人間関係にとけこめなかったからこみゅ賞で孤独になっているのだと思うのだけど、
それを甘んじて受け入れろということ?
なんだかブラック企業的な考え方みたい。
20歳くらいのときにクレーンゲームのぬいぐるみを集めていた。
ひとつのキャラクターを集めていて、自分で取ったもの、父や恋人に取ってもらったもの、色々あった。
ぬいるぐみは大半は戸棚にしまってあって、
時々入替えていくつか部屋に飾っていた。
その戸棚にあった分を全部捨てられた。
当時母はうつ病がひどく、大量の薬を飲んでずっと眠っていた。
時々会話をすれば、何を話しても「私を責めている!」「私に文句を言っている!」と
大喧嘩になった。
戸棚はぬいぐるみを入替えるとき以外は締め切っていたので、捨てられて数日間、私は気づかなかった。
母がいきなり「怒って捨てちゃったの、ごめんね」と泣きながら謝ってきたので気づいた。
当時私はうつ病の母に疲れ果て、私自身が死にたいと思っていたこともあり、
「別にいいよ」と怒る気力もなかった。
しかしこうして数年が経って、あのぬいぐるみを見ると母に言いようのない怒りを感じる。
とても大切にしていたのに、なんてひどいことをするのだろうか。
当時私はぬいぐるみ以外にもさまざまなことでうつ病の母には痛めつけられた。
母のうつ病はとてもよくなった。
私はそれが純粋にうれしい。
それでも、私は母が嫌いだ。
うつ病になる前は大切にされ、たくさん世話になったのも分かっている。
母親のことを考えると条件反射で嫌な気持ちになり、母親と関わりたくない。
周囲は「家族とは仲良くしたほうがいい」という。
そんなことは私も分かっている。
はてなーは最新の脳科学にも強かったり、デネットとかの心の哲学関連も嗜んでそうだからそれらを踏まえたうえでの的確なコメント貰えそうだね。
マジレスするとそういう言語外の人の感情を感受性の強くて語彙の豊富な人が表現するのが文学だったんだよな
今では全部「やべー」と「かわいいー」でいいみたいだけど
それは言語で聞こえるのか?
自分自身ですら気持ちをそのまま言語に翻訳することができないもどかしさを感じるんだから、
他人の思考が言語でやってきたとしたら、その人の思考や感情を正確に読めているとはいえないと思う。
たとえば、北島康介は金メダルを獲って「何も言えねえ!」と名台詞を吐いたが、
その言葉が出る直前の脳内では様々な気持ちが去来して、混乱して、
それでも何かコメントしなきゃという義務感から絞り出されたものが「何も言えねえ!」だったんだろうと思う。
このとき、北島の心が読めたとするなら、俺たちは「何も言えねえ!」ではなく、
その言葉が放たれるまでの複雑な思考や感情の渦を体感せざるを得ないのではないか。
そして、そうした思考や感情は過去の経験や学習に強い影響を受けてるに違いないのだから、
他人の心を読むことは、そうした人生の背景知識までをも含めた全情報を受け取ることではないのか。
そうなると、他者の心を読むことは、その瞬間に相手と脳内電気情報がほぼ同一化することであり、
それは一個人の脳のキャパシティーを超え、瞬時に発狂に至ってしまうのではないか。
そんな風に考え出すと、思わず大便時に肛門の手前で糞が詰まるんだ。
うーん、この答えをひねり出したい。
別のOSに移植してみたりとか、そういう人がちらほらいたけれど、
今は仮想環境やら、メーカー側で別OS版だしたりで充実してるからか、
そういうハッカーみたいな人が減った気がする。
横断的にその分野の歴史に明るいわけでなく、
強い意志もなく、ただなんとなく、そのとき好きなモノを消費するだけの移り行く存在。
彼らは深く考えてなくて動物のようだけれど、
その消費活動がその業界を維持するためには必要不可欠な知性なき妖精のような存在。
神経に到達してるかどうかじゃなかったっけ?
肉に塩・胡椒するのと同じ。ただの味付けだよ。