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2022-01-29

ヒトラーに例える論証に機械的にゴドウィンの法則を以て論難する不毛

――ヒトラー金融緩和を行っていた。金融緩和を行う日銀ナチスと同じだ。

――男女平等共産主義者が言い始めた。男女平等を掲げる政治家共産主義者だ。

――戦中日本は優良多子家庭を奨励していた。少子化対策戦時体制回帰している徴だ。

 これらが全体的に例証として荒唐無稽なのは言うまでもないでしょう。これは特定の主張と同じ主張をしている別のグループを持ってきて「お前は〇〇だ」と対人論証を行うもので、「連座誤謬」や「関連付けの誤謬」と呼ばれています。その中でも国際的にも有無を言わさず巨悪とされるナチスは何かを批判する際に引き合いに出されることが多く、些末な共通点だけで同一視するような詭弁蔓延ったため特にヒトラーに例える論証」と特別名前がついているわけです。本来ヒトラーに例える論証とはそういうものでした。なおこれは論証として不成立であることを批判するもので、侮辱か否かとは少しまた別のレイヤー議論であることを留意しなければなりません。

 そしてヒトラーが持ち出されることが多いのを皮肉ったのが「ゴドウィンの法則」です。議論中にこうなったら大抵建設的でないレッテル貼りになりがちですよね。

 しかしつくづく思うのですが、ナチス関連の例えを出した時に”機械的”にゴドウィンの法則を持ち出して論難し始めるのはどうなんでしょうか。元来、「誤謬」に名前を付け「法則」という諧謔を作ったのは非論理的議論を排し建設的な議論を行うための道しるべを示すためではないのでしょうか。相手の失点を指摘することで点数を稼ぐゲームを行うためのルールなのであれば私の不見識ですが、そういうものではないですよね?現代人が好きな”建設的”な議論をしたいのであれば、紋切り型に言うのではなく相手の論証が不十分である根拠を滔々と説く必要があります。そうすると必然的根拠を示すだけで議論は成立するので特段誤謬法則名前を持ち出す必要も無いものです。

 そもそものところ、ヒトラーを出した即ち誤謬詭弁とするのはあまり乱暴ではないでしょうか。いや菅直人元首相の発言連座誤謬に該当しないと言うつもりはありません。連座誤謬だと言い切れる自信も自分にはありませんが…。例えばナチスが抱えていた論理的誤謬と同じ誤謬を抱えていると指摘しそれが危険帰結を導出しかねないと論証できれば連座誤謬とまでは言えないのではないですか。話を変えて最初に挙げた例に移れば、少子化政策として子供が多い家庭を表彰するという話が出たら戦中の優良多子家庭表彰政策を持ち出し問題点を指摘する程度であれば連座誤謬とは言えないでしょう。もしくは少子化対策に前のめりになるあまり子供が多い家庭を理想モデルにすることの危険性に注意を促す程度に留まれ個人的には問題無いようにも思います

 こうした区別判断は「ヒトラーに例える論証」とか「ゴドウィンの法則」とか言って即座に議論を終わらせるのではなく丁寧に反証をしようとすれば、相手の主張が誤謬と言えるものかどうかが見えてきてできるものではないでしょうか。ヒトラーと言うだけで機械的にゴドウィンの法則に該当してお仕舞世界よりは判断基準が主観的曖昧になります議論とはそういうものではないでしょうか。もちろんそんなに労力をかけられないという意見は分かるのですけれども。

 正直なところ、ナチスに関連できることを見つけてすぐヒトラーだと言い出す人とナチス関連の話を持ち出したのを見てすぐゴドウィンの法則だと言い出す人の思考回路は同じようなものじゃないですかね。

ゴドウィンも他人ナチス呼ばわりするぞ

 と匿名人間が書いても意味がないでしょうから権威に訴える論証(詭弁)をしましょう。何を隠そうゴドウィンの法則発明であるゴドウィンはオルトライトについてナチス比較するのを奨励しています

 投稿記事でゴドウィンは次のように現状認識を示しています

Since it was released into the wilds of the internet in 1991, Godwin’s Law (which I nowadays abbreviate to “GL”) has been frequently reduced to a blurrier notion: that whenever someone compares anything current to Nazis or Hitler it means the discussion is over, or that that person lost the argument. It’s also sometimes used (reflexively, lazily) to suggest that anyone who invokes a comparison to Nazis or Hitler has somehow “broken” the Law, and thus demonstrated their failure to grasp what made the Holocaust uniquely horrific.

