はてなキーワード: カーネルおじさんとは
宗教と神とは別のものだ この2つを混同している人は多く、さらにややこしいことには、宗教に無関心な人も混同しているが、信仰のある人も別の意味で混同しているということだ 宗教とは「神についての説明のいろんなバリエーション」程度のもので、本物の神には特定の宗教のカラーはなく、それぞれの宗教や神話などが成り立つよりずっと前から原理的に存在している 神は本来キリストともムハンマドともブッダともぜ~んぜん関係がなく、彼らよりずっと前にいて、彼らが去ったあとも、今も変わらずすぐ近くにいるのだ
だから無宗教や無信仰は簡単に成立するがその一方で神の存在そのものを否定することは難しい 人類は神(っぽいもの)の存在を認識する(したっぽい気になる)機能を持って生まれ、その機能は自分の意思で好きにオンにしたりオフにしたりできないのだ あなたが「神なんていない!」と主張しても、そもそもその主張に至るまでの思考そのものが、神の存在を認識する機能による神の存在への認識が可能にした発想なのだ この機能による神の存在の認識が無ければ、実はあなたは「神はいない」と主張することすらできないのだ 「神はいない」と考え主張するためには神の存在を認識する機能が必要不可欠であり、この時点で神の存在を認めているも同然なのだ いったい何を言っているのかって?
神はKFCのカーネルおじさんのようにどこかに誰かの姿をして突っ立っているわけではない どこにもいないからだ どこにもいないのだったらいないんじゃないかと思うかもしれないが、残念ながら存在してしまうのだ どこにもいないが、いるかいないかでいったらいつでもどこにでもいるのだ 意味がわからないと思うだろうか
誰も世界中隅から隅まで神を探したことはない 神はいるという人も神はいないという人も、誰も神の姿は見たことがないし、そもそも探してすらいないのだ ではなぜ神がいるとかいないとか言うことができるのだろうか?探してもいないのに。 わかりやすく言えば、神に対するすべての人々の主張の論拠というのは、各々の「世界観」に根ざしているのだ この世界には神がいる、この世界は神が作ったと考える「世界観」が彼らに「神はいる」と主張させ、また一方で、この世界に神はいないと考える「世界観」が彼らに「神はいない」と主張させているのだ おわかりだろうか 実はどちらも同じ概念を元に同じことを言っているだけなのだ
我々は世界の隅々を確認する前から世界全体について語ることができるのだ これはよく考えたらとんでもないことなのだ 現実社会ではどうでもいい日常の些細なことでも事実をきちんと確認してから語れみたいなことを言われるのが当たり前になっているのに、世界とか神とかいうもっと遥かに大事な(切実という意味ではない)ことについては、全然何も確認しないで平然と語っているのだ これは我々が持つ「世界観」という概念、感覚から生まれるものなのだ 我々は世界観という、全く何の根拠もなくて全然人それぞれバラバラないい加減極まりないものを持つことができるのだ 世界は一つしかなくてみんな同じところにいるんだから、現実には統一されているべくあっても良さそうなものなのに、みんな好き勝手に都合よく人それぞれ確認もしないで勝手に持てるもの、それが世界観なのだ 人間とはなんとテキトーな生き物だろうか、だがこれほど高度ですばらしい機能もないのだ
世界観を持つこととは神の存在を無意識に認めることが前提になっている どういうことか? 人間の身体は地球全体や宇宙全体、つまり世界と比べて極めて小さいので、本来は物理的には一つの狭い視野、視点しか持つことができないはずなのだ しかし人間は高度な脳の機能により世界観というものを持つことができる あくまで想像とはいえ本来見渡せないはずの世界全体を見渡すような視点を持ち、その景観をイメージとして自分の手の中に持つことができる これはいわゆる「神視点」というやつだ 本来全知全能の神にしかできないはずの芸当なのだ 「世界観を持つ」とはすなわち「神視点を持つ」ということであり、世界観という感覚が自分の中に存在した時点で、「神が行うような行い」の存在を認めていることになる 世界観という感覚そのものが神の存在の感覚そのものなのだ
そろそろ僕が何を言いたいかわかってきてくれただろうか 我々は世界観という感覚を自分たちの中に持つことができ、その感覚こそが神の存在の感覚だと言っているのだ 神の存在の感覚とはすなわち神の存在のことなのだ はて?
