はてなキーワード: 公立校とは
ココ読んでて思ったのだが。605とかね。
まぁ高校は普通に進学校だったし基本的に自由、生徒もまぁ常識的な行動を取ってる感じで。
それで、今になって小中学校のような環境に戻って生活しろ!と言われたら
小学校とかどーなん。
まぁ公立校だから生徒(児童)は本当にピンきりだったのは勿論だけど
それ以上に、2学年に1人くらいは有り得ない教師いるよな?
それが何とも苦しいだろうな、って。
会社なら、まだ「やるべき事」が明確かつ評価・判断基準も合理性が強いから
やっていけるとして、
小学校は
「強引な強権者」に「大声」で「思想・倫理を押し付け」られながら「社会・道徳教育」を施されていく場だ、というのが
非常に耐え難い苦痛になりそうだな?と、ふと思った。
大学(※別に自分のいた所がFランとかではないが)でさえ、「何だか退屈な授業に縛られる苦痛」を感じるというのに。
なんだろうかね。
辛酸を舐めるっつーか。
自分は教師運も悪くなかった(小学校高学年の担任は嫌いだったが)、
んでどっちかっつーと真面目キャラでいたってのもあって
逆に言えば1ミリ運が悪かったら、そういった不遇に見舞われてたかも知れないんだしな。
とにかく、小学校生活怖い。
今公立校では高齢者部分休業とか言って定年前の先生が体の負担などで
昔ならやめてただろうに、ぶらさがってる。
そして、若い人が穴埋めで非正規で入れられてる。
同じ時間、というよりそれ以上働いていて若い人は前者より2分の1、下手したら3分の1。
自治体によるけど、どれだけふざけた教員でも簡単に首切れないし
教育にまわせる金のなさから常に一定で1割以上の非正規講師がいる。
そうやって十数年、正採用されないのに搾取されながら非正規が教育現場で働いてる人も少なからずいる事実。
受からないのに働かせる。働かせてるのに受かってない。
企業とおんなじと思う。
大学の出身講座の教授群が全部他学科出身者に変わって3年。名前と場所は同じだが、中身は別物になってしまった。とはいえ、大学自体のカラーは未だに同じようなイメージで残っている。伝統風物詩も残ってる。
もっと凄いのは高校で、親父も同じ高校なのだが俺の時と校風は変わってないらしい。いま、従兄弟が同じ高校に通っているが、やはり同じ校風だそうだ。戦前からある古い高校とはいえ、公立校である以上は校長だって定期的に変わるものだし、先生だって異動するだろう。そもそも、その校風自体教師から見れば好ましいものじゃない。こういうものはどうやって受け継がれているのだろう?地域性とかも関係するのだろうか?
さて、最近企業が海外の学生をとるという。別にそれに反対はしないが、いわゆる企業カラーというのは、そういった場合にも受け継がれるのだろうか?海外における日本企業の優位性は(特に工業製品のおいて)、日本人のやたら几帳面とか不必要にマニアックという特徴から生み出される実績とイメージに依るものが多かったのではないか?
日本人が優れているという気はさらさら無いが、そういう特徴が有利に働いていたのは事実ではないだろう。非日本人が会社の中で主体となったときに、そのイメージは維持できるのか?もしくはそんなものがなくても互角に戦える、もしくは戦う覚悟がある企業がどれだけあるのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20101009194100
公式を覚えるが、定義は覚えていない。
定義を覚えていても、公式は導き出せない。
例えば、第二余弦定理の a^2=b^2+c^2-2bc*CosA と、角を求める CosA= (b^2+c^2-a^2)/2bc を別に覚える。全く別な概念だと思ってる。そして一方から一方を導くことができない。こういうレベル。
もっとひどいと教科書の問題一つ一つを覚えようとする。だから二次方程式の係数が違うだけで「教科書に載ってない」と騒ぐ。
お受験私立高校からストレートで高学歴になった人はこういう底辺の現状に立ち会ったことがない。知らないまま死んでいくのではないだろうか。
ついでに言えば、彼らにはもちろん職がない。これは自業自得だろうか。自己責任だろうか。
ちなみにこれは僕の母校の話ではない。僕の母校と部活動で交流のある、公立校の話である。
思うに、高校レベルに達してはいない。しかし、高校には通っている。もちろん、彼らが中卒だったとしても、やはり人生は厳しいだろう。
言葉遣いだとか、ものの見方とか、そういうのは学校であっても伝染するからね。
伝染したスタイルは、他校の子供との軋轢を生み出したり、進路や勉強に対する消極的な態度をもたらしたりして、
