2018年01月15日の日記

2018-01-15

anond:20180115230926

お前、女になるって自動的美人を想定してるだろ

専業主婦で働かずそれなりに暮らしていけるだけの男を捕まえるには、上位10%の容姿で生まれないといけない。残り90%の女は共働きなのに男より給料低く家事は多いから男のほうが安定性は高い。女は運ゲー要素強すぎると思うわ

anond:20180115145722

病気からみで献血出来ない人もいるんですよ!(いやマジで

http://b.hatena.ne.jp/entry/354521698/comment/sukekyo

これどういう意味だろう?

配慮して献血の話はするなってこと?

anond:20180115230926

趣味みたいな仕事もやりやすいよね

本当にその収入だけで生活していけるかといったら無理だけど、楽しくてやりがいのある仕事みたいなのを仕事にできる

男はそうはいかない

anond:20180115231106

何食べたらいいの

に対して

おれはこうやって口内炎直した

って言われても

いや、いまお腹すいてるけど

食べづらくて困ってる

って問いに答えてなくて

何言ってんだこいつ

感がすごい

やばい日本にいると脳が溶ける気がする

海外にいるときも相変わらずアホだったけど意志がしっかりしてて今よりずっと論理的物事対処できた

日本にいるとなんていうか、「やりたいことや考えたい方向性」と「それに対する脳内批判」が頭の中で際限なくエラーを繰り返してるような感じで、

そのうち意識のものが霧と化す

あーもーやってらんね

anond:20180115225337

ほんとこれ。

働きたくない人間にとっては男でいるメリットなんて小便であまり並ばずに済む程度。

はいざとなったら結婚に逃げられる分、声優など、食っていけるようになるのが難しい夢にも挑戦しやすい。

山椒魚世界の神であるか?

 現代文の授業で山椒魚を初めて読んだとき、この捻くれ者は、私によく似ていると思った。だが決定的に違うところがある。それは山椒魚世界の神であったが、私は神にはなれなかったという点においてだ。その違いとは些細なようであって、とても重大なことであると私は思う。それは、私が誰かの神に、世界になりたいのに、なれない不完全な出来の人間であるからだ。

まず前提として、この文章はすべて、井伏鱒二氏の短編小説である山椒魚」を借り、私が私について語るだけの、極めて主観的でくだらないものであるということを示しておく。恐らく十八の人間が書く文章なんてたかが知れていると思うが、それでも私は山椒魚にとてつもない親近感を抱いているのである。それについて少しばかり、私が今まで思ってきたことを書けたらいいと思う。

まず「山椒魚」とは一体何かということを明確にしておく必要がある。山椒魚とは前述したように、井伏鱒二氏による短編小説である山椒魚自身身体が成長しすぎてしまたことによって、住処である岩屋から出られなくなってしまう。外に出ようと幾度となく繰り返す山椒魚だが、それが叶うことはついになかった。外の世界自由に生きる生物たちに嫉妬を抑えきれない山椒魚は、ついに悪党となり、山椒魚は岩屋に入ってきた蛙を閉じ込め、自身と同じ状況に追いやることで、自身精神の安定を保とうとしたのである。蛙は屈することなく二匹は岩屋の中で激しい口論を二年にも及んで繰り広げるが、空腹で動けなくなり、死しか望めない蛙に対して、ようやく山椒魚友情を感じるのだ。山椒魚は聞く。「お前は今、何を考えているようなのだろうか?」と。それに対し蛙は、「別に今でも、お前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのだった。

この山椒魚を初めて読んだ時の感想は、「二年も口論を繰り返していたのか」とそれに尽きる。だが数回これを読み深めていくうち、山椒魚とは、ただ友達が欲しかっただけの、普通人間なのではないかと思うに至ったのだ。山椒魚には寓意が込められており、簡単に例えを出すならば「うさぎかめ」のように、ほかの生物もの真意本質を遠回しに伝えるというものだ。私の中で山椒魚普通人間であるし、出られなくなった岩屋は肥大した自意識であり、蛙はそれらをすべてわかっていた人間なのだ。これらも前提に、本題へ入ろうと思う。

