はてなキーワード: 見えざる手とは
「少女マンガでは、恋愛に積極的な女の子はたいてい後から痛い目を見る。
勝つのは恋に奥手な女の子たちなんです。なので、バレンタインデーに好きな男子に
チョコレートをあげるときは、無記名で下駄箱に突っ込むのが常套手段。
マンガだったら、相手がエスパー並みの直感を働かせて私の想いに気付いてくれる
当時の民子さんが両思いになれるように努力したことと言えば、おまじない。
コップに好きな彼の名前を書いた紙を浮かべて月や星に願掛けをしたが、まったく効果はなかったそう。
「好きな男性がいたら、きちんと思いを伝えなければいけないと気がついたのは20代になってから。
ただ恋愛経験の少なさが災いしてか、未だに好みの男性を目の前にすると、固まってしまいますね。
出会いはないし、積極的に好きな男を探す気力もないけれど、いつか彼ができるハズ・・・
そんな妄想を執念深く抱き続けている人は、未だに少女マンガシンドロームから
脱することができていないのかもしれない。
そのため読み手が共感できるよう、主人公は外見平凡、性格は他力本願丸出し
神(作者)の見えざる手によって全てがお膳立てされていく
主人公は外見を整えることも、積極的に出会いを探すことも、
漫画内で蔑まれ、最終的には主人公の引き立て役に貶められる
ましてや、子ども時代から刷り込まれていたら、上記の女性のように
「気付いたのは20代になってから」ということにもなりかねない
「少女マンガでは、恋愛に積極的な女の子はたいてい後から痛い目を見る。
勝つのは恋に奥手な女の子たちなんです。なので、バレンタインデーに好きな男子に
チョコレートをあげるときは、無記名で下駄箱に突っ込むのが常套手段。
マンガだったら、相手がエスパー並みの直感を働かせて私の想いに気付いてくれる
当時の民子さんが両思いになれるように努力したことと言えば、おまじない。
コップに好きな彼の名前を書いた紙を浮かべて月や星に願掛けをしたが、まったく効果はなかったそう。
「好きな男性がいたら、きちんと思いを伝えなければいけないと気がついたのは20代になってから。
ただ恋愛経験の少なさが災いしてか、未だに好みの男性を目の前にすると、固まってしまいますね。
出会いはないし、積極的に好きな男を探す気力もないけれど、いつか彼ができるハズ・・・
そんな妄想を執念深く抱き続けている人は、未だに少女マンガシンドロームから
脱することができていないのかもしれない。
そのため読み手が共感できるよう、主人公は外見平凡、性格は他力本願丸出し
神(作者)の見えざる手によって全てがお膳立てされていく
主人公は外見を整えることも、積極的に出会いを探すことも、
漫画内で蔑まれ、最終的には主人公の引き立て役に貶められる
ましてや、子ども時代から刷り込まれていたら、上記の女性のように
「気付いたのは20代になってから」ということにもなりかねない
Orderly disaster reaction in line with deep cultural roots
http://news.blogs.cnn.com/2011/03/12/orderly-disaster-reaction-in-line-with-deep-cultural-roots/
災害発生時にしばしばつきものの、人々の混乱――食品・サービスをめぐる略奪やいさかい――が日本においては皆無であることは、注目に値する。
「略奪(looting)は単に日本では起きないのだ。われわれがlootingという言葉を聞いたときに想起される概念を明確に表すことばが存在するのかどうかさえ、私にはよくわからない」と、グレゴリー・プルーグフェルダー氏(コロンビア大学ドナルド・キーン日本文化センター所長)は言う。
日本人は「社会への責任を第一に、最優先する感覚」を持っている、と同氏。
日本文化を研究するメリー・ホワイト氏(ボストン大学人類学教授)にとって真の問題は、なぜ米国社会には略奪や無秩序が存在するかということである。同氏はその原因を、社会からの疎外と格差のせいだとする。
「確かに日本にも多少の疎外や格差はあるが、暴力をふるったり、他人のものを盗んだりすることは、文化として是認・支持されない」(同氏)
プルーグフェルダー氏は会議のため日本におり、東京での落ち着いた反応をじかに目撃している。東京は8.9Mの震源および広範な被災地からは、数百マイル離れた場所にある。
「国会図書館では、閉館時間から1時間半にわたり利用者が館内に残ることが認められた。これは私が災害の大きさを認識した理由のひとつだ。通常と比較してこれほど予定が変更されることは、きわめて異例だからだ」と同氏は言う。
夜半過ぎ、地下鉄が再び動き出したときに整然とした行列ができたことも、プルーグフェルダー氏の印象に残った。