そうやって人間そのものが変えられてしまうことによって、半永久的に不健全な精神構造のタネが植え付けられてしまう。
早期にタネを抹消または回収できれば良いのだが、周りの大人が気付いたときにはもう手遅れということが非常に多い。
同様の理由で大人もブラックな仕事をしないほうが良いのだけど、子供に比べれば判断能力があるため、根底から価値体系を覆されることは少ないだろう。
また、大人であれば、社会に出たら多かれ少なかれ有害な文化、有害な思想に接するのであり、そうしたことへの免疫をつける責務があると
言っても過言ではない。ブラックな仕事がその一助になるということは十分ありうることだ。
といっても、なんだかんだ言って、ブラックな仕事の悪影響は絶大であるから、出来ることならブラックな仕事で免疫をつけるのではなく、何か別の精神力と思考力を鍛錬してくれること、
例えば資格取得とか勉強会とか、そういうもので免疫をつけるのが良いだろう。
やはり、子供も大人も害悪なものには関わらないほうが良いというのが最終的な結論である。
心には明るいもの、楽しいもの、快いもの、美しいものだけを入れたい。
そういうことが綺麗事扱いしかされないこんな世の中じゃ。
俺俺と東大主義的な香りを取り除けば、そこまで悪くないと思う。
私も私学に援助金を出すのは反対。あれはある程度親にお金のゆとりがある人がいく場所だと思ってる(だから援助は無用)
子供の立場からしても、私立もあるから大丈夫~と気を緩めるより、底辺公立校or優秀公立校って二択のほうが勉強がんばるんじゃなかろうか。
個人的には高校卒業後に一年間ほど社会経験を積んでから、大学へ再度入学みたいな流れが出来たらいいなーと思っている。
高校3年生で受験→一年間は社会へ出る→昨年受かっていた大学へ入学みたいな。実現性は低いとは思うけど、少しの期間でも毎日働いてみれば夏休みのありがたさや、4年後今の勉強をどう仕事につなげるか…みたいなことも少しは考えられるんじゃないかと思うんだけど。
それにしても学費って高いよね。
親に感謝。
でもその意味が本当に理解できたのは、働き始めて何年も過ぎてからだったよ。
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
「これだからゆとりは」って言い回しを見かけますけれども、「これだからゆとり(世代/教育をされてきた人間)は(頭悪い/しょうもない)」くらいの意だと思うんですけど、この言い回しをしてる方はおいくつでいらっしゃるのよ?
wikipediaによると、ゆとり第一世代っていうのは1987年度生まれらしいんですけど、彼ら彼女らが今いくつかというと、22歳、まあ飛び級も留年もしてなければ大学4年生な年齢なわけです。とうに成人済みだぜ? 立派に大人だぜ?
「ゆとり」を相手へのネガティブな言葉として使う以上、その人は「ゆとり」じゃないわけでしょう?少なくとも22歳な彼らより年上なわけでしょう?その歳でそんな頭悪い罵倒とか、ひく。
さらに付け加えると、総合学習とか公立校週休二日制とかもゆとり教育の一環なわけですけれど、これを体験していない世代ってどこからかなっていうと完全週休二日制は2002年度からなんでまあ1984年度生まれまでにしておくと、彼らは今年で25歳ですね。
「これだからゆとりは」を言っちゃえる人っていくつよ。少なくとも20代後半より上の人間が口にしてることになるんだけど、恥ずかしくないのかなあ。
ちなみに自分は1983年生まれなのでこの定義だとゆとりに入らないけど、月に二回は土曜日が休みっていうのを経験してるし、年下の子と話してて、そりゃ個人で「あちゃー」な子はいるけどその世代まとめて頭悪いとかちっとも思わない。比較対象の私の頭が悪いって可能性はもちろんあるけどね。
ノリで発される流行言葉のひとつってことは分かるけど、やっぱり「これだからゆとりは」を言う人の方が恥ずかしい人間に思えるなあ。
進学校の話が出たから、
あんま関連性がないけど、
進学校なのに、文理でクラス分けしないし、きっちり男女同数だし、
と思うような学校だ。
まあ、中にいた人にはどこかバレバレだけど、
多少脚色して書いてみるよ。
まず用語解説から
スーパー内部 | 小学校から高校にあがって来た連中のこと。基本的に金持ち。 |
---|---|
内部 | 広義には小・中校から高校にあがって来た連中のこと。狭義には中学入学組。中学外部とも言う |
外部 | 高校入学組。平均偏差値がいちばん高い。 |
恋愛に関して言えば基本的にスーパー内部はビバリーヒルズ高校白書状態。
一応、中学から付き合って、そのまま結婚という一途なのもある。
スーパー内部>>(越えられない壁)>>内部>>(やや大きな壁)>>外部
