はてなキーワード: 三段論法とは
三段論法は「大前提」、「小前提」、とそれから導かれる「帰結」の3つから出来ています。
大前提、小前提はそれぞれ含意を含む文です。
含意とは
「AならばB」
と言った文(命題)です。(この「ならば」も自然言語のならばとは意味が異なります。気になる人は「実質含意」で調べてください)
上の例だとAを前提(仮定)とよび、Bを帰結(結論)などと呼びます。
三段論法においては、
「大前提」:BならばC
「小前提」:AならばB
「帰結」:AならばC
こうして、「大前提」と「小前提」から「帰結」を導くものです。
◯例
もちろん三段論法が成り立つためには、
「AとBが成り立つ事」、「AならばBが成り立つ事」
「Cが成り立つ事」、「BならばCが成り立つ事」
のすべてが成り立っている必要があります。
上の場合大前提の(全ての)はポイントでこれが数人ならとかなら成り立つとは限りません。(これもちょっと考えればわかることですね)
東大数学博士に学ぶ数学世界 - 「数学は方法である」をめぐる談義
http://t.hash.bz/archives/2526249.html
読んで違和感を感じたことをいくつか。
身内にばれるのがいやなので、ここで書く。
「数学」に対しては、見る立場によっていろんな見方ができる。
数学という方法を使うと世の中はうまく理解でき、予測ができる。
このあたりの問題は数学をいくら勉強しても分かるようになるわけではなく、
どちらかと言えば科学哲学の分野。
議論を始める前に、科学とは何かという基礎知識が必要だと思う。
などがある。
例えば、科学と聞いて原子爆弾や原子力発電所、パソコンやテレビ、蛍光灯などを思い浮かべる人もあると思う。
iPhoneを見て「科学ってすごい」と思ったりするかも知れない。
これは科学という言葉が製品そのものを指したり、それを作るための技術を指したりする場合。
それがなぜなのかは誰も分からない。
一時期、「科学技術」か「科学・技術」かでもめたことがあった。
今もそうなのかもしれないけれど。
科学にそれらの「技術だけ」を求めている人にとっては、「科学=技術」なのかもしれない。
いや、「科学の目的は技術ではない」と言っても良いと個人的には思う。
技術屋さんは科学を利用しているのであって科学を学んだり研究しているのではない。
いろんな意見があるかもしれないが、ここではいわゆる「理論」を作ることとしておこう。
では「理論」とは何か。
それは「現象を理解する方法」である。
その理論を使えば、どれくらいの早さで落ちるかという予測ができるようになる。
それだけではなく、「りんごと地球がひきあっていると考えれば理解しやすい」ということも分かる。
理論がなければ「りんごが地球を引っ張る」という発想は生まれにくいだろう。
そのような新しい見方ができるようになる。
繰り返すが、それは正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。
では、どうしたら自然に現象を理解できるか、ということが問題になるだろう。
それらの方法を指して科学と呼ぶこともある。
このようなことを繰り返しているうちに、理論には一つのパターンが現れていることに気がつく。
「宇宙は数学の言葉で書かれている」と言った人があるらしいが、
ここでは、証明とは何か、公理、定義、定理の違い、などについて説明する。
証明とは何だろうか?
平たい言葉で言えば「間違いないと確信できる証拠」ということだろう。
例えば「彼女が浮気していた証明」など、その人は「確信」するかもしれないが、
本当にそうかどうかは究極の所分からないだろう。
そこにはいくつかの危うさがはらんでいる。
何かを証明したいのは、正しいかどうかがハッキリしないからだろう。
そこで、正しいことから「論理」を使ってそれが導ければ正しいと確信できるだろう。
では、何を持って「正しい」とすれば良いのか。
場合によっては「私が正しいと思えればそれでいい」かもしれない。
そこで、数学では「最初にこれを正しいと仮定しましょう」とする。
そしてその公理から「論理」を使って導かれたものが定理である。
時々「公理が正しければそこから導かれた定理は正しい」と言ったりするが、
厳密に言えば「公理が正しく、論理も正しければ、そこから導かれた定理は正しい」となるだろう。
しかし、そうやって考えている論理は正しいのか?という疑問も起きる。
そこで、最初に正しいとこれはしましょうというできるだけ公理を定める。
こうして、導かれた定理がどれだけ信じられるかは、
数学とはこういう形をしている。
そうすると、科学理論もそういう形をしているということである。
現象を理解するために、何か仮定を置く。
「その仮定」も「数学」もきっと正しいだろうと信じられるわけだ。
数学という学問は理論の中からそのような「仮定」「実験」「予測」を取り去ったものだ。
時々、数学者は全く役に立たないことをやっていると言われることがあるが、
それを使う人が「役に立たせる」だけのことである。
ブログの記事に戻ろう。
上で書いたような「仮定」「公理」の部分でつまづいているのだろう。
つまり普通の感覚で言えば、「数学」というものを使って理論を組み立てようとは思わない。
しかし、様々な理論に共通に現れているため、その部分を抜き出し、洗練させてきたのが数学だから、
それを使う人にとっては、数学を利用することはある意味ではとても不自然なことになってしまう。
僕の周りの数学者はこれらにとても慣れているので、
この時、僕はベクトルの使われ方、柔軟性に驚いた。
要するに、対称が何であろうとも「ベクトル」にしてしまえば後は「ベクトル」を扱う数学の世界のルールで加工することができて、
「数学は役に立たない」とか言っている人の理解もそうなのかもしれない。
科学が強力な力を持っているように、数学は科学理論の中で強力な武器である。
この重要性はもっと声を大にして叫ぶべきなのかも知れない。
確かに数学についてある程度理解していて、それを客観的に見られるだけの余裕がないと、
ふむ、これを、どうしたら伝えられるのだろうか?
