はてなキーワード: ときメモとは
http://anond.hatelabo.jp/20130814134920
元増田です。
色々スレで議論させてもらったけど、結局パズドラも艦これも自分には全く向いてなさそうという結論になった。
プレイ時間については1回数分という話があったけど、それはあくまで「数分で済ませることができるし、そうやって遊んでいる人が大半」というだけ。
今までの経験上、自分みたく時間配分が壮絶にダメな人間は、恐らく時間が許す限りかぶりつきでプレイするだろう。
更にゲーム勘が全く働かないので、そうやって無駄に時間を掛け、無用な努力を重ねた結果、致命的なミスを犯して台無しにすると。
例えば艦これは空母の造形が気になっているが、それが理由でゲームを始めた日には、膨大に時間を浪費し無駄な努力を重ねて空母を揃え、死ぬ思いで育てた挙句、半世紀以上昔のミッドウェーみたく、一度に何隻もあぼーんする光景が目に浮かぶ。
パズドラはパズドラで、無理して連鎖を狙うたびゲームオーバーになるのがオチだろう。
そして現時点でそれらを防ぐ手立てが全く思いつかない以上、手を出すことはあり得ない。
ちなみにゲーム勘の悪さは昔から折り紙つきなので、そもそもゲームに全く向いていないのだと思う。
麻雀は序盤から面前で全ツッパするもアガれず→途中から必死にオリるも振り込むという、バカの一つ覚えから全然進歩しない。
将棋なんて駒の動かし方が分かるだけで、勝つために必要な知識をいくら勉強しても身につかない。典型的ヘボというか、多分将棋を打つ人間の中では世界最弱クラスなのは間違いない。
囲碁に至っては勝ち負けすらよく分からないので手合わせ以前の問題ときている。
そのような過去もありつつ、今までは面白そうなゲームを見かけるたび興味を持ってきたけど、これからはもうゲームを自発的にやる気はないし、たとえコミュニケーション上必要になっても「付き合い悪い奴」として生きていこうと思う。
興味を持って取り組んだ所で全然強くならないし、挙句何度も火傷するのは割に合わない。
それで失うものや得られないものがあっても、自分は所詮そこまでの人間ということで構わないし。
それにしても、ゲームが人間の根本的娯楽というのは信じられない。
よくあんな難しいこと楽しめるよなあという感じ。
適度に難しいくらいならともかく、自分には筆舌に尽くしがたいレベルの苦行であることが殆ど。
自分の人生の中で今まで面白かったゲームなんてバイオハザード、マリーのアトリエ、チョロQ(3まで)、ときメモと、数えるくらいしかなかったという。
全く楽しめないわけじゃないけど、楽しめるゲームなんて殆ど無いからややこしいというか。
追記
ブコメに回答。
この人には,費やした時間そのものが優劣に直結するようなゲームが向いてる気がする。例えば,「3年間爪を伸ばし続けてギネスに載る」とか,そういうの
冗談じゃない。
延々時間をかけさせられるゲームなんて金輪際やりたくないわ。だからゲームでも、特にMMOなんてロクでもないって言ってるんだよ。
一体、何をどう読んだらそんな結論になるんだか。
タイトルで言いたいことは言い切っているのだけど、以下補足。
「カオス*ラウンジがこうなら二次創作同人*1は〜」という言説は比較として正しくない。「カオス*ラウンジ」は現代アートの活動主体のひとつであり、「二次創作同人」はジャンルを指す言葉だからだ。正しく比較するなら「カオス*ラウンジがこうなら【ここに個々の二次創作同人主体(サークルもしくは作家)】は〜」もしくは「現代アートがこうなら二次創作同人は〜」である。