って感じ。
本当に凄いやつは、スーパー内部にいたりする。
「○○くんが医者になったとき、
そばに居られる様に」
外部は平均的にお勉強ができるけど、よくもわるくも大人しい秀才が多い。
あんまり恋愛しない。
そういう連中は、雅俗の両方OKなところがあって
何で今まで公立校にいたんだろうってのが多い。
で、面白いのが、ビバリーヒルズ高校白書が、
大人になったら、ビバリーヒルズ青春白書になるところ。
やっぱり内部生は似たような空気を纏った人としか付き合わないのかね、
とよく思うよ。
(「あんな狭いコミュニティーで気持ち悪くないんだろうか」への返信)
公立校だったら、学校は、生徒の非行化を防ぐためにやってるつもり。
実際に部活動をさせることで、生徒の非行化を防げてるのかどうかは、知らない。
もしそういう効果があったとして、部活動を強制させることが、いいことなのかどうかも、知らない。
でも、実際に生徒を学校に置いておくことで、
生徒が外で何か問題を起こしたときに(公立中学ではよく起きる)担任教師が駆けつける、なんてことを少なくできる。
現場的には、これが頻繁にあると全く仕事にならないから、現場からすると、ある程度合理的。
教師の都合というよりは、教師が面倒見なきゃいけない範囲が広いから、その皺寄せが善良な生徒に来ちゃうって感じだと思う。
俯瞰的な視点で言わせてもらうと、
挫折を知っている人と挫折を知らない人がいるとするなら、挫折を知っていることがプラスにはたらくケースも長い人生の中では出てくる。
だから、今は打ちのめされている感覚で心がいっぱいなのだろうけど、まずその心の持ち様を何とかしていかないと自分に自分で落伍者の印鑑を押し続けることになっちゃうと思う。
次。例えばだけど、半年間運動してなかった人がいきなり1時間マラソンしたとしたらどうなると思う?30分でバテるとするよね。でもそれはある意味運動生理学的に当然な肉体反応なのかも知れないよ。ただそれでへこまずに2ヶ月トレーニングしたら(ここでの時間の長さはかなり適当だけど)1時間バテずに走れるようになるとする。これ仮定ね。
でもこの仮定で話を進めると、半年ぶりの勉強が思うように行かないのって落ち込む事じゃないかも知れない。当然の結果、個々人の能力差とは別に、だいたい普通そうなるわけで、ならない方が異常なのかも知れない。じゃあ落ち込む事じゃないのかも知れない。落ち込む事じゃないのに落ち込んでいるとしたら、なぜ落ち込んでしまったんだろう、落ち込まないためにはどうすれば良いんだろうと考えざるを得なくなってくると思うな。今はそういう気分にはなれないのかも知れないけど。
あと君の考えと私の考えの違う点を一つ書きます。友だちは自分を弱い人間と自覚している人ほどつくるべきです。(でも自分と合わない人を友だちにしちゃダメだよ)傷のなめ合いをしていてはダメかも知れませんが、強い人間はそれこそ自分だけで生きていくこともできるでしょう。でも自分に能力がない人間が社会で生きていくときに友だちはものすごい武器になります。自分の精神を安定させる意味で。だから、「友達が居てもいい身分じゃない」のは君のような普通の公立校出の人ではなくて、親のスネで一生安泰のお坊ちゃまの様な人の方だと思う。
あとおまけ的なことというか、反則というか、そんな感じのこと。
君にとって受験は、「たかが受験、されど受験」だとする。(我ながら超身勝手な推測だな)これを「されど受験、だが、たかが受験」と順番を変えることのススメ。
今は差し迫っているから中々そうは思えないのは分かる。受験のシステムそのものがおかしいというのも負け犬の遠吠えになりやすいのも分かる。分かるけど、「たかが受験」は別の面からは正しい指摘でもあるということ。(例えば、私は大卒で、私の従兄は専門卒だけど、私の親には、従兄の方が人生幸せに生きられていると言われたりもする。幸せの形はそんなに単純なものじゃないという意味ね。)かつそう考える方が前向きになれるのだとしたら、そう考えた方が良いと思う。
えらそうに書いたけど、それは私も君ぐらいの年には似たようなことで悩んだし、精神的にも不安定になった。たぶん君より不真面目だったけどw。できないことを君ほど自分のせいにしなかった。環境のせいにした。
一般化は出来ないけど、高校出て数年くらいの年齢だったら、悩みが色々あるのは普通だと思うな。決していけない事じゃないし、自分を否定する必要はないと思う。
最近勉強のできる子はそれが理由でいじめられるってネタの文章がたくさん書かれてるけど、私は小学校の時の知能テストでIQ175って出て進学塾では小5の時に飛び級して小6受験クラスで授業を受けてて学校のテストは全教科100点以外取ったことがないどこから見ても「勉強のできる子」だったけど、特にそれが理由で虐められることはなかった。