「そのような社会的秩序や規律は、通常時においてもかなり浸透しているので、緊急時でさえ、いつもの慣れた姿勢を維持することは、日本人にとってきわめて容易なのだと思う」
日本文化の基盤となっている協同精神は、災害時のストレス下において、さらにいちだんと効果を発揮するようだ、と同氏は言う。
「(フリーマーケット的なあり方で)他者も同じようにふるまうという理解のもと、自分自身の利害を守るためにできるかぎりのことをする。そして秩序は、見えざる手のようなものから生まれる」
「日本はそのように機能しない。秩序は個々の多様な必要性を平均化するような形で、集団や共同体から発生するように見える」
このような社会的態度は、日本が災害から立ち直るのに役立つだろうか。
「ひとことでいえば、イエスだ」
・一度振り返ってみるのも悪くないよね
NHKのマスメディア討論と同時刻に放送する企画はネットを嫌煙している人達でさえも何らかの形で小耳に挟んだことだろう。それだけこの企画はインパクトがあった。
公共放送と呼ばれるNHKが本格的にネットをどう利用していくのか討論するのだからネットを毛嫌いしている頑固者でも一度は興味を持つものだ。多くのメディア関係者もNHKと同時にUSTの放送を視聴していた。一般人であってもNHKの番組欄をみてネットはよくわからないが興味はあるという人が視聴していたことも事実だろう。
その中に私の家族も含まれていた。
NHKで既存メディアに関する放送があると聞いてお茶の間で見ていた。私はUSTの放送にも興味があったのでテレビの横に家族全員が見られるようパソコンを設置した。ネット界隈の著名人がツイッターの意見を取り入れてNHKで行われる淡い討論をどう料理するのか興味があったし、またネットを利用しない家族もネットを作ってきた人がどういう考えを持つのか興味があったそうだ。本来は一人で見るつもりだったが、機械音痴ながら少なからずネットに興味を持っている家族にも見せた。
途中から「○○○」という発言で母は唖然とし「○○」の連発で親父が切れて「パソコンを切れ!」と顔が真っ赤になり、ぶつくさ言いながら居間から出て行ってしまった。家族騒然。ネットを何も知らない者にとって煮え湯を飲まされる形になってしまった。
その言動こそが持ち味だといって笑う者もいたが、それこそネットの暗い面だろう。多面的であるネット放送、そもそも「ダダ漏れ」というコンセプトのもとで放送され、このメンツならば予想されるであろうことだから見せるなだとか、家族に見せること自体が根本的に間違いだという意見もあるだろうし、こういった予測不可能な事故が今後出る恐れもある。私自身反省することは多々あった。以後見せることは金輪際ないだろう。
司会の津田さんは何とか舵を取ろうとする意識が見えていただけに残念でならない。全員が何らかのトップを走っている人たちだ。手綱を握るのはさぞ難しかっただろう、彼の苦労をねぎらいたい。あの状況下ではグダグダは避けられなかったのかもしれない。ひとくくりにネット放送がグダグダだと言って目くじらを立てるつもりは毛頭ない。しっかりと構成に基づいて放送されている方もいるし、グダグダ感がよい味を出している放送も存在するからだ。
しかし今回の企画自体とてもおもしろくまた同時刻で同じ課題についての放送であることから、既存メディアとネットメディアの考え方の差を一般人に広く見てもらう機会もあっただけにこのグダグダはとても惜しい気がした。マスメディアがネットをどういう風に利用するのかと、一般層にとってもネットを認知する機会であればこそ、ネットでどういうやりとりをしているのかを見てもらう良い機会でもあったのだ。
以前にも東浩紀氏が司会の「ベーシックインカム」についてニコニコ動画で放送していたが、暴言を吐かないまでも、声の大きい者が延々としゃべり続けるような状況だった。もちろん内容はおもしろかったのだが、せっかく多くの専門家や著名人を迎えて行う放送なのだから色々な意見が聞きたかった。似たような状況で続けざまにグダグダになっているのはとても残念でならない。
自室に戻って第二部を視聴したが、とてもおもしろかった。また次回もやってほしい。その気持ちがあればこそ感想を書くに至った。
適度にやるという趣旨だったかもしれない今回のUST討論だが、厳格なNHKの放送枠にあわせるとどうしても全体のカラーをNHKにあわす人間もいたことだろう。同時刻に流していると厳格なNHKのイメージに対し、罵詈雑言、酒を飲みながらヤジを飛ばしているというイメージを視聴者に植え付けてしまった。
ネットが罵詈雑言のグダグダしただけの世界だと思われてしまうのが残念でならない。ネットは勝手にやっていくからレガシーメディアは勝手に滅んでくれていいということで投げるなら何も言えないが、一般大衆により深く浸透してもらうためにはいろいろな意見を聞き、討論させるがことが必要だ。進行がぐらついてしまうような大きな声が勝つ討論ではそもそも既存メディアにすら太刀打ちできない。