では「カオス*ラウンジがこうなら個々の二次創作同人主体は〜」という比較を考えてみる。文脈はもちろん著作権である。著作権法をあくまで愚直に適用するならば、原著作者の許諾を得ない限り、前者も後者も違法であることに疑いはない。ここでよく持ち出されるのが「二次創作同人は黒ではなくグレー」「〜版元から黙認されている」という言葉である。これは、二次創作同人でも言わば「一線」を越えてしまった事例が存在する(有名なものでは、ときメモビデオ事件*2、ポケモン同人誌事件*3、ドラえもん最終話事件*4など)ことを考えれば、全ての二次創作主体に対して適用できるものではない。しかし、それでも、多くの二次創作同人サークルや作家は原著作者から訴えられることなく活動している。
なぜか。もちろん、主体の数が多すぎて原著作者が訴えきれない、あるいは主体の経済的な利益が小さすぎて訴え損になるという考えはある。しかし、それに加えて、私は彼/女らがコミュニティにその成果物および/または価値を(結果的)に還元しているからだと考える。ここで言う「コミュニティ」とは、原著作の送り手、受け手、その他一切合切の関係者の集まりという意味である。彼/女らの成果物はそれが二次創作物であるがゆえに、必然的にコミュニティに還元される。二次創作物によって原著作のファンが盛り上がり、その盛り上がりがより深いコミュニティを形成し、さらに新たなファンを呼ぶ事例を、私はこれまでに何度も見て来た。とある作品の同人イベントに原著作者がお忍びでやってきて、参加者に対してこっそり「ありがとう」という言葉を残していった例も知っている。また、価値の還元としては、二次創作同人活動がきっかけで、その原著作者と関係がある商業媒体に登用された二次創作同人作者も知っている。価値とは何も経済的なものに限らない。むしろ長期的に見れば、人的な価値の還元は経済的なそれよりも利得が大きいだろう。
さて、カオス*ラウンジである。彼らは他のコミュニティから収奪を行っていると言える。彼らのホームグラウンドたる現代アートからでなく、オタク系の諸コミュニティから、だ。彼らはその「アート」の素材をオタクコミュニティに依存しているにも関わらず、その成果物は現代アートコミュニティに向けて公開されており、しかし彼らが得た価値はオタクコミュニティに還元されることはない。控えめに言っても、カオス*ラウンジからオタクコミュニティに向けて、オタクコミュニティが有する価値(=カオス*ラウンジにとっての素材)の利用について対話の申し出がなされた例を、私は知らない。この申し出は価値を利用される側であるオタクコミュニティからでなく、利用するカオス*ラウンジからなされて然るべきであろう。この対話を行わないまま、または不十分なまま事を進めるのならば、カオス*ラウンジはオタクコミュニティからの批判を甘受しなければならない。その上で、アートの力でもってオタクコミュニティを納得させる、素晴らしい作品によってグウの音も言わせないのが筋だろう。このふたつができないのならば、彼らの括弧書きの「アート」はアートではなく、ただの収奪に過ぎない。そして事実、オタクコミュニティからは彼らの「アート」活動に対する批判が上がっている。「水かけアート」に対するデザイナーからの批判*5が最も分かりやすい一例だろう。
そう、カオス*ラウンジの「アート」の諸問題の本質は、著作権法論でもなく、同人論でもなく、実はアート論でもない。コミュニティ論なのだ。対話が不十分なままに収奪する者と、収奪されることに反発するコミュニティの問題なのだ。したがって、この問題は次のいずれかが為されなければ解決したとは言えない。カオス*ラウンジがオタクコミュニティからの収奪行為を謝罪し、今後一切の収奪を行わないという宣言をし、それを履行する。あるいは、カオス*ラウンジが行う「収奪」行為が収奪でないとオタクコミュニティに対して対話または括弧書きでないアート作品の発表による説得を行う。それまでは、収奪されたオタク系の諸コミュニティ側からの「作品を勝手に使うな!」という類の非難は許され続け、カオス*ラウンジが許されることは決して無いだろう。
書きかけの小説が出てきた。
