はてなキーワード: デデキントとは
今日息子と一緒に考えたテーマは「無理数に覆われた世界」です。
高さと底辺をそれぞれ1とする直角二等辺三角形を作図することで数直線上に√2をとることができます。
またそのようなことをしなくても有理数である1と1.1の間に無数の無理数を見出すことができます。
息子はショックを受けましたが、半日間一生懸命うんうんと色々考えていました。
デデキント切断を知らない息子がそのメソッドを捉えるか捉えないかのところで一生懸命考える様子に、子供の無限の可能性を見出すことができました。
これまでの数に対する認識を改める良いきっかけになったと感じています。
中学受験を終え、息子の友人や同級生は中学校の数学と英語を1日でも早く終えようと息巻いていますが、私の場合、息子には「当たり前」と思っている物事に対して常に「なぜ?」を持ち、考える習慣を身につけて欲しいと思っています。
内容はそれでいいんだけど、デデキント切断なんだから、無理数の話絡んでくるよね
そこで、その自称数学ができるゴミクズは実数が無限個存在するのに、「自然数が無限個存在するから」といい始めた。
これは明らかにこれは間違っていて、
まず「集合Aの真部分集合Bが無限集合のとき、Aが無限集合」であることを証明しろ、言ったら「自明ですよね」といったので、
「自明は明らかだから説明いりませんのね、の意味であって証明が不要であるって意味じゃねえよ」と喧嘩になった。
次に、自然数が無限個だから、有理数は数え上げで無限集合と飛躍させても良いかもしれないが、
この話になったときは、「有理数が無限個あるんだから、無理数が有限個しかなくても、実数は無限個ありますよね」と言い始めた。
実数論は、ワイエルシュトラスの上限定理またはコーシー列の収束性を公理として認めるのが実際的と思う。
実数の構成については、デデキント切断ではなく、有理数の絶対値による完備化を採用し、関数解析などの講義でより一般の距離空間の完備化を扱う時に、例として挙げるのが適切ではないかと思う。その頃には、コーシー列等の概念が身についているだろうから。
そういうことはいずれは、(数学科なら)いざとなったら分かるレベルにならないといかんが、大学一年生がやって実りあるものとは思えない。
理学系にいくにせよ工学系にいくにせよ、教養の数学でやるべきなのは、高校の微分積分の復習をしつつ、
のような基本的な結果をしっかり理解して使えるようになることじゃないだろうか。
こういうものを示すのには実数の連続性を厳密に定式化しなければいけないが、一年生相手にわざわざ「デデキント切断に順序構造を導入して」などとやらずとも、
というワイエルシュトラスの定理を認めれば十分である。これはデテキント切断による実数の特徴付けと同値であり、他の命題を示す際にも扱いやすく、直感的にも理解できる。
思うに、あらゆることを厳密にやるのが大学数学の「伝統」や「洗礼」などと言った価値観を持っている人が多い気がする。もちろん、それは一面では正しいし、高校数学までは曖昧だった部分がはっきりすることに喜びを感じる学生もいるだろう。しかし、たいていの学生は、数学が嫌いになるんじゃないだろうか。
0.999…が1と等しい事がわからん中学生がいる、っていう増田のエントリ[1]があって、
それに対してわっと氏が「等しいのは公理だから」って返答[2]している。
[1] http://anond.hatelabo.jp/20161024040352
[2] http://watto.hatenablog.com/entry/2016/10/25/133000
ちなみに私は[1]の増田とは別人。
わっと氏の主張のどこが間違っているか述べる前に、
じゃぁ、0.999…=1となる本当の理由は何か、というのを先に書いておく。
そもそもなんとなくごまかして「0.999…」と書くことで9が無限に続いている事を表現しているが、
実際には人間の有限の寿命で無限個の数字を書けるわけもない(ヒルベルトの「有限の立場」)。
なんで、実際には有限個数であるn個の9を書いて、そのnをどんどん大きくしているのである。
で、nを大きくするたびに、0.999…が1に近づくというのが、「0.999…=1」の正しい数学的意味である。
高校数学をわかってる人向けに書くと、ようするにnを無限大に飛ばしたときの極限を考えているわけ。
で、わっと氏の何が間違っているのか。
おめー、0.999…=1が実数体の公理だってんなら、有理数体や複素数体の上では「0.999…=1」は
成り立たないってのか!?
当然そんなわけない。
つまり実数体の公理の中でもっとも重要な公理であるデデキントの切断公理が満たされないケース(有理数体)や
順序の公理が満たされないケース(複素数体)でも「0.999…=1」は成り立っているわけで、
「0.999…=1は実数体の公理」という主張はおかしい(注)。
じゃぁ何が重要なのか。
答えは実数体の「距離構造」である(更に弱く「位相構造」でも良い)。
先に極限の話をしたとき、0.999…の桁数nを大きくすると、1に「近づく」って述べた。
「近づく」ってのは「距離が小さくなる」ってことなんで、距離が関係しているわけだ。
わっと氏が触れているε-N0式の極限の定義でも、
0.999…は1に近づくとは限らない。
d(x,y) = 0 if x=y
d(x,y) = 1 if x≠y
0.999…は1に収束しない。
(注)もちろん、実数に関する性質を導くには必ず実数の公理を使うわけだから、
そういう意味では「0.999…=1」の証明に実数の公理を使うことにはなるんだけど、
そんなこと言い出したら「πは超越数」とか「5次方程式は解の公式を持たない」とか
実数に関する全ての定理は実数の公理を使っていることになるでしょ。
★追記
わっと氏の新しい記事を見て、わっと氏が何を勘違いしているのかわかった。
例えば
0.123456789101112131415....
という小数を考えたとき、この小数の桁数を無限に飛ばした極限の
実数(チャンパーノウン定数)が存在する事を示すには切断公理が必要となる。
しかし0.999...の場合は収束先の実数である1が存在することは
新記事の「これはデデキントを遠目で見てます」という記述を見る限り、
わっと氏は無限絡みで実数直線を2つにぶった切るときは常に切断公理が
必要になると思っているようだが、これは正しくない。
上述したようにこのケースはデデキント切断公理は必要ではないので。
デデキント切断公理は「実数直線を2つにぶった切るとどちらかに必ず端点が
経済学者になったと聞いたし、
もとのはてなダイヤリーを追ってもその頃の話が出てくる。
あの塾は今思うととても特殊なもので、数学マニアの少年たちと、
小島先生が去った頃くらいから、どうやらその塾の風向きが悪くって、
数学マニアの少年ときゃぴきゃぴしてる女学生(というか本当に受験目的な子達)が
バラバラの塾に行くようになってしまった。
俺の頃だと、数学オリンピック出るようなやつと一緒に女の子とデート行ったりしたのに。
(まあ、嘆かわしいのは、その受験目的な子達の行く塾が、ヤクザとつるんでたりとか、
上層部はキャバクラ通ってばかりって言ううさんくさいところなせいもあるけど。
僕らの塾から出たある有名な東大生も、いつの間にかそっちの塾出身ってことにwikiではなってるし。)
で、元に戻すと、そういう数学マニアの青少年が同時に抱く女子への憧憬ってのを、
小島先生の「数学迷宮」はよく書いていた。今でもどうしてもその影響でデデキントは悪いやつに思えてしょうがない(藁
で、もっとよりよく書いていたのは、小島先生書下ろしの幾何学入門みたいなテキストの序文だったと思うんだ。
うそかほんとかわからないけど、中学で女の子と数学が元で話し始めて、って言う話。
できたら、それをアップして欲しいな。