ネットは近所の公園でたむろしている不良のたまり場として見られることだろう。最近になってNHKラジオではツイッターの投稿を募集し始めている番組もあるのだが、たまにツイートを読むときにかったるい間延びした読み方をされることがある。ネットスターの投稿でも似たようなことがおきている。感情を込めて読み上げる必要があるのだろうが意外とネットからの投稿は間延びした読み方が目立つ。ネットから遠いと自堕落な人物像を想像してしまうのだろうか。これが既存メディア側から見たネットの人達(住人)に対するイメージといえるのかもしれない。ネットと既存メディアの対立構造として想像している者も少なからずいる。
厳格に枠を作ってしまってはネットの優位性はなくなるという懸念はあるかもしれないが、有意義になるはずの放送をグダグダにしてしまうのは勿体無い気がする。既存メディアの強みは良い意味で時間枠に手綱が握られている。時間や政治的な制約を出演者自身が意識していることも討論の進行を制御しやすい要因になっている。
ネットメディアは言いたいことがある程度自由に発言できる代わりにグダグダを毎度の事と許していないだろうか。今回の放送は対比する場として認識している人間もいた。NHKの議論の質が低い、根本的にズレているという声もあったと思うが、裏マスメディア前半部分の有様を見かねて退席した視聴者はどう見てもNHKに軍配を上げることだろう。
グダグダを前提にするならばこの時間帯は避けるべきだったのかもしれない。既存メディアが理解を示そうと討論をする放送なら今回USTの放送に興味がわくことは想像に難しくない。ハッシュタグを両方付加してツイートする者もいた。そこから興味を持ってUSTにアクセスした視聴者もいただろう。
切込隊長が放送する前にブログでこのことを心配されていた。(参照↓)
・ NHKが昔からtwitterを使っていたわけではなく、今回試験的なもんだろうと思います。
・ twitterは従来の放送のあり方に敵対するものではなく、共存していくための試行錯誤の時間を放送側に与えるべきです。
・ たぶん、USTでの裏番組の放送は、相当グダグダで汚い野次が飛び交う内容も含まれるでしょう… それが、twitterのレベルと思われるのはよろしくないかとも思います。
・ ネットの側からすれば、既存マスコミを敵視したい衝動は理解しますが、相手も人間であり、配慮すべき対象です。
・ twitterが革命的だと信じるのは自由ですが、ネット過激派の巣窟と判断されかねない方法は採るべきではないという考えです。
引用:http://kirik.tea-nifty.com/diary/2010/03/nhk-589c.html]
次回、新たに放送の企画を考えるのであれば、たまにはネットのイメージを多少でも向上するようなセッティングをすることも必要ではないか。勿論たまには、だ。それが出演者が「窮屈だ」と感じ、無視するようであればネットはいつまでも独特の世界に埋没してしまうのではないかと危惧の念を抱く。ネットを嫌悪している老害が時間とともに完全に死滅することを望んでいるのならば、やがて現在ネットに親しんでいる者達もいつか時代が変わったとき、逆の立場になる可能性があることも頭の隅に置いてほしい。年齢の事ではなく、考え方の世代間の齟齬を無闇に切り離して考えるのは乱暴といえる。
既存メディアがなかなかネットの見解を喋らせてくれないのは暴走や炎上といったリスクを恐れていることも一つの要因だろう。既存メディアはネットを蔑視から脅威の対象に変わりおそるおそる歩み寄りを見せようとしている。この時期をうまく利用し、ナイフに怯える少年達に安全な使い方を示唆するように、ネット上の楽しさや奥の深さを理解させることができれば、多少なり既存メディアの著名人達がネットに流れてくることもあるだろうし、ネットに関するテレビ放送の姿勢が変わってくる。新しい技術もスムーズに受け入れられることだろう。
視聴者の意見がダイレクトに流れてくることを認識してもらえれば、著名人も迂闊なことがいえないと判断し、勉強するようになる。法案の抗議文書をいくらEメールで送付したところで国民の声として認識されないのもネットが生活に根ざし始めていることを理解していない者が多いことを示している。ネットは生きた人間が使っていると理解させる。その流れが「開かれたメディア」の一歩と思う。
そういう状況になって初めて「開かれたメディアではごまかせない」と捨て台詞を吐き、既存メディアに逃げ帰っていく者達を安心して見送ることが出来るのではないだろうか。いま誰にでも門戸を開かれているようで、まだまだ人を選んでいるのが現状だ。空論だと言い切ってしまう前に一度やってみる価値はあると思うし、ネットのコミュニケーションが多様化してきたのだから既存メディアが理解できる様式が一つぐらいあってもいいだろう。まずネットが2ちゃんねるだけの文化という誤解を解くことが必要だ。