神は西郷隆盛像のようにどこかに誰かの姿をして突っ立っているわけではない どこにもいないのだ どこにもいないけど神の存在を認識する機能をオフにできない以上、脳はもうどこかに無理やり神を仮定するしかなくなってしまうのだ 数学で「~をxと置く」みたいな言い回しをしていたのを思い出してほしい 神も「どこかに存在を仮定する」という意味で、「置く」ものなのだ 数学で置くときはなんでも好きに置いてよかったのを思い出してほしい もう神なんてどこに置いてもいいのだ みんな好きに置いているのだ メッカ エルサレム よくわかんない祭壇 さとしの板 サトシの家 空 宇宙 星 山 神社 神棚 大仏 どこでもなんでも大差ない そしてどこでもない場所、「いない」という仮定もこれらと同じ並びに含まれる 仮定する、置くという行為が神を存在させる どこにもいないけどオフにできない神の存在を認識する機能の落とし所として「いない」という仮定が選ばれたところで、神の存在を認識する機能はその機能を完遂したことになり、正しく神の存在を認識するだけなのだ 神はいないという「仮定」こそカミ的な存在の肯定なしにはできないことなのだ わかんないものを仮定すること自体が「神がするようなこと」なのだ 「神がするようなこと」を平然とできるのは神の存在を無意識に認めているからなのだ くどいですか?
人間は神の機能を持っていると言っているのだ 人間が神だとは言っていない
世界観を持つということは世界を持つということであり、神の存在の感覚を持つとは、すなわち神を持つということなのだ
神は世界そのものであり、世界観の中にいるとも言え、それは我々の中にあり、あげくの果てにはどこにもおらず、神のいない世界こそ神が作った世界なのだ
西宮が大阪にあると勘違いしてる人もいるし、その原因がスポンサーのひとつ上新電機のせいだという事も少なからずある。
阪神の藤浪投手らが出演している事もあって、すっかり大阪のイメージキャラクターの様に感じられてきた。
大阪の球団は元々近鉄バッファローズだったのが、今ではオリックスバッファローズが本拠地どこ?と大阪人がすっとぼける様になって
名実ともに大阪は阪神タイガースというのが固定観念化してしまった。
そもそも優勝時に若者が挙って道頓堀から身投げして食中毒を起こすまでがテンプレとなっているので無理もない。
彼らの犠牲にくいだおれ人形やペコちゃんがカーネルおじさんと一緒に担がれて道頓堀の暗い闇の底に落とされるのをニュースで何度も見ていると
当然阪神タイガースだって大阪人が大阪が本拠地だと思い込んでる事を黙認しているどころか、きっと公認なんだろう。
そうでなければ、天神橋商店街や駒川商店街といった大阪三大商店街で優勝如何関係なく毎年のように大々的な支援風景を見れば、もはや既成事実と化している
これらに実は兵庫西宮が本拠地なんです!なあんて口が裂けても言えないと思う。
それでなくても兵庫における阪神タイガースの知名度はきわめて低いのだ。
地元の道端でクリスマスっぽさを見かけたことはあまりなかった。もしツリーなんて出そうものなら、毎年ほぼ確実にウルトラホワイトクリスマスだから、吹雪で電飾が飛ばされてあぶない上にごみだらけになる。カーネルおじさんも余裕でバタンキュー。外出には重装備が必要で、大した用事もなく街をぶらぶらできる季節でもないから、商店街なんぞ飾り付けたところで誰も見ない。スーツ着て駅前を歩くサラリーマンなんか冬関係なくはなから存在しない。かろうじて大型ショッピングセンターの店内だけは、コストに見合う程度に見てもらえるので、そこそこクリスマスっぽかった。
数年前にあったかい地方に引っ越して、店でもなんでもない普通の家が電飾にまみれてぺかぺかしてるのを初めて目撃した。東京は電気がすごいんだよという噂は地元にも届いていたが、民家まで光るとは思ってもいなかった。ファーストインプレッションは「うわもったいない」だった。東京エレクトリカルランドって感じがした。電飾飛ばされないし、人も通るし、お金とエネルギーの使い道をそういうハイカラなことに使う発想もこの風土なら育つことができるから、決して変でももったいなくもないんだなと、家路めいっぱい使って結論付けた。
はじめからないものをあるつもりでいると無駄に絶望するけど、はじめからないつもりのものがありまくってるのを見かけるとそれはそれでびびるよって話。