何故この文章題名を「山椒魚世界の神であるか?」にしたかは至極単純である。私にとって山椒魚は、世界の神であるからだ。もっと突き詰めて言えば、岩屋の中に閉じ込められた蛙の世界であり神であるということだ。まず先程書いたように、岩屋は肥大した自意識であると私は思っている。山椒魚はその自意識に閉じ込められた、或いはそこから出ることを拒んだ所謂可哀想人間に過ぎない。蛙はその山椒魚自意識を満たすため利用された、こちらも可哀想人間であるという認識をしている。山椒魚は蛙を利用し監禁することによって、死の間際に、世界となり神となることに成功したである

人間人間の神になるために必要なことは、その標的からすべてを奪うこと以外に存在しない。山椒魚は蛙を自分の住処に閉じ込め取り入れることによって、蛙からありとあらゆる自由を奪うことに成功している。それがなければ山椒魚は神になれなかったし、もしかしたら山椒魚は図らずも神になっただけかもしれない。だがそれだけ、人間人間の神になるということは難しいことなのだ。それが善悪のどちらに所属するかはまず置いておくとして、私はそれをやってのけた山椒魚を素直に尊敬する。山椒魚悪党となることで蛙を閉じ込めたが、この時の山椒魚の心境を鑑みるに、標的が蛙であった必要はなかったのだと思う。よくニュースで聞くような、無差別殺人犯の言う「誰でもよかった」と同じように。ただこの「山椒魚」にとって、この蛙が蛙でなかった場合、二年間口論が繰り広げられることも、最後にようやく友情が芽生えることもあり得なかったのではないだろうか。

 しかし、だからといって山椒魚が神であるということに相違はない。閉じ込められた蛙にとっては、憎むべき対象も、愛すべき対象も、結局は山椒魚しかいなかったのである。蛙は最後に「今でも別に、お前のことを怒ってはないんだ」と言った。それはおそらく、蛙自身も、山椒魚を神とすることで救われた一人の人間だったからだと思う。山椒魚が蛙を閉じ込めたとき、蛙は、閉じ込められた岩屋の中で堂々と「俺は平気だ」と宣言する。それは山椒魚を見くびってのことだったのか、それとも逆に、山椒魚ならば…という、敬愛の証だったのかもしれない。ただ私が思うのは、おそらく蛙も、もしかしたら山椒魚と同じような立場になっていた可能性があるということだ。メタフィクションのような話になってしまうが、蛙は山椒魚よりも体が小さいので、少なくとも岩屋から出られなくなってしまうということは考えにくい。なので、自由に飛び回ることのできる外の世界―要するに「山椒魚」の世界観で「社会」で、同じ立場になっていたかもわからないのだ。山椒魚肥大した自意識から出られなったが、それはあくまでも人間の内側で起こっている出来事に過ぎない。自身の激しいナルシズムが引き起こす極端な自己評価他者評価ギャップに悩み、それを見栄で隠そうとしたために発生した、ある種一時的反抗期のような、よくよく考えてみれば、我々も通ったことのあるような道でしかないのだ。だが蛙は人間の内側でそれを発生させてはいない。人間人間が大量に入り混じる、失敗の許されない、いわば監獄のような世界でそういった問題に悩まされていたとしたら、それはきっと山椒魚よりも可哀想で哀れな姿になっていたに違いない。山椒魚は蛙を閉じ込めることで、自身と同じ状況の人間作成し、その結果精神の安定を保とうとしたが、それは蛙も同じだったかもしれないということだ。蛙は山椒魚に「わざと閉じ込められる」ことによって、可哀想人間に捕らえられ逃げられない自分を作り出し、自分社会に対する折り合いのつかない問題から逃げ出そうとしたと考えれば、最後の「今でも別に、お前のことを怒ってはいないんだ」というセリフにも納得がいく。