しかし、いくつかの誤解もあるようだ。
公理はその内部で論理的に矛盾していなければ(たぶん)どのようなものを定めてもよく、一緒に使われない複数の公理が相互に矛盾することもふつーにあり得る。
しかし、そこから導かれた定理およびその解釈が、現実の予測に合わないのであれば意味がない。
数学そのものの正しさは誰も疑わないだろう。
ならば、もし予測に合わないのであれば、その最初の決めごとが不適切であったということになる。
ここで「なぜ」と問うことは意味がない。
逆に言えば「そうするとうまくいくことを示す」必要がある。
もう少し厳密に考えてみよう。
例えば万有引力の法則では各惑星は質量はあるが大きさはない質点と見なす。
「どうして?」と問われれば「そうするとうまく行くから」というのは一つの答えだ。
しかしもう少し言えば、
「そう仮定しないと計算が難しすぎる。そう仮定すると計算が簡単になる。
そしてその仮定した結果でもそれなりに精度の良い予測ができる。
ならば現実問題としてはそのように仮定するのは許されるのではないか。」
ということだ。
「数学」を知らないと、この「数学からの要求」があることが理解できない。
そして、その個々の必殺技はかなり用途が限定される場合が多い。
それは「科学」を学んだ人とそうでない人の違いのようなものだ。
元増田。あー…なるほどね。
論を張るときってのは、
AはBである。
BはCである。
よってAはCである。
って進めるのが基本なわけよ。
うん、論理はそうなっているが、これって、要するにCが結論でAやBが理由だろ?卒論では、「結論を先に書く」、つまり、「Cである。その理由は、A→B→Cだからである。Aが言えることはxxから分かる」っていう書き方をしろ、と習ったよ。だから、どの段落も、なるべくCを一番最初に書いているつもり。
この三段論法でA→Cを帰結するというのが、1つの「論理操作」(論理演算、といった方が分かりやすかったか)だと思っている。そして、「時間あたりの論理操作能力」というのは、基本的には「時間あたりに演算できる回数」と同じような意味で使っている。じゃぁ、なんで「論理演算」と書かなかったかというと、無意味な結論Cをいくらたくさん帰結しても、それは能力が高いとは言わないからだよ。Aが与えられたときに、有意義な結論Cと、そこに至る道筋Bを即興で組み立てることのできる能力を「論理操作能力」という言葉で刺したつもり。「操作」は、英語だとoperationの意味で使っている。一回の操作が"an operation"、複数の操作が"operations"。
だいたい、「頭の回転が速い」って置き換えれるなら、
「頭の回転が速いヤツとは議論するな」でいいじゃん。
「頭の回転が速い」は曖昧だから、単に「頭の回転が速い」っていう言葉を使ったら、それぞれの読み手が勝手な想像で「頭の回転が速い」っていうのを想像するだろ。俺の考える「頭の回転が速い」と、お前の考える「頭の回転が速い」は違うだろ。定義を追記で与えたのは悪かったが、どうやら、単に「頭の回転の早い」よりも厳密な概念を伝えようとしているようだ、ということはお前にも伝わっただろ。
はいはい、三段論法批判を書いたものですよ。
はい、その通りです。
極論を言うなら、本来は禁止しないで危険性をちゃんと教育すべきであると考えます。
しかし、日常的に高校生がたばこを吸う光景はよく見かけますし、大学生が一気飲みなどで死ぬケースもよくあります。
法律で縛ったところで、100%の禁止はなかなか難しいものです。
若年層には○×を禁止するという施策は有効性を持たないことは、まさにこの酒タバコの例が証明してくれるかと思います。
例えば、18歳未満セックス禁止という法を制定したとして、何が起きるか考えてみましょう。
酒タバコは入手ルートを絶つことである程度禁止できますが、セックスはどこでも出来ます。性欲は禁止されても消え去りませんので、結局今のようにやりまくるでしょう。
しかし、18歳未満はコンドームの入手ルートも絶たれています。禁止されてますから。
結果、望まない妊娠と性感染症が未成年に蔓延することになります。へたすりゃ、今よりも酷くね。
というわけで、未成年者を守るためには、それが当たり前に存在することを前提に、教育をしっかり施すことであるという結論に返ります。
しかしまあ、なんでみんな教育は嫌がるんでしょうね。
元の三段論法批判を書いたものです。
議論にのってくれてありがとう。
そんな馬鹿なこと、あるのかな。
100%に避妊ができないように、100%無事故の運転はできません。
避妊を必ずすべきであると教育し、避妊具を配布したとして、中学生が妊娠する確率は自転車に乗って事故を起こす確率とどっこいどっこいでしょう。
問題は、避妊を正しくすべきであるという性教育を行えないことにあるとは、なぜ思わないんでしょう。
私は石原慎太郎的純潔教育には反対するものですが、それは彼らが性教育を否定する立場に立っているからです。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B7%E9%B6%B5%B0%E9
ジェンダーフリー反対で有名になった「七生養護学校事件」のケースを参考にしてください。詳しく書きたいけど眠いのでごめん。
「やるな」と教育したって、やるやつはやるよ。だって性欲あるもん。
それより、なんで安易なセックスは危険なのか、なんで避妊は大事なのか、それを教えた方が効果はあります。
私の知っている限り、13歳にセックスさせるべきというフェミはいません。
13歳もセックスする可能性を考えて教育すべきというフェミならいると思いますが。
そのあたり、フェミへの偏見から違うものを見てはいませんか?