恋愛ゲームなどで攻略される側の少女がヒロイン。でも、プレイヤー、攻略する側の男が、いつまでたっても来ない。なので、こちらから探しに行く、というものだった。姿を現さないプレイヤーを失踪人っぽくして、ミステリー風にするつもりだった、ような記憶が、ふわっとある。
はるか以前、「ときメモなどの恋愛ゲームが好きな人」のブログにはまっていた頃、書き始めた奴だった、と思う。
美少女ゲームとか、エロゲーとかが好きな人って、インテリが多い気がする。つうか、頭がいいプレイヤーと、そうでない人の差が激しい、というか。私が読んでいたブログは、インテリ男性が書いていたんだと思う。たぶん。大学のサークルが、などとブログのどっかに書いてあったし。
現在のレースゲームなどは、ドライブシュミレーターとして、自動車評論家からも高い評価を受けているものがあり、ゲームにもよりますが、ゲームが上手くなれば、実際の運転も上手くなる、そうです。クルマの事よくわかんないけど。
で。それでまあ、恋愛シュミレーションと銘打っているのに、ゲームのプレイを重ねても、恋愛が上手くなるように、ちっとも思えない、というのが、書き始めた動機だったような……
ああ。思い出してきた。
コナン(名探偵の方じゃなくて、ロバート・E・ハワードの方)みたいに、筋肉脳みそ男の主人公が、なあああんにも考えないで、あっちの女に手を出し、こっちの女に粉かけて、だったら、私も好きだ。ポテチ喰いながら「バッカでー」と笑いながらみる、みたいな。
美少女ゲームとかエロゲが好きな人って、頭がいいからか、例えば東浩紀について、どうのこうのと書いている人もいるんだけれどさ。
それゆえに、自分の中にある獣性、っていうのかな、そういうものが自分の中にある、ということから、目を背けている男が多いように見えて仕方がなかったんだ。その頃は。
の割には、「ヒロインを攻略する」というキモチ悪い言葉を平気で使うし。
んな言葉使いをするってことは、ヤンキーのように力で女を屈服させるのではなくて、頭脳を使って、でもやはり、女を屈服させるのかい、と思ってしまったのさ。
相手がいないから、仕方なくゲームを… という男だったら、まだ、わかりあえるような気がする。というか、「女の手も握った事もないのに何が『少女の内面が上手く描けてる』だよ、ばあか。あ。握った事がないから、内面しか語れないのね!」と、楽しくdisり合いくらいはできるような気がする。気がするだけ、だけど。しかも、向こうは楽しくない気がする……
でも、「現代思想からみてエロゲがウンヌン」とくると、自分の心の問題から目をそらすために、難しい事に逃げているような気がするから、私はダメだ。「お前がダメだからなんだというのだ」と、いわれてもダメなんです(><) 自分の中の触れたくない部分を隠すために、「思考停止」したくないんでしょ。あなたにとってのポストモダン(って、よくわからんけど)とかって、ただの逃げでしょ。違うの?
彼らにとっては、恋愛は頭でするものなのだな。かわいそうだなと思う。同情はしないけど。偏差値が高いがゆえに救いがない、みたいな。だったら、まだモテない連中と傷のなめあいしてたほうがマシ……
と、妄想たくましく、よく知らない人達の事を、あれこれ思い浮かべて憤慨していたような記憶がある。しかも、そういうゲーム、した事がないのに。ああ、あの頃の私は若かった。今の私も、ちっとも大人には、なっちゃいないが。こうして自分の考えを文章にしてみると、我ながら思い込みが激しいというか、支離滅裂というか。
絶賛ほったらかし中の小説は、そのころ、なんとなくテレビで見た映画「プレデター」の影響で、壮絶なバトルの末、ラスト美少女は自爆する予定だった。私的には、完成させたくない小説である。
まあ嘘じゃん。
というかこんなの男女論にするほどでもないと思うけど、
ブサイク・ブスがどういう扱いを受けるかって言うのは
ブサイク・ブス本人さんに語らせたら大変だし、
本人じゃなくても小学校ぐらいから延々見て来た筈だろ!