この文章を書くにあたって、自分の「山椒魚」に対して抱いた如何ともし難い薄気味悪さというのは、蛙によってもたらされた山椒魚への許しが生み出したものだと気付いた。小説である一言言ってしまえば確かに終わりなのだけれども、例えば自分が身勝手理由他人監禁され、しかもそこで死を迎えなければならないとなった場合最期相手を許すことが出来るものだろうか。それが愛する人家族ならいざ知らず、どこの誰ともわからない人間にいきなり監禁された時点で、普通に考えて怒りなんて言葉では済まない。それこそ二年間によって繰り広げられた喧嘩でさえ、この最期によればおつりがくるほどだと思う。最初こそ「二年間も口論していたのか」なんて暢気な感想を抱いたけれど、少し考えてみたら、最期の蛙の言葉は、私にとっては最早呪いだ。もしも私が山椒魚だったとして、自分が閉じ込めた相手が死の間際に自分を許す旨の発言をしたら、嬉しさも喜びも何も感じることは出来ない。むしろ、「この人は今まで何を考えて自分の思い通りになってくれたのだろう」という不信感すら残ってしまうだろう。自分という一人の人間を殺したという事実から逃げるなよという、怨念のようなものさえ感じさせる。それを考えると、山椒魚が蛙を閉じ込めたというよりも、蛙のほうが、山椒魚を好きに操っていたようにしか考えられないのだ。蛙は山椒魚のことを、自分と似た人間だと思い、自身社会に出たことで削られてしまった自尊心自意識回復するために、「わざと山椒魚と一緒にいた」ようにしか思えない。物理的にそこから出られなかったとしても、こころだけでも自由になることは出来たはずなのだ山椒魚と違って自由に泳ぎ回ることが出来ていた人間ならば。だがそうではなかった。ということは、蛙は自由に泳ぎ回っているように見えて、その実、社会という檻から逃げられず、自分肯定するために必死だった、ただの哀れな、普通人間しかなかったのだ。

最後にもう一度、これは私が井伏鱒二氏によって描かれた短編小説山椒魚」を借りて書き殴っただけの、主観的陳腐文章であることを明記しておきたい。ここに書かれていることはすべて、私が勝手に作り上げた妄想であって、おそらく山椒魚には、これよりももっとポジティブメッセージ寓意)が込められていることだろうと思う。しかし私にとって「山椒魚」は、どうにもポジティブものとは受け取れなかった。可哀想人間が寄り添って、互いの削れた部分を埋めるために、互いの世界になろうとする。そんな常人には理解出来ない、孤独で閉鎖的でどこまでも自分本位人間本質を描いているように見えたのだ。

私は山椒魚に似ている。けれど私は誰かの世界にはなれなかった。私にとっての「蛙」がこれから現れることはあるのだろうか。山椒魚が蛙を操っていたのか、蛙が山椒魚を操っていたのか。本当のことは、誰も知らない

              

                                                                                                    了

メンタルトレーニング

俺の中では済んだ事だから切り替えて次に行こうとしてるのに

わざわざ引き戻そうとしてくる奴がいる

俺だけの責任じゃないと考えようとしているのに俺の責任にしようとしてる

他人評価を気にしないようにしてるのに

わざわざ「お前の為を思って」と自分価値観押し付けてくる

こういう時にイライラしてる自分を見つめて

「なぜイライラしてるのか」を考えるようにしてる

そして「なぜあの人はこんな風に言ってくるんだろう」と思うようにしてる

英語は音で理解する

日本語だと、文章を読んでいるときは形を認識するモードになっている

英語理解しようと思ったら形ではなく音を認識するモードにならなくてはいけない

文章を目で追うごとに音が再現されて頭を通り抜けていく感じだ

日本人は目で記憶することに慣れてるので音で認識しろと言われても難しいかもしれないけどやってできないことではないはずだ

というか、やってるうちに音で認識するほうが効率がよいことに気づくだろう

単語が見た目ではなく音で個性化されているのが英語という言語なのである

ポプテピピックを絶賛しているような輩

そんなやつらをうまいこと丸め込ませたら、お国のために喜んで戦地へ向かってくれるんじゃない?