ネットは多様性があり、しかも誰でも放送を選ぶことが出来るのだから放っておけば見えざる手のごとく、いずれ淘汰・最適化されるだろうなど安易に他人任せにするのはよくない。アルファブロガーという言葉が流布されているとおり、匿名だけがネットではなく率先して引っ張っていく人間がいる以上、発言の影響力は大きい。こういったネットを先導してきた者たちが一度はネクタイを締めてキメ顔でやってみるのも別のアプローチとしておもしろい宣伝になる。たとえテレビでは多くを語れない制約があったとしても、ネット側から歩み寄りを示す方法はいくらでもあるのだ。
前を向き続ける姿勢は評価できるが、ネットに興味があるがなかなか理解出来ない人を放置するのはいかがなものか。せっかく相手は理解しようと動き始めている。敵視したままなし崩しに放っておけば、誤解の差は開き、また何かしらの思い込みによる報道を繰り返し、結果的に発展の阻害になってしまうことは想像に難しくない。理解を示し、説明することは大事なのだ。
ネット先駆者たちと大衆の思考が大きく乖離してしまっている。先駆者たちがわざわざ理解できるように道を示してくれるとは思えない。また既存メディアが既得権益で塗り固められたままネットを利用し理不尽な制約・規制を新たに生み出すかもしれない。これから重要になってくるのはネットと非ネット利用者の橋渡役ではないだろうか。
大衆を呼び込むためにも背広を着て営業する大切さも一度は考えてみるべきだろう。ドワンゴの川上氏がテレビCMを流すなど、NHKに出演することは世間に出るリスクがあるとはいえ、新しいメディアを理解してもらおうと努力している観点から見れば大いに評価できることだ。
iPadなど直感で触ることが出来るようになりこれまでネットを利用しなかった人たちも使う機会が増えてくることだろう。前へならえで既得権利に浸かって沈没していくレガシーメディアに理解できるような試みも必要なのだ。より社会に根ざしたネットインフラを構築するためにも、今後ネットを知らない者への理解が重要になってくる。
既存メディアがネットを考え始めたと同時に、ネットを利用している者も既存メディアに対してもう一度深く考える時期にさしかかっているのかもしれない。
参考1:“革命的Ustream放送”「激笑 裏マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」の裏側 (1/2) - ITmedia News
参考2:Togetter - まとめ「NHK激震マスメディア 向谷実氏(カシオペア)のTLで裏ustに非難轟々だった件」
「少女マンガでは、恋愛に積極的な女の子はたいてい後から痛い目を見る。
勝つのは恋に奥手な女の子たちなんです。なので、バレンタインデーに好きな男子に
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マンガだったら、相手がエスパー並みの直感を働かせて私の想いに気付いてくれる
はずなのですが、現実はそう上手くはいきませんでした」
当時の民子さんが両思いになれるように努力したことと言えば、おまじない。
コップに好きな彼の名前を書いた紙を浮かべて月や星に願掛けをしたが、まったく効果はなかったそう。
「好きな男性がいたら、きちんと思いを伝えなければいけないと気がついたのは20代になってから。
ただ恋愛経験の少なさが災いしてか、未だに好みの男性を目の前にすると、固まってしまいますね。
出会いはないし、積極的に好きな男を探す気力もないけれど、いつか彼ができるハズ・・・
そんな妄想を執念深く抱き続けている人は、未だに少女マンガシンドロームから
脱することができていないのかもしれない。
そのため読み手が共感できるよう、主人公は外見平凡、性格は他力本願丸出し
神(作者)の見えざる手によって全てがお膳立てされていく
主人公は外見を整えることも、積極的に出会いを探すことも、
漫画内で蔑まれ、最終的には主人公の引き立て役に貶められる
ましてや、子ども時代から刷り込まれていたら、上記の女性のように
「気付いたのは20代になってから」ということにもなりかねない
読めば読むほどモテなくなるのである
MBA出身者が、経済の範疇を超えて力をふるった場合、ろくなことが起きないのは明白だ。
昨年末、自戒の書「資本主義はなぜ自壊したのか」をリリースした、中谷巌が(重みは違えど)似通ったパターンである。
中谷は小泉政権時代の新自由主義的社会設計を支えた張本人であるが、そもそもなぜ経済学徒が優先的に社会設計に与するのだ?
