それは言語で聞こえるのか?
自分自身ですら気持ちをそのまま言語に翻訳することができないもどかしさを感じるんだから、
他人の思考が言語でやってきたとしたら、その人の思考や感情を正確に読めているとはいえないと思う。
たとえば、北島康介は金メダルを獲って「何も言えねえ!」と名台詞を吐いたが、
その言葉が出る直前の脳内では様々な気持ちが去来して、混乱して、
それでも何かコメントしなきゃという義務感から絞り出されたものが「何も言えねえ!」だったんだろうと思う。
このとき、北島の心が読めたとするなら、俺たちは「何も言えねえ!」ではなく、
その言葉が放たれるまでの複雑な思考や感情の渦を体感せざるを得ないのではないか。
そして、そうした思考や感情は過去の経験や学習に強い影響を受けてるに違いないのだから、
他人の心を読むことは、そうした人生の背景知識までをも含めた全情報を受け取ることではないのか。
そうなると、他者の心を読むことは、その瞬間に相手と脳内電気情報がほぼ同一化することであり、
それは一個人の脳のキャパシティーを超え、瞬時に発狂に至ってしまうのではないか。
そんな風に考え出すと、思わず大便時に肛門の手前で糞が詰まるんだ。
うーん、この答えをひねり出したい。
マジレスするとそういう言語外の人の感情を感受性の強くて語彙の豊富な人が表現するのが文学だったんだよな 今では全部「やべー」と「かわいいー」でいいみたいだけど
はてなーは最新の脳科学にも強かったり、デネットとかの心の哲学関連も嗜んでそうだから的確なコメント貰えそうだね。