孤独死したくなければ誰でもいいから籍を入れろ」を読んだ。

バカがと思った。言いたいことはいくつもあるがとりあえず二つに絞る。

1、なんで煽りインチキ宗教並みなのか。

さっさとやれや。さもないと悲惨なことになる…という煽りは正直インチキ宗教の勧誘と同じだ。

私は友人に誘われそういうところのセミナーを一時間ばかり聞いていたことがあるがそれをしないことがどうして悲惨かばかり滔々と語っていた(8割くらい)。似ている。

もし加入すればこんないいことがあります(聞いてると詐欺しか思えないが)を少し主張する分インチキ宗教のほうが幾分ましかもしれない。

結婚しないと老後がーだの孤独がーだの煽るのばかりだ。

オウム真理教終末論ぽいのを説いて事件引き起こし結構問題になったが、冷たく例えるとそれ。いうなれば結婚真理教

あの手のインチキ宗教勧誘は1000人煽って一人でもバカが引っかかれば成功なんだけども結婚煽りもそれでいいのかね。

結婚教の連中はそれでもいいのかもしれないが。

2、こいつ孤独の恐ろしさをあまりにも知らなすぎる。

誰でもいいからとか本当に正気かこいつと思う。ちょっとでも孤独の恐ろしさ知っていたら出てこない発言だ。

私には偽装派遣で一人誰も知らない連中ばかりのIT派遣にたたき出されて死が頭にこびりつくレベル孤独に1年苛まれ経験がある。

私に限らないならもっとひどい例もある。時折起きる小中学生いじめ自殺や去年自殺の原因が発覚して大問題になったTENNさんの事例だ。

端的に表するとはなから一人の苦痛が0から1とするなら周りから全く受け入れてもらえない私が経験した悪夢が50から精々100くらいだと思う。

それでも耐え抜けたから。あと一年は無理だったと思うけど。

そこにいじめが入り時々発生する自殺学生悲劇はきっと桁が上がって1000くらいだろう。彼らには逃げる選択肢ほとんどないからな。

信じるものに裏切られて自分でその責任を抱え込み死を思い込むしかなかったTENNさんの孤独もそれこそ1000か2000の苦痛だったと思う。

孤独とは最悪そのレベルまで行きつくものだ。ハナッから一人なんて孤独のうちに入らないんだよ。

仮にそれが少しでもわかっていてそれでも一人が仮に嫌だというのなら「ちゃんといい人を探して選ぼう」とは言えるかもしれん。多分そういう人ならいるだろうし少なくとも理解はできる。

でも「誰でもいいから選べ」なんてクソバカなセリフは口が裂けても言えないはずだ。それが一番危険なことだからだ。

こんな甘ちゃんに孤独は怖いんだぞと語られるのがものすごくあり得ない。

あぁ、くそ

早く京都から脱出したい。

会社辞めて奈良に行きたい。

その為には、稼げるようにならなければ。

がんばろ。

さびしさの運用について

「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。

その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。

ひっくり返すと、人がおかしなことやってるときは、だいたいさびしいんだよな。

さびしさを動機にして人や自分を裁いても、よけいさびしくなるばかり。

なにかを裁くということはなにかを切り捨てることだ。

一度切り捨てられたもの時間が止まってしまう。

うそからは何もうまれないのでした。

さびしいのに、いろんなものをどんどん切り捨てて、自分さえも許せなくなって、狭く、小さく、よけいさびしさを募らせるばかり。

おかしなことだ。

さびしさとは無縁に見える、幸福そうなあの人と、わたしは何が違うんだろう。

考えればなにもかも違うように見えたし、でも本当のところはどこがどう違うのかよくわからない。

ただ、自分さびしさにふりまわされていることだけがわかる。

で、ここでひとつ実験をしたのです。

自分がどうしてさびしいのかわからなかったし、さびしくなさそうなあの人との違いもわからなかったので、わたしは「楽しく見えればそれでいい」と決めて、それ以上のことは求めないようにしたのでした。

