強くなるぞ...
次に引っ越すとしたら銭湯とパン屋さんが近くにあるところがいい。
街中へのアクセスは悪くないから不便はないけど、車を買う予定も貯金もないので徒歩圏内を充実させたい。
仕事帰りに銭湯でゆっくり浸かって帰ったりしたい。サウナと水風呂往復したい。フルーツ牛乳飲みたい。休みの日に焼きたての食パンとかフランスパンとか買いにいきたい。お高いバターつけて、カフェオレと一緒に食べたい。おしゃれなブログで見るなんとかサラダみたいの添えたい。
若いときは日常は消化するだけのもので予定のある週末に向けての待機時間だったけど、最近はこう丁寧な暮らし的なものに憧れる…
生意気にも歳をとったと感じる時がある。
私たちがもっと若い時から憧れていた人が移ろいゆくのは、はかない。
あの時と同じでいられなくなっていく人たちに落胆せずにいられるだろうか。
彼女たちを思い出などではなく、今ここの体験として好きでいたい。
若くなくともその人のこれまでの歩みや美しさを感じていられるようになりたい。
1度うつ病になってしまったら最後、この先の人生ほぼまともには生きられないと思った方がいい。
かねてからうつ病は現代病と言われ続けた結果、数十年前よりも病気として認知されつつある。
病気として認知されてきた結果、国にはうつ病患者をサポートする制度ができた。
うつ病患者を専門とする精神科医も多く出来た。うつに効く薬も年々良くなっている。
企業もうつ病患者に対する休職制度や復職体制も整えられつつある。
いくら世間に認知されようが、いくら制度があろうが、結局建前でしかないのだ。
企業から見れば、うつ病に対する制度がいくらあったところで、金を稼げない人間をずっと飼っておく余裕はあるだろうか?
たとえ復職できたとしても、休職前より金を稼げず、いつまた潰れるかわからない人間を世話していくほど体力はあるだろうか?
そういう人間に休職前と同じだけの金を払い続けたいと、果たして企業は考えるだろうか?
結局企業は金が全てだ。置いておくだけで赤字になるような金にならない人間を人情で構ってくれるほど企業は暇ではない。
制度や医療に助けを求めるとしても、それらは本当に面倒を見続けてくれるという保障はあるのか?
だがその手のものを利用できるのはある程度の金と立場が必要だ。
そもそも立場が弱く金も無い人間にはそういう制度すら受けられない。
制度自体も永遠に使える物ではない。制度を利用できる期限は決まっているし、制度自体が打ち切りになる可能性もあり得る。
精神科医も金が払えなければそれまでだ。いくら助けて欲しかったとしても、金がなければ助けてくれない。
残念ながら社会はそうできている。
他の人間が助けてくれるかもしれない、そう考えるのは自由だが、果たしてそういう人間はいるだろうか?
家族なら話は多少は別だが、いつまでも無気力である人間を、人を信頼できなくなっている人間を、簡単に癇癪を起こす人間を、助けられているという意識だけで拒否感を起こす人間を、数ヶ月、数年、あるいは数十年単位で支えてくれる人間は本当にいるだろうか?
うつ病患者をサポートしたい、そういう人情味にあふれた財力もある人間も中にはいるだろう。
ただそういう人間がどれぐらいいる?砂の中から針を探すようなものだ、そういう希望にすがるのはあきらめたほうがいい。
この現代社会においてうつ病になるということは、社会不適合者の烙印を押されるのと同義だ。
社会はうつ病患者に対して寛容ではないようにできている。うつ病になったらその時点で負け組なのだ。
もう2度とうつ病になる前のように仕事はできない。もう2度とうつ病になる前のように金は稼げない。それを認めろ。
どうあがいても世界はそうできている。
この文章を見て憤りを覚えた休職中の貴方、怒れる元気があるうちに転職先を探した方がいい。復職するよりそれが現実的だ。
この文章を見て絶望を覚えた休職中の貴方、その思いを抱えたまま今すぐ布団に潜れ。そして目が覚めたら世界が変わっていることを祈りながら寝ろ。
全てが嫌になる