[抄訳]

ゴドウィンの法則はしばしば次のようにまとめられている。ある人が現在の何かをナチスヒトラー比較したら議論が終わったか負けたことを意味するのだ、と。またはその人が法を『破った』とされ、ホローコーストの比類ない恐ろしさを理解できてないということを示唆するとして(反射的に、怠惰に)使われている。

 反射的に(reflexively)怠惰に(lazily)という修辞句を使うゴドウィン氏の心情を慮りつつ…。いわゆるトランプ政権ゼロ・トレランス政策ヒトラーになぞらえて批判した議員いたことについてこのように記述されます

The response has been predictable: Debate for some people has been derailed by the trivial objection that, even if it is terrible to separate children from their parents (and sometimes lose track of them, or make it impossible for their parents contact them, or even deprive them of the comfort of human touch), it’s not as awful as what the Nazis did.

[抄訳]

予想通り、ナチスが行ったことより酷いものではないというまらない反論が起きて議論脱線してしまった。

 「ナチスの行いを矮小化しているからこの比較不適切だ」という反論したことはないですか?それがいつもつまらない反論しか議論脱線させるような非建設的な意見かは知りませんが、この時なされたその類の反論はゴドウィンからすればここまで大上段に切り捨てられて当然のもののようです。辛辣ですね。この後、こうした時にゴドウィンの法則名前が出てくるという話もしています

But I do want to stress that the question of evil, understood historically, is bigger than party politics. GL is about remembering history well enough to draw parallels — sometimes with Hitler or with Nazis, sure — that are deeply considered. That matter. Sometimes those comparisons are going to be appropriate, and on those occasions GL should function less as a conversation ender and more as a conversation starter.

[抄訳]

ナチス問題政党政治より大きなものであることを強調したい。ゴドウィンの法則は深く考察される類似性ヒトラーナチスとのを含む)を描くのに十分なくらいよく歴史記憶することに関するものだ。時にそうした比較は適切であり、その場合、ゴドウィンの法則は会話の終止符ではなく会話の第一歩となるのである

 要するにナチス現代政党政治と比べるべくもないヤバいなのは前提ではありつつも、ナチスとの比較は適切な時もあるから「ゴドウィンの法則に該当するからアウト」みたいな単純な使い方はするなよってことです。もちろんゴドウィンの法則発明者だからと言ってゴドウィンの言うことが全てではありませんが。ただ、ヒトラーに例えることで議論脱線し行き詰まるのを防ぐためのゴドウィンの法則という言葉議論脱線させる一因となるのであればミイラ取りがミイラではないですか。

 ネット上では新しい概念が日夜発明されています。大抵の場合は既にある概念が再発見されて流行してるだけなんですけどね。そうするととかく流行概念合致してると言えれば即何かしらの結論を得られるという思考に陥りがちです。しか政治においては用語見方という枠の解釈合戦フレーミング)が起こるものです。しか政治家活動家でなければ必ずしもそういった方向に行かなくてもいいでしょう。結論と同じようにもしくはそれ以上に過程こそが議論にとって重要であるという基本に立ち返りませんか。その時、数多の概念思考論理的に展開する際の補助輪になってくれるはずです。そう、概念結論直行するものではなくあくま思考の補助線なのだと考えた方が良いのではないでしょうか。概念に振り回されず、連座誤謬ヒトラーに例える論証もゴドウィンの法則も上手に付き合えば落とし穴に嵌らないようにしてくれるはずですから

2021-09-04

性的ものが表にあることで起こる被害の話」に賛同することの拙さの補足

はじめに

この元増田 anond:20210903184406 が言いたいことがあまり伝わってなさそうなので解説と補足をしてみようかなという試みです。

id:yas-mal ゾーニングされてましたよ? 有料なのはもちろん、順路的にも突き当たりで、入る前に説明文、カーテンも掛かってた。河村市長だってそんな馬鹿理屈は言ってないはず。(「河村より馬鹿」の称号ゲットおめ)