その実験わたしにとって正しい試みでした。

それからもうひとつ気付いたことがありました。

「人が吸い寄せられるものは、優しい」ということ。

一見優しさとはかけはなれて見えるものでも、そこに人が吸い寄せられているならば、それはその人にとって優しいのだよ。

この世にはわたしのしらない優しさが無数に存在していて、ただ見出だされるのを待っているのだと気付いたとき世界が変わって見えました。

では、その優しさに反応する心とは何だろう。

たぶんそれがさびさなんじゃないか

そう思いました。

人それぞれが固有のさびしさを抱えていて、固有の優しさに惹かれて、繋がって、世界というのは出来上がっているようだ。

そういう気がする。

そしてまたわたしひとつ決めたのでした。

さびしさは引力とする」

さびしいときに、そのさびしさの犯人探しのようなことをして、いろんなもの一方的に裁いたりしていたけれど、それはわたし幸福にはしなかったから、もうさびしさに意味を求めるのはやめようと思ったのです。

さびしさは、優しさを指向する引力で、それ以上でもそれ以下でもない。

から、その引力を濁らせないで、本当にいちばん惹かれるところに、素直に引っ張られてみよう。

わたし場合は具体的な話をすると、それはたとえばボードゲームだったりKBG部だったりするのですが、とにかく、なるべくさびしさで世界を切り捨てたりゆがめたりしないで、素直に優しさに惹かれていこうと思ったのでした。

そうやって決めたことも間違いではなかった気がします。

さびさなんてどうせちょっとうれしいことがあれば蒸発してしまう揮発性の感情で、それをわざわざ恨みとか自己嫌悪なんかのめんどくさいものに加工する必要はない。

今でもときどきさびしさの波のようなものは訪れるけど、別におそれるようなものではなくて、そういうときもあるわね、というぐらいで、おおむね楽しくやれています

なりたかった状態自分を持っていけたことは、うれしかったし、安心した。

それで今になって思うのは、かつてさびしさに無縁で幸福そうに見えたあの人たちにも、きっとさびしさの波は訪れていたのだろうということです。

決して、わたしけがさびしかったわけではないのだと。

ただ、彼らはさびしさを正しく運用していただけなんだ。

それだけのことなんだ。

大人なんてさびしくて当たり前で、でもそれはただ優しさを指向する力で、だれのせいでもなくて、みじめに感じることもなくて、その力にさからわずに、惹かれるままに、自分のさがしているものを見つければいい。

会いたい人には会いたいといって、いきたいところには素直にとびこんで、泣きたいときには思いっきり泣いて、さびしさでいろんなものとつながっていけばいい。

わたしはこれからもきっとさびしい。

でもそれでいい。

たくさん間違えて、長い時間がかかったけれど、ようやくここまできたよ。

https://anond.hatelabo.jp/20180115225245

瞑想マインドフルネスはなぜ日本で浸透しないか

最近海外ビジネス書なんかを読んでいると必ずマインドフルネス言及されている。瞑想ってやつだ。

だけど、日本ではイマイチこの瞑想ってやつがポジティブに受け入れられていない印象を受ける。私もそうで、なんとなく胡散臭い感じがしてやる気にならない。じっとしていられない性格のせいかもしれないけれど。

で、なぜ胡散臭く感じてしまうかと考えていたら、かつて地下鉄テロを起こした某宗教団体に思い至る。その教祖施設の隠し部屋みたいなところに隠れていたところを見つかって逮捕されたわけだが、その隠し部屋で何をしていたのかと問われて「瞑想していた」と答えたらしい。

これがずっと頭に残っている。

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