男も女も、そういうことは延々やってきただろうに、見てきただろうに、
なんでそういう白々しい嘘をつくのか、という一点で女が嫌いになるわ。
俺は小・中・高と女がブサ夫くんやブス子ちゃんをいかにネッチリと
イヤ~な感じに笑ったり噂話したりしてイジメ抜くかはずっと見てきた。
そういうの小学校の時は男が多かったけど、中、高、と男は減って女の方が増えるんだよな。
クラスでも見たし、部活でも女が多い部だったから延々横で見せられた。
ささやかに止めようとして上手く行った事も失敗した事もある。
部長にもなって、男の後輩は守れたけど女の後輩は上手く守れねーんだよな、
女同士でいる時間の方が長くてわからないし男に庇われても微妙だろうしさ。
とにかく不細工でちょっと挙動が変な奴を見つけて苛めようとする奴等は常に居た。
なんであいつら常に一番ブスな子イジメめないと気がすまないの?
「違う、それはそのブサイクやブスが中身も腐ってるから」?
「性格がよければ、コミュ力があればいじめないであげたんだよ」?
確かにそういうコミュ力鍛え上げたブス子さんはいたよ、
そのブス子さんの努力は否定しないし偉いと思うよ。
でもそういう子って、ちょっとしたお笑い芸人並みに気を張って
絶えず緊張しながらそれを表に出さずに自己イメージをプロデュースして、
ようやく一般市民の末席に置いて頂いてるだけじゃねーか。
そんな痛々しい努力を強いておいて「コミュ力」とか抜かす傲慢さも腹が立つ。
下級民に「人間扱いしてもらいたいなら芸を身に付けて楽しませろ」と言ってるみたいだ。
同僚の女達が仕事中目に入る男全てについて延々と心の腐った会話してるのを見てきた。
取引先、出入りのSE、佐川のあんちゃん、プリンタ修理マンのおじさんにいたるまで、
本当に男全員についていちいち顔の作りと挙動、つまりルックスについてゴチャゴチャ言ってる。
何か暖かな視点で人それぞれの美点を発見する、なんていう明るく面白い話では勿論無く、
ほとんどの話の結論は「いかに今の男が『生理的に』嫌か」。
あれでどこから性格重視なんて話が出てくるんだっつーの。
女の言う「性格」って「立ち振る舞いのスマートさ」かなんかぐらいのことなんじゃね?
あとは「場慣れ・女慣れした態度」とか。
その女のひとりが俺の事を好きだと言う話が女から流れてきて「ゲッ」となって、
しばらくしてから一時、女の集団から凄い攻撃的な当たりを受けた。
俺はその情報について何かアクションを起こさなければいけなかったのに何もしなかったので、
そのことについて悪い噂が流れたらしい。
俺の性格が悪いという話になったらしい。
ときメモか!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
追記
こういうとこに書くの初めてだったので反応貰って驚いてます
なんか俺に話かけてるっぽいコメントにだけ感謝を込めてお返事させてもらいます。
koisuru_otouto 増田さんも同僚の人たちの"美点"を"暖かな視点で"見つけられる人になれると良いね。がんばって! 2010/02/26
ここでは同じことやってる集団を「職場の女」とまとめて書いても
誰が一番仕事をきちんと責任持ってるか、丁寧な仕事するのは誰か、
はきちんと把握してるしそういう人にはよくフォローしてるよ。
誰が一番ブスだの動きがキモいだの腐った関心持ったことも一度もない。
頭が悪いならもうちょっと時間掛けて話を把握してから皮肉考えろアホ。
ststeam_heart もう少し見ていると、中心の人に合わせるというのが見られるよ。まあ、給湯室でやってるか会議室でやってるかの違いみたいには思うことが多い。 2010/02/25
「ワタシは合わせてただけなの」って奴についてっすかあ?