確かに経済は重要である。しかし、それだけでは社会は回らない。当たり前のことだ。社会設計を担う者は、経済だけでなく社会・倫理などを包括的に扱うことの出来る者でなければならない。さもなくば我々は、再び大きく道を誤るだろう。
勝間和代はたしかにMBAの論理思考を用いて、経済問題や、社会問題について数々の考察をしてはいるが、その内容には、明らかに社会的、倫理的、文化的な蓄積が欠落している。
当人は、その欠落も、統一した論理操作で埋められると考えているようだが、果たしてうまく行くだろうか。
それは、社会がこれまで蓄積してきた膨大な経験知や、歴史的見取り図をろくに参照せず、無理矢理身近な問題からのみを出発点として思考する、とても遠回りで愚かな行為に過ぎない。
もちろん、身近な問題から出発すること自体は間違っておらず、多くの人々を勇気づけることはできるだろう。その点では異論がない。少しずつではあるが、確かに問題の核に近づくことは出来るからだ。
社会におけるトライアンドエラーと再構築は、確実に膨大な損失を生む。意志決定とその遂行の速度には限界があり、軌道修正するにしてもコストが大きすぎる。
これがもし会社であったならば、経営者の愚かさは会計上の損失として計上され、再帰的な新戦略の再構築に向かうことが出来る。しかし社会は会社ではない。どれだけ不可逆な損失が存在するか、考えただけで恐ろしい。
ちなみに中谷の場合は、社会はほぼすべて自由競争にしてしまえば、見えざる手がもっとも良い社会を作るという思考停止によって、社会無設計を実現した。まあこの状況では、さすがにそれを追従することはないだろう。
しかし、間違いがないのは、社会は目に見える範囲での利益追求的な思考だけでは妥当な結論は導き出せない、ということだ。仮に広範囲での幸福度についての尺度を設けたとしても、経済価値最大化と同様の論理操作で、果たして社会問題が解決するだろうか。
つまり、問題範囲に漏れがあったら、結論は間違いを必ず含むということ。そして、問題範囲に漏れがないということを保証することが出来ないということだ。
人間は、社会の問題をMECEよろしく漏れなく記述できるだろうか。
そしてそれに対して、妥当な結論を、実験無しに導くことが出来るだろうか。
私には、政策強行の結果、部分最適化の小さな効果のみを取り上げ、その責任をやり過ごす姿しか見えてこない。
万が一、勝間和代が国政に関わることとなった場合、ベテランは人気取り以上の役割を与えないよう細心の注意が必要だ。
まあ、それは麻生で懲りているだろうから、起きないとは思うが、変にいろんな委員会などで、MBA的ディベートを展開された場合、無力化する作業は非常にめんどくさいことになるだろう。
もし音沙汰無ければ、私こそが過大評価者だなw まあそれが一番良い。
バカリベ釣れた。おまえ吊った方が良いよ。
まず投機や幸せの定義を明確にしたいと水掛け論にしかならんだろ。
え、なに?状況証拠でしか示せない?なら一緒だね!え?なに?理論でしか示せない?なら一緒だね!
状況証拠や理論の正しさに程度の違いがあることぐらい理解しとけよ。
100%正しいものがないから何も信じないというのはただの思考停止。
値段上がっても消費減りにくいんなら値段上げ放題ですねw そしたら資源開発や代替品の開発も進みますねw 投機の仕事はどこ?
