MBA出身者が、経済の範疇を超えて力をふるった場合、ろくなことが起きないのは明白だ。
昨年末、自戒の書「資本主義はなぜ自壊したのか」をリリースした、中谷巌が(重みは違えど)似通ったパターンである。
中谷は小泉政権時代の新自由主義的社会設計を支えた張本人であるが、そもそもなぜ経済学徒が優先的に社会設計に与するのだ?
確かに経済は重要である。しかし、それだけでは社会は回らない。当たり前のことだ。社会設計を担う者は、経済だけでなく社会・倫理などを包括的に扱うことの出来る者でなければならない。さもなくば我々は、再び大きく道を誤るだろう。
勝間和代はたしかにMBAの論理思考を用いて、経済問題や、社会問題について数々の考察をしてはいるが、その内容には、明らかに社会的、倫理的、文化的な蓄積が欠落している。
当人は、その欠落も、統一した論理操作で埋められると考えているようだが、果たしてうまく行くだろうか。
それは、社会がこれまで蓄積してきた膨大な経験知や、歴史的見取り図をろくに参照せず、無理矢理身近な問題からのみを出発点として思考する、とても遠回りで愚かな行為に過ぎない。
もちろん、身近な問題から出発すること自体は間違っておらず、多くの人々を勇気づけることはできるだろう。その点では異論がない。少しずつではあるが、確かに問題の核に近づくことは出来るからだ。
社会におけるトライアンドエラーと再構築は、確実に膨大な損失を生む。意志決定とその遂行の速度には限界があり、軌道修正するにしてもコストが大きすぎる。
これがもし会社であったならば、経営者の愚かさは会計上の損失として計上され、再帰的な新戦略の再構築に向かうことが出来る。しかし社会は会社ではない。どれだけ不可逆な損失が存在するか、考えただけで恐ろしい。
ちなみに中谷の場合は、社会はほぼすべて自由競争にしてしまえば、見えざる手がもっとも良い社会を作るという思考停止によって、社会無設計を実現した。まあこの状況では、さすがにそれを追従することはないだろう。
しかし、間違いがないのは、社会は目に見える範囲での利益追求的な思考だけでは妥当な結論は導き出せない、ということだ。仮に広範囲での幸福度についての尺度を設けたとしても、経済価値最大化と同様の論理操作で、果たして社会問題が解決するだろうか。
つまり、問題範囲に漏れがあったら、結論は間違いを必ず含むということ。そして、問題範囲に漏れがないということを保証することが出来ないということだ。
人間は、社会の問題をMECEよろしく漏れなく記述できるだろうか。
そしてそれに対して、妥当な結論を、実験無しに導くことが出来るだろうか。
私には、政策強行の結果、部分最適化の小さな効果のみを取り上げ、その責任をやり過ごす姿しか見えてこない。
万が一、勝間和代が国政に関わることとなった場合、ベテランは人気取り以上の役割を与えないよう細心の注意が必要だ。
まあ、それは麻生で懲りているだろうから、起きないとは思うが、変にいろんな委員会などで、MBA的ディベートを展開された場合、無力化する作業は非常にめんどくさいことになるだろう。
もし音沙汰無ければ、私こそが過大評価者だなw まあそれが一番良い。
長々と書かずとも、勝間はhttp://www.hozen.org/bbs/40/37901/こんなもんだからな。 ビジネス業界における『今年の流行モテファッション!』みたいなもんで、真面目に相手するようなもんじゃな...
そういえば脳トレの本出してたな。 経済評論家ってどこまでを範囲にしてるんだろう。
実際の市場は完全情報じゃなくて、金に関する情報を多く持っている人間が より多く金にありつく仕組みだからじゃないか。そういう意味でも自由競争は機能してないよ。
司法制度改革を担い司法試験委員のトップを努める高橋教授の発言。 法学教室 2006年4月号 巻頭言 『 成 仏 』 高橋宏志 (東京大学教授) 問題の捉え方が...