とか言う意見があったりするんですがたぶんそーいう話じゃないと思うんですよ。

あと結構な人が勘違いしてそうなんですが、追記

ゾーニングて言うならエロ表現だってゾーニングされてて、公的子供に見せちゃダメ認定された18禁表現は表に出されてないだろうが

と書いているので多分ゾーニング反対論者でもないと思うんですよね。

たぶん「起こる被害を防ぐ」すなわち治安理由ゾーニングしちゃいかんよねという話じゃないでしょうかね。

アイトリとの比較の話にもどると一般市民権限を持つ市長では立場が違うので無理がないわけじゃないのですが

「ある表現を行うことによって治安が脅かされるという想定の上で違法とはいえない表現自分管轄関係領域から切り離そうとしている」ということに関しては共通しているんです。

もちろん、無辜の一市民たる作者と一大都市首長たる河村氏が負わねばならない責務、倫理からみて

河村市長のほうが問題が大きいのですが・・・

なので元増田はわかりづらいところはあるもののそこまでおかしなことは言っていません。

ただ、なぜそれがまずいのかは説明していません。

というわけで、文頭に述べたように僭越ながら僕の方からなんでそれがまずいか補足しようと思います

あ、ちなみに最初に言っておきますが僕自身ゾーニングはある程度すべきであるし、禁書房の関しても

この漫画の中の事例にかんしても子供が中身をみないような工夫をすべきだとおもっています

ゾーニングはある程度すべきであるし、禁書房の関しても

この漫画の中の事例にかんしても子供が中身をみないような工夫をすべきだとおもっています

(大事ことなので2回)

ゾーニング治安向上の目的にしてしまうことの拙さ

ブコメ割れ窓理論を援用してポルノ広告が街中にあると治安が悪くなるという意見を書かれている方が何人かいますよね。

その方達は落書きポルノと言った「風紀」を乱すもの放置しておくと犯罪率があがる、だと思ってそうですが実はちょっと違います

割れ窓理論は「風紀」が乱れる治安悪化する、ではなく、「秩序」が回復されないと治安悪化するという理論です。

割れた窓を放置すると治安悪化する、という事ですね。

まり困った状態になってもそれに誰も関心を持たないような状況下なら犯罪も起きやすいよね、という話です。

なので、割れ窓理論において重要なのは割れ窓」が発生した際に迅速に回復させる仕組みを作ることであって

窓を割るやつを排除することではないのです。

ここで問題になってくるのは AVポスター等は「割れ窓」に含まれるのかということです。

正直、どのようなものが飾ってあったのかはみないとわからないのですが、あの漫画の挿入画を見るに

なんだかんだ言って局部は隠してあったんじゃないかなとおもっています

(というか丸出しならわいせつ頒布等の罪としてうったえればいいだけの話ですからね)

となると秩序を乱していない以上、割れた窓扱いするのもおかしいでしょう。

なので漫画に書かれてたような痴漢がでたりした場合はすぐに逮捕できるように、

もしくは、痴漢を防止するためにパトロールする警官を増やせ、というほうが割れ窓理論に沿っているではないでしょうか。

もちろん、窓を割りそうなやつを排除するほうの指針というか政策もかつてありました

ニューヨーク市長のジュリアーノ氏がやった「ゼロ・トレランス政策がそれにあたります

ニューヨーク家族で歩ける街にする、というスローガンのもと

落書き未成年者の喫煙の取り締まりといった小さいのからまりポルノショップの締め出し行って行きました。

しかし、残念ながらその施策は最終的にはホームレス強制収容にまで発展してきました。

故にid:by-king 氏や id:nikakunikaku 氏の保育園建設反対運動ホームレス排斥につながるのではという意見歴史的経緯からみてもそんなにおかしな話じゃないのです。

実際、宮下公園の話( https://anond.hatelabo.jp/20200815092248 )とそれに紐づくブコメみてもホームレスの人がいなくなって治安がよくなった、というコメントまぁまぁありますよね。

ゾーニング理由治安にしてしまうのを危険視してるのは上記のような排除治安維持のもと容認されかねないからです。

実際、世紀の悪法と呼ばれた治安維持法はそうでしたよね?