お前は本当に1ビット思考しかできないんだな。減りやすさあやあげにくさに程度の違いがあることくらいわかれ。
あぁそうですか、人為的に高い値段を作りたいんですか。神の見えざる手は否定したいんですか。なら税金掛けりゃ良いじゃん。環境税。
市場は人間の活動なんだからこれも人為的に決めてるんだが。それに高い値段にするほうが社会全体にとってメリットがあるなら仮に投機が高値に吊り上げてたとしても批判できなくなるはず。投機を叩きたいという結論ありきだから高値がいいのか悪いのかの判断が行き当たりばったりになってるんだろうけど。
農家が得するとかってwww 現実をみろよ現実をwww 原油高くてビニールハウスあったまんねーっつーの。得する範囲がどうみても狭過ぎるっつーの。
一応突っ込んどくがビニールハウスが広い範囲と思ってるのか?やってる農家は少数派。
これまで流入してなかったという根拠がない。そもそも本当にうまく言ってたといえるのか?思い込みばかりで質問しても質問で返すだけで自分の主張の根拠なんかは出せないんだろうけど。
バカリベ釣れた。おまえ吊った方が良いよ。
投機のせいであがったという証拠自体あるのか疑わしいが
投機のおかげで世界が幸せになったって言う証拠を見せてください!
え、なに?状況証拠でしか示せない?なら一緒だね!え?なに?理論でしか示せない?なら一緒だね!
かりにそうだとしてもそれは短期の話で
人が飢え死にするのに何日かかると思う?人が凍死するのの何日かかると思う?人が借金まみれになるのに何日かかると思う?
値段が上がれば消費が控えられ資源開発や代替品の開発が進みやすくなるので長期的には上がりにくくなる。値段があがっても消費が減りにくい必需品ほど実物の需給を調節するには激しい値動きが必要ということも理解しておくべき。
値段上がっても消費減りにくいんなら値段上げ放題ですねw そしたら資源開発や代替品の開発も進みますねw 投機の仕事はどこ?
あぁそうですか、人為的に高い値段を作りたいんですか。神の見えざる手は否定したいんですか。なら税金掛けりゃ良いじゃん。環境税。
投機がなくても売買可能といっても投機のメリットがないということにはならない。パソコンがなくても生活できるがだからといってパソコン使うメリットがなくならないのと同じ。
投機のメリットどこー?あのバカな値動きがメリットですか?仮に何かメリットがあったとして、そのメリットとデメリットは平仄が取れたの?
「リスクヘッジ(笑)」って書きましょうねw で、リスクヘッジ、できたの?
あと補足しておくと先物投機は将来の価格の予想があたれば儲かるわけで、あがるから儲かるとは限らない。下がると思って空売りしたのにあがったとかだと損する。
超☆意味ない補足乙!もしかしてこれ何かの反論?だからなに?みたいな?貸株使って下がった時にぼろ儲けとか、安い常識ひけらかすのって今流行ってるの?
農家が得するとかってwww 現実をみろよ現実をwww 原油高くてビニールハウスあったまんねーっつーの。得する範囲がどうみても狭過ぎるっつーの。
で、これまで投機資金が流入しなくても概ねうまくいってた原油・穀物に投機資金が流入するメリットって、何?
そして、そのメリットはあんだけあからさまなデメリットを上回るもの?
説明ガンバo(^ヮ^)o
この記事は非モテの10代、20代に向けです。
私は国立大学の修士課程で、身長は181cm70kgで背の高い標準体型です。
趣味はゲームか読書、あるいは高校のときの友達とサッカーをすることです。
外見はよくナイナイの矢部とかミッチーに似ていると言われますが、
決してイケメンではありませんし不細工といわれたこともありません。
その証拠に、今までに告白された回数は10回程度で世の中でモテると言われている人たちには到底及びませんし、
もっと言えば、その中で私が彼女のことを知っていたのは2人だけで他の人はいきなり私の前に現れました。
さて、ここまで読んで私は生涯で付き合ったことあるいはエッチをしたことがあると思いますか?
答えは、一度も付き合ったことはなくエッチもしたことがない童貞です。
私の主張は次の2つです。
私は、自分で言うのもおこがましいとは思いますが有名な大学の修士であり、成績優秀で見た目だって悪くはないはずです。
今まで法を犯したことは駐車違反ですらなく、健康的な大学生の典型だと自負しています。
しかし、私は研究室と家の往復をしており女性と会うのは地下鉄ぐらいのものです。飲み会や合コンには消極的に参加する人間です。
つまり、非モテを自負している人はこうした「異性との関わりが極端に少ないという状況」にあるのではないでしょうか?