良家の子女ばかりいるような私学にいたわけじゃなくて、むしろ暴力団員の子供とか結構いるような公立校。確かに浮いてはいたと思うけど、虐められるというよりは「宇宙人」扱いされてただけで、学級委員長も児童会長もやった。
自分に「勉強ができる」ことが優れてることだって意識がそんななくて、単に自分とは違うロジックでものを見ているらしい他の人たちの思考経路が知りたくて対人関係は常にそういうスタンスで臨んでた。こちらも周りを宇宙人扱いして溢れる知的好奇心で相互理解を試みようとしていた感じ。
入試の成績1番で入った中高一貫の進学校では虐めの対象になったけど、別に成績が理由ではなかった。小学校の頃近所に住んでた同級生が男ばかりだったのでそのノリで同級生の男とジャンプネタとかで盛り上がってたら「男に色目を使っている」とされて同級女子からハブにされた。机の中をゴミだらけにされたこともあるし、椅子の上に画鋲を置かれたこともある。体育等のペアでやらなきゃいけない体操とかでいつも余って先生と組むことになるのには閉口したけどそれ以外は特に困ることもなかったので勝手にしろって感じで毅然と振る舞ってたら事情を知らない人たちからは「周りの女子が畏れて距離を置いている」と受け取っていたようだ。
そんなわけであまりあのエントリーはぴんとこない。受け取り方とか対処の仕方とかの問題ではないのかなと思わないでもない。「口が立つ女」を嫌う男から個人的に敵視されることはあるけどあくまで個人間の問題で他の性質による気が合う気が合わないと同じようなものだと思っている。でもあんなに共感エントリーがついてるってことは、私の周りの環境がずっと特殊だったのかなあ。
誰かしらがいくら「決め付けるな」「そうとも言えない」と斜に構えたとしても、世間で”そういう空気”になってしまってることをたんたんと羅列してみます。
何か間違っているところがあれば指摘してください。
※↑「この意見は間違ってる!」というような指摘ではなく、「世間は”そういう空気”ではない」というものを指摘して欲しいという意味です。
では、はじめます。
※これらの”空気”を前提にふるまえば、正常な方の人と思ってもらえます。
http://anond.hatelabo.jp/20081107120312
おいおいちょっと待て。嘘言ってもらっちゃ困るよ。
まぁ、私立トップだとクラブとか禁止で勉強するらしいから、それに比べて平均値が低いのはしょうがないけど、トップの層の東大、京大、阪大に行ってる数とかがリアルに桁違い。
俺は灘だったんだけど、クラブ禁止なんて聞いたことないぞ。確かに運動部は高2の秋ぐらいに部活を引退することが多いんだが、それでも高3で試合に出たりする奴もいないわけじゃなかった。むしろそういう奴は周囲から一目置かれていたしな。それに、学校で受験指導らしい受験指導も受けたことがない。
そして、俺の知る限り、甲陽とか洛星とか東大寺とかそのへんの関西のトップ校はどこも似たような感じだったぜ?関東のトップ校のことは余りよく知らないけど、開成とか麻布とかの知り合いから部活禁止なんて話は聞いたこともない。
それに、進学実績も君が信じてるほど私立が図抜けてるわけじゃないぞ。兵庫県で言うと、長田高校や姫路西高校に進学実績で勝ってるのは灘と甲陽だけだ。そして、これらの学校は地域的に離れているので事実上住み分けができている。灘や甲陽は本質的には「西宮北高以上の進学校がない地域」の人間の避難所として機能しているだけで、別に受験に特化した学校というわけじゃない。
別に進学実績なんかどうでもいいんだが、「私立トップ校は受験少年院」みたいなデマを流すのは勘弁してほしいんだよね。そういうデマのせいで、「中高時代勉強しかしてなかったのか」みたいなうざい奴が続出して、正直かなり迷惑してるんだよね。
つーか、そんなことよりもっと気になるんだが、「偏差値30」とか「偏差値70」とか、「偏差値」を絶対的な指標みたいに使うのやめてくれ。
「偏差値」ってのは純粋に統計的な量にすぎないのであって、同じ学力でも母集団が変われば偏差値ってのは大きく変動する。早い話、「偏差値50」ってのは「平均点」っていう意味しかなくて、たとえばレベルの高い模試での「偏差値50」と、誰でも受けられる模試の「偏差値50」の学力はだいぶ違うはずだ。
「戦闘力」じゃないんだからさあ、「俺の偏差値は70だ」みたいな言い方はやめてもらえないかなあ。「偏差値」ってのは母集団が決まってないと全く意味のない数字なんだよね。
追記 ブクマの人へ
