくてもいいから何かできることをって考えた。お金持ちだったら世界の貧困で困ってる人たちになにかできるかもしれないけど、ふつうの人だからそんなこともできない。
だからとにかくアルバイトを通して、来てくれた人に少しでも笑顔に、来てよかったって思ってもらえるようにしてる。お客さんの笑顔が見れたときはすごくうれしい。そのお客さんがまた来てくれるのもすごくうれしい。
それができだしたから、今度はいっしょに働いている仲間にも、同じ時間を共有してるときには少しでも、笑顔でいれるようにしてる。笑わせてみたり励ましてみたり、とにかく自分が元気でいて相手も元気でいれるようにしてる。
そうやってしてたら働くのが楽しくなってきた。仕事を覚えたからってゆうのもあるんだろうけど。でも新人さんにも笑顔で優しく教えて、なるべく楽しいって思ってもらえるようにしてるよ。でもそれに伴って、家ですごく疲れるようになってきた。逆にやめたいとか思っちゃうけど、だれかに一瞬でも幸せって思ってもらえる、それを自分が提供できる場所って考えたら本気ではやめようとか思えない。
ただ、申し訳ないのが、身近な人につかれた顔見せてしまうことかなあ。身近な人が一番感謝してる人だからそんな顔しちゃダメなのにさ、見せてしまう。感謝してる人に笑顔になってもらうことができない自分はまだまだだー。
どれが自分の素なのかなあ。だれに素を見せるのが正解なのなあ。どーやって息抜きすればいいんだろ。趣味もないし、つかれてきた。
色々あってものすごくやる気がでなくなっていて、この所仕事もしてない。
世間ではそういうのをニートって言うし自分も「ニートなのに生きてるー」と思っていたんだけど、
改めて考えてみたら「死んでないけど実質的に死んでる人とあんまり変わらないな」って気がしてきた。
よく「ニートって親が死んだらどうするの?」と言ってる人いるけど、
多分「頑張る」っていう人は半分ぐらいで、もう半分は「なあなあのまま死ぬ」って選択をするんだろうなって感じた。
私は今日もニートなのに生きているし、死んでいないからニートをしている。
強いて言うなら元気が戻ってくるまで生き延びることを頑張っているし、
生き延びようと無理に頑張ってかえって元気が戻るのを遅らせないことを努力している。
体がピンチで横になっていたとしても、それは「涅槃でござる」って教義があったりするわけで。
「特に理由がなく、授業に出なかったとかテストの点が取れなかったため単位が取れず留年」はかっこわるいと思う。
ボランティアしてたとか、サークル活動に打ち込んでたとか、生活費のためにバイトしてたとかならまあ分からなくもないが……それでもなんかな。