同じクラスに異性がいるというぐらいのことは関わりがあるとは言いません。
自問自答してみてください。
「私は今日異性と何をどこで話しただろう?」
ひょっとして非モテを自負しているあなたは一度も異性と会話を交わしていないんじゃないでしょうか?
もしこれが原因だと仮定するなら、あなたは「異性との関わりがある状況」に自分の身をおくと非モテが改善するかもしれません。
例えば、異性の多いバイトであったり、飲み会や合コンがあるようなサークルやそういったイベントに積極的に参加することで、
付き合うという目標を達成できるかもしれません。
ただし、人付き合いというのは一朝一夕で変われるものではありません。服装、髪型、話し方、振舞い方を社交的にすることも大切です。
思い込むと信じるというのは少し意味合いが違うので分けました。
私はどちらかというと付き合うことを神聖視しています。相思相愛の彼氏彼女が見えざる手によって、互いに惹かれあい恋に落ちるというロマンチックな妄想を抱いています。
しかし、現実はどうでしょう?
あなたの周りで付き合っている人たちは「友達の紹介で」「なんとなく」「告られたから」「かわいいから、かっこいいから」「合コンで知り合った」といった理由の人たちのほうが圧倒的に多いはずです。
あなたが醜悪な容姿で悪逆非道な性格といった決定的に魅力のない人間であれば話は別ですが、街を歩いていて「あれ?あんな可愛い子となんであんなゴリラみたいなやつが付き合ってるんだ?」と思ったことはありませんか?
あるいは「なんであんな勉強しかできないガリ勉の癖に、俺よりモテるんだ?」とか「あの子、大して可愛くないのに化粧もしてないし痩せてないのに、イケメンとばっかり付き合ってるの?」と疑問に思ったことがあるはずです。
これは彼らや彼女たちは付き合うことを神聖視などしておらず、あるいは困難なことだとも思わず、ただ「付き合うこと」が目的なのです。
もちろん彼らは、1つめの要因の「異性との関わりがある状況」にあったことは言うまでもありません。
そのような付き合い方は決して低い次元とか不純とかといったものはでなく、一般的な恋人の作り方の一つです。
しかし、非モテはそうではありません。
付き合うことは宇宙飛行士になるのと同じくらい難しいことだと思い込み、付き合うのは相手に告白されてからなどいろいろな付き合うためのルールを自分で設けます。
その結果は明らかです。
まとめとしては、非モテを自負している人はまず
1. 自分を異性と関わりのある状況におく
2. 付き合うということを難しいことだと思わず、自分でルールを決めない
の2点を改善するだけあなたの付き合うという目標は達成に近づくでしょう。
この記事を書いたのはこういった色恋沙汰の記事が多く、どうしても書きたかったからという単純な理由であって、
私の専門は経済学なのでこういった社会学はまったく知らない分野です。
なので、これは経験則に基づいているので学問的な議論はその筋の方がしてくれることを期待しています。
推敲もせず投稿しますがお許しください。
彼女はそういったけれど、僕にはよくわからなかった。
夏の終り/肌寒い風、気温/蝉は鳴いているけれど、もうまばらで。
彼女の顔よりも、ぼくはそっちのほうをよく覚えていた。
彼女は、生きているのが辛そうだった。
彼女が世間を呪う時、彼女は自分自身をも呪っているからなんだと思う。
彼女は、世界と同一だったといえるのかもしれない/その、ちっぽけな彼女の世界の中で。
それは、たぶん大人びた彼女からすればとても幼児的な、行為だったろうけれど。
あれ、やっぱりぼくにはよくわからないや。
僕は彼女とよく川沿いの道を歩いた。
新しくできた図書館へとつながるあの道を。
彼女は本を読むのを嫌がった。
ぼくは本を読むのが好きだった。
彼女は車が好きだった。
ぼくは車なんてどうでもよかった。
車の中で、僕たちは何度も愛し合った。
公園で、トラックの運転手が覗き込んだときはどうしようかと思った。
でも、僕はどこか誇らしげだった。
彼女の芸術的な白い肌が、このおじさんの目を虜せばいいと思った。
それは、ぼくのものだったから。
振り返ってみれば、ぼくはあまりにも科学のほうによりすぎていて、
彼女はあまりにも慣習のほうによりすぎていた。