ということは、大阪にはそもそもトップレベルの中等教育(高校教育)のニーズはない。のか。/必要なら、兵庫、京都、奈良あたりに越境通学させるから。
そういう面もあるけど、実際問題として大阪のトップ公立校を蹴ってまで隣接府県に行くメリットはあまりないんだよね。私学トップ校と大阪の公立トップ校の差ってのは非常に微妙な差しかないので、入学時の平均学力がちょっとでも高い学生をかき集めることに意味があるかというとこれは一概に言えないからね。むしろ私学のメリットは高校受験の内申点を回避できることと、私服だったり部活が盛んだったりして校風が自由なところじゃないかな。後者は公立でも結構満たされてるけど。
日本一頭が良い私立女子高校 桜蔭学園 1学年生徒数250名 東大合格者59名 日本一頭が良い私立男子高校 灘高校 1学年生徒数216名 東大合格者114名 日本一頭が良い国立女子高校 お茶の水女子大学付属 1学年生徒数120名 東大合格者5名 日本一頭が良い国立男子高校 筑波大学付属駒場 1学年生徒数160名 東大合格者74名
データ出してくれるのはいいんだが
結論ありきでデータを見ると失敗するよ。
ほぼ記事タイトル通りの出来事があったので思わず匿名ダイアリー。
(厳密には、八木氏はかつてはつくる会の会長だったが、今はつくる会とは無関係)
書くの初めてなので、読み難ければ申し訳ない。
先に書いておきますと、私は公立校勤務です。
で、私が勤務する地域では、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書を採択しています。
この教育講演会(教職員一斉研修会)は、教委が主催したもので、基本的に地区内の全職員(学校事務職員も含む)が参加しました。
恥ずかしながら、誰だか知らなかったんですが。
開会前、もらったレジュメを読んでいると、最初に出てきたトピックが
“「不当な支配」の主体の転換”
という内容。
旧教育基本法の、
「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである(旧第十条)」
という規定が、
「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない(改正第十六条)」
と改められたことによって、服してはならない「不当な支配」の主体が、
before:政府の圧力
↓
after:日教組などの職員団体
と変化しており、政府首脳部からもそのような見解に立った発言が相次いでいる……という鋭い指摘。
私としては、
「なるほどそうか……。これは大変だな」
と思ったわけなのですが、その先を読んだら
「……なんか違う?」
なにしろ、いざ講演が始まったら、この
「政府=正当な支配」
「職員組合=不当な支配」
という立場を全面的に賞賛する論調でして。
日教組に参加してる職員が1%切ってる本地区でそんなこと言われてもな……。
(うちの地元には、「教職員協議会」という、日教組とは別の組織があり、これが97%の組織率を誇っています。
方針としては、行政との対話路線。
私もそっちに入っています。
新採の時、勧誘パンフが送られてきて。
「教え子を戦場に送るな!」
って書いてある。
言いたいことはわかるがちょっと引いた。)
内容は、なんというか、ツッコミどころ満載だったんですが、まず特に違和感を感じた点。
講演の中で、エルトゥルル号の遭難とか、有名な“美談”がいくつも紹介されるわけですが、その中に真岡郵便電信局事件の話も出てきました。
第二次大戦末期、樺太にソ連軍が攻め寄せてきた時、最後まで電話交換所に残った女性達が、青酸カリを飲んで自決した事件です。
事件名とか知らなくても、
「みなさん、これが最後です。さようなら……さようなら……」
とかいう台詞は聞いたことある人は多いのでは。
とか褒め称えるわけです。
このエピソードを教育にどう生かせと?
「彼女たちの行動こそ、日本人の鑑、責任に殉じる素晴らしい態度である。
お前達も、もし同じような状況に置かれたら……」
置かれたら?
自分の子どもになんと教えて欲しいかは、人によるかも知れませんが。
私としては、子どもたちには
「なんとしても生き残れ。命を大事にしろ」
……って、教えるべきなんじゃないかと思ったり。
ちなみに、八木氏は全然触れなかったことですけど、その時当直だった女性交換手は、全部で12人いたんです。
で、死ななかった3人は、最初は押し入れとかに隠れててですね。
そのままソ連統治下で職員として再雇用され、日本にも無事に帰ってくるんですけど。
彼女ら3人は、「責任に殉じ」て死ななかった駄目な日本人なんでしょうかね?