結局ゾーニングをすべきなのか

じゃあゾーニングしなくていいのかというとそーいうことではないです。

最初の方に述べたようにゾーニングはすべきだと考えています特に就学児童が通るようなところであれば。

当たり前ですが性交渉にはリスクが伴います。充実した内容とはいえないとはいえ

義務教育下の性教育を履修が完了していない児童ポルノを見せることは弊害が大きいでしょう。

また、すでにお酒タバコと言った年齢制限のある商品少年誌広告をだせなかったり CM20時以降という制約があります

ポルノ商品にも年齢制限がありまた、わいせつの法的定義的にもある種の有害性が定義されている以上ある程度のゾーニングは仕方ないでしょう。

とくに公道から商品内容が見える、みたいなのは避けるべきです。

結論

以上、僕の意見をまとめると

子供が通るような道にポルノ連コンテンツを設置するべきではないが、それは公序良俗社会法益または子供教育視点から論ぜられるべきで

決して治安維持の観点から語るべきではない、という事になります

よねはらうさこ氏のポルノ商品ゾーニングをすべきだという部分は同意できるものの、なぜすべきなのかの部分が非常に危うく

そしてそれを指摘してる人が少なかったため書きました。

2021-05-11

anond:20210511143935

あるねえ。

でも割れ窓理論校則問題違反取締強化と関係してきちゃいそうだから厄介ね。

校舎をきれいにしてみようってなると、掃除に力を入れようとかなんか変な方に動き出しそうだし。

「生徒の外見を整える」校則は、とっくに問題になってるしね。

軽微な違反を徹底的に取り締まることで、重大違反を防ぐって考え、中学生にはなかなか厳しいわよね。

学校ゼロ・トレランス不寛容)の考え導入するのは、効果あるもんかなーって疑問に思う。

単に校舎をきれいにしたらいじめ減るかなって思っただけだけど、割れ窓理論出されると単純には考えられないものだね。

2010-08-13

http://anond.hatelabo.jp/20100813174413

減っていればいいとでも?

これだから児童ポルノ愛好家は・・・

性犯罪は許されない犯罪で、一件たりとも起きてはならない。

ゼロ・トレランスと言い、犯罪が完全になくなるまで努力しなければならない。

なのに児童ポルノ愛好家は減ったからいいじゃないかと言い出す。

そのような反社会的発言を許しておいていいのか。

数字をいたずらに操り、現実被害者に目を向けない児童ポルノ愛好家に制裁が必要だな。

2010-06-18

http://anond.hatelabo.jp/20100617021850

あなたが純潔という言葉を使う前から、フェミは石原慎太郎純潔教育に対して反応してきているという流れを踏まえてください。

では、私が知らなかったそういう経緯があったとしましょう。しかしあれに反応した一般の人の中には、私並みに無知な人も大勢いたのでは?

繰り返し私は書いていますが、18歳未満のセックスを禁ずることで、コンドームピルを手に入れられなくなる事の弊害は、どのように考えますか?

禁じれば手に入らなくなるという理屈がわかりません。未成年者に対してポルノの販売は今でも「建前上」禁止・自主規制されているはずですよ。

そして、「建前上は杓子定規で実質はザル、そしてセーフティネットがきちんと存在する」という状況こそが大事だと思います。下でもう少し詳しく書きます。

そもそも、危険性では圧倒的に低い酒やタバコにしたところで、「酒はやめておいた方が自分のためだよ。どうしても無理でも一気飲みだけはやめておきなさい」なんて生ぬるい教育が通ると思いますか?