僕が信奉したのは、見えざる手だったけれど、彼女が信奉したのは、彼女自身が住むコミュニティの慣習だった。
僕たちは、いつか、あたりまえのように、別れた。
彼女が別れを切り出した。僕は拒否した。
だが、現実は進行した。あとで人伝いに聞いた話によると、もうこのころから彼女には男がいたんだと。
だけど、それはもうどうでもいい。
駅のどまんなかで彼女を目撃してしまったことであり、
その彼女は、おなかを大事そうにさすっていて、そのお腹が少し……膨らんでいたこと、それだけなんだ。
君は、どこか幸せそうに見えた。すぐ、向こう側のホームに訪れた電車がその姿を覆い隠すまで。
僕は、やっぱり君が信じてる道徳や、慣習や、そういったものよりも、科学を信じるから、
嫉妬や、後悔や、恨みや、愛情や、NTRや、いろんな感情よりも、なんていうのかな、君に。
なによりも。
祝福を、送ろうと、思う。
どうか、あなたが幸せでいられますように。
それだけを祈ります。ずっとずっと、あなたが、誰よりも、幸せでいられますように。
今でも、そしてこれからも、ずっとあなたのことを思い出すでしょう。
そして、そのたびに、いろんな感情を、ムリヤリに祝福で覆い隠すでしょう。
だいすきでした。さようなら。愛してました。ばいばい。
当方、男。
読んだ。
…。
友人は「少女漫画の一つも読まないから女心がわからない」と言っていたが、
すまん。俺には到底理解できそうに無い。
面白くないわけじゃない。
むしろフィクションとしては面白いと思う。
が、そこで「リアル」とか言われて読むとなんだかなーというのが男の印象。
ただ、相手の男がありえねぇ。
出版だのイケメン教師とかはまだいい。
バンドマンだの、実は金持ちだのと一般男性とは結構かけ離れた対象。
うーん。と。
まぁ、あれだ。エロゲの展開とよく似ているんだなと思った。
ある種の神の見えざる手で関係がうまいこと繋がっていくという楽さ加減やありえなさでそっくりだと思った。
女心を理解するって難しいよねぇ?という話。
いや、それとも女心=理想なのだろうか。
難しい。
http://anond.hatelabo.jp/20080313004340
http://anond.hatelabo.jp/20080313012053
らへんを読んでなんだけれど、個人の引越しを語ってもしょうがない。
これは社会や経済のバランスをどうとるか、最適なのはどの辺か、という話のはずだ。
経済的に問題なければ、地方でのんびり暮らしたいという人は多い。
お金があれば、土地も家も物も会社も買える。幾つか持ってもいい。
社会の発展とともに、産業は第1次産業から第2次産業、第3次産業へと軸足が移ってきた。
これらはそれぞれ、土地、物、人を相手にする。そのため、人が多い場所で第3次産業が発展し人が集まり第3次産業が発展し、というスパイラルが発生する。また、産業の発展はお金を呼び、お金が産業を発展させる、というスパイラルもある。
つまり、土地や物への依存が低い第3次産業が発展すると、人も物も会社も集中しようとする。
もちろん、人のつながりや、文化、土地などが、それに抗して凝集を押えようとする。しかし、第3次産業が発展すればするほど凝集力は強まり、人口集中へ向けて市場の見えざる手が働く。
この凝集力を緩和するには、都市部から地方へ向けて金を分散させる必要がある。
もう一つが産業、特に物を産み、扱う第1次産業、第2次産業の誘致。
しかし、これらは市場の動きに反し、したがって効率の低下、産業発展への抵抗になり得る。
それでもそれを行なおうとするのは、人口集中、産業集中を問題視する考えがあるからだ。
なぜか?それは一重にリスクヘッジである。一極集中はリスクの集中でもある。
大都市で災害が起こると被害が大きい。東京で大地震が起きれば、日本の受けるダメージは計り知れない。
また、和島塗りや有田焼きといった文化は守るだけの価値があるのかも知れない。ないのかも知れない。その価値が計り切れない。
だが、効率を無視することもまたリスクであり、ダメージである。
そんな中で、我々はただただ、効率とリスクのバランスをとるしかないのだ。
そして今、日本は経済が低調で国は莫大な借金を抱えている、といわれている。そのため、多少のリスクがあっても効率を、という流れなのだ。