少なくとも、八木氏の言う
「ソ連軍は、刑務所から出てきたゴロツキみたいなのを最前線の兵士として送り込むわけですよ。だから、女性は陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです」
……というのは、この場合は事実に即してないと思います。
……まあ、ソ連軍がひどかったのはわりとかなり事実だと思うんですけど。
「沖縄というのは、長らく琉球王国という日本とは違う国で、その後は島津の統治下になり、近代化されたのが他の地域よりも遅れた土地なんです。
だからこそ、日本人的であろう、という責任感が逆に強くなって、それでああいう事件が起きたのではないかと思います」
という、目の覚めるような主張を展開します。
なんで目が覚めるかというと、すごいアクロバットだから。論理の。
危険なのでよい子はまねしないでください。
もし沖縄県民があの場にいたらかなり血圧が上がったんじゃないか、と思うんですが、あれはたぶん、戦わずして論敵を脳溢血で葬ろうという高度な戦術なんだと思います。
危険なのでよい子はまねしないでください。
ていうか、「集団自決」と「責任感」がどうつながるのかそもそも良くわからんのですが。
なんか、とにかく死ねば責任感がある、みたいな話で、日本文化の奥深さを感じました。
「命どぅ宝」のお婆さんは、やっぱり駄目な日本人なんじゃろうかね。
近代化が遅れた地域だからな。
あとまあ全般に言いたいことは山ほどあるんですが、重箱の隅つつきは後回しにします。
とにかく、こういう歴史観のリビジョンを促すような講演会に、公務として参加させられるのが、本地区の実態なわけですね。
開会が14:00でしたから、どの学校も特別日課で対応したと思います。
本校でも、当日は授業を午前中で切り上げて参加したわけですよ。
もちろん、講演聞いてる間にも給料が出てます。勤務時間内ですから。
内容に疑問を感じたのは何も私だけではなくて、翌日の職員室では批判大会。
「終わった後、あの先生と偉い人達とで飲み会があったらしいから、八木先生は急いでいたわけじゃないらしい。なのに質疑応答の時間を設けなかったのは、意図的なものに違いない」
……ええーっとですね。
つまり、「つくる会」の教科書を採用した地域の学校だからといって、教員が唯々諾々と「つくる会」史観に染まるわけではない、ということですよ。
このことは、左右どちらの論者にも覚えておいて欲しい、と思います。
我々はロボットではない。
その一存で採択が決まったようなもので。
しかし、「つくる会」教科書を採択した、というだけで、かなり外部からの批判にもさらされてるし、学校現場にも不満があるのが実態です。
なので、教育委員会の方針に疑問を持っている教員を「啓蒙」しよう、というのが、この講演会の趣旨だったんだと思います。
くらいのこと、10分もかけずにわかっちゃうわけですよ。
授業で、“公共心ある日本人”の美談を得々と語って聞かせたら、生徒から史実に基づいたツッコミが入る可能性くらい容易に予想されるじゃないですか?
そういう意味では、都合のいいことだけ書いた教科書というのは、発行する側は気分がいいかもしれないけど、現場の人間にとっては迷惑そのものなわけですよ。
……ああ、そうか、授業で質問の時間を設けなきゃいいわけですね。
率先垂範を地で行っておられる。
で、その他、「作る会」教科書を使ってると高校受験に対応できないとかいう現場の苦悩をよそに、首長とか教育長とか、講演会場の最前列に座っていてですね。
で、講演会が終わった時なんか、立ち上がって喝采してるわけです。
スタンディングオベーションかよ偉い人。
とりあえず絶望した。
現場がなんとかしないとならん。
以下、こまごまとしたこと。
八木氏は、聴衆に「日本の建国はいつか?」と問うて、「それは西暦600から700年前後である」とします。
なぜなら、「日本」という国号が成立し、「公」の意識が誕生したのがその時代だからだ、というのです。
ちなみに、ここで言う「公の意識」とは、天皇を中心とした中央集権体制の確立のことを指します。
天皇は独裁者ではなく、「国家の公的統治を究極において体現すべき地位」だというのですね。
八木氏は、「皇室はニッチ産業」だ、という、寛仁親王の言葉を引用します。
「政府や行政の足りないところを補う。それが、皇室の果たす役割なんです」
「このような皇室の在り方は、古代からずっとそうだったわけです」
いや……そうなの?
