『ダンジョン飯』が話題なので、プレイヤーがモンスターを料理して食べる描写のあるゲームを挙げてみた。
ピクミンシリーズ: 2以降はルーイメモがあって、モンスターに相当する原生生物の調理方法が記載されている。そういう意味では『ダンジョン飯』に非常に近い部部分がある。
…見ててください、オレの、変身ッ!
あのゲームはプレイヤーが「ポケモンのパクリだ、ギャハハ」と分かるレベルで似ていないと意味がないが、そのまんまだ法的に問題がある。なので開発側も「ポケモンのパクリ」である主張とは真っ向から戦わないといけない。そうでないと商売にならないので。
別に開発は「あれはオマージュであり、我々は文化の継承者である(キリッ」みたいな事を主張してもいいと思うんだけど(した方が色々有利だろう)、受け手側がそういう認識だとちょっと純朴すぎかなと思う。
著作権的に問題があるかどうかの当事者でない我々としては「ポケモンのパクリだギャハハ!」と楽しむか「あーはいはいいつものポケモンのパクリね」とスルーするかのどっちかが、あのゲームとの適切な距離感だと思う。
>一つの仕事が生む信頼が別の支援者との関係構築の「糊代」になるような情報共有のやり方
自分のことを思い起こすと反省ばかりで痛い思い出しかないけれど。
次の仕事をつくっていくということにもつながる話で、自分の仕事だけじゃなく、視野をひろくみておかないとこういうことは普段考えようとはしないね。
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いったん投稿しちゃったから、読んでるかわからないけど、何が痛かったかというと、せっかくだから。
自分の後悔というのは1で引き継いだものを誰かほかの人にバトンを渡せるように2,3と増やして行けたか、言い換えれば自分で自分以外の仕事のニーズをつかんでいけたか、という点で力不足をよく感じる。
むしろ引き継いだものが後退しちゃっている面もあるし、何も進んでいないこともあるし、代理で引き継いでいる感覚が抜けなかったりすることもあったし、いまもある。
こういう世界って、やっぱりメンターになる人というか、そういう背中をみて自分の仕事、信頼関係の作り方も含めて、つかんでいく面がある。
信頼というテーマで言えば、ほとんど一緒に仕事をしたことがなかったけれど勝手に師匠だと思っている人の言葉で、「卵の殻理論」というのがあっていつも大切にしている。随分前になるけど。
とりの卵は外側からいくらつついてもひなが孵らないような仕組みになっている。だから支援者の仕事というのは、無理して外から叩いたり押し付けたりすることじゃなくて、
被支援者の大切にしている世界をナラティブな物語にしてみせることで本人の気づきをいかに促していくか、というのがキモだということ。
殻を割るのは支援者じゃなくてひなで、その動機付けを見守るっていうのは、信頼関係を構築する、という話とパラレル。、
ただそれは援助をはじめるきっかけにすぎなくてその先に支援チームとしての技術力が試されるし、その活動が広がるかとか定着するかが試される。
この2ステップ、そのタイミングというのは試行錯誤してなんとなくみえてきてはいるけど、いかんせん、最初のステップをクリアしたと思うタイミングで現場を離れなければならない、みたいなことが多かった。
でも、そういう動き方というか流れというのを伝えていく、というのは大切なことだと思うね。
嗅いだの?クンカクンカしたの?