ご指摘どおりそういうのは居るだろうけど、ひきょーもんだなあー
こういう事をのたまうオタクは結構いる。
一見、矛盾している言動に見えるが、何のことはない。
いわゆる恋愛シミュレーション要素を含むギャルゲ(ときメモ、ラブプラスなど)と、
いわゆるヴィジュアルノベル要素を含むギャルゲ(クラナド・リトバス・シュタゲなど)もの。
彼らは、後者を好む者たちであり、故に、後者の要素を含む“エロゲ”は余裕なのである。
(そして、ただエロイだけの本当の“エロゲ”は敬遠することが多い)
ここで興味深いのは、前者のみをさして“ギャルゲ”と評し、後者をその範疇に含めない傾向にあるということだ。
いやはや、オタク界隈もなかなか深遠なものなのだなぁ。
だが、例えば、(セル塗りっぽい表現の)日本的アニメキャラを使ったゲームでミリオン突破したゲームがあるのか、という点が気になる。
http://www.nintendo.co.jp/ds/adpj/chara/index.html
ラブプラスは十分アニメ的表現だろ。ときメモ4の絵をラブプラスと区別するなら、それは「ときメモ絵」であるというしかなく、あれをアニメの代表にはできんだろうとか思うわけだけどどうかな? あと、そもそもときメモ4が売れたとしても絵は関係ないと思うし…。
タイトルは単なる直感で、グダグダとまとまらない文を書こうと思う。
まず、下の記事読んで、上のように思っていたことを思い出したんだな。
本当は、ゲハでやろうかと思ったんだが、ちょっと長めの文章になりそうなので、ここで垂れ流すことにした。
http://www.inside-games.jp/article/2009/12/08/39242.html
ソニックの父「日本の強さはマンガ的表現だが、今は活用されていない」と語る
「ゲームは映画や音楽を含んだエンターテイメントの一つです。私は映画がゲームの兄的な役割となっていると思います。日本の映画業界は長い歴史を持っていますが、他国の映画が入ってくるようになるとハリウッド映画が最も人気となりました。そんな環境下でも、日本のアニメーションは大きな賞賛を得るようになりました。これは大きな事です。しかし、我々は現在ゲーム業界がハリウッド化しているのを見ています。そして、カートゥーンスタイル(マンガ的スタイル)における日本の伝統的な強さは隅に押しやられています」
海外市場を意識したリアルなグラフィックを重視するあまり、日本ゲーム界の本来の強さであるマンガ的な表現が活用されていない、とするのが大島氏の考え方である模様です。
まま、言わんとしていることは分かるけど、前提として、漫画の表現とアニメの表現はまた違うということもあると思った。もちろん、アニメーションでもカートゥーン的な表現ならば、100万クラスはごろごろいるのは分かる。だが、例えば、(セル塗りっぽい表現の)日本的アニメキャラを使ったゲームでミリオン突破したゲームがあるのか、という点が気になる。
まぁ最近だと、「テイルズオブ~」はかなり売れているのは分かるけど、自分の記憶では、日本的アニメキャラゲーは、セガサターンのギャルゲー全盛時代に50万本クラス売れていた程度で、ミリオンクラスはなかったような気がした。(多分例外もあるだろうけど。荒い議論として読んで頂ければ)
そう考えると、ゲームにおけるアニメ的表現というのは、マーケティング的には結構リスキーなのかも知れない。(つまり、ゲームユーザーの価値観では、ラブプラスのポリゴン少女>ときメモ4のアニメ少女)
つまり、最大で売れて50万本というのが、ゲームにおけるアニメ的表現の限界性を表していないか。
うまく言えないけれど、ゲームをゲームたらしめている要素とアニメをアニメたらしめている要素は相反しているんではないかとも思う。泣きゲーの「感動(他人を見て感動する訳なので、他者視点)」とモンハンの「手応え(自分の感覚で感じる物なので、自分視点)」が相反するように。
例えば、2D美少女とビジュアルノベルと物語や文学のような東浩紀氏が好きそうな方向性というのは、「コンピュータの演算能力をどうゲームの面白さに活かすか」というゲームの本道とは外れており、ゲームでどうアニメ的世界観(つまり、アニメ的イデアの世界)を構築するか、というやや横道にそれたジャンルなのだと思う。
では、そういう意味では、JRPGというのは所詮、傍流にしかなれないのだろうか?