「平安時代、貴族は贅沢な生活をしていた一方、庶民は貧しく、奴婢は売買の対象だった」
……とかいう記述を「闘争的だ」と評します。
これらが、マルクスの階級闘争史観に子どもたちを導くものだ、というのです。
君の教科書もまっ赤っか! これはレッドベアーの陰謀だ! 愛國戦隊を呼べ!
……別に教科書の記述は、富裕層の打倒とかを呼びかけるものじゃないし、そもそも平安朝だって、階級闘争によって打倒されたわけじゃないんですが。
なんでマルクス?
明治維新を含めて、日本には「階級闘争」とか「市民革命」とかいうものはないんじゃないですかね。古い見解でしょうか?
「明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった」(「新しい歴史教科書」。レジュメの孫引き)
そんなに昔から日本人の自覚とか公共の意識とかがあったなら、もう少し早く戦国時代が終わりそうなものですが。
武田信玄「こうして同じ日本人同士が争っていても仕方がないじゃないか!」
上杉謙信「そうだとも! 天皇陛下の元にはせ参じ、一つの国を作ろう!」
……みたいに。
八木氏によると、現在の学校教育では、歴史教育で闘争的姿勢を学び、公民教育で具体的な闘争目標を与えられている、というのです。
「公民教科書には、夫婦別姓など、まだ法的に定められてもいないトピックが取り上げられている」
とかいうのが「闘争目標の提示」だと。
……ずいぶんせこいマルクス主義ですね。
仮に、八木氏の言うとおり、飛鳥時代や平安時代がそんなに素晴らしい時代だったとしたら、逆に言って、日本社会は1400年の長きにわたって大して進歩していないことになるんですが、それでいいんでしょうか。
奴婢の話とかって、私は
「私たちの社会は、昔より良くなっているのです」
って趣旨の話だと理解していたんですが。
「人類の歴史は進歩と改良の歴史なのです。私たちも、もっともっと素晴らしい世の中を作っていきましょう。明日が今日より良い日であるように」
的な。
八木氏に言わせるとこれも「闘争的」なのかも知れませんが。
私としては、貴族と平民に大きな差があったとか、事実なんだから仕方ないんじゃないか、と思うんですがどうでしょう。
都合の悪い歴史的事実は教えない、という態度の方が、むしろ我が国を危機に追いやる気がします。
それこそ、遺伝学におけるソビエトのルイセンコ学説みたいに、学問をイデオロギーに従わせようとした挙げ句、研究開発で西側に後れを取るような。
まあ、「歴史は科学ではない」が、「つくる会」の立場なんだそうですが。
でも、望ましい思想を注入するために、歴史的事実の方を改変する、っていうのは、それこそ共産国の十八番なんじゃ。
基本的に「公共の意識」だけで日本の歴史・文化を語ろう、というのは、無理だと思うんです。
「恥の意識」とか「武士道」とかと同様、一言で語りきれるほど、日本人の精神というのは浅薄なものじゃないんじゃないでしょうか。
そもそも、「公共の意識」が飛鳥時代から日本にあった、という主張自体いかがなものか。
確かに「公」という漢字自体は大昔からありますが、古文に出てくる、「公家」とかいうときの「公」と、「public」の訳語としての「公」を同一視するのは誤りだと思うんですが。
八木氏は、「公共」の意識が近代になって成立した、というのは誤りで、日本人の日本人としての自覚はずっと以前から存在した、と言うんですが、それは逆に言って、国民国家建設のために尽力した明治の人々を愚弄するものではないでしょうか。
ちなみに八木氏は、中教審が、縄文時代の記述を重視するよう議論しているのに不満を表明しています。
から、というわけですが、これは循環論法ではないですかね。
逆に、明治憲法や現行憲法の発布、あるいは江戸幕府なり鎌倉幕府なりを「日本」の成立、と見なす立場だってあり得るわけで。
縄文人だって一生懸命に生きていたのだし、彼らが苦労して稲作技術を会得していったからこそ、現代の日本があるわけで。
「縄文人は日本人じゃない」という言いぐさは、縄文人に失礼だと思いますが。
八木氏は、チェスタトンの「伝統とは選挙権の時間的拡大」「死者には墓石で投票してもらわねばならない」なんかを引用して、伝統の大切さ、先祖の意思を尊ぶべきことを訴えるわけですが、縄文人は先祖じゃないらしいです。
……天孫降臨?