「男は全てケモノである」
「ケモノは排除すべきである」
「よって、ケモノたる男は全て排除すべきである」
という三段論法に対する反論として、
「男は全てケモノではない」「ケモノは排除すべきであるとは限らない」という、ケモノではない男の反論は聞いてもらえないのだろうか。
あと、性的トラブルに対しては、男だって自衛してる。だから、女だけに自衛を要求されるのは差別だ、という議論はおかしい。
男や国にだってもちろん自衛しない権利がある。けれど普通は、自衛しなかったが故の結果に対しては、それを選んだ者が責任を負う。
たしかに、そこで女や相手国を排除しろとか虐げられたとか権利侵害だとか言う奴も居るには居るけど、それは変だろというのが一般的な感覚だと思うんだけどな。
遅くなりました。
これなんですが、論理学ではそこそこメジャーな三段論法的はこんなかんじ
「全称肯定判断」で構成するとこうなります。
大前提:すべての人間は死すべきものである。(M-P:すべてのMはPである)
小前提:ソクラテスは人間である。(S-M:すべてのSはMである)
結論: ゆえにソクラテスは死すべきものである。(S-P:すべてのSはPである)
この例で言えば、全ての人間は死すべきものである、というのは、現状で例外なく観測される事実です。
(これにも、現状で観測されているだけの事実に過ぎないとの意見もありますが)
また、ターミネータの世界でもない限り、自分は人間である、はアプリオリとしてよいでしょう。
それにあわせると
大前提:すべての特別な人間には特別な寛容が与えられる(M-P:すべてのMはPである)
小前提:自分は特別な人間である(S-M:すべてのSはMである)
結論:ゆえに自分には、特別な寛容が与えられる(S-P:すべてのSはPである)
となると思います。
こんばんは。修習生増田です。
極楽のような二連休から、一気に地獄に突き落とされる1週間が始まります。
まあ任官志望者以外はそこまで根詰めない人も多いでしょうけど。
今、僕たちは主に事実認定というものを学んでいます。
あれ?法律じゃないの?と思われたかも知れません。
しかし、法律を適用するには、まず事実を確定しなければなりません。
事実に法律を適用することによって、法律の条文に書いてある効果が発生するのです。これを法的三段論法と言います。
ですが、実務、特に裁判では、様々な証拠から事実を確定していくという作業を行っていきます。
つまり、裁判官にならない法曹でも、どのような証拠を提出して裁判官を説得するか、そういう意味で事実認定というのが重要になってきます。
では、事実認定というのはどのように行うのでしょうか。
民事裁判でも刑事裁判でも、自由心証主義といって、裁判官が証拠に基づいて自由に判断していいのが原則です。
もっとも、自由を謳ってはいても、完全に自由であることを許容するものではなく、経験則と論理法則に基づいた合理的な判断が要求されます。
これに従わない判決は、上訴で破棄されます。
たとえば、売買契約を結んだのなら、売買契約書を交わすだろうという経験則があります。
ならば、証拠として売買契約書が提出されたのなら、売買契約を結んだであろうことが推定できます。
これはあくまで経験則ですから、例外的事情があれば、いくらでも覆ります。
売買契約の例では、コンビニでモノを買うときには売買契約書なんていちいち作りません。
税金対策のために、売買していないのに、売買契約書を作ることがあります。
なので、売買契約なんてなかったんだと主張する当事者は、たとえばこのような主張をして頑張ることになります。
長文になりそうなので、今日はここまでにしておきます。
1.全てのコミュニケーション・サービス(BBS、チャット)は人数が多いと荒れるものである。
2.休日は人数が多い
4.しかし、匿名掲示板と、顕名掲示板では、匿名掲示板のみがあれる
5.よって、1→2→3の三段論法だけでは、現実を説明しきれない。
という前提でよければ、ここまでは同意
ここから先の仮説
仮説A:実は大人も一緒になってあらしているので、匿名掲示板だけ荒れる
はなぜ、この仮説がでてくるかがよくわからん。
たとえば、
予想される反論:じゃあ、顕名掲示板でも、大人が一緒になって荒らしてもいいはずでは?
という反論にどう対応するね。