正直よく分からない。
なぜなら、このジャンルは「感動」と「手応え」の両立を目指しているように見えるから。
現世代機において、その試みは、現在の所、失敗しているとは言えるだろう。
しかし、例えば、スーファミ時代のRPGは「感動」と「手応え」が両立していなかっただろうか?
スクエニ社長の発言を聞いていると、今後スクエニはJRPG路線を縮小させそうな気配である。
ただ、何かがきっかけにまたJRPGが世界に衝撃を与えるかも知れない。
それは誰も断言は出来ないのではないだろうか?
細々とでも良いので、JRPGの血は絶やすべきではないような気がする。
二次元の女の子も人様にもらったプレゼントにランク設けてケチつけるのは
その”人様”が、どーでもいい存在だからに他ならないんじゃないのか?
初代ときメモは知らないけど、恋愛ゲームなら大概親密度がMAXになったら、下手打っても大したダメージにならないんちゃう?
逆に友達以上程度だと、理不尽なまでに評価が下がる、という。
そういう所はちゃんとリアルだと思うよ。
自分が気に入らなかったら、ティファニーのアクセサリーだろうがネタ全開のプロテイン送るのと同様って、すごい価値観だな、とは思う。
あの「幼馴染が情報屋を兼ねてるので一度ちょっかいをかけるとゲームシステムが崩壊する」状況もみな楽しく受け入れてはいるようだよ。
あれ面白いんだろうか。
やったことないからイメージなんだけど、つまりはときメモの延長みたいなものだよね。
いい大人の男がああいうのをやっているっていうだけでもすごく嫌悪感を感じてしまう。
それに、むなしくならないのかなと、本気で疑問なんだ。
かたや現実で同じ内容のことをやってる男がいるのに、自分は絵の女の子に相手をしてもらってるって。
これは完全に負けだと思うのだけど。なんか悔しくない?
プレイしている人はどういう心境なんだろう。
現実じゃ女の子に相手にされないからその代償ってことなのかな。
自分も非モテだけど、そこまでして女の子に構って欲しいってことを思ったことがないからわからない。
仮に彼女がほしいと思ったとすれば、ゲームに走るんじゃなくて、自分が現実でモテるように努力するんじゃないかと思う。
プレイしている人がいたら教えて欲しいのだけど。
特に、付き合えるものなら付き合いたいけど、現実は無理だからって人。
精神的なものは知らないけど(自分からするとゲームの女の子に精神的な依存、
恋愛感情みたいなものを抱くっていうのも理解しがたい部分ではある)
結局ただのプログラムだよ。現実じゃなにも支えてくれないのに、
そんなものを心のよりどころにして何の意味があるの?
全員が「ただの娯楽だよ、他のゲームと一緒」っていうのなら別に疑問はないのだけど、
なんか掲示板とかを見ているとどうもそうじゃないような気がして謎なんだ。
ときメモGirl's Sideやった事ないの?
「好きになったその人を好みに変える」(ラブプラス)=「好きになったその人の好みに変わる」(ときメモGirl's Side)
何でも厨厨言う風潮はおじさんどうかと思うな、というのも懐古厨なんだろうな。
「年寄りの説教うぜえ」という意志を三文字にまで縮められるのはすごいね。
それはさておき、ときメモで育ったぐらいの連中だとあの辺の声優の声で青春時代を過ごした人が多いと思うんだ。
そう考えるとDSってホント「引退したゲーマーをこっちの世界に引き戻す」狙いのソフトが多いよなあ。
追記:
だからこそポルノとして消費出来る人間もいるのだが、どっちが多いんだろう。
・年喰ってるから歓迎
・年喰ってるからNG
・声優とかしらねえよ画面の中の彼女が世界の全てだ!そうだろう!?
3番目が一番多いのは当たり前として。