ちなみに、八木氏が引用した中には、相田みつをの「自分の番 いのちのバトン」とかまで含まれるんですが、相田さんってそういう主義の人だったのか。
ところで、八木氏は「死者の民主主義」(チェスタトン)がお気に入りのようですが、私はむしろ、「地球は子孫からの預かり物」(ケニアのことわざ)の方が好きです。
死んだ世代の意思よりも、次の世代の幸せの方が重要だ、と、私は信じます(これでも学校関係者のはしくれですから)。
……ケニアのことわざの割に「地球」とか、かなり超訳の気配ですが。
八木氏、「屋久島の灯台守り」という、これまた美談を紹介してくれたんですが。
「顔は土気色」を「どきいろ」ってあんた。
自分で持ち込んだ資料が正しく読めないって、早稲田大学法学部卒が泣くぞ。
日本の文化がどうとか言う前に、八木氏はまず日本語くらいちゃんと読めるようにすべきだと思います。
なんかあれこれコメントをもらってるようなのでここへ部分的に返信。
>教育委員会主催の講演会とかに行って何かを得たことがあるの?
ありますよ。
まあ、教育関係者の講演、というのは、聞いてすぐに教室で使える内容が多い一方、似たような話も多い……というか、教育界の通念を上手にまとめただけの、刺激に乏しい講演も多い、とは思います。
……ちょっと今回は刺激的すぎましたが。
>その場でぶつけてくれたら面白かったのに。
まあ、チキンなので。
偉い人が「つくる会」支持者で、しかも同席してるわけですから。
そこでこれだけのことを言ってしまうと、後々どんな処遇を受けることか。
それはもう、陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです。(流言)
それに、ここに書いた内容は、これでも推敲した内容です。
これをとっさに思いつける程度には賢くありたいのですが。
っていうか、偉そうなことを書いておいて恥ずかしいのですが、「女性交換手が12人いた」ということもその時は知らず、家に帰って調べてわかった次第。
でも、何か質問はしてやろう、とは思っていて、講演の間中必死で考えていたのも事実。
「古代以来、皇室はニッチ産業としての役割を果たしてきた、とのお話でしたが、私、不勉強でそういったことを存じませんでした。
そこで、例えば平安時代の朝廷が、そういった役割を果たしていた、という実例を2・3ご教示願えるとありがたいのですが……」
くらいのことを聞いてみよう、と思っていたのですが、本文で書いたとおり、質疑応答の時間がなかったので不発に終わりました。
>自分のはてなダイアリーで書いたら?
少しでも匿名性の高いところで、と思ったのです。
何か使い方として問題がありましたら申し訳ない。
(ていうか、そもそもこの内容自体トラックバックで返すべきなのかも知れませんが、匿名ダイアリーに慣れてないので、返信があちこちにばらけるのが落ち着かないのです。なんでコメント欄がないんだろう)
こんなにブックマークをもらうとは思ってなかったのでちょっと動揺しています。
偉い人にばれたらどうしよう。
>「教職員協議会」つーのは要するに「全日教http://www.ntfj.net/tanidantai/」系団体だよね。共産党系の。
右寄りではないかも知れませんが共産党系とも思ってなかったのですが。「美しい日本人」がどうとかこうとか。どうなんでしょうか。
会員でありながら組織の背後関係とかは知らないのです、申し訳ないです。(でもたぶんみんなそう)
>教師という連中が本当に馬鹿ばっかりでイデオロギーの固まりだということが良くわかった。
ククク、その通り。だが、気付くのが遅すぎたようダな……(ロシア訛り)
今や日本の教育は、我がレッドベアーの(不当な)支配下にあル!
あと10年もすれば、この国はコミンテルンの軍門に降るだろウ……!(遅すぎる)
>大学になるまで歴史教えるのやめちゃえば?自分で判断して学ぶまで教師の馬鹿どもから余計なノイズを入れないで欲しい
難しいところですね。
おっしゃるとおり、批判精神の薄い子どもに、イデオロギー教育をするのは禁忌だと思います。
その一方で、基本的な歴史知識は、全国民が持っているべき教養だとも思うのです。
そして、大学は専門教育の場であるべきで、そういうことに時間を費やすべきではないと考えます。
だから、結局は義務教育に基礎的な歴史教育を盛り込まざるを得ないのではないかと。
その内容としては、重要な歴史的事実を教えるにとどめ、それをどう解釈するか、という思想的側面は、個々人に任されるべきだと思います。
……もっとも、「歴史的事実」というのは現実にはほとんど無限に存在するわけで、その中から何を「重要」として採り上げるかに、思想的問題が絡んで来ざるを得ないのも事実ですが。
エルトゥールル号を採り上げて奴婢は省くのか、その逆をやるのか。
でも、できる限り中立であろうとする姿勢は必要だと思います。