まさに今、大人が子供に対して、酒との付き合い方として教えているものじゃないですか?そしてそれを私も支持します。

これが一般的なのか私も自信がなくなってきましたが、私は高校生のうちから期末試験文化祭打ち上げ普通に飲酒していました。高校教師や親はそれを黙認し、「一気飲みはするな」とだけ言ったものでした。

いや、あなたの過去に関して言うならば、私もそんなものだった(期末試験ぐらいでは飲まなかったが)し、高校卒業大学合格の報告に行ったときには、恩師がお祝いに飲みに連れて行ってくれたこともありましたよ。形式上は卒業していなかったわけだから、今ではちょっと考えられないかもしれませんね。卒業式後に野球部員が飲酒していたせいでどこかの高校が非難を浴びて甲子園を辞退させられた一件の時は、なんといやな時代になったものかと唖然としたものでした。

それでも、高校時代は建前上は「飲酒がばれれば停学」だったし、実際に限度を超えた人などで処分を食らっていた人もいます。私の学校は締め付けが緩いことでむしろ有名だったのですが。「やめておいた方が自分のためだよ」なんて甘っちょろい忠告だけというよりは、もう少し緊張感があって、建前は建前としてきちんと生きていましたよ。ハレの日のみ多少「武士の情け」があり得るという暗黙の了解はありました。

性に対してもそういう態度が必要だと私は思います。人間を信用しないゼロ・トレランス方式は教育の場にふさわしくない愚かきわまりない方針だと思います。しかし「建前」は大事です。そうすることで、自分たちのやっていることを真剣に考えるようになるからです。それが一番重要なことです。

児童ポルノ法が取り締まるのは児童買春児童ポルノです。また、各都道府県にある青少年保護条例規制しているのは児童との淫行です。真摯な恋愛関係にある限り、13歳以上を性的対象にすることは虐待ではありません。

ところが、出典は失念してしまいましたが、自分の裸を撮ったことで、本人が「児童ポルノ製造」の罪で逮捕されたという話がありましたよ。キリスト教原理主義の強い米国でその種の事件がいくつかあるのはわからなくもありませんが、日本でまでこういうことが起こるのは唖然としました。明らかにこの件については取り締まりの目的と手段が主客顛倒し、そしてそれが余り疑問にも思われていない実態があります。

また、「一部の強硬な人を除いては「規制あるのみ、問答無用」」という状況にあるようには思いません。そうなら、もう規制されてますよ。声が大きい人とアグネス・チャンは目立つので、そのように感じているのかもしれませんが、東京青少年保護条例の改正が否決されたように、規制反対派は沢山います。私もその一人です。

沢山いますが、それはこの問題に関心を持っている人だけですね。案外キャサリン・マッキノン並の道徳を持っている人は世の中に多いのではないでしょうか。少なくとも、「日本児童ポルノ大国である」というような(事実としてかなり疑わしい)宣伝がこれだけなされていれば、欧米の過剰規制アグネス・チャン並の)が日本にも導入される日は決して遠くないでしょうし、未成年者の飲酒に対して世の中がこれほどまでに手の平を返した以上は(プロ野球の優勝記念の「ビールかけ」に19歳の選手が参加できない時代ですよ)、案外抵抗もなにもなくビクトリア朝並の世界がやってくるような気がしてなりません。フランコ・ゼフィレッリ版の「ロミオとジュリエット」みたいなのも児童ポルノ扱いされてしまって不思議はありません。捕鯨問題に見るように、世界には良識という名の狂気は充満していて、付和雷同する人が多い日本世論なんて甚だ心許ないものです。

そうした狂気から身を護るためにも、グレーゾーングレーゾーンとして残しておく必要があると思うのですよ。そうでなければ、結局は全部黒とされてしまうのがオチだと思います。違うでしょうか。だからこそ私は、「白」の領域を無理に拡げようとすることに抵抗を感じるのです。

しかし、児童買春児童ポルノの製造(これは15歳あたりで線引きすべきと考えるが別の話)を行ったものの罪はもっと軽くすべきであるという、あなたが最初に書いた論には乗れません。

いや、「軽くすべき」というのは「児童性的主体と認めるならばそうなる」という話であって、それは逆説で言っているのでお間違えのないように。私は本音では「建前上認めるべきではない」という立場なので、「軽くすべき」だとは思っていません。

 
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